NO ARCHITECTS vol.8: シェアしたみんなが 思うようにつくる家 後編

NO ARCHITECTS vol.8
つくりながら考える

vol.7に続き、「シェアしたみんなが思うようにつくる家」の後編です。
僕らが住む家「大辻の家」とつながるアパートを友人とシェアしています。
その一室のリノベーションをリアルタイムでリポートします。

大辻の家の右手の路地のSPACE丁の三角コーン看板、手づくりの門扉を抜けると裏のアパートがあります。

部屋の間取りがわかりにくいと思うので、スケッチを描いてみました。
アパート2階の踊り場に面した引き戸の玄関越しに見た部屋の見取り図です。
玄関を入ってすぐ左手は遠藤シェフのキッチンとバーカウンターです。
その奥は共有のリビングで、みんなでごはん食べたり、まったりしたりします。
右の突き当りの窓際あたりは、
黒瀬のブランド「ツクリバナシ(vol.7参照)」のアトリエになっています。

6畳三間のL型のプランです。あくまでイメージ図です。

さて、進捗の報告です。
床は、完成しました。玄関から部屋の奥まで、
下地の角材で高さを揃えてベニヤ板を張り、フラットなワンルームに。

床が完成した次の日の朝。安心できる居場所が生まれる瞬間で、毎回とても感動します。

玄関横の壁は、ほかの壁と仕様を変えて、
柱の上からベニヤ板を貼って大壁(柱を見せない構造)にしています。
他の部屋の雰囲気との差別化を強調しています。
塗装はまだですが、色は、うっすらグレーがかった白にする予定。
少しパブリックな場所になるので、展示などもできるように考えています。

トイレ脇の押入を解体してできた窪みのような小さな部屋は、
遠藤の自転車のカスタムスペースに。
「遠藤サイクル」とプリントしたのれんとポロシャツもつくるらしいです。
気がついたら自転車の空気を入れてくれていたり、
お願いしておいたら、カゴとか付けてくれたりします。
いつもありがとう。これからもよろしく。

さっそく自転車の整備をしているところ。コンパクトに収まっています。作業もしやすそう。

トイレは、既存のドアの壁ごと取っ払って、
ホームセンターにて見本品で安売りになっていたドアを買ってはめ込んで、
それに合わせて隙間に枠を回して断熱材も詰めて
清潔感と安心感のあるトイレに。あとは、塗装したら完成。

バーカウンターは、10cmの角材で既存の柱を補強しながら、
テーブルも同じ角材をボルトで締めあげてつくるという男らしいデザイン。
遠藤のこだわりのカウンターです。吊り棚も取り付けて、
ワイングラスをシャンデリアのように垂らすそうです。
楽しみ。

カウンターが完成した夜、さっそくカクテルを。建築家ル・コルビュジエの「カップ・マルタンの休暇小屋」に隣接するバー・レストラン「ひとで軒」みたい。椅子はOTONARIの開店に合わせてつくったハイスツール。

やっぱり思い通りには進まない

玄関付近のオープンキッチンは、まだ未完成です。
前回の記事の最後に、「完成した姿を報告できると思います」
と大口を叩いたものの、
普段の仕事の合間や休みの日に少しずつ進めている感じなので。
この記事を書くために、ペースを合わせるほうが不自然。
本当にリアルなレポートということで、お許しください。

できたばかりのカウンターで、
このスペースをどう使っていきたいか、ふたりに聞いてみました。
黒瀬は、
「自分の部屋をアトリエにしていたときよりも、
たまたま近くにいた人に世間話しながら意見をもらえたり、
試着してもらえたりするのは、とても刺激的だし、楽しみ。
これからつくるものにも影響しそう」とのこと。

ぼくらも、できたての服や染めたての生地を見せてもらうのを、
いつも楽しみにしているので、より近くでミシンの音が聞けてうれしい。

抜群の集中力を見せる、ミシン作業中の黒瀬先生。

「基本的には、Café the Endのメニュー開発などの、日々の修練の場所。
カクテルのイベントや、料理教室なども企画中。
あと、屋上と合わせてのパーティもやりたい」
と、遠藤の今後の意気込みも聞けました。

久しぶりに遠藤と木工作業をしていて、
大学院時代のスタジオを思い起こしながら、懐かしい気持ちにもなりました。
修士設計で、現在のNO ARCHITECTSの西山と奥平、そして遠藤の3人で、
キャンパス内にツリーハウスをつくるプロジェクトをしたことがあります。
(当時の鈴木明研究室のブログ http://akiralab.exblog.jp/i9/

カウンターをつくっているところ。

そんなこんなで、自分たちのスペースを
自分たちらしく楽しく暮らしていけるようにつくり変えていくこと。

そんなスペースが、まちの中に少しずつ、それぞれマイペースに進んでいる。
それも、ぼくらが知らないところでもと想像すると、ワクワクしてきます。
そういうことが許されているまちは、
自然とクリエイティブな空気で満ち溢れています。
地主さん、不動産屋さん、大家さん、そして住まい手の関係性がとても大事で、
この界隈は、とても幸せな状況にあるということなんです。

みなさんも、次に住む場所を考えるとき、
間取りや日当たり、駅からの距離だけで選ぶのではなく、
実際にいろんなまちや家、そして人に会いに行って、
その場所が持っている空気感や雰囲気を感じてほしいです。
きっと、新しい暮らし方のイメージが湧いてくると思います。

共有のリビングにて、配置したばかりの椅子やソファでくつろぎながら、お披露目イベントのミーティングをしているところ。

information


map

NO ARCHITECTS

住所 大阪市此花区梅香1-15-20
http://nyamaokud.exblog.jp/
https://www.facebook.com/NOARCHITECTS.jp

支援者募集中!奈良在住の映画作家、河瀬直美らによる手作りの「なら国際映画祭」

今年も、奈良を舞台にした映画祭「なら国際映画祭」
が開催されます!これは奈良在住の映画作家、河瀬直美さんが
立ち上げた、手作りでローカルな国際映画祭。

2010年の初開催から隔年で開催されていて、
3回目となる今年は2014年9月12日(金) から15日(祝)まで開催されます。
世界中から日本未公開映画を集めたコンペティションを中心に、
奈良の風土を活かした多様な映画イベントをおこなう
フェスティバルなんです。
会場は奈良市の「ならまちセンター」や
「尾花座 (ホテル サンルート奈良)」、「春日大社」、
「椿井小学校」など、のんびりとした自然と
世界遺産のお寺や神社に囲まれたところ!

この映画祭の大きな特徴は、前回開催の新人コンペティションでの
優勝者が、河瀨直美さんや「なら国際映画祭実行委員会」とともに、
奈良を舞台に映画を創って上映する「NARAtive」(ナラティブ)
というプログラムがあること。
単なるコンペティションではなく、若い映画作家たちに地元の人たちとの
出会いと繋がる場を提供しています。
かつて国際文化・経済交流の拠点として栄えた奈良の都が、
世界に開かれた真の「“国際交流”観光都市」となることを目指して
いるのだそう。

■支援者募集中!

手作り「なら国際映画祭」の開催を助けるため、
ただいまクラウドファンディングの「ShootingStar」で
開催資金支援の募集が行われています。
支援者には、金額によって上映作品観賞のフリーパスや
なら国際映画祭のぬいぐるみツアーに参加できる権利、などなど
様々なギフトをプレゼント。
ひとりでも多くの人に関わってもらうことで、
映画祭を広げて行きたいという思いが込められているのだそう。
応募の詳細は、「ShootingStar」にて。

なら国際映画祭
・「ShootingStar

小松菜の日に、千葉・西船橋で小松菜食べ歩き!72店舗参加の「こまつなう2014」

5月27日は何の日かご存知ですか?
それは「こ(5)・ま・つ(2)・な(7)」で「小松菜の日」!!!!
これにちなみ、2014年5月26日・27日の2日間、
小松菜の名産地である千葉県・西船橋を舞台に、
オリジナルの小松菜料理を食べ歩くイベント「こまつなう2014」が開催されます!
飲食店がそれぞれに工夫をこらした小松菜料理を
参加者が自由に食べ歩きできる、地元密着型の催しです。

「こまつなう2014」への参加方法は、Webサイトでも紹介されている
参加店舗数72店舗のいずれかを訪れ、専用チケットを購入するだけ。
お値段はシール3枚組みで2,100円。
チケットシール1枚と引き換えに、小松菜限定メニューが1回
いただけます。

このイベントは、小松菜農家(西船橋葉物共販組合)が、
小松菜を使ったまちおこしとして2012年より始めたもの。
3回目となる今年は参加店舗数が昨年の約2倍になり、
船橋駅周辺が新たに参加エリアとして加わりました。
食べ歩きを通して、西船橋の小松菜と地元の魅力を
再発見できるイベントです。

こまつなう2014
こまつなう2014Facebookページ

山ノ家 vol.8: ドミトリーの完成と夏の終わり

山ノ家 vol.8
工事が終わりそうでなかなか終わらない?

カフェには連日いろいろな人が訪れ、あっという間に過ぎていく時間。
そして2階のドミトリーのための工事も大詰め、のはずなのだが、
なかなか終わりが見えない……?
それもそのはず、手を入れる部分はカフェのときよりもはるかに多い。
床貼りや塗装など、わかりやすく進んで見える工程もほぼ終えて、
納まりの細かい部分が多くなり、調整が重なってくるとさらに進みが遅く感じる。
加えて1階のカフェを営業させながらの作業は、やはり少しやりづらい。
仮囲いをいつまでもつけているわけにもいかない。
このままでは、完成がどんどん遅れる可能性も……。
大工さんからの進言もあり、考えた末に運営チームとも相談して
8月の後半は週末のみカフェを営業、平日はクローズにして、
その間は工事のみに集中することにした。

2階廊下の壁と天井を塗装。これが終わらないと、客室のドアや、天井照明などを取り付けることができない。塗装は常にさまざまな作業工程と絡んでくる。

1階の客席、テーブルを一度片付けて場所を空ける。ここは、茶箱を利用したベンチの席が最終的に設置される。

そんなさなか、8月の最後の週末には、
山ノ家のあるほくほく通りで昔から行われているお祭りがあった。
(知ったのが直前過ぎて、盆踊りのとき〈vol.7参照〉のように出店をする余裕はなかった)
「しちんち祭り」と呼ばれ、
目の前のほくほく通りを2日間に渡って、手づくりも含めた
さまざまな神輿がにぎやかに通り過ぎていく。
楽しげな中にもなんとも言えず、季節の変わり目が近づいているような、
そんな名残り惜しそうな気分を醸し出しているように思えた。

地元の人によれば、このお祭りは
やはりこのまちの夏の終わりを告げる風物詩のようだ。

「しちんち祭り」の様子。山ノ家のある通り沿いをさまざまな神輿が行列で練り歩くお祭り。

少しずつ、みなが現場を離れる日が

8月の後半の平日をクローズにしてでも(芸術祭は開いているのにも関わらず)
工事を優先しようと考えた決断には、
もちろんドミトリーを早くオープンできるようにしたい
というのもあったのだが、もうひとつ理由があった。

実は、8月いっぱいに作業を終わらせることを
あらかじめ目標にしていたこともあって、
そのタイミングを最後にこの現場から離れなければならない人が何人かいた。
7月からずっとこのリノベーションにつきあってくれたアキオくんと、
インターンで約1か月滞在し続けていたジュンくん。
さらに、立ち上げやインターンの取りまとめなど、
さまざま奮闘してくれたgift_スタッフのメグミさんも、
9月からの3か月、海外に語学留学にでることになっていた(戻ってきたら、
また一緒にgift_の一員として復帰してもらうことももちろん約束の上で)。

彼らに、少しでも最終形に近い山ノ家を目にしてもらいたかったのだ。
結局彼らがいる間には完成できなかったのだが。

それまでにも、インターンとして入ってくれていた人たちが
1週間から2週間ほど来ては帰っていく、ということを繰り返し、
何人もの協力のもとにこの山ノ家はつくりあげられてきた。
引き続き芸術祭が終わる9月後半まで、
インターンさんたちは入れ替わり来てくれるシフトになっている。
さまざまな経緯、興味で応募してきてくれた彼ら・彼女らへの感謝は、
いくら述べてもつきない。

現在もgift_スタッフとして活躍中のメグミさん(左)。後ろ髪ひかれながらもあわただしく現場を後にした。

アキオくんとジュンくん。滞在最終日にお祝いのシャンパンならぬお気に入りのトラピストビールを掲げて記念写真。彼らもドミトリーの完成を見ずに現場を離れなければならなかった。

ついにドミトリーもオープン、新たな日常が始まる

ずっと滞在して寝食を共にした人たちが現場を離れていくなか、
まだその後も滞在してくれている人たちと最後の仕上げ。
最後まで完遂することがミッションの工務店の大工さんももちろんいる。

主要なメンバーがいなくなった後に、残った人たちで最後に1階のレセプション部分となる床の染色を行ったり。

実は、山ノ家でつかわれているインテリアのなかには
もともとこの家に残っていた
いろいろなものを利用してできている什器や家具がある。

例えば、カフェオープン時にはなかったベンチソファー席。
この家の放置されていた茶箱を利用することをある時に思いついた。

工事前の写真。もともとこの家にあった、6つの茶箱。これを何かに利用できないかと当初から考えていた。

この茶箱の紙を剥がして、外壁と同じ黒染めの塗料で塗って。

その箱を脚として、別手配したクッション部分をのせて、ベンチソファーが完成。

茶箱を利用すると、座高が高くなってしまうことが懸念されたが、
小さな子にとってはテーブルが近くなり食べやすく、
ベンチだと親との距離も近くなるようで、
小さな子を持つ親には好評となった。

それから、桐たんす。
調湿に優れ、持ちがよく本当に美しい伝統的な家具だが、
独特な時代感が漂ってしまう家具なのでどう扱うか最初はちょっと考えあぐねた。

これも工事前の写真。この立派な桐たんすが、ふたつもあった。

池田の「引き出しを取り外して棚として使ったらよいのでは」
という思いつきをやってみることにした。
そこに置くものを美しく並べることで、
見違えるような感じになり、これがとてもよかった。

カフェにて、引き出しを全てはずしてオープンな棚として使用した。日常をより美しくみせるツールに。

そして、店舗の什器で使用していたと思われる鉄のフレームがあったので、
これを物販用の棚として再利用したり。

少し錆び付いていたので紙ヤスリをかけ、鉄の生地肌ともとの塗装を何となく残しながら、その後錆び止めクリアの塗料を塗った。

板を新調し、現在はショップの棚として利用している。

他にも、ここにもとあったものを新たなかたちで再利用することができたことは、
とてもラッキーだった。
それらをどう使うかは、僕らにとっては一番の楽しみでもあり、
この空間にとっても幸せなことなんだと思う。
この場所の雰囲気をつくりだすのにとても重要な役割を果たしている。
例えば近所の人がカフェに来てもなじめる雰囲気があるとしたら、
これらもとあった家具たちのおかげだと思う。
そんな1階の空間づくりとは異なり、
2階のドミトリーは、逆の考え方によって構成されている。
宿泊するのは、カフェに比べれば少なからずこの土地以外の人。
外から来る人を想定し、モダンな気分となる要素を取り入れたかった。

既存の屋根裏の梁などを露わにしながらも、
この家のもとあった古くからの部分を引き出すのとは
対照的な雰囲気のインテリアを取り入れる。

その象徴となるのは2段ベッド。
ハシゴを木造などにはせずに、
金物(ステンレス)にしようと考え、
金工をやっている知人に製作を依頼することにした。

ベッドは、個別に区切れるカーテンレールをなるべく自然に使えるよう考えたり、
携帯や小物や手元灯りを置けるような細い台になるスペースをつくったり、
寄りかかれるような大きなクッションを置けるようにしたりと、
少しでも快適に使えるようにと工夫した。
その上、マットレスの底の通気性を考えたら
スノコ状にスキマを空けて張るべきだったりと、
造作としては結構な複雑さとなり大工さんと納まりについて
侃々諤々(かんかんがくがく)とやりあいながら、最終的にまとめ、ようやくの完成となった。

最後の山場、2段ベッドがついにでき上がった!

