宮川朝市

高山の食文化を知りたいなら宮川朝市へ!

高山市の早朝、少し高い鍛冶橋から川の下流方向を眺めると、
白い布の屋根がずらっと並ぶ。
川沿いに生える緑と水の清涼感、
さらに天気も良ければ空の青さと相まって、
見事に統一されたその白が美しい。

この高山の宮川朝市は、日本三大朝市に数えられる。
飛騨高山の観光人気が高まるなかで、
訪れる観光客がふえ、常に活気溢れる人気スポットだ。

もともと文政2年(1820年)頃、
高山別院を中心に桑市として栄えてきたが、
養蚕業の衰退により、花や野菜が売られるようになっていった。
その後、場所を転々とし、戦後、現在の鍛冶橋下流に移転。
これが現在の宮川朝市の始まりである。
宮川市場協同組合が発足した昭和37年から数えても、
すでに50年以上の歴史を誇る。

土つきの飛騨ねぎは、朝採れの証拠。

朝市の通りに足をふみいれると、
思いのほか農産物を販売している店舗が多いことに気がつく。
野菜、果物、花などから、餅、漬物などの加工食品まで。
観光客が多いからといって、お土産物ばかりが並んでいるわけではない。

この朝市に参加しているのは、ほとんどが高山に住んでいる農家なのだ。
「基本的には、自分たちの手でつくったものを売ってもらっています」
と教えてくれたのは、「宮川朝市協同組合」理事長の玉田忠夫さん。

「宮川朝市協同組合」理事長の玉田忠夫さん(左)と、朝市の一番手前で、手づくりのチャンチャンコや甚平を販売している「島尻」さん(右)

農家が自分たちで育てたものや、
それをもとに加工したものを、直接販売している。
ここにくればその季節に食べられるもの、
つまり高山の旬を感じることができるのだ。
朝採れたばかりの野菜はみずみずしく、土がついてたっておいしそう。
雪国である高山の冬場は野菜の数は減ってしまうが、
その分、加工食品や保存野菜が豊富にラインナップ。
雪国特有の冬の食文化もかいま見ることができる。
どれも手づくりのあたたかみがある簡素なパッケージばかりで
食材の良さが際立っている。

農家が自分たちで育てたものや、
それをもとに加工したものを、直接販売している。
ここにくればその季節に食べられるもの、
つまり高山の旬を感じることができるのだ。
朝採れたばかりの野菜はみずみずしく、土がついてたっておいしそう。
雪国である高山の冬場は野菜の数は減ってしまうが、
その分、加工食品や保存野菜が豊富にラインナップ。
雪国特有の冬の食文化もかいま見ることができる。
どれも手づくりのあたたかみがある簡素なパッケージばかりで
食材の良さが際立っている。

はちみつももちろん高山産。

飛騨高山の伝統野菜が復活。

以前は仲買人などの仕入れにも使われていたし、
高山市民が毎日の食材を揃える台所でもあった。
それこそ、朝ごはんのみそ汁の具を買うようなご近所感覚。
そんな宮川朝市もだんだんと観光化が進んでいった。
するといくつかの問題も発生するようになる。
駐車違反の問題や、近隣の施設との客の取り合いなど、
「朝市廃止」の議論が持ち上がることもしばしばあった。

漬物の名産地である高山だけあって、たくさんの種類の漬物が売られている。

50年間この朝市に出店し続けているというひとも20人ほどいるし、
2代目3代目と代替わりして続けているひともたくさんいる。
それでも30年前には120以上あった店舗が、
現在では半分の60店舗程度に減ってしまった。

しかしそれでも50年以上も続けてこられたのは、
地元住民が今でも利用し、
かつてと同じスタンスを保ち続けているからではないだろうか。
組合を中心に、まちをきれにすることを心がけ、
白いテントに統一して景観を保つなどの努力は怠らない。
出店者自体が“地元の朝市”であることを大切にしているように思う。
「組合のひとががんばってくれている」と出店者は声を揃える。

りんごの皮を剥き、試食してもらいながらコミュニケーションをとる諏訪忠義さん。

こうした歴史を伝えてきた宮川朝市にも、
以前には売られていたのに、最近は姿を消してしまった食材がある。
これらを復活させようという試みが最近始まった。
17品目を指定し、飛騨高山伝統食材の計画栽培を行った。
春はあさつき、折菜、のびる、あずき菜。
夏は縞ささげ、なし瓜、小茄子、国府茄子、ほう葉。
秋は赤かぶ、長人参、一斗芋、なつめ。
冬は飛騨ねぎ、あぶらえ(えごま)、はところし(青豆)、白菜霧漬け。
高山の食文化を守っていく役割も、朝市は担っているのだ。

いくら観光客が増えようとも、
宮川朝市に出店しているのは、あくまで地元、高山のひとたちだ。
朝市に出かけると、その土地の風土や人柄などがわかってくるような気がする。
朝7時ごろから12時ごろまで開いているが、
まだ観光客が少ない早めの時間帯に、
散歩がてら行ってみることをおすすめしたい。
引き締まった空気のなかで、
おじいちゃんおばあちゃんの散歩道となっている宮川朝市から、
高山の生活の光景を見ることができるだろう。

花とうもろこしと有機ニンニク。

肘折温泉vol.1 今も残る美しい手仕事

山形県中部、大蔵村のなかでも特に雪深い山あいにある肘折温泉。
霊峰・月山の南に位置し、その周辺にも多くの霊山を有している。
肘折の人々は1200年も前から湯を守り、人を迎え、山の恵みとともに生きてきた。
ここは、
ライフスタイルの変化とともに変わっていくもの、
地域の人々に継承され続いているもの、
また、若者たちによって新しいかたちでつながっていくもの、
それらが綾をなして存在している場所でもある。
この山奥のちいさな湯治場、肘折温泉でいま起きていることから、
これからの地域や暮らしのあり方を示唆する、あるなにかが見えてくる。
第1回は、「今も残る美しい手仕事」について。

雪国で生まれた細やかな手仕事。

東京駅から山形新幹線で、3時間半。
終着の新庄駅からさらに車を走らせること50分。
同じ山形県のなかでも特に雪深い肘折温泉やその周辺地域は、
多いときで4メートル以上も雪が積もる。
雪の季節ともなれば外での仕事は封じられ、
昔のひとびとは家の中で手仕事をしながら過ごした。
藁で、藁沓(わらぐつ)や蓑(みの)などを編み、
また、木地師と呼ばれる職人たちは木で、茶筒や器などをつくった。
それらは、「かつての生活道具」とは言い切れない、細やかな手仕事の美しさを放つ。
柳宗悦は著書『手仕事の日本』のなかで、東北地方について、こう綴っている。
「日本でのみ見られるものが豊かに残っているのであります。
従ってそこを手仕事の国と呼んでもよいでありましょう」
肘折温泉を含む、雪深い最上地方では
そのような雪国の暮らしから生まれた素朴な文化に、今も触れることができる。

大蔵村の南に位置する通称・四ヶ村には、美しい棚田の風景が今も残る。
須藤福寿さんは、この地で生まれ、農業を営む傍ら、村議会議員などを務めた。
引退してからは、依頼されると蓑(みの)や藁(わら)細工をつくっていたという。
「蓑はじいさんの時代からずっと、つくっていたな。昔は雨合羽なんか無かったから。
そうだな、昭和30年代くらいまではどの家でも男がつくっていたもんだよ。
つくり方は親の見よう見まね。その家その家で、ずっと継承されてきたんだ」

大人用につくられた蓑。首回りの綿糸でほどこされた赤や紺の刺繍がとてもきれい。

蓑の材料となるのは、「みご」と呼ばれる、藁の丈夫な茎の部分と、
ウリハダカエデという木の皮を使う。
木の皮は田植えの時期に採り、乾かしておくなど、
つくるには、冬が来る前に準備をしておかなければならない。
「今はもう車の免許を返しちゃったから、材料をとってくるのが難しくってな。
それに、あまり使う人もいなくなったから、つくる機会も減ったかな」
いま、四ヶ村で蓑をつくることができる人も少なくなっているという。
暮らしに必要だから、丈夫になるよう丁寧に編む。
その細やかな美しさは、小さな藁沓にも込められている。