これで、ドミトリーもかたちが整い、およそ全体の要素が揃った。
そうしてなんとか、9月に入ってドミトリーを無事オープンさせることができた。

最初に泊まったお客さんは、
スタッフの知人だったこともありとても和やかな夜となった。

ドミトリーを利用するお客を迎えることは、とても新鮮で不思議な感覚だった。
個人的には「客」を迎える、というよりは、
「新しい友人」を迎えているような心持ちで、
できることなら全ての人と話をしたいくらいだった。
これは現在でもそうで、どちらかというと家をシェアしているような感覚なのだ。
(もちろん、プライバシーはきちんと尊重した上で)

次の日の朝、宿泊客を見送ったあとに、
シーツなどを片付けにいったところで嬉しいサプライズを発見。

写真ではちょっと見えにくいが、「おめでとう!」とマジックで書かれた風船が枕元に並んでいた。

季節はすでに、夏から秋に向かっていた。
大地の芸術祭の終わりも見えてきたころにようやく、
山ノ家の全体の新しい日常が始まりだした。

つづく

のみだけで仕上げる井波彫刻の技術力を活かして 後編

伝統彫刻の先を見据え、現代的プロダクトに融合する。

富山県南砺市の井波彫刻は、寺院の修復や、住宅の欄間などを中心に栄えてきた。
しかし伝統彫刻ばかりでは、今後の先細りが予想される。

「技術を残していくためには、伝統的なデザインばかりにこだわっていてはダメです。
しかし私たちだけで新しいデザインを考えるのも難しい。
そこでリバースプロジェクトに力をお借りました」と、
南砺とリバースプロジェクトのコラボ彫刻のきっかけを教えてくれたのは
南砺市産業経済部長の原田 司さん。

「新商品開発と販路拡大がポイント。
売れることが彫刻師を守ることになります」というように、
井波彫刻のすばらしい技術を売れる製品に落とし込むことが至上命題だ。

デザインを担当したリバースプロジェクトのデザイナー、
平社(ひらこそ)直樹さんはいう。
「現代の生活様式に合ったプロダクトに落とし込むべきだと考えました。
ものが廃れずに存在するには、
生活に即した機能を持っているべきだと思うからです」

こうして考え出されたのが照明とお皿だ。
どちらも技術の高さを直接的に目で見て感じることができる。

波打つ細工の上にアクリル板を配して、プレートに仕立てた。食事しながら、同時に彫刻の美しさを堪能できる。

一方では、井波彫刻の伝統に敬意を払い、
現代装飾であるモビールを、古典的な題材を用いてつくる試みにも挑戦した。
それが風神・雷神のモビール。
そもそも風神・雷神ならば、井波彫刻の職人にとってはお手のもの。
しかしモビールに用いるという発想は生まれない。

伝統彫刻の風神雷神はさすがの出来栄え。宙に浮かぶモビールとして、生まれ変わった。

「彫刻師も次のステップに進まないといけません。
ここから先はこちらの話」と原田さんはいう。
リバースプロジェクトとのコラボから得た刺激を、
彫刻師がどう活かし、南砺市がどうバックアップしていくか。

「井波彫刻の職人さんたちは、通常、デザインから下絵、仕上げまで、
すべての工程をひとりで行います。
そんな職人魂に火をつけられるようなアイデアを提案しようと心がけました。
驚きや戸惑いのあるデザインを起こすことで、
慣習から離れ、新しいスタイルが生み出されればという希望をこめたつもりです」
井波彫刻の行く末は、こう語る平社さんの思いともリンクする。

初めて井波彫刻を見たときに「すごい技術だと思った。同時にすごく手間がかかっているので、高くなるのも仕方ないと感じた」という平社さん。

「ものの価値はつくり手が一方的に決めるのではなく、
また市場が一方的に決めるものでもありません。
人々が潜在的に求めているものを探り続ける作業のなかから、
意味のある良いものが生まれます。
今回のプロジェクトでその螺旋階段を一段でも上ることができたのなら
ものづくりに関わる人間として幸せです」

お互いに刺激を与え合うコラボレーションによって、
それぞれのものづくりにフィードバックされていく。
そして井波彫刻もまた、新しいものづくりの地平に進むのだろう。

「風神・雷神の背中を見たことがありますか?」というのが原田さんの売り文句!

Googleの携帯陣取りゲームで石巻の復興を支援!まちの記憶をたどるツアー「Ingress Meetup」

いまも大きく残る、東日本大震災の爪あとの復興。
宮城県石巻市は、津波による4000人の犠牲者と、
最大の浸水被害面積という甚大な被害を受けた土地。
かつて人口16万人だったまちは、震災以降人口が1万人が減り、
2万人がいまも仮設住宅に暮らすという課題を抱えているんです。

先週、2014年5月10日(土)、11 日(日) の二日間にわたり、
宮城県石巻市にて、これまでになかった復興支援イベント
Ingress Meetup in Ishinomaki」が開催されました。
これは、IT企業のGoogleと旅行会社のJTB、
地元石巻の復興プロジェクト「ISHINOMAKI2.0」、「イトナブ石巻」の
協力のもと実現したプロジェクト。
Google本社のラボ「Niantic Labs(ナイアンティックラボ)」が開発した
ゲーム「Ingress」(イングレス)を使って、石巻のまちを歩いたり、
地元の人と触れ合ってもらいたいというこころみです。

■位置情報を使ったゲームでまちを散策

イングレスのゲーム画面。実際の景色のうえにバーチャルな景色がオーバーラップする。

「イングレス」は、スマートフォン向けの位置情報ゲーム。
ゲームを立ち上げると、まちの地図がレーダー風の画面になり、
実際の建物をつかった「ポータル」と呼ばれるチェックポイントが表示されます。
プレイヤーは緑(エンライテンド)・青(レジスタンス)のどちらかを
選んで、敵よりも多く自分たちの陣地を増やすのが目的。
GPSなどで取得した位置情報を利用してチェックインするので、
屋内のパソコンで遊んでいた従来のオンラインゲームとは違って、
実際の現実世界がゲームの舞台になるんです。
ゲームのヒントを仲間と一緒に探しに行くのは、まるで
RPGゲームをリアルに体験しているみたい。
全世界で約300万人のユーザーがいる人気のゲームなんです。

チェックポイントをのぞむプレイヤー

このツアーにおいては、「イノベーション東北」を組織し、
大震災の発生時から復興支援をしてきたGoogleと、
ボランティアツアーなどを行ってきたJTB、そして石巻を拠点として
地元から復興する「ISHINOMAKI2.0」、「イトナブ石巻」の協力のもと
プログラムが組まれました。
このイベントのために地域住民の方からヒアリングして作られた、
石巻ならではのチェックポイントは120箇所!
震災で流されてしまった場所などもチェックポイントのひとつになり、
スマホを向けると、震災以前の風景が浮かび上がるような仕掛けも。
チェックポイントを探して石巻のまちをあるくことで、震災前後の様子を
知ることができます。

さて一泊二日のこのツアー、
料金は東京駅発着で交通費、宿泊費も込みで34,000円。
当日集まった参加者は、日本国内からオーストラリアや香港まで
世界じゅうからなんと80名もの方々!
初めて会う方でも、同じゲームのプレーヤーなので話も弾みます。
終始和やかな雰囲気でツアーが進行しました。
それでは当日の模様をお届けします!

ツアーのスタートは、石巻の門脇地区にある復興のモニュメント「がんばろう石巻」から。かつてここで水道屋さんを営業していた黒澤健一さんが震災直後に建てたものです。

「がんばろう石巻」の周辺は、かつては商店街だったところ。いまは更地に。たくさんの鯉のぼりが揺れていました。

挨拶を行なう、Niantic Labsの川島優志さん(左)と、コーディネーターをつとめたイトナブ石巻の古山さん(右)。

イベントの始まりは、参加者全員がお線香をあげて黙祷を行いました。Google Earthの開発者であり、ナイアンティックラボ創始者/Google副社長のジョン・ハンケ氏もこのイベントのために来日。

青チームと緑チームに分かれバスに搭乗。バスの中ではゲームの仲間どうし、情報を交換しあったりアツい作戦会議が繰り広げられました。ゲームの世界に浸れるのが楽しいところ。

石巻市の日和山公園にて行われるオープニングセレモニーのために移動。日和山公園は石巻市街にある小高い丘で、石巻市を襲う津波の様子を捉えた映像が撮影されたところ。

日和山公園からの、現在の景色。

この方は開発者も驚く驚愕の高レベルを保持する伝説のプレイヤー!

ゲームの登場人物である女性キャラクターのクルー(Klue)が来日!ゲームの中の人が石巻に!

参加者に渡された、ゲーム開発サイドから用意されたグッズ。中にはファン垂涎のイングレスグッズと、ミニゲームのヒントが。

グループに分かれてミニゲームに挑みます。

石巻の方が作ったチェックポイントのヒントをじっくり検討。イベント時には、まちかどに立っている地元の人が、参加者にゲームのヒントを与えるイベントも。

石巻のまちはゲーム内だとこんな風に見えます。

石巻のまちには石ノ森章太郎さんのキャラクターがそこかしこにいるのでお散歩も楽しい。

「石巻のひとたちのために何かができる機会ということで、今日のイベントは僕達もすごく楽しみにしていて、本当に力を入れていました」と川島優志さん。

これまではお家にこもってプレイするものだったオンラインゲームが
外で仲間と一緒に遊べるものになり、それが震災復興やまちおこしのために
使われていることに、すごく可能性を感じました。
2014年7月に開催される「石巻STAND UP WEEK 2014」でもまた
イングレスのプロジェクトが行われる予定なのだとか。
テクノロジーを使った新しい試み、
気になる方はぜひ石巻へ!

Ingress Meetup in Ishinomaki

MAD City vol.8: 古びた一軒家から生まれた 真っ白な壁が囲むアトリエ空間

MAD City vol.8
古くてボロい残りもの物件にだって、「福」がある?

誰も借り手がいなくて、空き家のまま放置されているようなボロボロ木造の一軒家。
みなさんのまわりにも、そんなおうちがあるんじゃないでしょうか?

普通の不動産屋さんならば「ここは普通には貸せないな」「値段がつけられないな」
と思うような物件も、実はMAD City不動産で扱っています。
なぜこれらの物件を扱うのか。それには理由があるんです。

まず、ひとつ目のメリットは
これらの物件は、単純に「借り手が少ないのでそもそも賃料が安い」という点。

また、もうひとつは改造が自由なケースが多い点。
木造建築は長年人が住んでいないと傷んでしまうため、
ボロボロの物件は、多くはそのまますぐに住めるような状態ではなく、
入居の際には内装工事が必要になります。

業者に工事を頼めば数百万円ぐらいかかってしまいますが、
DIYができる人にとっては、材料費のみで自分の使い勝手が良いように、
自由にいくらでも改造ができるわけです。

さらに、木造物件はコンクリートや鉄筋の住宅と違って、
壁や床、天井などもいじりやすいため、
自分でリノベがしやすいという利点もあるんです。

なんだかちょっと褒めすぎてしまっているようですが、
人によってはこれが理想的な物件になることもある、ということです。

まさにこんな物件を探し求めていたのが、
兄弟そろってペインターというアーティストの菅 隆紀さんと雄嗣さん。
ふたりが当初探していたのは
「とにかく安くて、アトリエとしても住居としても使える物件」でした。

お兄さんの隆紀さんは油絵を主体としたアーティスト。http://sugar-w.com/
弟の雄嗣さんも現在東京藝術大学大学院美術研究科絵画専攻に在籍する油絵画家。

とにかく壁が広くて、大きな作業音を出しても近隣の方から怒られず、
しかも、住居としても利用可能な物件。
でも、いざ探してみると、この条件に合う物件は、どれも賃料が高かったり、
お風呂などの生活スペースがなかったりと
住居として使うのは難しい物件ばかりだったそうです。

そして、2012年の年末。
物件探しに明け暮れるふたりが出会ったのが、
MAD City不動産の築年数40年以上の木造建築「それもできます」でした。

「それもできます」はMAD City不動産の命名ですが、
その名の通り、「なにをしてもOK」という物件。
改造・DIYはもちろんのこと、住居としての利用だけではなく、
カフェやアトリエなどの店舗としての利用も相談可能。
しかも、庭付きの2階建て。
それでいて、家賃は一軒丸々借りきって4万円台と、
管兄弟のニーズにばっちり合った物件だったのです。

「それもできます」のDIY前の室内。広さはあるものの、ボロボロの木造の壁と腐りかけた畳張りの室内で、すぐに住むのはちょっとむずかしそうな様子でした。

「この物件を最初見たときに、『一見ボロボロだけど、
自分たちでリノベすればまだまだ使える!』と思ったんです。
そこで、即入居を決めました」と語る菅兄弟。

壁はボロボロ。畳の床は腐りかけ。
普通の人ではちょっと躊躇してしまうような大変な中古物件ではありますが、
そのポテンシャルを一度の内見で見抜いた菅兄弟。
これまでにもスーパーの居抜き物件に手を加えて
アトリエとして利用していたことがあったというだけあって、
ふたりにとってリノベはお手のものだったそうです。

そして、この物件をDIYするときにふたりが心がけた一番のポイントは
「とにかく作品を飾れる広い壁をつくる」ということでした。

「僕らペインターにとって、広い壁のあるアトリエスペースって、
実はすごく重要なんです」と語る菅兄弟。
作品を客観的に見るためには、家具も壁紙もない白い壁に自分の作品を飾って、
何度も眺める機会を持つことが重要。
視界に邪魔が入らない場所に作品を置いて、作品を客観的に眺め、また再考する。
この作業を繰り返すことで、自分の作品に対するポテンシャルを探ることができるのだとか。

「でも、普通の住居だとなかなか数メートルもある大型の作品を飾れるだけの
広い壁がないので、この物件を改造するときは
『とにかく広くて白い壁をたくさんつくろう』と心がけました」

まずは広い壁とスペースを確保するべく、押入れも壁もすべて取り払って巨大なワンルームに!
屋根を支える大事な柱や壁以外の箇所は、ほぼ全部取り払ったそうです。
そして、従来のボロボロだった壁には、真っ白に塗ったベニヤ板を張り巡らせて、
念願だったホワイトキューブのような真っ白なアトリエスペースをつくりました。
「木造で老朽化していたからこそ、作業も楽でしたね」と語る菅兄弟。

DIY前の居間。

押入れや壁を取り払い、ベニヤを貼り付け真っ白に塗り直すことで、巨大なアトリエスペースに! 奥行きがあるので、壁をシアターとして利用して、映画を大画面で観たりしているとか。

また、腐りかけてボロボロになっていた畳も全部剥がして、
骨組みをつくり、その上からベニヤ板を敷き詰めて床も補強。

床も全部張り替えてます! 作業時にペンキが飛び散るので、現在はベニヤ板の上からシートを敷いて利用しています。

これらの作業はすべてを兄弟ふたりで行って、かかった期間は約1か月間。

費用は板やペンキなどの資材とゴミの廃棄代以外はほとんどかかりませんでした。
DIYのよいところは、自分たちの思う通りに部屋を変えられるし、
失敗してもすぐにつくり直せる。
また、壊れてきたらそこからまた補強できるところですね」

改造前(上)と後(下)のキッチンスペース。

作品づくりに使用するペンキ類はもともとあった靴箱を再利用して置き場を確保!

改装で余った木材を使って、本棚もDIYしています。たった4枚の木材でできていますが、ハードカバーを数十冊置いても壊れません。

隆紀さんが「sugar-w」という名前でペイントした靴の作品制作もこのアトリエで。できた靴がずらりと並びます。

DIYした白い壁には、数メートルある大型のものから小さなものまで、
十数点の作品がところ狭しと展示されています。

残り物には福がある」という格言にもありますが
今回、菅兄弟の物件の活用ぶりを見ていたら、
そのポテンシャルさえ見抜ければ、
どんなに古い物件もリノベとアイデア次第で
いくらでも生まれ変われるんだと思わずにはいられません(しかも格安!)。
ポテンシャルの高い物件はきっと日本中にたくさんあるのに、
本当にもったいないです!

1階の間取り図がこちら。赤枠部分が、白い壁が全面つながるワンルーム。2部屋をつなげただけでは飽きたらず、押し入れを取り払ってさらにもう1部屋つなげるという荒業!

さらに、当初は「物件重視」で松戸付近にアトリエを構えることになったふたりですが、
松戸近辺に住むことで、次第に松戸の地理的メリットにも気づくようになったのだとか。

「松戸は常磐線沿線で芸大の取手キャンパスにアクセスしやすいし、
東京や表参道にも電車1本で行ける。
また、成田にも近いので、海外からのアーティストが立ち寄ったりすることもあるため、
アーティストにとっては地理的にかなり便利な場所なんです。
だから、松戸近辺に定住したりアトリエを構えたりするアーティストは結構多いんですよ」

なお、兄の隆紀さんが今年度からオーストラリアでアーティスト活動を開始するため、
今後しばらくは弟の雄嗣さんだけでこの物件を使用する予定とのこと。

「この物件のようにスペースが広くて、汚してもOKなアトリエを借りようと思ったら、
なかなか見つからないし、あってもかなりお金がかかってしまいます。
芸大仲間のアーティストでもこの立地、この価格、この条件ならば、
アトリエスペースとして利用したいという人はいるはずなので、
兄がいなくなった後はこの家を共同アトリエとして複数人で利用するつもりです」
と雄嗣さん。

また、雄嗣さんはアトリエ自体の利用だけではなく、
今後は、自分たちと同じように松戸を拠点として集まるアーティストたちと一緒に、
まちとつながるようなアートイベントや展示会などもどんどん行って、
まちをアートで活性化させていきたいとも考えているそうです。
こういうあたりも、MAD Cityで取り組んできたことと関連しているので、
これから一緒に何ができるか夢が膨らみます。

菅兄弟のように、地方都市に眠る宝の山を掘り起こす人たちが
つながっていける仲間の輪を広げたいし、つくっていきたい。
MAD Cityでは、そういう人々が集まるエリアを目指して日々奮闘中です。

information


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MAD City(株式会社まちづクリエイティブ)

住所 千葉県松戸市本町6-8
電話 047-710-5861
http://madcity.jp/

奥田政行シェフの復興レストラン 「福ケッチァーノ」が、郡山でいよいよ発進。

2011年のあの日、奥田シェフが心に誓ったこと。

以前から卒業生を採用してきた関係で、
「アル・ケッチァーノ」の奥田政行シェフは、福島県郡山市にある
「学校法人永和学院 日本調理技術専門学校(日調)」との縁が深い。

2011年3月11日。
東日本大震災の日も、まず最初に救援に向かおうとしたのが福島県だった。
東北の一大事に、同じ東北人としていてもたってもいられない気持ちが
奥田シェフを突き動かす。
ところがあの原発事故のせいで、現地は大混乱。
情報は遮断され、行き着けるのかどうかもわからないまま
今から行くというシェフに対して、
現地の人たちは断らざるをえない状況であったという。
行き先を変え、翌日にはスタッフの家族がいる雄勝町へ。
7日後にはすでに南三陸町での炊き出しを始めていたものの、
福島のことは常に気がかりであり、何とか力になりたかったとシェフは言う。

福島で生まれ育った「日調」の生徒たちは、
地元のレストランに入って修業し、いずれは地元で独立することを夢見ていた。
それが原発事故のせいで、未来がまったく見えない暗闇に
放り投げ出されてしまったのだ。
行き場を失った料理人の卵たちが料理の道をあきらめないで済むように、
奥田シェフは今までは数人だった「日調」の卒業生採用枠を10人ほどに拡大。
「アル・ケッチァーノ」に迎え入れたのだ。
「その時、彼らに約束したんです。
お前らをいつか絶対に福島に帰す。だから頑張れって」

福島の優れた食材の魅力を伝える料理人を育てる。

奥田シェフが「日調」の卒業生をたくさん採用したのは、
雇用の問題を解決するためだけではない。
地元出身の料理人の手で、地元の食材の魅力を伝えるレストランを福島に作る。
そうすることで、生産者も元気になり地域も活性化する。
でもそのためには、食材がどんな自然状況の中で、誰によって
どのように作られているのかを料理人がしっかりと理解することが必要だ。
理解して初めて、その食材の持ち味を最大限に引き出すことができ、
人を感動させるひと皿が生まれる。
それこそが、奥田シェフ自身が今日まで実践し証明してきたこと。
そのことをみんなが「アル・ケッチァーノ」できちんと学び福島に戻れば、
きっと福島の復興にも貢献するに違いない。
そう考えた奥田シェフの頭の中で、構想は着々と進んでいった。

郡山のカリスマ生産者として有名な鈴木光一さんはじめ、
風評被害と戦う真摯な生産者との出会いにより、
次第に明確になっていくコンセプト。
「鈴木さんの作る野菜は、ひとつひとつの細胞が水を抱き込んでいる
すごい野菜。みずみずしさと喉越しの良さが別格です。
この野菜を使えば、郡山にしかないひと皿ができる。
地元の食材を使うことで生産者を応援し、そのことで地域が活性化するという
庄内で『アル・ケッチァーノ』がやったようなことが、
郡山でもできると確信したんです」

「福ケッチァーノ」と名付けられた復興レストラン。

確信はしたものの、実は奥田シェフでさえ
「日調」出身の料理人たちとの約束を果たすのに
最低5年はかかるだろうと思っていたのだという。
それくらい、福島の置かれた状況は厳しかったのだ。
ところが、たくさんの人の多大な努力で、
その約束は意外と早く実現することになる。

2014年3月、「福ケッチァーノ」と名付けられたレストランが始動。
オープンして初めて明らかにされた異例ずくめのその内容は
驚きに満ちたものだった。
まずは、店舗がトレーラーハウスであること。
オープンキッチンにカウンター席のみのトレーラー1台と、
テーブル席のトレーラー1台を、郡山の老舗和菓子店「開成柏谷」の
駐車場スペースに設置。
トレーラーハウスとはいえ、厨房はもちろんプロ仕様。
ナチュラルテイストのインテリアも洒落ていて、中に入ってしまえば
トレーラーハウスであることすら忘れてしまうのではあるが。
それにしても、何故トレーラーハウスにしたのだろう。
その疑問に対する奥田シェフの答えは明解。
「郡山が落ち着いてきたら、もっと必要とされているところに
移動できるように」なのだそうだ。

「福ケッチァーノ」のロゴ。丸いマークの中をよく見ると、「フクケ」の文字がデザインされているのがわかる。

地産地消フレンチで勝負する「福ケッチァーノ」。

そして何よりの驚きは、誰もがイタリアンだと信じて疑わなかった
「福ケッチァーノ」が、蓋を開けてみたらフレンチだったこと。
この理由について奥田シェフは、
「郡山はイタリアン・レストランが多いまちです。福ケッチァーノは
復興レストランなのだから、私がここでイタリアンをやることで
他の店を圧迫してしまったら意味がない。だからイタリアンという
選択肢は、実ははじめからなかったんです」と言う。

フレンチにしたもうひとつの大きな理由は、郡山の食材にある。
「庄内の野菜は個性的で味も濃く、自己主張が激しいんです。
だからソースを絡めてどうにかするよりも、
素材のままをオリーブオイルと塩だけで味わったほうがおいしいんですね。
『アル・ケッチァーノ』の料理にソースがほとんど登場しないのはそれが理由です。
ところが、郡山の鈴木さんが作る野菜はキメが細かく瑞々しくて、
味は濃いけれど変なクセはまったくない。だから、
ソースで野菜の味に表情をつけるという使い方のほうが合っているんです。
それもあって、『福ケッチァーノ』はフレンチ・レストランにしました」

カリスマ農家の鈴木光一さんが、自ら採れたての野菜を持って登場。鈴木さんは、「福島ブランド野菜」と名付けられた、郡山でしか作れない高品質で希少な野菜を開発・生産するグループのリーダーでもある。

鈴木農園の鈴木清美さんから届いたジャンボなめこ。まだ菌床に植わったままの超新鮮なジャンボなめこを前に、奥田シェフはどう料理するか思案中。

厨房で指示を出す奥田シェフ(左)。弟子たちのまなざしはいつも真剣。

シェフはじめスタッフは全員、福島出身の若者たち。

そこで奥田シェフが、料理長に選んだのが中田智之さん。
「日調」を卒業後、都内のフレンチ・レストランで修業を重ね、
いずれは地元の郡山での独立を考えていたというタイミングでの抜擢だ。
30歳という若さながら、奥田シェフの目にかなった実力は確か。
「福ケッチァーノ」では、すました高級フレンチではなく、
気取らずカジュアルに楽しめる家庭料理的なフレンチをやっていきたいと言う。
「郡山でフレンチっていうと、みんなスーツを着て来ちゃうけれど
まずそこから変えたいですね。普段着でわいわい楽しめる店にしたいです。
福島の食材には素晴らしいものがたくさんあっておいしいんだということを、
福島の人自身があまり知らないんです。だから、まずは郡山の人たちに
食べてもらって、地元の食材に自信をもってもらいたいんです」

ファン急増中のイケメンシェフ、中田智之さん。

中田シェフを支えるキッチンスタッフは他に4人。
もちろん日調出身で、中田シェフを含む全員が
「アル・ケッチァーノ」でみっちりと修業をつんできた若き料理人たちだ。
奥田シェフに地産地消の哲学をしっかりと叩き込まれ、
生産者との関わり方を学んできた。

中田シェフ(右)も後輩の指導に忙しい。

店長は22歳の横田真澄さん。彼は、「アル・ケッチァーノ」に入って以来、
奥田シェフが新しいプロジェクトを手がけるたびに、
そこのスタッフや責任者として赴任し、全国で経験を重ねてきた強者だ。

オープンキッチンとカウンター13席のトレーラー。もうひとつのトレーラーはテーブル18席。

店長の横田真澄さん。笑顔が魅力的な22歳。福島に帰って来られて本当に嬉しいと言う。

20歳の横田麻紀さんなど、サービス担当もみんな郡山出身で日調の卒業生。
スタッフは全員若い。そして、これからの福島を
自分たちの手で再建していくという目的を胸に秘めている。

サービス担当の横田麻紀さん。ここで店の運営を覚え、将来は自分の店を持つという夢がある。

「福ケッチァーノ」お披露目ディナーで供された料理の数々。

白菜の乳酸菌サラダとメヒカリのフリット

鈴木農場の白菜を塩揉みししばらく置いて乳酸菌発酵させたものと、生の白菜を合わせることで酸味、塩味と、異なる食感が口の中で楽しめる。フリットしたメヒカリの皮の部分には白菜系の香りがあるため、相性も抜群。いわき市名産のメヒカリは、今回は高知から。

福島牛のソテー、鈴木農園のジャンボなめこのソース

鈴木農園のなめこは濃厚な味わい。よく茹でて炒めとろみをしっかりと出したもの、さっと茹でたもの、生のものと、3通りの調理法をほどこしたなめこを合わせている。そうすることでなめこにより一層コクが出て、牛肉を引き立てるソースの役割を果たす。

白貝と豆麩のヘルシーカツレツと春菊

福島の伝統食材である豆麩を揚げてカツレツ風に。相馬でよく採れていた白貝を北海道から取り寄せ、鈴木農場の春菊と合わせて。

サーモンマリネ 会津の山塩 鈴木農場のほうれん草 アボカドオイル

たんぱく質が固まるか固まらないかの温度43℃で火入れしたサーモンは、しっとりねっとりと艶っぽい味わい。みずみずしく甘みが強い鈴木農場のほうれん草を合わせて。真空にして135℃で圧力をかけて柔らかくしたサーモンの骨がアクセントに。

曲がりねぎのシェリーヴィネガーマリネ

驚くほど甘みがある鈴木農園の曲がりねぎは火を通すとさらに甘みが増す。茹でて温かいうちにシェリーヴィネガーでマリネ。冷めていくに従い、ねぎの甘みとヴィネガーの酸味が調和していく。

通常ディナーはボリュームたっぷりでリーズナブル。

平目のカルパッチョ、塩昆布とトマト

震災前は相馬でたくさん獲れた平目と、福島が東北一の生産量を誇るトマト。グルタミン産が豊富な食材の組み合わせは間違いなし。プリフィクスコースの前菜のひとつ。

ふるや農園の放牧豚のコンフィと鈴木農場のカラフル人参

里山を走り回りストレス知らずで育った、ふるや農園の放牧豚をコンフィに。噛むほどに肉の旨味が滲み出る。甘みたっぷりの人参も美味。プリフィクスコースのメインのひとつ。

柏屋さんの薄皮饅頭のパイ包み、わさびのソルベ添え

郡山の老舗和菓子店を代表するお菓子をアレンジ。あんことわさびが不思議にマッチしている。プリフィクスコースのデザートのひとつ。

「福ケッチァーノ」と私たちができること。

ただし、まだまだ解決していない厳しい現実はある。
「おいしいとか、復興も大事だけれど、一番大事なのは安心安全な食材を
提供すること。料理人にはその責任があります。食材は徹底的に検査をして、
安全が確認できれば使うし、そうでなければ使わない」という奥田シェフ。
ことごとく放射能物質が不検出である鈴木さんの野菜や
安全性が確認された肉はいいけれど、
魚介類や、生産地によってはまだまだ不安を覚える人がいるのも事実。
だから、今のところミネラルウォーターは全部庄内から運び、
魚はメヒカリのように昔から福島で食べられていた、
“福島のソウルフード”的な魚種を全国から調達して提供する。
そうすることで、安心安全を提供しつつ、
福島の食文化が途絶えないような工夫もし続けているのだ。

そんな中で若いスタッフたちは、
真剣に福島のことを考え、復興へ向けて動きだしている。
大勢の人が「福ケッチァーノ」に足を運び、
たとえば鈴木さんをはじめとする生産者たちの作る野菜のおいしさを知り、
それを買ったり人に勧めたりすることが、
福島が元気を取り戻す力を微力でもサポートすることにつながる。

左から、中田智之シェフ、奥田政行シェフ、横田真澄さん。

前列左から、「福ケッチァーノ」オープン最大の貢献者である、日調の理事でフランス料理主任教員でもある鹿野正道先生、鈴木農園の鈴木清美さん、奥田政行シェフ、鈴木農場の鈴木光一さん。後列は「福ケッチァーノ」のスタッフたち。

Information


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福ケッチァーノ

住所 福島県郡山市朝日1-14-1
TEL 024-983-3129
営業時間 ランチ 11:30~14:00 LO、ディナー 18:00~22:00(コース 20:30 LO)
水曜休
ランチ 1500円(日替わり)、2929円(コース)
ディナー 3800円~(プリフィックスコース)、7500円~(おまかせコース)
http://fukuchecciano.jp/

鈴木農場

住所 福島県郡山市大槻町字北寺18
TEL 024-951-1814
http://suzukiitou.main.jp

鈴木農園

住所 福島県郡山市田村町大供字向173
TEL 024-955-4457
http://www.jumbo-nameko.co.jp

学校法人永和学院 日本調理技術専門学校

住所 福島県郡山市安積4-229
TEL 024-946-8600
http://www.nitcho.com/

のみだけで仕上げる井波彫刻の技術力を活かして 前編

200本の“のみ”を使いわけて生み出す伝統的技術。

富山県南砺市の井波は、木彫で有名だ。
その起源は真宗大谷派 井波別院 瑞泉寺にある。
瑞泉寺は一向一揆の中心的存在であった寺院。
過去に1581年、1762年、1879年と3回も火災にあっているが、
そのたびに再建されてきた。
2回目の火災ののち、当時の加賀藩は、
京都の本願寺から本山お抱えであった御用彫刻師の前川三四郎など、
10名の宮大工を呼び寄せて再建にあたった。
そうして彼らの指導のもとに再建を進めていった地元・井波の大工たちが、
井波彫刻の礎といえる。

井波の大工である番匠屋九代 田村七左衛門が、
名作といわれる勅使門の「獅子の子落とし」を生み出すなど、
京都から伝わった伝統的な寺院建築・彫刻の優れた技術を、
井波の大工たちが磨き上げ、
現在にまでつながる井波彫刻となっていったのである。
木材がたくさん採れた土地であるわけでもなく、
技術のみが純粋に高まっていった特殊な例といえる。

井波彫刻の特徴は、のみひとつで仕上げることだ。ペーパーも使わない。
しかし200本ほどののみを使う。
使う場所や用途によって、数々ののみがあり、必要に応じて増えていく。
弟子に入ったばかりのころは数本しか持っていないというが、
ベテランになるほどたくさんののみを所有していくことになる。

独特の形ののみ。それぞれにきちんとした役割がある。

「ちょっとした違いですが、のみの数はどんどん増えていきます。
刃先を長くしたり、角を落とした平のみにしたり」というのは、
井波彫刻協同組合の理事長である高桑良昭さん。

井波彫刻のなかでも最も古い工房のひとつ、
南部白雲木彫刻工房の3代目南部白雲さんの工房にお邪魔すると、
4つも5つもある箪笥の引き出しのなかは、すべてのみだった。
湾曲したものや先が細くなったものなど、見たことのないのみがたくさん並ぶ。
井波彫刻の高い技術は、多種多様なのみを使いこなすことで成り立つのだ。