「ひとつの蓑をつくるのに、4〜5日かかるよ」と話す須藤さん。

須藤さんは話ながら、足の指を使い、手早く小さなかんじきに凧糸を通す。

須藤さんがおみやげ用につくったというかわいらしい「かんじき」と「藁沓」。

こけしは、東北の温泉場を中心に
子ども向けのみやげものとしてつくられてきた木の人形だ。
宮城県の鳴子地方や、遠刈田地方が産地としては有名だが、
肘折温泉も、明治の頃より「肘折こけし」と呼ばれる系統のこけしがつくられてきた。
「もともとは、わたしらみたいのを木地師と言って、
器や茶筒なんかをつくっていたっていうね。
その合間に、こけしなんかの玩具をつくり始めたんじゃないかな。
昔、木地師は、いろんな温泉場を渡り歩いた人だったんだ。
もとを辿れば肘折の工人たちも、鳴子や遠刈田へ修行に行ったんだよ」
そう話すのは、今はただひとり残る、肘折こけしの工人・鈴木征一さんだ。
肘折の工人さんのもとで修行して、その後独立。
当時から40年以上も使っているという工房には、伐り出された木材が積まれ、
お客さんを待つ、かわいらしいこけしが並んでいる。

「こけしはやっぱり顔を描く段階が一番むずかしい」と鈴木征一さん。肘折こけしは、昔と同じく、墨のほかは赤、青、黄の三原色で表現。

鈴木さんの工房。木取りをした角材は乾燥したあとに、挽く。材料はおもに「イタヤカエデ」を使う。

産地によって顔・かたちが異なるのがこけしの面白いところ。鈴木さんは青森や山形など他系統のこけしも販売している。

「もとは冬場もできる仕事だからって始めたんだ。
こけしは山から木を伐ってくれば、すぐできるってわけじゃないからね。
乾燥させたり、挽いたり、筆で顔を入れたり。手間がかかります。
最初は、こけしの面白さなんかわからなかったけど、
購入しにわざわざ訪ねてくれるお客さんと話すようになって、
こけしの奥深さを教えてもらった気がするね」
以前は年配の方が多かったというお客さんも、最近は若い人も増えてきたという。
「でもね、こけしは量産はできるものじゃないから。
おれの代で肘折こけしは終わりかなと思ってるよ」

明治時代、肘折こけしを始めたと言われている柿崎伝藏が生まれた柿崎家(現在は「旅館 伝蔵」)には、肘折こけしの工人の系譜があり、奥深い歴史を感じる。

こけしの底には、工人の名前が書かれている。写真は鈴木さんのもの。

山伏の原初の文化に触れたい。

このような肘折の手仕事に対して、若き山伏の坂本大三郎さんは、
「古い時代の山伏の文化と呼応している気がするんです」と別の視点から興味を示す。
普段は関東でイラストレーターや文筆家として活動をする坂本大三郎さんは、
6年前にふらりと体験した山伏修行をきっかけに、
その奥深さにひかれ、以来、出羽三山を拠点に修行を積んでいる。

羽黒山は、月山、湯殿山と合わせて「出羽三山」と呼ばれ、
「西の伊勢参り」に対して、
出羽三山へのお参りを「東の奥参り」と言われるほど、
一帯の山々は古くから山岳信仰、修験の霊場として知られる。

法螺貝を持つ、大三郎さん。法螺貝は材料をとりよせ、手づくりしたのだという。

絵を描くなど表現者として仕事をしてきた大三郎さんは、
特に芸術や芸能を担っていたという山伏の一面にひかれる。
「山伏の祖先と言われる人々は、神や精霊と人々をつなげながら、
山から山へ漂泊する民でした。日本という言葉もない古い時代のことです。
彼らが呪術を行うとき、言葉からは歌が、動きからは舞が生まれ、
芸術や芸能が生まれていきました。山伏のルーツというのは、漂泊をしながら、
手仕事をしたり芸能をしたりする人だったとも言われているんです。
木地師も、木を求めながら漂泊していた人々。
かつては、彼らは同じ人だったんじゃないかと思い始めたんです」

年に1回ある羽黒山での修行の度に、肘折温泉に立ち寄った。
本を読み、山を歩く。
次第に、肘折に残る文化が古い時代の山伏の文化と呼応すると感じる。
肘折への興味が募っていった大三郎さんは、
昨夏、「月山若者ミーティング『山形のうけつぎ方』」というイベントに
ゲストパネラーとして参加(Local Action #007)することになった。
これをきっかけに、地元のひとたちと知り合い、
外からしか見えていなかった肘折のことが、ぐっと近づく。

大三郎さんが普段、修行のときなどに着ているという白装束。

「大三郎くんが勉強してきたことを聞くのは、とても面白い」と、
つたや肘折ホテルの柿崎雄一さんは大三郎さんを快く迎える。
「大三郎くんが肘折に通ってきてくれるのは、とてもうれしいんですよ。
僕たちが知らない自分たちの土地のことを教えてくれる。
肘折青年団の若いみんなもいい影響をうけているみたいだから」と微笑む。
雄一さんは、大三郎さんが肘折に来れば、滞在などをあたたかくサポートする。

大三郎さんは、肘折を訪れて、寂しいと思うことがひとつあった。
それは、この周辺の手仕事が継承されずに、消えていこうとしていること。
しかし、雄一さんや肘折のみんなと話すうちに、
自分が、教えてもらうことはできないかと思い始めたという。
「すごく大事な文化だと思うんです。だから、僕は教えてもらいたい。
無くなってしまう前に、僕にできることはやりたいと思ったんです」
実は、大三郎さんは、雄一さんの協力もあり、
春になったら肘折温泉に住むことを考えているという。
この地にある手仕事を学ぶためだ。
「震災以降って、山とまちの距離が縮まったんじゃないかと感じています。
みんなが地方と都心を行き来するライフスタイルが増えている。
僕自身も千葉に実家、神奈川に暮らしている家があって、肘折に来ている。
こうやって行き来しながら生きていくことができるんじゃないかと思っているんです」

次回は、大三郎さんと肘折青年団の有志が取り組む、
肘折温泉周辺の新しい観光資源を探す活動についてレポートします。

information


map

肘折温泉

住所 山形県最上郡大蔵村南山
http://hijiori.jp/

information


map

鈴木肘折こけし工房

住所 山形県最上郡大蔵村南山2126-291
電話 0233-76-2217
営業時間 8:00~18:00 不定休

profile

DAIZABURO SAKAMOTO
坂本大三郎

1975年千葉県生まれ。イラストレーター、山伏。出羽三山(羽黒山・月山・湯殿山)を拠点に、古くから伝わる生活の知恵や芸能の研究実践を通して、自然とひとを結ぶ活動をしている。リトルモアより『山伏と僕』が発売中。

present

肘折温泉のおみやげをプレゼント!

四ヶ村の須藤さんから、おみやげをいただきました。かんじきと藁沓、蓑のミニチュアの1セットです。「せっかく来たんだから」と取材チーム全員に持たせてくれた、須藤さん。ミニチュアながら、しっかり刺繍された蓑もとてもかわいいです。ご応募はコロカルのfacebookからお願いします。
※プレゼント企画は終了いたしました。

大日堂舞楽 前編

1300年続く、神に捧げる舞。

幼い頃、獅子舞など地域の伝統行事に参加したことはないだろうか。
一年の節目に行われる無病息災や五穀豊穣を祈る奉納舞は
氏神への奉納だけが目的ではなく、
古くから住民たちの交流にも大きな役割を果たしてきた。
現在では、核家族や少子化が進み、
伝統文化を継承することが難しい地域は少なくない。

秋田県鹿角市の八幡平地区に伝わる、「大日堂舞楽」は
国内で現存する舞楽の中でも最も古い形で伝承されている
1300年間続く歴史のある舞楽だ。
毎年、年明けの正月2日、大日霊貴(おおひるめむち)神社(通称大日堂)にて
行われ、多くの住民が奉納舞を見るために神社に集まる。