南部白雲さんの工房。目の前に並んだたくさんののみはもちろんすべて使うもの。

仏閣から端を発したが、時代の流れとともに住宅にも採用されるようになった。
特にその繊細な技術を遺憾なく発揮した欄間はすばらしい。
井波彫刻の欄間は絵柄が立体的で、鶴や龍や花が飛び出している。
職人の頭の中は3Dなのだ。
だからこそ、たった1枚の写真からでも図面を起こして復元することができるという。

しかし近年では日本家屋も減り、欄間の需要も減ってきている。
現在は名古屋城に復元される本丸御殿の唐狭間(からさま)に取りかかっている。
祭りの山車や文化財の修復などでも、井波彫刻は重宝されているのだ。

たとえ技術の優れた職人がいても、
ひとりやふたりでは到底できない作業量になることもある。
そうすると仕上げるのに膨大な時間がかかってしまう。
しかし井波には親方彫刻師だけでも100人、総勢200人の彫刻師がいる。
大きな仕事は井波彫刻協同組合が預かり、みんなで取りかかることもできる。

瑞泉寺の再建をきっかけに井波彫刻が生まれてから約250年経っても、
200人の彫刻師が、井波という地に残っていることは大きな強みだ。
彼らが質の高い仕事をすることで、
欄間や山車の一大産地としての矜持を保っている。

次回は井波彫刻とリバース・プロジェクトがコラボレーションした
商品のストーリーを紹介する。

引き出しのなかはのみがズラリ。

未来の子供達に、山一面の桜を見てもらいたい。福島・いわき万本桜プロジェクト

コロカルでご紹介した「桜の森 夜の森」プロジェクト
MUSUBU)の宮本英実さんから、すてきな取り組みを教えて頂きました。
福島県のいわき市で行われている「いわき万本桜プロジェクト」です。
これは、いわきの里山に桜を植樹し、今後99年という長い年月を
かけて9万9千本の桜を植樹していく長期間のプロジェクト。
既に2千本の桜が植樹されています。
スタートは2011年5月、東日本大震災の2ヶ月後のこと。
地元で会社「東北機工」を営む志賀忠重さんが代表者となり、
いわきの地元の人たちと始めました。

「いわき万本桜プロジェクト」では、
プロジェクトのWebサイトにて、自分で植樹まで行なう「自主植樹」と、
現地の人が植樹作業を行なう「代行植樹」の二種類のコースを公開。
購入者はそれぞれの方法で植樹を行い、その木には思い思いの木札に
メッセージを書く事ができます。
一人一人の記念樹として、一本一本に参加してくれた人の名前をつけるのだそう。
ちなみに料金は、自主植樹が特大15,000円、大8,000円。
代行植樹は代行植樹は特大18,000円、大10,000円です。
それでは宮本さんが実際に自主植樹にチャレンジされた様子をどうぞ!

万本桜の看板

この山に植樹していきます

宮本さん、植樹作業中!

代表の志賀忠重さんと宮本さん。

スコップでザクザクと掘っていきます。

植樹した桜には名前のプレートを掲げます。

植樹終了!「MUSUBUプロジェクト 桜の森 夜の森」の名前が。

■蔡國強さんコラボの美術館も

「いわき回廊美術館」

本プロジェクトの協力者には、世界的な現代美術家の蔡國強さんも名を連ねます。
というのも、蔡さんはかつていわきで作品制作をしていた縁があり、
志賀さんらいわきの人々との繋がりが深いんです。
蔡さんがいわきをテーマに作品制作をしたり、逆に蔡さんの作品設営の
ためにいわきの人たちが海外に行くこともあったのだとか。
そうして20年以上も友情をあたためてきたのだそう。
いわき万本桜プロジェクトが進められている里山には、
蔡國強さんとの共同プロジェクトである、
長さ約99メートルもの回廊を歩きながら作品を鑑賞できる「いわき回廊美術館」もあります。
植樹に行かれた際には、ぜひお立ち寄り下さい。

いわき万本桜プロジェクト

NO ARCHITECTS vol.7: 住んでいるみんなでDIYする シェアハウス 前編

NO ARCHITECTS vol.7
衣食住がそろうシェアハウス

前回の記事の最後に登場した、
僕らが住む家「大辻の家」の裏にある
アパートの一室のリノベーションが現在進行中です。
進捗状況を2回に分けてリアルタイムでリポートしようと思います。

左にあるのが僕らが住む大辻の家、右が今回リノベーションする部屋があるアパート。2棟合わせてSPACE丁(スペース・テイ)と呼んでいます。

部屋の場所がわかりにくいと思うので、スケッチを描いてみました。
丁字路の正面右手の路地を抜けて左手にある階段を上がってすぐの、
2階の踊り場に面した部屋が今回の物件です。

大辻の家とアパート丸々一棟を合わせて借りていて、
アパートには4部屋あります。
2部屋は各々が生活するプライベートな部屋として使っていて、
残りの2部屋の活用法をずっと考えていました。

その空き部屋は、押入れ付きの6畳の座敷がふた間と、
板の間の台所がひと間のL型2DK。
僕らが入る以前から、かなり長いあいだ空き部屋だったらしく、
廃墟同然で、カビ臭いどんよりした空気が流れていました。

今までは倉庫として使ってきましたが、それではもったいないので、
みんなの生活と連続するかたちで、
ものを作ったり考えたりするための共同アトリエとして、
リノベーションすることになりました。
ちなみに1階にも同じ間取りの部屋が空いていて、
ここの使い方はまだ思案中です。

vol.1の記事でも紹介させてもらったように、
大辻の家と裏のアパートとは、2階の踊り場で繋がっています。

クローゼットの奥に勝手口を開けると左に玄関が見えます。vol.1「住みながらつくる家」より。

屋上への階段の下の洗濯機置き場より、現場の玄関を見たところ。上のスケッチではわかりやすく広めに描いたけど、実際はとてもせまい。

今のところ、服をつくっている黒瀬空見と、シェフでパティシエの遠藤倫数、
空間をつくる僕らの4人で借りています。
それぞれが“衣食住”をかたちにすることを仕事としています。
着たい服があればミシンを、食べたいものがあればフライパンを、
住みたい家があればインパクトドライバーを。
そんなメンバーが揃ったシェアハウスです。
皆、大学院の同級生で、同い年で、仲良し。

ひとまず、ふたりの紹介を。

黒瀬は、
2010年より「日常のなかに物語を」をコンセプトに、
ツクリバナシとして日常着の制作を始めました。
そして、2013年の春に、東京からこのはなに越してきました。
「このまちは物語があふれていて、
もはや“日常を物語に”という気持ちになってきています。
ですので、最近では、その生活に合う服をつくることを目指しています」(HPより抜粋)
とのことです。

ツクリバナシの服の写真です。撮影場所はSPACE丁の屋上。(撮影:樋口祥)

つづいて、遠藤は、
岐阜県のケーキ屋とレストランで修業し、
2012年の春にこのはなに越してきました。
モトタバコヤのオープンスタッフとして、
シェアショップ内の「Café the End」の店長に。
月に1回開催されていたカクテルパーティは、毎回大盛況でした。
最近では、新規事業に向けて準備を進めているそうです。

カクテルパーティの様子。毎回違うテーマに沿ったカクテルメニューを考案して、それにあうケーキやキッシュなどを食べられるという企画。この会は、ピーチナイトでした。

みんなで決めて、みんなでつくる

さて、本題のリノベのリポートです。

特に打ち合わせしたり、図面を描いて検討したりはせず、
一緒にご飯を食べている時や、家の前でたまたま会った時に
立ち話したりしながら、それぞれのイメージを少しずつすり合わせていって、
あとは、現場スタートの日時の調整をして、作業が始まりました。
それぞれが計画者でもあり、施主でもあり、
現場作業までするといったプロジェクトになりました。

解体途中の写真です。

3部屋あるうちの奥の部屋は、黒瀬のアトリエに。
玄関からキッチン辺りを遠藤のバーカウンターとオープンキッチン、
そして、黒瀬のアトリエとキッチンの間に共有のリビングルームをつくる計画。

まず、部屋と部屋とのあいだの間仕切りの垂れ壁を解体し、
L型のワンルームにすることを目指しました。
不要な壁をなくすことで南側からの太陽光を奥の部屋に取り込もうとしました。
さらに部屋を少しでも広げるために、
押入も解体して、段差をなくして床も繋ぎました。

解体のゴミの処理や、床と壁の施工や電気工事などは、大学の後輩で大工チームのshirokuroにお任せしました。左が親方の伊藤くん。右は見習い中の杉本くん。杉本くんは大学で建築を学びながらというから将来が期待大。

ぼろぼろになった畳も撤去し、床も入り口からひとつながりの板張りに。
黒瀬は染色作業などもするので、防水塗料は厚塗りで。

もとの壁は砂壁で粉がぽろぽろ落ちてくるので、薄いベニヤ板でおさえて塗装。
染めた色や布の色が際立つように、柱を残して真っ白に。

抜群の集中力を見せる、塗装作業中の黒瀬先生。

トイレは、ドアを付け替えて壁も補強。床のタイルはそのままに。
押入れ部分の天井は、遠藤がベニヤを張って点検口まで取り付けてくれました。

といったところで、前編はここまで。
来月の後編では、いったん完成した姿を報告できると思います。
僕らも完成形があまり見えてないリノベーションの行く末は——
乞うご期待。

ハンマーで既存の台所を破壊する遠藤シェフ。新しくできるキッチン楽しみです。

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NO ARCHITECTS

住所 大阪市此花区梅香1-15-20
http://nyamaokud.exblog.jp/
https://www.facebook.com/NOARCHITECTS.jp

サイクリング基地「ONOMICHI U2」誕生! 瀬戸内海の島を結ぶ「瀬戸内しまなみ海道」の始点に

広島県尾道市から愛媛県今治市まで続く、
瀬戸内海の島と島を繋ぐ「瀬戸内しまなみ海道」。
日本で初めて海峡を横断できる自転車道
「瀬戸内海横断自転車道」を擁し、
各自治体によるレンタサイクルなどの
サービスも充実しているなど、
海外のサイクルファンからも注目の集まる道なんです。

この海道の始まりとなる広島県尾道市に、
サイクリストのための複合施設「ONOMICHI U2 オノミチ ユーツー」が
先月オープンしました。海沿いの広大な敷地に、ホテル、サイクルショップ、
BAR、レストラン、ベーカリー、コーヒーショップ、さらに食品や
アパレルなどのショップまで揃っています!
建築デザインを手がけたのは、建築家の谷尻誠さん率いる
広島の「サポーズデザインオフィス」。
もともと、昭和18年に建設された船荷の倉庫だった場所を、
2780㎡もの巨大な躯体と大空間をそのまま残し、スタイリッシュに
リノベーションしてしまいました。

「既存倉庫の大空間に新たに建築する建物は、小さな古民家が密集する
尾道の町並みのように「小さいスケールの連続と路地」という関係を継承し、
建物全体をまちと見立てた構成としました。自転車のリペアを行う路地、
地元の方やトラベラー同士の情報交換の場となる縁側など、余白の場を設ける
ことにより、人々が自然と集まり、迎える側も訪れる側も、歴史ある尾道の
街への「愛着」という共通言語によって、実際のまちと同様の関係性や
関わりが生まれる場となっています」(コンセプト・テキストより)

それではそれぞれの施設をご紹介していきましょう。

宿泊施設「HOTEL CYCLE」。全国初の自転車に乗ったままチェックインできるフロントがあり、自転車は全室に持ち込み可能。

朝・昼・夜、しっかり食べられるレストラン「The Restaurant」。瀬戸内の魚介類・野菜・柑橘などを中心に、四季折々の食材を使っています。

夜に映る夜景を楽しめるカウンターバー「Kog Bar」

こだわりのパンやさん「Butti Bakery」

これらの施設に共通するのは、「瀬戸内らしさ=もてなし」として
地域性にこだわったコンセプト。
瀬戸内レモンやシーフードなど瀬戸内の食材を積極的に
使ったメニュー、しまなみ街道でのツーリングを楽しむ
サイクリストに向けた新しいサービスなど、
瀬戸内ならではのおもてなしを提供しています。

インテリアは古民家や造船の街にちなんだ、木やモルタル、スチールなどラスティックな質感のもので構成しました。魚灯を連想させるような照明のアクセントなど、小さな要素を丁寧に設計し、尾道らしさを体験できる空間となっています。(コンセプト・テキストより)

「ONOMICHI U2」は、自転車に乗らない人でも
もちろん大歓迎。
街の個人商店が集まっているような感覚で、
施設内を散策しながら
楽しむ事ができます。
ゴールデンウィークのお出かけにぜひ!

ONOMICHI U2

山ノ家 vol.7: 気だてのいい移民になろう  二拠点生活への覚悟の芽生え

山ノ家 vol.7
カフェのにぎわいと、熱気の中でのドミトリー工事

無事、山ノ家の「カフェ」はオープンしたが、2階のドミトリーはまだ工事中。
少しでも早く来訪者に開きたいという想いから、
まずは1階のカフェだけでも先に工事を終わらせて、
お盆より前にはオープンしようという計画だった。
「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」の期間中に
遅ればせながらオープンし、手配りのチラシの効果もあって、
カフェを利用するお客さんも増えてきた。
僕らは連日泊まりがけで合宿のように生活しながら、
カフェの運営チームは来訪者のために大忙しで、
数少ない男子と、大工さんたちはドミトリーの工事を進めている。

カフェのキッチン内には常に3〜4人のスタッフが入り、忙しく動き回っていた。ここが元和室であったことを考えると、何とも新鮮な光景。

ドミトリーができるまでに必要な残りの作業は、2階の床張り、
壁のボード貼り+塗装、1階のシャワーブースや2階の水回り、
そして一番の作業はドミトリーのための、2段ベッドづくりなど。
カフェのにぎわいの裏では、ドミトリー完成へ向けた工事が続いていた。

カフェはこんな感じでにぎわっていてうれしい限り。しかしその裏で……。

2階ではこのような感じで作業をしている。これは廊下の塗装を行うための、階段の養生。

カフェが営業している時は外への出入りに気を使ったり、
道具や資材の搬入などでどうしても融通がききづらかったりと、
作業をするためのスペースや導線確保の大切さを再認識した。

追加資材の搬入は2階の窓からユニック(クレーン付きトラック)でカフェの開店前に行った。

まつだいの8月は焼けるように暑く、
1階に設置したばかりのエアコンがフル稼働という状態。
しかし、2階にはまだエアコンがついていない。
こもる熱気の中でみな黙々と作業を続けていた。

暑い中での作業。アキオくんは大工さんからアドバイスをもらいながら自分で床張りをマスターしていた。

カフェから生まれる、地元との接点

カフェが開店したこともあってか、
いろいろなかたちで地元の方々とつながる機会がいくつか生まれていた。
ある日、工事を見てくれていた近隣の大工棟梁さんが、
僕らに相談を持ちかけてくれた。
「お盆の8月15日に、近くの小学校で盆踊り大会があるんだけど、
近隣の人に知ってもらうのにいいチャンスだと思うから、
店を出してもらえたらと思うんだけど」
地元で彼の世代(30〜40代)がこの盆踊りを仕切ることになったから、とのことだった。
始めたばかりのカフェの営業はまだまだ落ち着かないが、
これはとても良い機会だからなんとか工夫してやろうということになり、
夕方に店頭に貼り紙をして、小学校で出店することにした。

近隣の小学校の盆踊り大会に、キーマカレーやマフィンなどを急遽仕込んで出店。反応はなかなかよかった。

またある日は、関東圏から十日町に帰省した大学生が立ち寄ってくれて、
「地元にこんな素敵なお店ができたなんて!」と感激してくれた上に意気投合。
なんとカフェのお手伝いを1日してくれることになった。

写真の奥にいるのが、地元がこの近くという大学生。地域の過疎化を心配し、まちづくりなどにも興味があるようで、僕らがここで拠点を持つことになった経緯などにとても共感してくれた。

また、お隣の方などが「たくさんとれたから」
と野菜をドサっと持ってきたりしてくれたのはとてもうれしいことだった。
冬の工事の時から、通りかかるおばあちゃんなどに
「ここは何かできるの?」と聞かれ
「ここで喫茶店をやります。是非来てくださいね!」
などとなるべく丁寧に接してきたことなどが思い出された。

この先の可能性がいろいろと広がるのが少しだけ見えた気がして、
本当にここでやってよかったと思った瞬間だった。
このころから何となく「気だてのよいヨソモノでいよう」
というキーワードが自分たちの中で浮かびあがっていた。