今年の正月も例年と同じく、連綿と続く歴史の1ページがめくられた———。

鹿角市八幡平地区の景色。四方を小高い山に囲まれ、数々の伝説が残る風光明媚な場所。大日堂舞楽が行われるお正月あたりは気温が-7℃になることも。

―大日堂舞楽 本舞準備―

大日堂舞楽には小豆沢(あずきざわ)、大里(おおさと)、
谷内(たにない)、長嶺(ながみね)の4つの集落が参加している。
舞楽にかかわる人は、全員男性だ。
彼らは本番にそなえ、事前に練習や行(ぎょう)を行う。
笛や太鼓、舞人など、舞楽にかかわる能衆(のうしゅう)と呼ばれる男たちが、
早い人で本番の約2週間前から行に入るという。
これを、ある集落では「火をまぜない」と表現していた。
能衆は神により近い存在になるため、
俗世に生きる人たちと同じ火で炊いたものを口にすることが許されない。
ふだんの生活では、お風呂は一番風呂に入り、
家族と鍋を分けて料理を作り、匂いの強いネギやにんにく、肉類はとらない。
もちろん男女の交わりは許されない。
年末年始のイベントづくしの中で行を行い、
奉納舞の終わる2日を過ぎてから日常生活に戻る。
このような習慣が1300年間、この土地に根づいている。

昨年末、八幡平地区の各集落で夕方から行われる
内習(うちならい)といわれる練習に出かけてみると、
各地区、自治会館のような場所に祭壇を設け、練習会場としていた。
内習であろうとも、地域の神に捧げるために舞うみなさんの姿は真剣そのもの。
練習が終了したあとは、能衆だけで同じ鍋の汁をとり、
酒を飲み、お互いの一年のことを語り合う。
こんなことが長いところでは2週間も続くのだから驚く。
食事は、地域で定められた世話係が毎日作っているという。

行に入ると同時に各集落では内習(うちならい)といわれる練習に入る。一日の終りは、能衆のために魚や野菜が入った汁とご飯、酒などが用意され、30日の夜まで毎晩続く。(撮影:朝比奈千鶴)

郷土料理、納豆汁は谷内集落では行の間に食べるおなじみの一品。ゼンマイ、こんにゃく、豆腐、にんじん、ジャガイモ、わらびの他にサメや塩漬けの高菜が入る味噌汁に納豆を溶かしこむ。(撮影:朝比奈千鶴)

大里集落で行が始まった12月27日、
地域の集会所では同時に内習(うちならい)が始まった。
能衆に選ばれている中学生の古家拓朗くんのお父さん、
古家冬樹さんは練習をするわが子を遠くから見守っている。
「地域に同年代の子がおらず、
うちの子に出番が回ってきたときは正直困りましたね。
行をしなくてはいけないのもあって、一度断りました。
最終的には引き受けましたが、5年経った今では
自信がついたみたいで堂々と舞えるようになりましたよ」
生まれた頃からここで暮らしているという冬樹さんは
舞は世襲制で受け継がれてきたものだったこともあり、
自身が幼い頃は舞楽に無関心だったという。

大日堂舞楽は、行や舞楽の内容、しきたりなども含めて
長く大切に受け継がれていることが認められ
ユネスコ無形文化遺産や国重要無形民俗文化財に指定されているというのに、
舞楽に関わる人以外には、その内容が知られていない。
そもそも、舞楽は神様に奉納するものであり、
周囲に広く告知するものではなかったからだ。

現在、鹿角の小学校では大日堂舞楽を学ぶ授業がある。写真は鳥舞を舞う大里集落の小中学生。彼らは極寒の当日に、昔ながらの衣装で過ごすことで自然環境を学ぶと言っていた。

大日堂舞楽が始まったのは、古事記が編纂された1300年前あたり。
鹿角の伝説のひとつ「だんぶり長者」によると
夢で大日神のお告げを受け、だんぶり(とんぼ)の導きによって
霊泉を見つけて長者になった夫婦がこのあたりにいたという。
長者夫婦の娘で第26代継体天皇の后となった吉祥姫は
のちに亡くなった父母のために大日霊貴神社を建てた。
その後、時を経て、718年に老朽化した神社を再興するために
名僧、行基と音楽の博士、楽人が都より遣わされ、
彼らが舞楽を伝えたといわれている。

4つの集落の人々は、それぞれの地域で語り継がれたしきたりがあり、
隣の集落がどのように行っているのかということは、互いに知ることはない。
「同じ奉納舞といえども集落ごとに氏神や舞の内容が違うし、
内習の時期に他の集落の内習を見にいくことはないからね」と、
長年大日堂舞楽に関わってきた大里集落の能衆、浅石昌敏さん。

家族に葬式、出産のあった年は能衆を休む決まりがあるため、お孫さんが生まれたばかりの浅石さんは、大日堂の名を冠した「大日堂そば」を祭りに来た人たちに配っていた。

どの集落を見学に行っても、慣れた地域のメンバーながら
舞が始まると緊張感のある空気に切り替わった。
集落の人たちの神への畏敬の念がそうさせる、と浅石さんはいう。
「舞楽を奉納するのは、何かを祈るため、というよりも
神仏を大切にすることを意識し、毎日何事もなく生きられることに
感謝するといった意味がこめられているのではないでしょうか。
長年、大日堂舞楽に関わってきて、
先祖代々続いてきた大事な風習を自分の代でつぶしたくない、
大日堂舞楽にかかわる人にはこんな思いが根底にあります」
年末は家族の協力のもと、自分自身を大日堂舞楽に捧げ続けたい
という浅石さんは約20年間能衆として舞楽に関わっている。

奉納舞は、能衆やその家族たちの「誇り」にもつながっている。
能衆最年少、今年初めて参加する
小豆沢集落の小学二年生、山本弐虎太くんのお母さん、
山本由実さんは当日に手伝いをするなど舞楽に関わることに積極的だ。
「私は仙台からお嫁に来て8年経つんですが、
集落の若い人たちのコミュニケーションが密で
元気がいい。今の時代、他に比べるときっと珍しいですよね。
夫は青年団活動が楽しくてたまらないみたいだし。
息子が舞楽に関わるのはとてもいい経験だと家族は思っています。
地域の人たちが息子を育ててくれる、それがありがたくて。
ここに住んでよかったなと実感します」

―集落の精神的な支柱。
大日堂舞楽はそんな役割も持っているのかもしれない。

後編は大日堂のお膝元、小豆沢集落能衆の長い一日を本番当日1月2日の真夜中から追いかけた模様をお届けします。元日は最後のおさらいをし、2日はなんと深夜1時集合!

世界で一番おなかがすく 映画になったのは、 ペンギン夫婦流コロコロ& パクッの食卓術だから。

「えっ、これは何かのドッキリ?」

辺銀暁峰&愛理夫妻をモデルにした、心がホンワカあたたまる映画
「ペンギン夫婦の作りかた」、みなさま、ご覧になりましたか。
大好評のうちに首都圏での上映はひとくぎり。全国各地を回り始めました。

2013年3月には、DVD&ブルーレイディスクが発売になるだけでなく、
新石垣空港の開港を記念して、台湾での上映も決定しました。
「ペンギン夫婦の作りかた」は、これから世界制覇しちゃうかもしれません。
映画は島でも上映されました。島に唯一あった映画館「シネマ万世館」、
閉館になっていたこの映画館が、この映画のために期間限定でリ・オープン。
島の人々が大勢見に来てくれました。

中には、映画と現実を混同して、「あんたたちをいじめた人は、どこの人ね?
私が一言言ってあげるから」と言ってくれるおばあや、
「あのエロおじいは、どこに住んでるのか」と聞くおじいが現れたりしたそうです。

* * *

さて、この映画の始まりは、1本の電話からでした。
『ペンギン夫婦がつくった石垣島ラー油のはなし』(マガジンハウス刊)を
読んだ関係者から、「映画にしたい」という話があったのです。
愛理さんは、「えっ、これは何かのドッキリ?」
いや、もしかしたら「オレオレ詐欺的なもの?」と思ったとか。
そのくらい驚いたと言います。
見てくれる人、いるのかしら? そんな心配もありました。
何より、自分たちがモデルになるなんて照れくさい、恥ずかしい、面映ゆい。

でも、愛理さんのお父さんは編集者、お母さんは映画学校の講師というお生まれ。
それだけでなく、ご主人の暁峰さんのご両親も演劇関係者。
さらに、暁峰さん自身もチャン・イーモウ監督のスチールカメラマンだった。
映画とは浅からぬ縁のあるお2人。日本映画を応援したいという気持ちもありました。
もちろん、石垣島のためになることだから、という強い想いもあってのこと。

ところが、さあ、映画を撮るぞって時に東日本大震災にみまわれます。
もちろん、製作は頓挫。今年の初めに、やっと再開が決まったのでした。

美崎町「スナックマンタ」

体に良いおつまみをお客様に食べさせたいと、上原吉子ママが始めたベジタリアンおつまみの数々。仮装アイテムは島イチ! 変装して歌えば、誰だかわからんくなって楽しいわけ。でも、どんなに盛り上がってもかっきり12時で閉店。シンデレラのようなママに同性ながらぞっこん。

「ティラアース」

石垣島の珊瑚やミンサー柄をモチーフにオリジナルジュエリーを展開している平良静男&佳保里ご夫妻。一見ガラスのビーズに見えるが実は全て本物の宝石。静男さん曰く「ミンサー模様は密かな心の内側、秘められた想いのマリッジリングです」。ブライダルジュエリーも島内外問わず人気が高い。http://www.tilla-earth.com/

「中村ざっか」

京都のカリスマ雑貨店での経験を生かし、石垣島にあると可愛い生活雑貨をチョイス。地元の作家たちを応援している優しい中村貞吉&尚代夫婦の店。今年で14年。なんと、石垣島ラー油で使う紙は全て中村ざっかから仕入れていますよー。

「フィル」

藤本恵美さんのオリジナルブランド「FIL」と国内外からセレクトしたキラリと光る商品を展開する島のオシャレ女子憧れの店。ご主人はオリジナルジュエリーショップ「ジャランアート」のオーナー和宏さん。ご夫婦が作り出すアクセサリーのファンも多い。

「仲宗根豆腐」

石垣島には何故か仲宗根豆腐が二つあるが、漢字で書く豆腐の方。仲宗根彦次さんと松子さんのお豆腐を移住以来食べさせて頂いている。朝と夕方2回作っては松子おばーが自転車で配達してくれる。熱々の出来たてをほおばると「塩味の大豆ケーキ」って感じ。

「とけい台食堂」

毎年1週間ほど北海道のお世話になってるペンギン家は大の北海道ファン。自分の中の北海道が足りなくなると必ず行く店がここ。銀ダラやジンギスカン、ザンギ定食をはじめ、各種北海道ラーメン、イクラ丼などウキウキメニューがずらり。優しいオーナーファミリーの笑顔に今日も心が『デッカイドー!北海道!』となります。http://tokeidai.ti-da.net/

「花谷農園」

花谷達郎さんと友子さんの農園。息子さんの史郎さんとまゆさんの4名とスタッフでゴーヤーや白ゴーヤー、ナーベラー(ヘチマ)、ズッキーニ、カボチャ、甘長唐辛子、ミニトマトと珍しい十角瓜などを育てている。花谷さんのピカピカのお野菜たちはペンギン食堂でも召し上がって頂けますよー! http://www11.ocn.ne.jp/~hanatani/

フォトいばらき 2013年新年号

茨城県『フォトいばらき』 
発行/茨城県

2013年は、風土記が編さんされてから1300年という節目の年です。茨城県が発行する『フォトいばらき』の冬の最新号では、「常陸国風土記の世界」を特集。郷土史の原点をひもときます。

フォトいばらき
http://www.pref.ibaraki.jp/photoiba/

発行日/2013.1

別府 北高架商店街

高架下の小さな商店街の、新しい動き。

別府駅から徒歩数分のところにある「北高架商店街」。
文字通り、JRの線路の高架下に店が連なる、50メートルほどの小さな商店街だ。
昔は飲み屋街だったそうだが、いまでは新旧さまざまな店舗が並んでいる。

まず、ぱっと目につくのが、商店街入り口に面した「CUE CAFE+(キューカフェ)」。
2011年の4月にオープンしたカフェ&ギャラリーだ。
「店名は、スタートの合図で使われる“キュー出し”のキューから。
人が出会ったり、何かが始まったりする場所になればと思って」と、店主の木部真穂さん。
白を基調とした明るく気持ちのいい店内には、アーティストの作品が展示されている。
特に地元の作家をバックアップしたいという木部さんのもとには、
さまざまなアーティストが集まってくる。

取材時は、昨年埼玉県から別府に移住したというイラストレーター、
hiraさんの作品が展示されていた。
「こっちに来てとてもよかったと思っています。
まちもちょうどいい大きさで、人とのつながりもあります。
もともと別府はよそ者を受け入れてくれる気質があるのだと思います」とhiraさん。
別府で体験したことを描いた絵が注目され、いまでは地元のタウン誌や
駅ビルのフロアガイドなどに彼女の絵が掲載されるまでになった。

文字通り高架の下にある商店街。その入り口に面したところにあるのが「CUE CAFE+」。

店内ではhiraさんの展覧会を開催中だった。別府のまちを描いた絵などが展示されている。

別府の特徴的なものをイラストにあしらった単行本サイズのブックカバーもhiraさんのデザイン。

CUE CAFE+ができてから、商店街に新しい動きが出てきた。
木部さんのご主人の友人である日名子英明さんが経営するブック&レコードショップ
「ReNTReC.(レントレック)」が移転してきたのだ。
それ以前は別府タワーの4階でお店を経営していたが、
フロア全体がカラオケボックスになるというので新たな出店先を探していたところ、
この場所に行き着いた。
「お店というよりも、シェアスペースがほしかったんです。
いろいろな業種の人が集まってものをつくっていく。
とにかく場所が大事だと思いました」と日名子さん。

別府で生まれ育った日名子さんは、別府の盛衰を見てきた。
1ドル365円の時代が終わり、円が強くなってくると、観光客は海外に流れた。
また国内旅行も、別府から湯布院に流れていった。
やがて、賑わっていた商店街のシャッターの多くが下りたままになった。
「20年くらい前ですが、県外から来た友人が商店街を見て、
終わってるわ、とぼそっとつぶやいたのが悔しかった」

やがて2000年にAPU(立命館アジア太平洋大学)という大学ができ、
まちに学生が歩くようになった。
2009年には現代芸術フェスティバル「混浴温泉世界」もスタートし、
まちに少しずつ活気が戻ってきたという。

「ReNTReC.」店内には近頃はあまり見ることのないアナログ盤がたくさん。セレクトのセンスが光る。

レコードのほか、文化・芸術関係の本や、Tシャツなどの雑貨も。日名子さんの好きなものを集めた部屋のよう。

焦らず、ゆっくり続けていく。

今年の4月から、日名子さんと木部さんが中心となり、
北高架商店街で毎週土曜日にフリーマーケットを始めた。
でも、なぜフリーマーケット? という問いに、日名子さんはこう答える。
「僕はこれまでいろいろなイベントを企画してきましたが、
結局イベントって終わってしまうと何も残らないし、
ライブをやってもそのジャンルに興味のある人しか来ない。
セグメント化されたなかでイベントをやることに違和感を感じ始めました。
でもフリーマーケットって、本当にいろいろな人が集まってきて、何でもありなんです」

たしかに、物を売っている人だけでなく、
絵を描いている人もいたり、遊んでいる子どもたちもいる。
通路にはテーブルが置かれ、なんとなくおしゃべりをするだけの人もいる。
そしてこのフリーマーケット、毎週開催というのもポイント。
「イベントにしたくなかったんです。
月に1回だとそのたびにリセットされてしまう。
たとえたくさん集まらなくても、毎週土曜日の10時から、
ここに人がいるという場にしたかったんです」

フリーマーケットの名前は「Slowly Market」。
日名子さんは「ゆっくり、ゆっくり。人が集まらないと焦ったり、
落ち込む必要はまったくない。まずは自分たちの宣伝も含めて、
人に来てもらうための、ひとつのアクションだと思っています」という。