根城を転々とする、移民としての生活

僕らは若井さんが使用している近隣の一軒家
(味噌づくりのために使っている「味噌工房」と呼ばれている借家)
の部屋を借りて寝泊まりをしていた。
実はその前にも、工事が始まるころから
しばらく寄せていた場所があった。
しかし、大地の芸術祭をお手伝いをする方たちが来たら
部屋を空けることになっていたので、
その後に若井さんの「味噌工房」に移動していた。

若井さんの味噌工房のある家。この脇の土地で、少し前から畑もやらせてもらっていた。

もちろん、山ノ家の上に泊まれたらそんなに楽なことはないのだが。
アキオくんは「ここのユニットシャワーがついたら、休憩中に汗を流せる!」
などと冗談を交えながら作業していたが、
そこはまだ粉塵が舞う戦場のような工事現場で、
とても落ち着けるような状態ではない。
泊まるための場所をつくりながら、自分たちは別の場所に寝泊まりしている。
なんとも歯がゆい状況での現場、というか、生活。
例えばこれが東京での話ならば、
皆それぞれの住む場所から通って現場で集まるだけという、あたりまえのこと。
ここでは、その前提が無い状況なのだ。
普段とは全く違う土地で生活をしながらリノベーションを行うということ、
そして共同生活を伴ったかたち。楽しくもあり、難しい部分でもある。
この状況のなかで、皆が生き生きと活動していることが
本当に何ものにも代え難い心の支えだった。

そんな中、カフェがオープンする前後に、
若井さんが言いづらそうに僕に相談をしに来た。
「実はお盆前後に、毎年農作業を手伝ってくれる人たちが
泊まりにくることが前から決まってしまっていて、君たちの寝泊まりする場所を
どこか他に移動してもらわなくてはならないんだよ」と。
お盆が近づいてきて、宿泊できそうな場所はみな似たような状況で、
新たな宿を見つけなければならない状態になっていた。
また、移動しなければならないのか……。
とはいえ、どこにも行くアテが無い。
まさに移民(というかむしろ難民に近い)。

若井さんがいろいろと周辺の人をあたってくれて、
なんとかなりそうな場所の情報を持ってきてくれた。
そこは僕らがよく行く温泉のすぐ近くのロッヂで、
地元の有志でつくったらしいが、震災のあとは使っておらず、空いているという。
なぜなら、ほんの少しだけ床が傾いていたりして、
直す目処がたたない状態だから、とのこと。
加えて、いままでは現場に徒歩で行ける距離だったが、
そこはちょっと離れていて車での移動が必須な場所だ。
いろいろとハードルは上がるが、いまのところ他に選択肢がない。
掃除をして、そこにあった布団を使用するので干すついでに、下見に行く。
うーん……大丈夫だろうか。
1年半空いているだけならきっと大丈夫だろう……。
というより背に腹はかえられない。
お盆を目前にした頃、僕らは「大移動」をした。
その時現地に乗り込んでいた僕らのチームは、およそ10人くらい。
実際には、1年半空いていただけというにはずいぶんとラフな状況だった。
しばらく人が使っていない場所というのは、どうも空気が重たい。

ロッヂでの生活がしばらく始まる。

ペンを置けば転がる床で寝ることは、思ったよりも不安定な気持ちだった。
正直キツかったが、皆連日の疲れもピークなせいか、すぐに寝てしまった。

次の日の朝、なぜかいつもよりも早く目が覚めた。
その時、窓に広がっていたのは、

見事な雲海!

いまの大変な状況が一気に報われるような、素晴らしい景色だった。

ここまで長くひとつの所に滞在して活動するということはなかなかない経験で、
短期間の滞在では気づけない日々のわずかな気候の変化や、
この地の風景をさまざまな角度から見ることや、
鳥や虫や、木々や緑の生命力のたくましさや美しさなどを
目の当たりにしていくことで、得難い何かをからだ全体で感じていた。
そしてときどきこんなふうに、
風景はその土地の特別な顔をかいま見せてくれるのだ。

これが別の土地で日々の営みをつくっていくことなのかもしれない。
旅行でも移住でもない、二拠点生活への覚悟の芽生えが出てきていた。

そしてとても好きなのは、カフェがオープンしたことで、
みんなで朝食を山ノ家でとれるようになったこと。

眠そうにしているが、みんなリラックスしているのがわかる。

自分たちの作った空間で、とてもおいしい朝ご飯を食べられるというのは
何とも言えない充実した時間だった。

朝のまかないご飯。自分たちが借りていた畑でとれた野菜や、ご近所の方にいただいた野菜を使って。

すべて出来上がるまで、あともう少し。

失われつつある日本の伝統的な暮らしを高校生がインタビュー。「聞き書き甲子園」

高度経済成長期を境に大きく変わった、日本の暮らし。
森や海、川と共に生きる伝統的な暮らしはいまや
失われつつあります。
豊かな暮らしの知恵や言葉を、未来のために
少しでも残すことができたら。
そんな思いから始まったのが、「聞き書き甲子園」。
夏休みの時期に、毎年全国から100人の高校生が参加。
聞き書き実習の合宿を経て、全国の炭焼き職人、
漁師、海女など、自然と関わるさまざまな職種の"名人"の
言葉を聞いて記録するプロジェクトです。
話し手の語り口でまとめられた文章から、“名人”の人柄や
生き様が浮かび上がってきて、読むものを感動させます。

参加高校生100人が集まるの聞き書き実習の模様。実習は3泊4日で行われ、交流会などもあります。合宿を終え、100人それぞれが一対一の聞き書きへ出向きます。

今回コロカルでは、北海道羅臼町で昆布拾いをする藤本ユリさん
の「聞き書き」を全文掲載します。
ユリさんは毎年夏に知床半島の突端に近い浜、
赤岩にある番屋(詰所)に住み、一人っきりで
自給自足の生活を行い、昆布を拾い続けている漁師さんです。
ユリさんのカッコイイところは、知床の番屋暮らしに
誇りを持っているところ。彼女の生き方は、地域の人たちに
とっても生きる指針となっているんだそう。
「聞き書き甲子園」からもほぼ毎年記者が訪ね、
たくさんの人と交流を続けています。

■拾い昆布漁業、藤本ユリさん

大正15年1月3日生まれ、87歳の藤本ユリさん。

1.自己紹介
藤本ユリ。生年月日は大正15年1月3日、今はもう86歳。職業は漁師。生まれはね、北海道の乙部村、今は乙部町。嫁いだのは函館の古川町。子供が二人、孫が八人の家族だ。
漁師っつっても正しい名前は拾い昆布漁業。9年間旦那と昆布拾いやってたけど、俺が60歳の年に亡くなっちまった。そのあと余所で働いてもよかったんだけど、いろいろ考えて一人でもできる職業だから「いや俺は昆布拾いする」っつって、ずぅっとやってる。

2.俺、わがままな子供だったな
今おっきくなって考えたら、子供のころはわがままだった。勉強は好きでねぇ、というより嫌いだ。好きなわけねぇ、覚えられねぇから。勉強のことはぜんっぜんね、だめだった。ひとっつも書けね。今もだめだけどな。今までかかわってきた人から手紙をもらって、それを読むことはできるんだけど、書くことはまったくだめなんだ。勉強嫌いで好き勝手して、だけどじじばばもいたったからね、だんじだんじに(大事大事に)育ててもらったね。周りがみんな男の子ばっかしだったのよ。俺は女の子だったからね、それこそだんじだんじに育ててもらった。ほんとにどうしようもない、わがままだったな。

3.農家の生まれで昆布拾いに
俺の生まれたとこは農家だけど、嫁に行ったとこが漁師だから、そのときから漁を始めたね。その前にも、豚やってたし、鶏もやったんだけど、豚もだめ鶏もだめ。借金だらけだし…。ほかにもイカ漁、ウニ漁、カニの缶詰工場に勤めたり、なんでもやった。でも売れなかったね。そのときに昆布拾いしたの。一人でできるってのもあってね、羅臼越して向こうの赤岩のほうさ行ってね、昆布拾いやったの。

4.拾い昆布漁業とは
昆布の採り方っつったって、たいていの人は船使うんだわ。船さ乗って、岸からだんだん深いところに向かってね、はさみみたいなやつで挟んでねじって、からめてちぎるんだ。はさみみたいなやつは昆布採り竿っていうんだ。でも赤岩の昆布は意外と浅いところにもあるから、採りやすいんでねぇか。
俺の拾い昆布漁業は、岩に生えてる昆布が、ぐらぐらと波で揺らぐべさ。で、大きな波が来て、今度その岩から離れて押し流されて寄ってくるわけ。波の力でちぎれて、浜に流れ着くんだわ。それを俺が拾って歩くんだ。だから番屋にいて、天気が悪くなって嵐が来て、大きな波が来ても俺はこわがらねぇ。逆にうれしくなるんだわ。次の日に浜へ行ったら昆布が流れてくるから。
ほかの漁師は、みんな昆布採り竿を使った方法だ。拾い昆布やってるのは俺一人しかいねぇもん。いや一応三人いることになってるけど、誰も行がねぇから。昆布拾いってね、道具で採る権利を持ってる人はね、拾い昆布の権利も持ってるけど、拾わねぇ。たまに拾うけど、手間のかかる作業なんだ。原始的っちゅうかな。機械も何も使わないからよ、大変なのよ。だからみんなやらねぇんだ。

5.働き場は「赤岩」
俺の働き場は赤岩ってところだ。赤岩は知床岬の突端にある浜だ。羅臼の港から船で1時間かからないくらいだな。息子か孫に舟漕いでもらって行ってる。
行くときは、3㎞以上離れてるけど隣の番屋の人間が行ったら俺も行ってたな。昔は5月だった。でも今は自分一人じゃ行かれねぇから、送ってくれる周りの人間の都合いいとき。最近は7月ごろになるな。
でももうこれからはずっと6月に行こうと思ってる。早めに行って浜をきれいにするんだ。1年間草をがって(刈って)ないし、流れ着いたごみを拾わねぇと。半年放っておくと浜はやっぱ悪いところも出てくるんだ。それだからやっぱり直したりしねぇど。あんまり遅く行くと浜直せねんだわ。きれいにした昆布を、玉砂利の上で干さなきゃなんねぇのに。余所の浜から拾っても、自分の浜さ持ってくるまでに、ごみとか付いちまう。それじゃ二度手間だ。
それにほかの人より後に行ったら、いい昆布が少ないんだよ。やっぱり昆布は早いうちのほうがいい。ほかの人が採ってから、そのあとに流れて来る昆布って、いいとこ採っだあとの昆布だからね、あんまりいい昆布流れて来ない。どうしても早いうちのほうが、薄いけどいい昆布があるからね。

6.何もない生活、でも住めば都
そこから、電気も水道も電話も何もない生活の始まりだよ。店もねぇ、だんれも(誰も)人っ子一人来ないところだ。したけど住めば都でね、アサリはあるわ、ちっこいカニはいるわ、そんでもってウニはいるし、マスもものすごくいるし、アサリのおつゆ食べて、浜からなんでも採ってくる。ほんとにいいとこだ。
それと赤岩の浜さ来るときに、自分と一緒に舟に乗っけてきた米食べて生活してる。畑も自分で作ったからな。まず赤岩さ着いたら野菜の種まいて育てるんだ。だから野菜とかは買わなくても採れる。それからたくさんの動物が会いに来て、ほんとにいーとこさぁ。友達がいなくても、自然が友達だ。
たまに熊も出るな。熊出て来るったって、熊だって逃げ場なんかねんだからね、おっかねぇったけど、のんきな熊ばっかしだから、あっちの熊は。乙部のほうの熊と違ってさ、そんな逃げねばな、追ってくることってねんだわ。背中向けて逃げるから熊も追ってくる。どうせ走っても負けるし、けんかしても負けるから、ただこっちも棒振り回していんばってれば(威張ってれば)、なんも熊のほうが、なんだあのばばぁ、全然逃げねぇばばぁだなって思うからな、熊も自然にいねぐなる(いなくなる)んだわ。なんぼ熊見でもね、見たら向かって行ってでもいいから、逃げるってことさえしなきゃええんだわ。昔目の前で、連れてきた犬がわんわん鳴いて、俺守ろうとして殺されたこともあったな。やっぱり何もしないでただいんばって、黙って見てるのが一番だわ。

7.あるだけ拾う、ただそれだけ
7月くらいから昆布を拾っていく。服装はかっぱがいっつもの格好だな。濡れなくていい。あと膝まである深い長靴も使ってる。持ち物はそり。拾った昆布をそりさ積んだら、昆布に砂付かねぇべさ。そりがなけりゃ拾った昆布に砂付いたり、浜にごみあったらごみ付いたりする。そりだけ持って歩けばどこでも行ける。あとは杖だな。昔拾った細いけど丈夫な木の棒があるから、その杖をついて歩いてる。
1日にこれだけ拾わなきゃならねぇとかは決めてない。あるだけ拾う。だから日によって採る量は変わる。落ちてるだけ拾う。8月が拾いどきだわ。昔なかなか売れない時期があってね、あっちゃ行ってこっちゃ行ってね、1日1杯(20㎏)で、1杯拾えば7500円、7500円、犬も歩けば棒に当たるって言いながら拾ったの。

8.潮水でゆらゆらと、洗うんだ
拾った昆布は、まず汚いところとか、砂が付いてるところがあったら洗うんだ。でも雨水とか水道水はだめだ。昆布が赤くなって見た目が悪くなる。やっぱいい昆布ってのは真っ青な昆布なのさ。だから潮水で洗う。潮水なら色は悪くならねぇ。浜辺で昆布持ってゆらゆら動かすんだ。そしたら自然と砂もごみも取れる。
きれいになったら次は、昆布をぐるぐる巻いて、伸ばして、落ちてる石をおもりとして使って、しわを伸ばしていくんだ。それを何度も何度も繰り返す。まっすぐなのがいい昆布だ。

9.昆布干すのは、簡単にはいかねぇ
しわがきれいに伸びたら、今度は干すんだ。天気のいい日は2日で乾くんだけど、どうしても3日干さないと、しっかり乾かない。俺が安心するためっちゅうのもあるね。
でも、干すのもそんな簡単にはいかねぇんだ。海辺の太陽にさらして、玉砂利の上に置いて干すから、その途中でもちろん雨が降ることもある。そしたらもうその昆布はだめだ。ずーっと濡れてると色が悪くなる。茶色くなって臭くなるんだわ。それじゃあもう売りには出せん。逆にいい昆布でも干しすぎたらだめなんだわ。ばりばりになって折れたら、せっかくの大きくて色のいい昆布でも、高くは売れなくなっちまう。
余所の人だら、乾燥機持ってるからね。乾燥機でみんな干してるから、天気なんて関係ねぇ。拾い昆布漁業は乾燥機だめだってか、付けられねぇっていうから。それに乾燥機でやるっつったらうづ(家)から赤岩まで持ってくるのが大変だ。だから俺は玉砂利の上置いて、3日間太陽に当てるしかねぇ。乾燥機のある人は、すぐ乾燥機さ入れるべさ。俺拾うのも一人、磯上げるったって一人、干すときだって一人だから。今日天気良くたって次の日天気悪いばね、全部だめになるんだわ。したけどね、たくさん干して手一杯のときでもね、見たら拾わねぇでもいられないんだよね。だって落ちてるから拾いたくなるもの。
干してる途中に雨に当たるのは悪いけど、拾ってるときに雨に当たるのはまだ大丈夫なんだわ。だから天気の悪いときは、拾ったらすぐ海の中に漬けておく。漬けておけば潮水の中だから腐らないの。したけどね、雨水だったら、すぐだめになるの。拾って、洗って、伸ばして、乾燥させて、まっすぐにしてやっと売りに出せるようになるけど、乾燥させるのが俺にとっちゃ一番大変だわ。

10.最近は、つらいね…
何がつらいかって? もちろん乾燥中の天気も嫌だけど、売れないことが一番つらいね。この頃は羅臼に昆布は余ってるから、俺のはなかなか売れねぇんだ。こればっかりはどうしようもね。もちろんいい昆布は売れていくけど、悪い昆布は残っていく。検査員が来てこれはだめ、あれもだめって言われると、悲しくなるね。根っこは食えねぇから、細かく切って薬になったりする。だから一応は売れる。あんまりいい昆布じゃないからって、まさかひとっつも売らないってことはできないと思う。お土産にでもして売れやって言われても、いやだなんて言うだけの昆布でもないと思うわけ。いっぱいあるからね、2本か3本の昆布だったらお土産にするっちゅうこともあるんだけどね、何千の昆布だもの。諦め切れねぇわ。