物を売るだけのフリーマーケットではなく、子どもたちが自発的に始めた「つばめ図書館」という子ども図書館も。

CUE CAFE+のすぐ外で絵を描いていたのは、別府のアーティスト二宮敏泰さん。まちに出て描き、CUE CAFE+で展示するそう。

このような活動にとても理解があり、自由にやらせてくれて本当にありがたい、
と商店街の人たちが口を揃えるのが、この場所を管理する
JR九州グループの会社「別府ステーション・センター」の中村 勇社長。
北高架商店街だけでなく、駅のお土産屋なども管轄する会社の代表だ。
中村さんは昨年の6月に福岡から転勤してきた。
福岡では駅ビルをつくるなどの新しい開発の仕事が多く、いまとは全然違う仕事だった。
「来たばかりの頃はCUE CAFE+はあったけれど、
こうなるとは全然思っていませんでした。
この場所を任されたのはいいけれど、さてどうしようという感じでした」と笑う。

みんなに「社長、社長」と呼ばれてはいるが、「社長」然としたようすはなく、
フリーマーケットにもちょくちょく顔を出し、
商店街で起きていることを一緒に楽しんでいるかのようだ。
「面白いことをやってくれと言われて、ここに送り込まれてるんで」と中村社長。

商店街の壁面や柱に絵を描いているのは、アーティストの寺山 香さん。寺山さんの頭の中にある物語を描いている。絵は天井や地面にも描かれ、増殖中。

なんと男子トイレの壁面にも寺山さんの絵が。トイレをきれいにしたかったという中村社長のアイデア。

突然、にぎやかなパレードが現れた。さまざまな楽器を手にした彼らは、大分を中心にイベントやパフォーマンスを行っている「宇宙図書館」の「ゆらゆらチンドン隊」。

7月には「Ontenna」というショップが新たにオープンした。
奥さんが古着や洋服のリメイクを、旦那さんがバイクや自転車のカスタムをするお店で、
東京なら下北沢か高円寺にありそうな雰囲気。
ここで、9月に秋冬のファッションショーが行われた。
モデルは商店街のお店の人たちや近所の人たちで、子どもも参加。
窓の建具を外して、お店の中がまるで立体の紙芝居のようになり、
物語性のあるショーが、バンドの生演奏つきで披露された。

そのときの動画がこちら。

「Ontenna」の三浦 温さんは別府出身。大分市でお店をやっていたが別府に戻ってきた。「ここには古き良き別府が残っています」と三浦さん。

ほかにも、ニット作家の竹下洋子さんのお店が10月にオープン。
竹下さんは、別府のアーティストたちの制作と発表の場であり
住居でもある「清島アパート」にアトリエを構え、
この商店街にニットとテキスタイルのショップを開いた。
こうして人が人をよび、面白い動きが続いている。

ニット作家、竹下洋子さんのショップには鮮やかでかわいいデザインの服が並ぶ。

長崎出身の竹下さんは、東京で自身のニットブランド「Yoko Takeshita」を立ち上げ、15年ほど活動したあと、約10年前に国東半島に移住。服の縫製も染織も大分で行っている。

日名子さんたちの試みは、始まったばかり。
これが継続していって、さらに新しい動きが生まれていくことを夢見ている。
「たとえば人が流れてきて、このフリーマーケットで物を売って生活費を稼いで、
ここで生活していく人が出てきたら面白い。
ほかでも火がついて、そういう場所が別府に増えていったり、
別府だけではなくて大分全体、九州全体にも飛び火して、
点が線になり、人が回遊していくと面白いと思います。
そのためにも、まずここで人を集めたいと思っています」

「変化していかないと面白くない。それが文化だと思います」という日名子さん。

ペンギン夫婦の食堂は、 おっとりおっとり。 お客はゼロでも、 今日も誰かの笑い声がします。

「何これ? 芋に穴開けたの?」

みなさま、辺銀暁峰&愛理夫婦がモデルとなった
映画「ペンギン夫婦の作りかた」、ご覧になりましたか。
胃袋がキュンとなる、いや、もとい、
じんわりとハートがあったまる、ほんとうにいい映画でした。

おなかがすいた、という現実的な方もいれば、
結婚したくなった、早くおうちに帰りたくなった、なんて方も……。
何を隠そう、「ペンギン夫婦の作りかた」を撮った平林監督は、
この映画がきっかけで、同棲3年目にして、なんとプロポーズ&入籍!
そんなハッピーな報告まであったそうです。

そうなんです。不思議な映画なんです、これ。
映画を作った人も見た人も、話を聞いただけの人だって、
気がつけばハッピーになっている。そんな映画です。
まだの方、映画館に急いでくださいね。

さて、モデルとなった辺銀夫婦の物語はまだまだ続きます。
ちょっと話は戻りまして、「辺銀食堂」が始まった頃のこと。
この前もお話しした通り、移住の先輩でもある西やんと暁峰さんの2人で
何から何まで手作りしたうえ、
クーラーも、元々備えつけてあったのを使おうということになったため、
食堂オープンまでにかかった費用は
家賃と水道&電気工事を含めて、おおよそ100万円だったそう。

何という節約上手でしょう。って思いますよね。
ところが、タダよりこわいものはない。
食堂が始まって初めての夏、クーラーが壊れ、お客様は汗だらだら。
結局、新しいクーラー設置に100万円も支払う羽目になってしまいました。

愛理さん、島の人たちに、珍しい、おいしいものを食べてもらいたいと、
いろんなトライをしたそうです。

まず、レンコン。なんと、石垣島にはレンコンがない!
穫れないんですって。そこで、レンコンのお料理を出してみた。
「何これ? 芋に穴開けたの?」
みんな、びっくり。とっても喜んでもらいました。
それから、銀ダラ。南の島にはない、このおいしい魚をお出ししたいと、
東京の築地から鮮度のよいのを1尾送ってもらい、
銀ダラ三昧定食を作って出したのです。島の人は一切食べたことがない魚です。
「これ、腐ってない? 柔らかくてぬるぬるしてるけど、大丈夫?」
これまた、びっくりされたけれど、
評判は・・・(てんてんてん)だったそうです。

「知花食堂」

移住した当初、米原のキャンプ場に大好きなラーメン屋さんがあった。ラーメンにするか、知花食堂の味噌汁定食にするかいつも悩んだっけ(笑)。季節、季節で採れる青菜を入れてくれる具たくさんのお味噌汁が大好き! 八重山そばで作ってくれるソース焼そばもウンマ。テキパキとお料理をする知花食堂の知花文子(ちばなふみこ)おばちゃんに会いに、さぁ、ゴー! ゴー!(営業時間11:30~15:00売切れ次第終了)

「米原キャンプ場」

はい。一番通ったビーチは間違いなくここでしょうねぇ。なにせ、売店(夏季のみ)とトイレ、シャワーはあるし、レンタルのシュノーケルセットはあるし、アイスやお菓子、カップ麺も買える。また、売店の宏子ネーネーがでーじ優しいわけ。観光客の皆さんは海のキレイさと魚の多さにうっとりさね。

「トミーのぱん」

移住した当初は自転車と50ccバイクしかなかったから、パンを買いに米原まで行けなかった。友人やご近所が「アイリー!トミパン行くけどいる?」と声をかけてくれると「バゲットとミルクパン、ポテトと玉子もよろしくー!」と頼んだもんです。移住の大先輩でもある冨永三津夫さんと道子さんのお店は、海を見渡す気持ち良いヤマバレの橋の脇を入ったところで絶賛営業中!

「カリブカフェ」

早口言葉みたいな国「トリニダード・トバゴ」の公邸料理人経験をもつこーちゃん(柴川紘平)と麻衣子ちゃんのお店。2人とも辻調理師学校の卒業生。浅草の名店「大宮」で修行したこーちゃんのドミグラスは美味しいに決まってます! ダンナ様がシェフで奥様がパティシエ。食いしん坊には魅力的な組合せ。歳上ですが、養子にして頂けないですか? http://carib-cafe.sakura.ne.jp/

「福耳」

大阪出身の道下治子さんが11年前(2001年~)に始めた陶房。石垣島ラー油の茶壺バージョンを依頼しています。この5~6年ノリノリのシリーズ水牛の散歩は、白化粧をかけた後引っ掻いて絵を描く。ほっこり可愛い南の島の田園風景がたまりません。ご本人も「楽しくて、楽しくてたまらない!」とカリカリ描いていらっしゃいます。http://blog.goo.ne.jp/fukumimi985

「川平湾」

ミシュラン・グリーンガイド・ジャポンの3つ星を受賞した石垣イチの観光地。海の透明度は調子が良いと20m以上! 見えすぎてコワイくらいだが、グラスボートで湾内巡るには最高。近くに真珠の養殖場もあり、黒真珠と日本初のゴールドパールもゲットできる。潮の流れが早いので遊泳禁止ですよー!

「川平ファーム」

移住者の先輩でみんなの相談役でもある橋爪雅彦さん、淑子さんご夫婦。どれだけ相談に行き、どれだけ助けて頂いたことか…。どんなに忙しくてもいつも優しく、丁寧にお話しをしてくださるその真摯なお人柄は憧れです。橋爪さんご夫婦の様な心が広くてカッコイイ移住者になれるよう、私たちは猛烈努力中です。http://www.passion-jp.com/

ペンギン夫婦は こつこつと食堂を作り、 ある日子ペンギンが ぷかぷかとやってきた。

こつこつ3か月。ついに店が開きます。

今回は、誕生ものがたりです。何が誕生するのでしょうか。

石垣島ラー油誕生が2000年春。
紆余曲折あった中、順調に売れ始めた、その年の12月、
辺銀暁峰&愛理夫婦は、かねてよりの念願だった食堂を開きます。
「いつか、お店を開きたいね」
というのは、結婚した頃からの夢でもありました。

料理を作るのが好きな2人にとって、
石垣島は、まさに食材のパラダイスでした。
知れば知るほど、広がっていく食材の世界にすっかり魅せられ、
東京で描いていた夢が一気に開いていきます。

食堂の場所は、石垣島のゆいロード沿いに決めました。
内装工事は、暁峰さんと、辺銀夫婦の友人が
何から何まで、こつこつ手作り。3か月かかりました。
店名は、まんまですが、「辺銀食堂」。この年は、石垣島ラー油と、
いろんな夢が詰まった、この小さな食堂が産声をあげたのです。

メニューの核は、辺銀夫婦お得意の餃子に決めました。
でも、ただの餃子ではありません。
日本中探しても、どこにもない、
島の食材を駆使した、五色の「島餃子」です。

「白」…小麦粉そのもの 具材…豚肉&島ラッキョウなど

「黒」…イカスミ入り 具材…豚肉&イカなど

「緑」…ホウレン草入り 具材…豚肉&ウイキョウなど

「赤」…赤ピーマン入り 具材…豚肉&葉ニンニクなど

「黄」…ウコン 具材…豚肉&レンコンなど

具材は季節によって、アダンの新芽や島ニラが入ったり、
ゴーヤー、ヨモギ、長命草、苦菜やホービーガンジューが入ったり。
彩りもにぎやかな上、元気な島野菜があれこれ入った、
いわば、命薬(ぬちぐすい)餃子。
これを油で焼かずに、ゆでて提供するのですから、
ヘルシーなこと、この上ありません。

それから、ジャージャンすば。
これは元々は、暁峰さんが北京のおばさんに教わった味。
こちらも、無かん水、無添加の
ペンギン食堂オリジナルすばを使い、島の食材をたっぷりと盛り込んで、
島ならではの味わいを生み出しました。

「普天間三味線店」

宮古島出身 普天間勲さんが営む三味線専門店。ほどよく寝かした黒木(黒檀)の原木から削り出したサンシンの音色は師範クラスの人たちの憧れ! 初心者からのサンシン教室の開催日等は直接お問い合わせを。

「横目三線」

白保で横目博二先生と貞子先生がご夫婦でサンシンと琴教室をしている。小学生は3年生までは無料。白保の豊年祭から東京のライヴまでこなすスーパー師匠ズのブログ「さこだ浜通信」もチェケラ!(撮影/秋野青)

「海のもの山のもの」

私たちが観光客で石垣島に訪れた時に、お土産として海山の商品を買いまくった。中でもローゼルを砂糖で漬けた「これなーに?」が大好き! 栽培から製造までこなす曽我さんご一家の生き方は私たちの憧れ。お孫さんまで楽しそうにお手伝いしてる。

「サイレントクラブ」

友人の須川裕美ちゃんが総支配人を務めるお洒落なプチホテル。白を基調にした洗練されたデザインは、服飾関係のオーナーさんのセンス。街から少し離れた場所だからこそ楽しめる満天の星空やプライベートビーチ&プールでのんびりしたい。ウェディングも人気。

「手打ちめん処 鍵」

うちの息子の誕生と共に開店したきしめん屋さん。鍵山晴雄さんと八智子さん、娘の宮城直美さんが切り盛り。オススメは三色きしめん天ぷら付きと卵とじきしめん。天ぷらにはご主人の畑で採れた野菜やハーブが使われる。ハイビスカスのツボミの天ぷらはここだけ。お昼だけの営業。

「玉取崎手前ヒージャーポイント」

数あるマイ・ヒージャー・スチールポイントのひとつ。毎回、新しい組合せとスタイルを披露してくれる。みんなで岩の、上にいたり、岩影にいたり。どんな写真が撮れるかは運次第。そんなんが、またいいね。

「玉取崎展望台」

「東シナ海と太平洋が一緒に見れるよー!」と言われて観光客時代に初めて見に行った。観光地だけど、全く人がいない時があり、のんびり読書をしたり、度々昼寝したことも懐かしい思い出。

1988 CAFÉ SHOZO

旅人の目的地となるカフェ。また次へと旅立っていくために。

カップに入ったコーヒー豆や、透明のキャニスターに入った紅茶の葉が
ディスプレイされ販売されている1階を通り、
階段を上っていくとカフェが現れる。
古い建物を上品に、大切に使っていることが感じられる空間。
イスやテーブルの向きや配置、席それぞれの距離感が心地よい。
本の並べ方など、きちんとしているようで、ちょっとしたぬけがある。
堅苦しくない。だが、少しだけ背筋が伸びる気分だ。
自然にやっているようで、すべて計算されたバランスなのだろう。
何だか“はじっこ感”が落ち着くカフェだ。
「自分が気持ち良く仕事したい。来てもらうひとにも気持ち良くなってほしい。
お客さんのターゲット層とか“どんなお店にしたいか”なんて
考えたことはなくて、どうすれば気持ち良く過ごせるか。それだけです」
と話すのは1988 CAFÉ SHOZOの菊地省三さん。
店名の通り1988年にオープンしたこのカフェは、
オープン当初から雰囲気は変わらず、現在ある多くのカフェの参考にされた。
イスやテーブルがバラバラなのに統一感がある、
なんて今のカフェでは珍しいことではない。
が、ここでは20年以上前からやってきたことだ。

1階では、コーヒ豆や紅茶のリーフを販売。

本を横に倒して置く。空間に広がりを感じる。

オーナーの菊地省三さんは高校卒業後「やりたいことがなかった」と、
なんと海上自衛隊に入隊する。物腰やわらかい話しぶりからは、
まったく想像ができない体育会系キャリアに驚く。
そこで「自分でやらないと満足ができないんだと思ったんですよね。
団体でやっていると、楽しめはするけど自己表現はできないでしょ」と、
自分のお店を持つことを決意する。

その後、数年、東京に出てみる。
多くのひとがそうだと思うが、
東京は人口が1000万人以上にもかかわらず、
生活のなかで主に関わるひとは10数人程度。
「それでふと考えた。5万人の田舎だとしても、
きっと関わりを持つひとは同じく10数人なんだろうなと。
それなら東京にいる必要がないと思ったんです」

さらに東京での勝ち負けや、トップを取るという目標設定が当然であるという
社会に対しても違和感を抱いていた。
「東京でお店をやって、ただお金儲けをして意味があるのだろうか。
自分の生まれたところではない東京で自己表現しても、
意味がないのではないか。
それより自分の生まれたまちで自己表現できたら、
充実感が得られるんじゃないかと思いました」
省三さんの考える人生とは、競争ではなく自己表現だった。