11.赤岩を離れるのが、何より寂しい
昔は 10 月の前半までいたんだけどね、今は迎えに来る息子や孫たちが俺のこと心配だっていうんで、早くて9月後半ぐらいに帰るな。帰るときは俺ずっと赤岩を見てしまうよ。離れるのが寂しい。俺な、赤岩さ行くたんび(度)に思う。あそこにいると、あー、俺は生きているんだなぁって実感するんだわ。大自然の中で、一から十まで全部一人で生活してるとね、ひとつひとっつのことするたんびにほんとにそう思うんだ。
今まで昆布ばっかし何百枚も拾ってきたんだよ。したからね、悪い昆布を拾ってもなんとなく愛着がわくんだわ。俺、拾うのも一人、磯上げるったって一人、干すときだって一人。確かに昔は寂しい時もあった。夜になれば暗いから、一人でランプの灯つける。昼間になれば、拾った昆布は1日で乾くわけでねから、干したり拾ったり干したり拾ったりする。
まぁ、寂しかったときもあった。でももうそれは通り越したよ。黙々と作業してたら気にしなくなるもんさ。楽しくなってくる。赤岩にいると生きてることを実感するから、そこを離れて、うづ(家)に帰るほうが寂しくなるときもあるね。

12.やるよ、赤岩で、90 歳まで
俺は 90 歳まで赤岩さ行く。つっても 90 過ぎたら行かない。90 まで昆布拾いして、90 から 100 まで生ぎるから、あどの 10年間はうづにいで、ゆっくり生きる。あんまり人の世話にならないで、目立たないで、暮らしていく。それがこれからの目標だ。
90 過ぎたら、きっと昔のことも家族のことも、なんもかんも忘れてくと思うからね、そこまで頑張るんだ。どんなに元気でも、90 過ぎたら赤岩さ行かねぇってもう決めたんだ。だって舟乗るときも大変、降りるときも大変で、もう一人じゃどうしようもできねぇもん。二人も三人も息子や孫たちに後ろに付いてもらってようやく舟さ乗る。波があるとこならね、舟がぐらぐらぐらぐら動いてね、なかなかいい具合にすぐ足かけて降りるってことできねぇから。したら何べんも家族から、来年から行かねぇ方がいいかべって言われるけど、俺は来年だって行くっ!つって…。赤岩さ来るたんびに(度に)来年の話してる。自分では何もどこも悪くないと思ってるけど、だんれもいねぇ赤岩さいるのはやっぱりよくないっちゅうからねぇ…。羅臼のほうの人たちも心配だって言うからねぇ…。だから、90 で終わり。跡取りとかも作るつもりはねぇ。息子は息子で違う漁してるからな。だんれもいないよ。もう俺で終わりだ。
前にね、番屋の屋根が穴空いてたり、五右衛門風呂の調子が悪くなったことあったんだわ。そいで迎えに来た息子たちに直してもらったんだ。もう赤岩さ行くのやめろやめろって言われてるけど、直されちゃあまた来年も来たくなるべさ。俺笑っちゃったね。
でも、90 まで赤岩さ行って昆布拾い続けたらもう俺は満足だ。もう決めたからな。それを達成できたら十分だ。あとはみんなに迷惑かけずに、100 までゆっくりするわ。

取材日:2012年10月27日、11月17日

【取材した高校生】
逢坂 理子(藤女子高等学校2年当時)
取材の感想:
昆布にはこんな採り方があるのか、というのが、名人のプロフィールを見たときの初めの感想でした。取材の時期と仕事をなさっている時期が合わず、実際に仕事をなさっている姿や、仕事の道具を拝見できなかったことは非常に残念でした。漁師、という全く関わったことない職種の方とお話しすることとなり、初めは右も左もわからないことばかりでしたが、お話を聞いていくうちに、ユリさんが本当に赤岩での生活に誇りを持っていることが、話だけでも伝わってきました。それをまとめるのは骨が折れる作業ではありました。
しかし、同時に聞き書きはとても楽しかったです。「聞き書き甲子園」という機会は、ユリさんという人間と、インタビューという単なる質問で接するだけではなく、対話をしていくことで、藤本ユリさんという「人格」に引き込まれていくうれしさを実感し、大変心を動かされました。日常で自然と口に入って来るもの、目にするものは、すべてたくさんの物語があり、大切に手を加えられているんだと、深く考えるようになりました。これまでの人生になかった、素晴らしい経験でした。

「聞き書き甲子園」のことは、映画にもなっています。
高校生への指導は聞き書き甲子園卒業生の
大学生が行うのだそうで、このプログラムで
一生の仲間との出会いが生まれていると、
運営する「NPO法人共存の森ネットワーク」副理事長の
工藤大貴さんは語ります。
今年はどんなドラマが生まれるのでしょうか?

聞き書き甲子園
聞き書き甲子園facebook

冒頭写真:奥田高文

原料から育てる五箇山和紙とのコラボレーション 後編

五箇山和紙を使った商品開発ストーリー。

リバース・プロジェクトが富山県南砺市の伝統産業である五箇山和紙の素晴らしさを
若い世代にも広めていくために、3つの工房と組んで商品を生み出した。

ひとつは東中江和紙加工生産組合の組合長、
宮本友信さんの「悠久紙」を使った和紙ハット。

「使うほどに白くなるという話を聞いて、
陽の光をあびる商品をつくれば、特徴を活かせると思いました。
しかも日常的に使うものということでハットを思いつきました」と語るのは、
プロダクトデザインを担当したリバース・プロジェクトのデザイナー、加藤弥生さん。

おそろいのハットできめた宮本友信さんと加藤弥生さん。

使い込むと、白くなり、レザーのような質感にもなってくるから不思議だ。黒とピンクの2色展開。

もうひとつは「五箇山和紙の里」の石本 泉(せん)さんと共作した
エッセンシャルオイル和紙。
これを考えついたきっかけは、南砺市特有の土徳の文化が背景にある。
加藤さんは言う。

「大福寺の太田浩史住職に、
”人間を人間たらしめているのは、祈りの時間があるから。
生活のなかで、自分の心に向き合う時間や空間がないとつかれてしまう”という、
南砺に息づく”土徳”の話を聞きました。
現代でそういう時間や空間は何かな? と考えたときに、
女性なら、お風呂やスパ、エステなどで
同じような効果を得ているのではないかと思ったんです」

こうしたアイデアから生まれたのが、こんなにかわいい製品。
花びらモチーフの五箇山和紙に、
ティーツリーのエッセンシャルオイルを垂らして使う。
クローゼットやバッグの中、枕元などに置いてもいいが、
お風呂に浮かべるのがおすすめの使い方。
水と紙というギャップのある組み合わせがおもしろい。

贈り物にも最適なエッセンシャルオイル和紙。

このカラフルな和紙は、再生和紙からできている。
障子紙をつくる際に切り落とした耳の部分をもう一度煮て、再生和紙にしている。
これには色がつけたあった。

「その色が淡くて、かわいくて。
五箇山の山奥にこんなかわいい紙が並んでいる!(笑)」と、
女性目線を発揮した加藤さん。

加藤さんの感性に共感し、
こんなにも現代的かつポップなプロダクトとして応えられたのは、
石本さんという理解者がいたからかもしれない。
石本さんは美術大学出身で、東京から五箇山へ移住し、和紙づくりに携わっている。
昨年、独自のブランド「FIVE」をデザイナーのminnaと協力して立ち上げた。
カードケース、ブックカバー、メモロール、コースターなど、
発色のいいカラーリングが目を惹くプロダクトだ。
和紙のイメージからかなり飛躍している。
都会的な感性をもって、商品づくりに取り組んでいる。

五箇山の和紙製品を発信する石本泉さん。そのフィールドはすでに世界へと広がっている。

そもそも美術大学時代に和紙に興味を持ち、学生時代に何度か五箇山を訪れ、
勉強していた。大学を卒業後すぐに五箇山に移住し6年が経つ。
ほかにも和紙の産地はいくつかあるが、五箇山が気に入った理由をこう話す。

「五箇山は原料からつくっているんです。そんな畑仕事にも惹かれました。
土いじりは落ち着くし、おもしろい。
木から紙になっていく、その工程すべてに携われる」と石本さんがいうように、
その作業や1年のライフサイクルは、ほとんど農家のようなもの。

原料の楮を春から栽培し始め、草取りなど毎日のように手をかけて育て、
秋に収穫する。現在では通年で紙すきは行われているが、
かつては冬にしか行われないものだった。

“すき舟”ですく作業を見せてくれた「五箇山和紙の里」館長の東 秀幸さん。ここでは紙すきができる伝統工芸士は3人。

五箇山の和紙職人は、みんな原料から育てている。
しかし、楮が無駄に残っている現状もあった。
商品が売れなくては、せっかくつくっても意味がないし、
次代に残っていかない。
石本さんは、プロダクトを使って広く市場に呼びかける役割を積極的に担う。

五箇山和紙の、伝統と革新。
若いクリエイターが積極的に動ける雰囲気づくりをしたり、
リバース・プロジェクトと共同で現代にフィットする商品を生みだせば、
どんどん全国、全世界へと広まっていくはずである。

リバースプロジェクトが手がけたもうひとつの商品がこの「五箇山和紙粘土 デコレーションキャット」。真っ白のものを自由に塗ることができる。(写真は伝統工芸士の前崎真也さんほかクリエイターが絵付けした作品)

information


map

五箇山和紙の里

住所 富山県南砺市東中江215
TEL 0763-66-2223
http://gokayama-washinosato.com/

REBIRTH PROJECT Online Shop

「NANTO CITY × REBIRTH PROJECT」
http://shop.rebirth-project.jp/user_data/special/no025/index.php

勝ち残るのは誰だ!!埼玉のゆるキャラが相撲で頂上決戦「ゆる玉☆バトル」

全国各地で誕生するゆるキャラたち。
埼玉県にはゆかりのゆるキャラが
なんと104体いるそうです。
埼玉県を代表する「コバトン」や
テレ玉のマスコットキャラクター「テレ玉くん」、
深谷市の「ふっかちゃん」ら、
メジャーなキャラクターのほかにも
たくさんのキャラクターたちがひしめいています。

そんなキャラクターたちが、埼玉県のPRのために
大集結!!彼らの相撲対決「ゆる玉☆バトル」の映像を、
埼玉県の公式動画配信サイト「サイタマどうが」や
YouTubeにて公開しました。
監督は映像ディレクターの山本遊子さん。

内容は、かわいらしいキャラクターたちが、
のんびり相撲をとっている、
なんとも和む映像たち。
ゆるいキャラたちのゆるいバトルですが、
広く立派なスタジオで、きちんとしたカメラワークで
作られているのがなんだかツボにはまります。

ガチです

サイタマどうがではほかにも
埼玉出身のミュージシャン、ユザーンさんが出演する「DA☆SAITAMA」など
さいたまをPRする映像を精力的に配信中。
ぜひチェックしてみてください。

サイタマどうが
埼玉県YouTube公式アカウント「サイタマどうが」
ゆる玉応援団

MAD City vol.7: 頭の中のモヤモヤを整理整頓。 住みたい空間を叶える、 建築家・森さんのDIY

MAD City vol.7
既存の間取りを自在に変化させ、最大限の居心地を。

MAD Cityでは、まちの中で使われていなかった物件を
地域のオーナーさまから借り上げては、改装可能などの条件を加えて、
アトリエや工房、住居、イベントスペースなどとして入居者に提供しています。
入居者は、各自のセンスと技術で、物件に手を加えていきますが、
そんなDIY作業を助けてくれるのが、
MAD Cityの入居者たる多くのアーティストやクリエイターです。
今回は、そんなアーティストのひとり・森 純平さんを紹介します。
彼はMAD Cityが運営する「旧・原田米店」でアトリエを借りる入居者です。

森さんは東京藝術大学の建築科を卒業した、今年30歳の若き建築家。
アーティストとしても、舞台美術や展覧会、コンサートなど幅広い作品を手がけています。

森さんです! ちなみに、最初に彼がMAD Cityを気に入ってくれた理由は、「『マッドシティ』という名前が攻めているから」だったとか。

森さんがMAD Cityに関わり始めてくれたのは、4年ぐらい前から。
MAD Cityのスタッフが、たまたま森さんの大学の同級生だったことから、
2010年の「松戸アートラインプロジェクト」という
地域アートプロジェクト(現「暮らしの芸術都市」)に協力してくれたのがきっかけでした。

森さんが初めて松戸に関わったイベントの様子。松戸駅のデッキを会場に音楽ライブの舞台をつくってくれました。

もともと東京・北千住や横浜・黄金町などのまちづくりにも携わっていた森さんは、
既存の建物をどう生かすかという視点を常に持っています。
そして、彼はとっても「掃除」がうまいんです。
もちろんこれは、別にお客さんの家の掃除をするわけではありません。

「とりあえず、一部屋だけリノベをしてみたい」
「やり方はわからないけど、DIYしたい」
「でも、なにをしていいかわからない」

という人が結構います。実際、リノベ初心者の人の場合、
仮に自分が「こういうDIYしたい!」という明確な意志を持っていても、
やりたいことが多すぎて予算オーバーになってしまったり、
いざやってみると後に「あれ、本当にこれがやりたかったんだっけ?」
「本当にこれで使いやすいんだろうか」などと疑問を持つことが多いのです。

そんなお客さんにヒアリングして、相手がモヤモヤと抱いているイメージから、
余計なものをどんどん削り落としていく。
そして「その人が本当にその物件を通じて求めているもの」を浮き彫りにしていき、
お客さんと一緒に建物をDIYしていくんです。

お客さんにとって必要ないと判断したものは、
森さんはカウンセリングの最中にバッサバッサとそぎ落としていきます。
だから、森さんが手がけるリノベは、
お客さんが当初考えていたものとはまったく違うかたちになることも多々あります。

たとえば、当初は部屋に壁をつくって間仕切りする予定だった家も、
結局つくり付けの家具を置くだけにして、
家具を移動させるだけで簡単に部屋の広さを変えられるようにしたり。
部屋の狭さに悩んでいる人には、床を張り替えたり、
壁を抜いてみるだけで、ぐっと部屋を広く見せたり。

住まい手にとって必要でないことは、仮に頼まれても絶対にやらない。
「その人が本当に必要としている住まい」
「10年後、30年後でもその人にとって暮らしやすい部屋」を
本質的に追求していこうとする森さんの作業を、
僕らが「掃除」と呼ぶようになったんです。

現在が森さんがアトリエとして使う「旧・原田米店」にて。

通常のマンションだと「基本の間取りにはあまり手を加えられない」
と思ってしまいがちなんですが、
森さんはいまある設計が相手のニーズにそぐわなければ、
天井も抜くし、壁も壊す。柱も切るし、床もバンバン張り替える。
その思い切りのよさ、かなり豪快です。

MAD Cityにもいろんなクリエイターさんが関わってくれていますが、
間取りなどの既にある条件を、ここまで躊躇なく気にしないのは、
おそらく森さんくらいでしょう。
でも、裏を返せばそれは、多少の無理をしてでも
最大限「使う人のニーズ」を考えてくれている証拠なんです。

森さんの最近のリノベ。研究者である依頼主と一緒に考えた結果、蔵書のための本棚をつくり付ける、依頼主の父親が使っていた製図板をテーブルにする、といった展開に。

ちなみに、MAD Cityの現在の事務所の改装を手がけてくれたのも森さんです。
ただ、僕らが現在の事務所を決めたとき、
「今後MAD Cityがなにをしていくのか」「僕らにどんな場所が必要なのか」は
まだ、試行錯誤の状態でした。
不動産屋でもあるけれども、コミュニティとしての活用ができる場でもあってほしい。
そんな場所をどうつくったらいいか、簡単に答えが出そうにない。
モヤモヤとずっと考え続けているなか、タイムリミットはどんどん迫ってくる。
そして、数回にも渡るヒアリングの末、
そんな僕らの想いを汲み取って森さんがつくってくれたのが、
真っ白なキャンバスのような壁がある、とてもシンプルなオフィスでした。

「まだまだ、MAD Cityにはいろんな可能性があるから。
最初はあまりお金をかけず、後々加工しやすいもののほうが
使いやすいんじゃないかと思って。これだけシンプルなら、
いくらでも後から手を加えていけるから」(森さん)。

そんなわけでMAD Cityの事務所は森さんに相談しながら、
オープンしたあとも、ちょっとずつ変わっています。
日々のアイデアで、新しい機能を付け加えていくといった感じですが、
そうやっていじり続けるのがDIYの本質だなと思います。
それを助けてくれているのが森さんというわけです。

MAD Cityの事務所「MAD City Gallery」。最近では、入居者の料理人たちの「料理のレシピ」を配布するコーナーができたりと、ちょっとずつ進化しています。

森さんは現在、MAD Cityが管理する「旧・原田米店」内にアトリエを構え、
使いながら、いろいろと改修中です。
旧・原田米店は、全体の敷地が400坪近い、広い日本家屋群を
アーティストたちがシェアアトリエとしている建物ですが、
まだまだ改修の余地があります。
ここから森さんは、僕らと一緒にいろんなプロジェクトに関わってくれています。
得意の森さんの“掃除”は、建物と入居者だけでなく
裏庭をどう活用しようかというアイデアなど、
まちと人とのつながりにも射程が広がっています。

現在は主に「作業場」として使用されている「旧・原田米店」ですが、場合によってはギャラリーやイベントスペースとしての使用も検討中。

アトリエなので、いろんな用具がぎっしり!