ひとり旅が好きだったという。
特別何もないようなまちでも、個性の強い店が1軒、ひとがひとりいるだけで、
そのまちが目的地となる。いろいろなまちや場所を旅しながら、
やはり思い起こすのは自分の故郷だった。
「黒磯も、ひとがたくさん訪れてくれるようなまちにしたい。
だから旅人が好んで目的地としてくれるようなカフェをつくりたい
という思いがあります」と、旅人の視点を生かした店づくりを心がけた。

いたるところに蔵書が。旅ものが多いのが、省三さんらしさ。

まずは、ひとが歩いている“通り”をつくろう。

1988年当時は、すでに地方にシャッター通りが増え始めていた時代。
黒磯のこの通りも同様だった。
「自分がわくわくして他のまちに旅するような気持ちを、この黒磯にもつくりたい。
だからいろいろなお店をつくって、通りをつくろうと思ったんです」
お店ができると通りができる、通りができるとひとが集まる。
こうしたことは、確かに地方のほうがやりやすいし、可能性もある。
そして目的地になれる。
こうしてカフェ以外にも、
インテリア、洋服雑貨などのショップもオープンさせる。
もう数店は、省三さんの手を離れ、独立した運営も進められている。
「まちをひとが歩いているって素敵じゃないですか。
近くにショップを並べちゃえば、車を置いてひとが歩く」
たしかに車で走りながら歩いているひとの姿を見ると、
“ここに何かあるのかな?” と思わせる。
効果は徐々に現れている。ひとが集まるという意味には、
旅や観光だけでなく、“ここにお店をつくりたい”と集まるひとも含まれるのだ。
「小さくてもいいから、自己表現してくれるひとが
たくさん居てくれるといいんだよね。
そうすると、自然と強い集団になると思います」と、
無理のないかたちでの通りづくり、いや、まちづくりを思い描く。

そんなお店やひとが増えてくれば、黒磯が変わるのかもしれない。
20年、30年後、今の高校生が大人になり、東京のカフェで
“そういえば黒磯にもこんな感じのカフェがあったな。黒磯も悪くない”
と思ってくれたらしめたもの。
「黒磯に戻ってみようかなというひとが増えたら、
やっていた価値もあるんじゃないかな」と省三さんは、
自分が過去に出合ってきたカフェを思い浮かべる。
数々のまちで出合ってきたカフェには、たくさんの思い出がつまっているのだ。
「喫茶店は、ひとの数だけ物語が出てきそうな感じがするんですよ。
それは外に広がっていく」とひとが集まる場所のパワーを信じている。

最後にこんな例え話で締めくくってくれた。
「ヘトヘトになって死んじゃう渡り鳥もいるんですよ。
でもそんなとき、丸太が浮いていたら?
この丸太はどこに行こうとも思ってない、ただ浮いているだけ。
でも、この丸太でひと休みできたら、渡り鳥は次の場所にまた飛んで行ける。喫茶店なんてそんなもの」

もう一度、旅の目的地として黒磯に行ってみたくなった。

自家焙煎の煙突とコーヒーの香ばしさが迎えてくれる。

インタビューは、読書に集中できそうなこぢんまりとした席にて。

フォトいばらき 2012年秋季号

茨城県『フォトいばらき』 
発行/茨城県

茨城県が発行する『フォトいばらき』の秋の最新号では、茨城の特産「コシヒカリ」を特集。最高品質のコシヒカリをつくる生産者へのインタビューや読者のフォトギャラリーなど、茨城の魅力が満載。美しい実りの秋をたくさんの写真とともにお届けします。

フォトいばらき
http://www.pref.ibaraki.jp/photoiba/

発行日/2012.10

ペンギン夫婦 石垣島の命の薬を、 ラー油ボトルに ギュッと詰め込む。

島の食にも強く心をひかれ。

さぁ、いよいよ、今回は、あの石垣島ラー油のお話です。
「あの」という言葉には、いろんな意味が含まれます。
「あの」と言われるようになるまで、
辺銀暁峰、愛理夫妻には、いくつもの物語がありました。

ラー油つくりが、ふたりの趣味だったことはお話しましたよね。
ペンギンに生まれ変わってからも、それは変わりませんでした。
いや、ますます磨きがかかっていました。

石垣島で暮らすようになったふたりにとって、
見るもの、聞くもの、すべてが新鮮で、驚くことばかり。
とくに、島独特の野菜や香辛料には、強く心をひかれました。

お日さまの力と、土の栄養をたっぷりと吸い込み、
海からの風をはらんで、ともかく元気がいい。だから、体が喜ぶ。うれしくなる。
島唐辛子やウコンを入れたら、島ならではの、ご当地ラー油ができるんじゃないの。
そう思ったら、もうすでにつくり始めていました。

今でこそ、ラー油といっても、
いろんなバラエティがあるんだなと、わかりますが、
当時は、小さな瓶に入った、赤い辛い油しかありません。
でも、その頃からふたりは、ご当地ラー油と称して、
ワサビを入れた伊豆ラー油、ピーナツを入れた千葉ラー油、
なんてつくって遊んでいました。

いろんなものを入れて、いくらでも楽しめる。それが、彼ら独自のラー油でした。
ここでつくるなら、当然、「石垣島ラー油」でしょう。
もうすでに、ネーミングはできていたってわけです。

「ペンギン食堂」

1999年に新栄町の自宅で作った「石垣島ラー油」が少しずつ売れ始め、二足のわらじを約1年続けた後、2000年12月に「ペンギン食堂」をオープン。なんと、3か月もトンカン、トンカンDIY三昧。カウンターとイスは西やんこと西田勝紀さんの道具をお借り&習いながら、なんとかつくりました。たったひとつのテーブルとイスは今は移住された「木と鉄」の須田さんの作品。ペンギン旦那ちゃんが生まれて初めてつくったカウンター用のハイチェアーは、バランスが悪く、何人かイスから転げ落ちたっけ! けが人をだしたらデージ、と結局、須田さんにカウンター用のイスも頼みました(笑)。

「石垣島ラー油工房」

第一工房は新栄町の元自宅、第二工房はペンギン食堂のテーブル席、第三工房は現ひびの針灸整骨院、第四工房はペン食の2階。だから、今のビルは第五工房になるさね。その第一から手伝ってくれてるのが工房長のまち子ネーネーと副工房長の立美ネーネー。感謝してもしきれません。

ギャラリー&雑貨カフェ「石垣ペンギン」

ペンギン食堂の2階の工房でラー油を販売していた時、お客様が大川交番まで並ばれることがあり、完全予約制を導入。そこで石ラー販売所として「石ペン」をオープン。観光客の方には沖縄アート雑貨を、島の方にはセレクトした生活雑貨をお届けしたい、と奮闘中。

「南風(パイカジ)」

尊敬してる長浜京子ネーネーのお店。自分で器も焼いてしまう京子ネーネーがつくる「揚げ島豆腐」、「ヒラヤーチー」、「島ラッキョウの味噌炒め」は涙がでるほど美味しい。いつも混んでいるので予約をしたほうがマル。

「南嶋民芸」

移住した当時から大好きなお店。崎原毅さんの凧の話、民具の話はかなり面白い。ソテツの葉で作る虫かごのつくり方を習ったのもここ。豊永盛人の琉球はりこ作品も多い。

ラ・ターブル&雫ギャラリー

屋久島生まれの新しいカルチャーを発信したい。

屋久島を一周巡る県道の南部を走っていると、
白を基調とした都会的なデザインの建物が現れる。
ラ・ターブルというレストランと、ジュエリーと絵画を扱う雫ギャラリーだ。
典型的な“屋久島らしさ”からは少し距離を置いたたたずまい。
ナチュラルでウッディな建物が多い中で、異色の存在だ。
ここを仕掛けているのは、ジュエリーデザイナーの中村圭さんと
画家の高田裕子さん夫婦、料理家の羽田郁美さんの3人。

中村さん、高田さん夫婦は、もともと大阪で活動をしていた。
自然のなかで創作したいという思いをずっと持っていたというふたりは、
たまたま訪れた屋久島に惚れ込んでしまった。
最初は屋久島に通いながら創作活動していたが、
次第に1か月、3か月と滞在期間が長くなっていったこともあり、
思いきって屋久島へ完全移住することにした。
「常に模索しながら、作家性を深めたいと思っていた」(中村さん)
「それまで想像で描いていた森のイメージが、屋久島に全部ありました」(高田さん)
というように、屋久島で田舎暮らしをしたいからというよりも、
自らの創作をより深めたいという思いのほうが強い移住だった。