「地域のなかで人の流れを生み出す場をつくり、
建築がまちへと作用するような動きを見たい」
と考える森さんは、この旧・原田米店を
「家を増築して、もっとアトリエスペースを広くしてみんなが使えるように」
「広い庭に東屋をつくって地域住民が使える憩いの場に」など、
いろいろな構想を準備しているようです。

「MAD Cityは古くからの松戸市地元民とは結びつきはあるけれども、
マンションに住んでいるような
新しくこの土地に来た人たちとの接点があまりないんですよね。
旧・原田米店が、もっといろんな人が共有で使える場になってくれたらいいなぁ」
と森さん。

アトリエの裏側も昔ながらの日本家屋。屋根はまだ張られていませんが、東屋が少しずつつくられている様子、わかるでしょうか。これも森さんの活動です。

さまざまなネットワークをつなぎながら、
都会のような田舎のような、松戸での暮らしを楽しむMAD CityのDIY。

僕らはもっとDIYが日常的になって、
分譲マンションのお部屋がどれも超個性的になってしまう、
そんな状況が生まれたりしてほしいなと思います。
部屋をリノベしたいけどどうしよう……といった依頼者が気軽に相談できる、
森さんのような建築家がどんなことを仕掛けてくれるのか。
これからが楽しみです。

旧・原田米店で森さんがいじっているスペースのリニューアルは
もみじが色づき始める10月頃の予定とのこと。
さてさて、どんな空間に変身しているのでしょうか。
気になる人はぜひ見に来てください。

information


map

MAD City(株式会社まちづクリエイティブ)

住所 千葉県松戸市本町6-8
電話 047-710-5861
http://madcity.jp/

石川のいいもの、おいしいもの100店舗!今年も「乙女の金沢 春ららら市 2014」実況中!

コロカルではもうお馴染み!
石川県で活動する若手作家さんたちが一堂に会し、
お話しながら直接作品を買える
マーケット「乙女の金沢 春ららら市」が今年も本日と明日にわたって
開催されます。
場所は石川県金沢市の金沢21世紀美術館の向かい、
「しいのき迎賓館横 広坂緑地」にて。
ずらり並んだテントの中に、約100のお店が集まります。

マーケットに並ぶのは、
器、ガラス、かばん、靴、パン、お菓子、古本…
石川生まれのかわいいものやおいしいものばかり。
石川県に根付く伝統工芸を
若手作家が現代的にアレンジした作品や、
フードでは加賀棒茶、糀のディップソース、薬草ドーナツもあります。

お買い物のほかにも、
KUTANI SEAL WORKSHOP(九谷焼シール貼り)
九谷ネイル(九谷焼絵柄ネイル)
美容研究所(マッサージ&メイク)
などのワークショップや
シネモンドによる、
1963年から1970年のソ連時代のロシアアニメを
上映(有料)する催しなど盛りだくさん。

コロカルでは、こちらのページで
当日の模様をTwitter経由で実況中継しています!
会場の楽しい様子が伝わってくる、リアルタイム更新を
お楽しみ下さい!

乙女の金沢 春ららら市 2014 イベント実況「ツイートでららら」

原料から育てる五箇山和紙とのコラボレーション 前編

加賀藩に献上していた五箇山和紙の伝統技術。

リバース・プロジェクトと富山県南砺市の取り組みとして、
和紙を生かした、新しいプロダクトを生み出している。

五箇山で和紙の生産がいつから始まったのかは定かではないが、
江戸時代初期に加賀藩に献上されていたという記録が残っている。
伝統的な紙すき技法を守り、現在まで脈々と受け継がれてきたが、やはり後継者不足は深刻。
一時は五箇山に1500軒以上あった紙すき業者も、現在ではたった3軒になってしまった。

「うちの『悠久紙』は文化財の修復に使われています。
少なくとも500年もつ耐久性があることが原則です」と話すのは、
東中江和紙加工生産組合の組合長、宮本友信さん。
桂離宮や名古屋城などの修復に使われているという。

五箇山和紙は楮(こうぞ)という木が原料。
その楮100%の「悠久紙」は、光が当たるほどに白くなる。
家庭の障子に使ったならば何十年も張り替えなくてよいくらいだ。
染料や色を白くする薬品などは一切使用しない。
紙を白くするには”雪さらし”という手法を用いる。雪国ならではの知恵だ。

通常のパルプ入りの紙でも、直した当初は一見わからないが、
時間とともに黄ばんでくるので文化財の修復には使えない。

雪の上に1週間ほどさらすと色素が抜け、自然の漂白効果がある。また、繊維が緊密にもなる。

トロロアオイの根をつぶした粘性のある汁が和紙のつなぎとなる。

手間のかかる作業をあえて行う。

五箇山和紙の特徴としては、原料の楮を自分たちで育てていることだ。
ほかの産地では原料から育てているところは少ない。
「原料をほかから買うのなら、わたしは和紙づくりをしません」と宮本さんはいう。
もちろん手間はかかるのだが、
”よい原料があってこそ、よい紙ができる”という原理原則にこだわることに意味がある。

さらに、楮の皮を煮沸してアク抜きをする際、
苛性ソーダで煮れば、楮の皮からちりを取る作業もラクになるのだが、
繊維が弱くなるので、宮本さんはソーダ灰で煮ている。
だから手作業でちりを取る作業も発生する。

皮の1本1本から、ちりやゴミを手で取り除く”ちり取り”という作業。大ベテランです。

原料から育て、化学的な薬品には一切頼らない。
そんな手間がかかる五箇山和紙だが、
最近では学生のインターンシップを積極的に受け入れ始めた。
長くて数か月、住み込みで和紙づくりを手伝う。
これらの体験を通して伝統技術を次代に引き継いでいければいいが、
そう簡単に、和紙づくりを生業にする若者が出てくるわけでもない。
しかし少しでも五箇山和紙の素晴らしさを伝えていきたいという思い。

宮本さんの家に残っていた、
先代が使っていたという帳簿をいくつか見せてもらった。
楮100%でつくられた手すき和紙を綴じた帳簿は、
”大正”と明記してあるので約100年前のものだ。
紙自体ボロボロになることなく、きっちりと形状を留めているし、文字も薄くなっていない。

デジタルの記憶媒体が100年後にどうなっているかわからないが、
少なくとも五箇山和紙は100年以上もつことが、まさに形として実証されている。

重要なことは紙に残しておきたい気持ちになってくる。
これだけの手間ひまをかけているからこそ、悠久なる和紙となるのだろう。

後編では実際にリバース・プロジェクトとコラボした商品を紹介する。

宮本さんのお父さんが村の収入役だったことで残っていた帳簿類。十分に白さを保っている。

地元の自慢の観光体験を簡単に購入&販売できるWebサービス「TRIP」

旅行で訪れる人にはなかなか知られる機会がない、
地元の人だけが知っている、面白いこと。
日本各地にたくさんある、そんなワクワクするような体験を
簡単な手続きで購入&販売できるWebサイト「TRIP
がオープンしました。

サイトに並ぶ体験プログラムは、
静岡県南伊豆町の「仔山羊にミルクをあげて、薪を割ろう!
三重県鳥羽市相差の「海女小屋でいただく絶品海の幸
など、全国各地から集まったプログラム。見ているだけでも面白いです。

気になる体験を見つけたら購入&体験できるだけでなく、
地元の自慢のコンテンツを売ることが
できるのがTRIPの新しいところ。
これまで全国各地に埋もれていた地域の魅力や
資源が発掘されるといいですね。

・観光商品の売買プラットフォーム「TRIP

ビルススタジオ vol.07: 第6回リノベーションスクール @北九州レポート

ビルススタジオ vol.07
4日間で考える、まちの再生事業プラン。

一般社団法人リノベーションまちづくりセンターが運営している
リノベーションスクール」というイベントに招かれ、
3月20日〜23日に北九州市に行ってきました。
今回で第6回目となるこのスクール、丸4日に渡る合宿です。
コースも複数あり、参加者は、建築、行政関係者、学生などさまざま。
各コースごとにリノベーション課題が出され、
参加したメンバーがチームで事業を考えます。
ユニットマスター(以下、UM)はそのサポートをする、というのが基本姿勢です。
私は事業計画コースのUMとして初参加してきました。

まずは初日。私の入るユニットAは
もうひとりのUM、初対面の「木賃デベロップメント」の内山 章さんと
これまた初対面の8人のユニットメンバーで構成されていました。
年齢も属性もさまざま。もちろん年上のメンバーもいます。
計8つあるユニットにそれぞれ小倉市街などの空き物件がひとつあてがわれ、
事業計画コースでは、
「チームみんなで物件を舞台に事業をつくりだす」という課題が出されました。

まずはともあれ、現地調査。
会場から徒歩10分程度にある古くからの住宅街。
高層マンションがそびえる街区を入り込んでいくと、
なかなか味わい深い木造のひしめくエリアになってきました。
その中に佇む、築40年ほどのフロ無しアパートが当ユニットの案件です。
さて、ここの再生かぁ。

雨の中をユニットメンバーで移動。初めてのまちを見ながら話が弾みます。

オーナーさんに聞くと、8戸中6戸は入居中。
フロ無しなのに、この入居率はだいぶ優秀。
家賃は近所の相場からすると、激安。
そして隣に住むオーナーさんも特別困ってはいない。
なんだ、特段仕掛ける必要ないんじゃないか。

……と、窓から目の前の公園を眺めながらぼんやり考えていました。
んっ? ここ気持ちいいじゃん。
2階の低い窓辺に座り、公園で花いじりをしているおばあちゃんや親子連れや、
春には桜の木が広がる景色を眺める。
そんなことを想像しながら物件を後にしました。

2階窓からの眺め。花いっぱい、そしてタコ(スベリ台)。

ひとまず会場に帰り、ミーティング。
初日である今日は、「ここで何をするか」を決めなくてはなりません。
メンバーにて途中で見た近隣の様子、
オーナーさんへのヒアリング内容などを交換し、
何をするべきかを話し合います。
2時間後には進行具合を確認するためのショートプレゼンが待っているので。
そこでプロジェクトの指針が決まってしまいます。
時間制約のあるなかで「ああしたい」「こうしたい」と意見が飛び交い、
緊張感のあるブレインストーミングでなかなか見せどころがあった
……といいたいところでしたが、
初対面同志の遠慮からか、現状分析はできるもののアイデアはなかなか飛び交わない。
雨の日だったこともあり、
現地調査の印象が若干ネガティブだったのも影響していた感じでした。
ただ、なんとなくメンバーに共通していたのは、
物件はともかく目の前の公園は気持ちよさそうだ、ということ。
じゃあ、今日はそれをプレゼンにて伝えるまでにしよう。
で、打ち解けるために飲みに行こう。
そういえば皆の年齢も趣味も得意技もまだぜんぜんわからない。
その辺をUMとして理解しつつ、プレゼンに向けて作戦を立てていこう。

いや、なかなか大変な役を受けてしまったな……と思いましたが
楽しい時間だったのでよしとしました。

初日のミーティングの様子。UMは意見を待ちます……。

そして2日目は晴れわたる空のもと、エリア調査。
メンバーが手分けしてエリア内を歩き回り、空家空地を探してまわりました。
合間に、再度オーナーさんに。公園の縁側でヒアリング。
気持ちのいい日だったこともあり、多くのことを話してもらえました。
持ち帰り、ミーティング。
2日目のショートプレゼンは「そのプロジェトをどう進めるか」の段階になります。
昨日の飲み会、今日の調査(散歩)のおかげもあり、
今回は意見が飛び交いました。
しかし議論はあっちこっちに飛散……。
いまだに「何をやるか」の前段階の話でもちきりです。
でもどう聞いても、公園から離れては戻り、また離れて離れて、そして戻り。
うん、これ以上放っておくと、
このまま公園のまわりをぐるぐるぐるぐるまわり続けそうだ。
よし、今日はここで一気に案を集約して
明日からは最終プレゼンの作業に入りながら
細かいところを都度都度、具体的に決められればなんとかなるだろう。
ということでメンバーを残し、栃木から仲間も来ていることもあり、
フグを食べにいきました。

しかし、そこでの話でちと反省が。
この合宿に参加しているメンバーは皆受講料を払って何かを身につけに来ているのに
それぞれ本当に自分のやりたいと思うアイデアを出しているのか?
たぶん現状は違って、
きれいに進む方法が既にある案に流れていると感じました。

3日目、朝いちでそのことを個々に話してもらいました。
少々意見は分かれ、衝突もあったものの、各自のやりたいことや言いたいこと、
現時点で理解していることなどを共有できたと思います。
じゃああとはとにかく最終プレゼンに向けた作業。
並行してプレゼン自体の練習も行われます。
隣のユニットは1日以上前にそれを見据えて進めています。
当然、作業は最終日の朝まで続きました。
見回すと8ユニット全て、朝までやっています。

事業計画コースの全メンバーがここで作業を行っています。温度はユニットごとにさまざま。

最終日。いよいよ最終プレゼンです。
説明担当に晴れて選ばれたひとり、(株)ワークスープの古川弥生さんは緊張のせいで様子がおかしい。
今日はオーナーさんをキュンとさせなくてはいけないのに
このテンションは非常にまずい。
よし、酒買ってこい! と、発表1時間前(正午)に決意したところ、
早速コンビニに行きましたが、まさかの飲みながら走って帰ってくる始末。

しかし、見事プレゼンは成功。
会場を見ると、涙を流すメンバーもいました。
「一緒にやりましょう」と声を掛けてくださる地元の方も現れ、
ここからがスタートだという自覚も促されました。

最終プレゼンテーションの様子。アドバイザーだけでなく、物件のオーナーさんたちも聞きにきてくれています。

そして宇都宮への帰り道。
自分のユニットで出したプロジェクトがどうすれば動き出すのかを考えながら
この怒濤の4日間を振り返りました。
他のユニットも非常にいいアイデアで事業性にあふれた案を展開。
すぐにでも進められそうなプロジェクトも、
課題はあれどもまちが大きく動き出すことになりそうなプロジェクトもあり、
しかもそれらが4日間で生み出せてしまう。
なんか皆すごいな、と純粋に感動していました。

地元、外部を問わず、ひとつの場所や地域について
真剣に向き合い、議論し、「かたち」そして「お金」にすることを考える。
自分はというと、日常は目の前にある仕事に追われ、
なかなか新たにこういう時間を設けることができなくなってきている。
そして新たにそんな仲間に出会う機会も持てなくなってきている。

いかんな、という思いとともに
いや、自分が日常動いている仕事も、
それぞれひとつの場所をお客さんや関係者と一緒につくり上げる行為。
その積み重ねと伝播が自分の目の前にあるまちを間違いなく良い方向に変えている。
おこがましくもそんな確信も生まれました。
私の人生の今の段階にとって非常にタイムリーな体験をさせてもらえました。
なによりもプロジェクトの舞台となる物件のオーナーさんや行政、
そして地域の方々などへどうなるかもわからないのに協力をお願いし、
しかも全国のUMを集めてまわり、それを商店街のお祭りにまでしてしまう、
「北九州家守舎(やもりしゃ)」の皆さんに脱帽でした。

でも、一番は、小倉の食べものがおいしかったです。
それだけでまた行く理由になりますよね。

最終プレゼンテーション後の集合写真。解放感!!

information


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ビルススタジオ

住所 栃木県宇都宮市西2-2-24
電話 028-636-5136

古民家の中にテント!直島のユニークな島小屋で映画やワークショップ「島小屋パラダイス!」

瀬戸内海に浮かぶ香川県・直島の「島小屋」で
映画やワークショップ、選りすぐりの音楽や本、
それに、おいしい食べ物まで楽しめる
マーケット「島小屋パラダイス!」が
5月4日 (日)、5月5日(月・祝)に開催されます。

「島小屋」とは、現代アートで有名な直島のもう一つの側面、
住んでる人にとっては日常の「素のまま」を体験してもらおうと
築120年の日本家屋をリノベーションし
テントを張れるようにした"ねどこ"のこと。

日本家屋の中にテントをはっていきます。不思議な光景ですね(利用料は一人2500円。二人4000円)

"ねどこ"と言っても、ほかには特に何もありません。
食べる所は徒歩2分のカフェへ、
お風呂に入りたければ自転車で20分もしくはバスに乗って銭湯へ。(どちらも名物!)
あるものは明かり、テント、トイレなど必要最低限のもの、
そして就寝時に流れる癒しの音楽や自然の穏やかさ。
たったそれだけでも、ここに訪れた人たちはみんな笑顔です。

みんな笑顔!

ほっと一息つける空間。島の方との触れ合いや出会いも。

今回はそんな島小屋での初のイベント。
旅人も島の人たちも、一緒に楽しめるようにと
内容は盛りだくさん!
みんなでわいわい賑やかな2日間になりそうです。

写真上:直島でみた形や色を塗ったり描いたり、思い思いのモビールを尾柳佳枝のワークショップ。
写真下:枠にとらわれず発想で映画の楽しさを伝えるキノ・イグルー。島小屋の庭で上映します。

トランク型の旅する本屋、島小屋文庫。青空のもと紙芝居を見ながらおやつがいただけます

赤ちゃんからおじいちゃんおばあちゃんまで大歓迎のイベント。
開催時期はゴールデンウィーク真っ只中です。
家族やお友達をさそって
直島の「素」の部分に触れてみてはいかがでしょうか。

[島小屋パラダイス!]
日時:2014.5.4.(sun)・5.5(mon) 10:00〜17:00
※映画上映 18:00〜20:00(要予約)
会場:[島小屋]敷地内
詳細は島小屋webサイトからどうぞ

・[島小屋]公式Webサイト 
・[島小屋]Facebook 
・[島小屋]twitter

NO ARCHITECTS vol.6: 小さな編集作業がまちをつくる

NO ARCHITECTS vol.6
まちにとってかけがえのないスペースに。

僕らが活動の拠点としているのは、大阪市此花区は梅香という地域。
いまでも、昭和の下町情緒あふれる商店や路地などのまち並みが残っています。
かつては臨海工業地帯やそこで働く工員さんたちの住居や町工場が軒を連ね、
まちは賑わっていましたが、
高度成長期を経て、産業構造の転換や少子高齢化が進み、
現在は、空き家や空き地が目立つように。

しかしここ数年、アトリエやギャラリー、カフェやショップ、
住居や事務所など、空き家や工場跡などを活用し、
アーティストや音楽家、写真家・デザイナー・建築家・詩人・料理人など、
創造的な活動を志す若者が集まるエリアとして注目を集めつつあります。

交通の便もよく、最寄りの西九条駅は、
JR環状線に乗ると大阪駅まで3駅、阪神なんば線だとなんば駅まで4駅です。
あと、JRゆめ咲き線に乗ると「USJ」まで2駅です。

まちじゅうに個性的な家前植物が、道にはみだすようにたくさん並んでいて、季節ごとに彩りをみせています。

僕らは此花区の出身ではないけれど、
いまはこのまちが好きで、住むところも事務所もこのはなに構えています。
そもそも僕がこの場所を初めて訪れたのは、
2009年の「見っけ!このはな」というイベントでした。
その後も、此花メヂアという共同アトリエで毎月開催されていた
「メヂアの日」という寄合いイベントに参加させてもらう中で、
そこに集まる人の魅力に惹かれていきました。

此花メヂア。連なった5棟の建物が増改築を繰り返し、複雑に入り組んだ元メリヤス工場を改装し共同アトリエとして利用されました。耐震性などの問題で、今年2月に惜しまれつつも解体されてしまいました。(写真提供:此花アーツファーム)

2011年1月、まずは事務所を構えることに(vol.5参照)。
これがこのまちでの初めての仕事かもしれません。
空間自体は、使われ方に応じて間取りを変えられるように、
壁を建てずに高さの違う本棚をつくって間地切りをしています。
ここから、このはなに住む人と少しずつつながりを深めていきます。
まだまだ、事務所をシェアしてくださる方募集中です。

NO ARCHITECTS の事務所スペース。最近、ファイルBOXと模型を収納するための棚を窓枠の上につくりました。

2011年の夏頃には、元たばこ屋さんだった木造家屋をリノベーション。
モトタバコヤと呼ばれるスペースです(vol.4参照)。
どういう場所にすべきかなど、使い方やプログラムから一緒に考えました。
人のつながりが感じられるこのまちでは、
昔から今まで流れてきた時間や培われた人の生活の痕跡を、
まちの風景として捉え尊重する。
その上で、新しいものや新しい人の流れをデザインすることが、
とても大事なポイントだと思っています。
モトタバコヤでは、現在、管理人のPOS大川さんを中心に、
イベントの企画や、地域との連携を積極的に行っています。

モトタバコヤ。シェアショップに店を出す色彩研究所のあおみかんさんがつくった、モトタバコヤマンというキャラクターの立て看板が目印になりつつあります。

事務所をこのはなに移し、モトタバコヤの現場を経て、
このはなの日常の風景に、魅力を感じていきました。
そして、僕らはついに住まいもこのまちに移すことにしました。
立地が大きな丁字路に面していることから「大辻の家」と呼んでいます(vol.1参照)。

気に入ったとは言え、少し手入れが必要な物件でした。
もとの状態をポジティブに読み取って最大限利用し、
最小限の手入れで豊かさを手に入れること。
最初から完成形を求めずに、実際に住んで生活するなかで必要性を感じたら、
少しずつ、つくっていくこと。
そんなことを考えながら、いまでもリノベーション継続中です。

大辻の家。2階のリビングルームです。そろそろベランダから梅香東公園の満開の桜と提灯が見えるはず。

そして、このまちの人からもリノベーションを相談されるようになりました。
vol.2で紹介した「OTONARI」、vol.3で紹介した「the three konohana」。

OTONARIは、まちの案内所兼寄合のスペースです。
新しく生まれつつあるコミュニティと、
もともと地域に根付いたコミュニティとをつなぐための共有スペース。
個人的な利益だけではなく、
このまちにとってどこになにが必要かを考えられています。

OTONARI。辺口さんがまちの案内をしてくれます。日々おいしいお店の情報が更新されています。現在、場を維持していくための方法を模索中とのことです。

the three konohanaは、現代美術のギャラリースペースです。
既存の奥の和室や建物正面のすりガラスなどを生かすことで、
まちの雰囲気や地域性を含んだホワイトキューブを提案しています。
ちなみに、今秋に開催予定のNO ARCHITECTS展は、9/5〜10/19です。

the three konohana。Konohana’s Eye #1 伊吹拓展「“ただなか”にいること」2013年3月15日~5月5日(撮影:長谷川朋也)

リノベについて考えていること

リノベーションは、壁を白く塗ったり、床をフローリングに変えたり、
わかりやすい見た目の操作だけではなくて、
その場所の特性を読み取り、
最大限生かしながら価値を高めることだと思っています。
なんでもかんでも手を加えないといけないわけではありません。
何もしなくてもいい場合もあります。
照明計画だけでもいいかもしれないし、
掃除するだけでも、その場所の価値が高まり、
まちにとってかけがえのないスペースに変貌するかもしれないのです。

僕らの仕事も、ひとつひとつの物件に対する施しは
それほど大きくはないですが、小さな編集作業を重ねていくことで、
まち全体の雰囲気をつくっていけると考えています。
そのためには、事務所でパソコンに向かってばかりではなく、
ネコのようにまちを駆け回って、
ときには鳥のようにまちを見渡したりしながら、日々活動しています。

地元で営まれている素敵なお店もたくさんあります。ぜひ、ニュー下町ガイドマップを片手に散策してみてください。このマップはこのはなの日実行委員を中心に制作されました。イラストとデザインは、モトタバコヤの古本コタツムリ店長の中島彩さん。

これまで僕らが関わらせてもらった5件のスペースはすべて、
歩いて5分以内のところにあります。
小さなエリアに近い距離感で存在はしますが、
ひとつのコンセプトや方向性を持って活動しているわけではありません。

それぞれが独自のスタイルで日々運営されています。
ただ、年一回のまちなかイベントや、
近況を話し合う寄合いを月一回開催したりするなかで、
ゆるやかなコミュニティとなっているのを感じます。
そのコミュニティがより豊かに密に広がっていくような、
空間づくりのお手伝いが、今後も続けていければ幸いです。

今は、僕らが住む家の裏にあるアパートの一室を、
デザイナーの黒瀬空見さん(ツクリバナシ)の服づくりのアトリエ兼、
シェフでパティシエの遠藤倫数さん(Café the End.)のオープンキッチンに、
リノベーションが進んでいます。
また追って報告します。

もともと建築の勉強していた遠藤シェフ自ら解体作業を。あっと言う間にスケルトンに。乞うご期待。

information


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NO ARCHITECTS

住所 大阪市此花区梅香1-15-20
http://nyamaokud.exblog.jp/
https://www.facebook.com/NOARCHITECTS.jp

南砺市のこと

真宗王国・南砺で育まれてきた土徳(どとく)、そして民藝。

リバース・プロジェクトと富山県南砺市が新しい取り組みに乗り出している。
まずは、次回以降に紹介する共同プロジェクトの背景にある、
南砺市のすばらしい風土を紹介する。

富山県南砺市を歩いていると、さまざまな場所で柳宗悦、濱田庄司、河井寛次郎、
バーナード・リーチという民藝運動をリードした作家の名前が聞こえてくる。
そして、実際それらの作品にも出合う。
なぜなら彼らと親交のあった版画家(本人は”板画”という)、
棟方志功がかつて南砺に長く滞在し、みんな彼のもとを訪ねていたからだ。

南砺市の福光にある躅飛山(ちょくひざん) 光徳寺の第18代住職、故・高坂貫昭さんは、
1910年に創刊された雑誌『白樺』に寄稿された柳宗悦の文章を読み、
とても感動したという。そうして民藝の精神に傾倒していった。
やがて民藝運動の作家を通じて棟方志功とも交流を深めるようになり、
棟方志功は福光の地に何度も足を運ぶようになった。
その後、戦時中の疎開地として、棟方一家は福光を選ぶことになる。

「福光は棟方先生の第二のふるさとと呼ばれ、
この時代の作品がもっともいきいきとしているといわれています。
ここで生命観や芸術観が養われていったようです」と教えてくれたのは、
高坂貫昭住職のお孫さんにあたる現住職、第20代の高坂道人さん。

高台にある光徳寺は、民藝の作品をはじめ、世界各国の工芸品がコレクションされている。

この頃の棟方の作品の変化に驚いたのが、民藝運動をリードしていた柳宗悦。
柳にとって、それまでは荒々しくも我執の強い作風だった棟方の絵から、
我による濁りが消えたと感じた。

作風の変化に強い影響を及ぼしたのは、
福光に何百年も受け継がれている風土や空気であると考え、
柳宗悦はそれを”土徳”と呼んだ。
柳の造語であるが、浄土真宗の”他力本願”という思想とも深く共鳴する。

「他力とは、自分で切り開くのではなく、なにもかもが阿弥陀様にいただいたもの。
あらゆるものに感謝して生きていくという教えです。
福光は当時から真宗王国です。お念仏に生きた集団がいて、
そのような風土と触れあい、感動されたようです。
”用の美”を唱える民藝は、
そのような浄土真宗の教えと合致するところがありました」と高坂道人さんは言う。

南砺にはこうした信仰風土・精神風土が、歴史的に根付いていた。
その根底には、浄土真宗への篤い信仰心によって育まれた土地柄があった。
何十世代にもわたって積み重ねられた念仏の暮らしが
目に見えぬ土地の風土や力となる。
そうした棟方志功の心を開いたものを、柳宗悦は土徳と名付けたのだ。

板画家・棟方志功が絵を描いた彫刻刀。(光徳寺)

直筆の手紙なども多数残っている。(光徳寺)

南砺の「土徳」に惹かれていった棟方志功。

棟方志功は福光に住むことによって、その教えを身をもって体験していった。
棟方は、以下のように語っている。
「いままではただの、自力で来た世界を、かけずりまわっていたのでしたが、
その足が自然に他力の世界へ向けられ、富山という真宗王国なればこそ、
このような大きな仏意の大きさに包まれていたのでした。
(中略)身をもって阿弥陀仏に南無する道こそ、
板画にも、すべてにも通じる道だったのだ、ということを知らされ始めました。
(中略)仏さまのなすがままに、自分は道具になって働いているだけ。
自分の仕事ではなく、いただいた仕事なのだ」(棟方志功『板極道』[中公文庫])

棟方志功は、福光では毎日のようにお寺の法話に出かけていき、
そこで地域のひとと交流していたようだ。
不思議とこのあたりは、文化的なものに対する素養が高かった。

棟方志功がお寺の鐘に直接絵を描き、彫金師が彫った作品。(光徳寺)

棟方志功と交流のあった日の出屋製菓の川合昭至さんの息子であり、
現南砺市観光協会会長である川合声一さんはいう。
「このあたりは加賀藩。
加賀百万石というように、経済的に余裕があった地域だったんだろうと思います。
ですからパトロンというほどではありませんが、
芸術や文化面を支えることは町人・商人のたしなみだったようです」

アーティストのような”変わり者”をいぶかることなく、
むしろ知りたい、学びたい、交わりたいという気持ちが自然だった。
そしてまちに民藝作品がゴロゴロしている文化レベルの高いまちとなっていった。

日の出屋製菓の包み紙には、いまも棟方志功が書いた文字が使われている。

日の出屋製菓の川合3世代。左から声一さん、昭至さん、洋平さん。店内には、棟方志功の作品などが展示されている。

日本が戦争に負けてどうなるかわからない時代。
東京にいては、描きたくても描けない。
こんなときになにしているんだという芸術に対する反発もある。
そもそも物資も少ないから手当たり次第に描くわけにはいかない。
そんな時代に棟方の代表作ともなった『華厳松』には、こんな逸話が残っている。

「ふすまに絵を描いてほしいと、先々代の貫昭は頼んでいたようです。
しかし寺にとっては大事なふすまだし、おいそれと描くわけにはいかない。
ある日、棟方先生は散歩をしていると突然ひらめかれたようで、
帰ってきてすぐに描くことになりました。
当時は墨汁もないので、近所のひとたちに手伝ってもらって
バケツ3杯ほどの墨を擦り、太い筆もないので細い筆を何本も束ねたようです。
そして6枚のふすまに、とにかく一気に描き上げた。
最後には、バケツに残っていた墨をぶちまけたといいます。
これが棟方先生が初めて描いた松であり、
しぶきを飛ばしながら荒々しく描く
”躅飛飛沫隈暈描法(ちょくひひまつわいうんびょうほう)”
という手法の始まりです」(高坂道人さん)

”躅飛飛沫隈暈描法”によって描かれたダイナミックなふすま。(光徳寺)

現在も残されている棟方志功の住居跡「鯉雨画斎」(りゅうがさい)。
トイレ、風呂場、天井、柱と、いたるところに仏様などの絵が描かれている。
描く喜びにあふれている家だ。
福光時代は、とにかく描きたいという気持ちが強くあった。
そうさせたのも、南砺の土地が持っていた土徳であったのだろう。

柳宗悦もまた土徳に惹かれ、
南砺にある城端(じょうはな)別院 善徳寺で代表作『美の法門』を執筆した。
善徳寺は第1回民藝協会の大会が開かれた場所でもある。

南砺市にある大福寺の太田浩史住職はいう。
「他力の信心とは、物の美の方面でいえば、
究極の美がそのまま雑器のうえに、恵み施されていることです。
その原理を証明しているのが民藝。
柳宗悦が初めて物の美の具体的な事実を通して、
阿弥陀の本願力の法則を証明しました。
阿弥陀といっても現代人には難しいですが、
民藝美という事実が阿弥陀の実在と考えられます。
柳宗悦はこの内的発見を『美の法門』という一文にまとめあげました」

土徳に惹かれて、富山・南砺は民藝の一大聖地となっていった。
棟方志功、柳宗悦、そして民藝運動の方向性には
南砺の土徳が大きな影響を与えていたのだ。

板画家である棟方志功は、それまで書は書かなかったが、初めて徳寺で書いた。(光徳寺)