屋久島で感じたことを作品に落としていくというスタイルで創作していた
中村さんと高田さんにとって、
それらの作品を東京や大阪だけで発表することに違和感を感じ始めていた。
「この土地で感じたことを、この土地で共有したいという思いがあって、
そういう場所があったらいいなとイメージしていたんです」(中村さん)

そんなとき、羽田さんの自宅に遊びにきた中村&高田夫妻は、
裏にちょうどいいサイズの小屋を発見。そこをギャラリーとして定め、
「そのときに横にくつろいでもらえるようなカフェやレストランがあれば
いいなと思ったので、郁ちゃん(羽田さん)に相談しました」(中村さん)

その頃、羽田さんはその自宅をアトリエと兼ねてケータリング業を営んでいた。
もともとは東京都出身だったが、山や川、海のある環境に住むことに憧れていた。
社会人になって数年経ち、食の世界へ進むうち、
住む場所と自分の追求したい食の仕事が屋久島にあると感じ、移り住むことに。
ホテルや料理家のもとなどで料理の修業を積みつつ、
移住して3年目でケータリングを始めた。
こうした流れで、羽田さんの裏庭にあった小屋はギャラリーに、
自宅兼アトリエはレストランへと生まれ変わることになった。

右がジュエリー、左が絵画エリア。温帯植物とのコントラストがまぶしい白亜のギャラリー

雫ギャラリーのジュエリーと絵画のフロアは、入り口は別だが内部の窓でつながっている。

あえて“屋久島らしくない”仕掛けを。

このラ・ターブルと雫ギャラリーは、白い。
いわゆる“屋久島らしさ”はあまり感じられない。
彼ら3人が都会からの移住者だからとはいえ、屋久島の中では不思議な空間となっている。
都会的な要素があったほうが、地元のひとは喜んでくれるのではないか
という思いから生まれたコンセプトだ。

「屋久島にいると、自然があるから
昔に戻らないといけないのではないかというような気がしてくるけど、
今あるいいものを紹介するかたちがあってもいいと思います」(中村さん)
「屋久島は、オシャレしてヒールを履いていくような場所が少ないんです。
今までの洋服が着られないとか、移住者同士だとそういう話で結構盛り上がる」
と高田さんも笑う。

そういった目論見があたって、
ラ・ターブルには特に地元のひとが多く訪れているという。
“フレンチベースのレストランで、平日は一組限定”という、
屋久島ライフからは想像し難いスタイルであるにも関わらず、
「島民の方たちがパリッと着替えて何回もリピートしてくれたりしてうれしいです」
と、その思いがけない利用法に羽田さんも喜んでいる。

しかし、レストランも、ジュエリーも、絵画も、
屋久島の通常の生活から考えたら、決してお手軽ではないかもしれない。
少し背伸びして通ったり、買ったりしなくてはならない。

「使う素材、仕込みの手間、自分の提供したい料理の方法を考えると、
今はこの価格設定になってしまいますが、
思いきってやってみたいことに直球で向かってみようと思いました」(羽田さん)
「幅広いひとになんとなく広めるよりも、
それぞれがやりたいことを突き詰めれば、
共感してくれるひとたちが、例え少人数でもいると思うんです」(中村さん)

屋久島の食材を中心に、今の島では珍しいメニューを提供。前菜は毎週のように変わる。

デザートには、ラ・ターブルの定番バナナチーズケーキ。

彼らは作家であって、ものをつくり、
そこからカルチャーを生み出したいという思いが強い。
それは観光資源が豊富な屋久島からは、なかなか生まれてこない発想なのだ。

「今は、屋久島という島を消費したり、
切り取ったりするような観光がどうしても中心になりがち。
そうではなく、ゼロから何かをつくり出したい。
屋久島から得たインスピレーションを元に生み出された新たなカルチャー。
そこにお客さんに来てもらうという仕組み」(中村さん)
「屋久島らしさって何だろう? と考えたときに、
屋久杉や豊かな自然のイメージが強すぎる。
自然はもちろん素晴らしいし影響を受けているんだけど、
それに頼ってばかりでは、山も森も消耗して自然が壊れていく方向しかない。
でも、屋久島らしい美術や音楽、文化が生まれれば、
それが新たな資源になるはず」(高田さん)

シダのブローチなど、屋久島の自然をモチーフにしたジュエリーの数々。

屋久島の雄大な自然を感じさせる大きな絵が飾られている。下のボトルは、高田さんの絵がラベルに使われている焼酎「水丿森」。

屋久島は自然が豊かな島、というだけの認識でひとを呼ぶことが、
この先どうなんだろうという違和感があるのかもしれない。

「森にばかり重荷を負わせるのもね。私たちが森からもらっているパワーを、
違うかたちに変換して、少しずつ返していきたい」(高田さん)

屋久島への大きなリスペクトは払いつつ、
しかし彼らは、自給的な田舎暮らしに憧れて移住して来たわけではない。
中村さんが言うように、今はもう
「ライフスタイルをそのまま持ってくることができる」時代。
若者はどうしても、一度都会に憧れ、島外に出ていってしまいがちだ。
しかし屋久島にも都会的なカルチャーが生まれれば捨てたものじゃない。
屋久島の高校生ががんばって「ラ・ターブル&雫ギャラリー」へ行くことが、
都市のカルチャーへの第一歩となり、
新たな屋久島カルチャーとして進化していくのかもしれない。

購入しやすいように小さな絵も売られている。白い壁に色が映える。

ちょっとしたオブジェもかわいい。モダンなセンスを意識的に。

ペンギン夫婦  ヨチヨチと石垣島を歩き始める。

辺銀と書いてペンギンと読む、夫婦のはじまり。

これから始まるのは、
遙か南の石垣島に住む、辺銀暁峰&愛理夫妻のお話。
辺銀と書いてペンギンと読む。何とコレ、立派な戸籍名なんです。

中国で出会ったふたりが遠距離恋愛の末、結ばれたのは1993年。
東京でスタートした新婚生活は、毎日、どちらが料理を作るかでもめるような、
何とも珍しい、幸せな形。お料理作りたがりやさん同士の結婚でした。

実はこのふたり、今をときめく、予約8か月待ちの「石垣島ラー油」の生みの親。
新婚当初から、ラー油はふたりの生活に欠かせないものでした。
夫の暁峰さんは中国・西安生まれ。なにしろ西安は、レストランではもちろん、
それぞれのおうちでラー油を手作りするような、中国屈指のラー油どころです。

当然、暁峰さんもラー油作りはお手のもの。
東京でもマイ( our ? )ラー油作りは続いていたのですが、
ある時、編集者だった愛理さんが、取材で訪ねた香港の特級調理師から、
ぽんと膝を打つ大ヒントをもらいます。
以来、試行錯誤を重ねる中、ふたりのラー油作りは革新的に成長し、
「ついに極めたぞ!」レベルまで到達するのです。

まだまだ、石垣島にたどりつきませんね。

1999年3月吉日。那覇夜8時発の琉球海運の船で石垣島に早朝6時に到着。だから初めて見た石垣島の建物はこの「石垣港ターミナル」。朝焼けの中、スーツケースを引っ張って歩き出した。

「きよふく」は1999年3月に初めて石垣島に来た時泊まった民宿。その3か月後、移住する時、借りた部屋が住めるようになるまでの間、2週間くらい滞在した。繁華街にあり、市役所の近く、大好きな中村雑貨の並び、美崎町にも離島桟橋にも近いと良いことづくめ。女将さんが優しかったなー。

民宿「石垣島」。島のお母さんの美味しい手料理が食べたい、と最初に泊まったのが今はなき「民宿石垣島」(現在は宿泊のみ「楽天屋」が管理)。夕方、お客さん全員集められて夕食をいただく。聞いたことがない食材名と料理名、感想を必死でノートに書いた。

私が最初に働いた「舟蔵の里」。当時、従業員の募集がないのに東京から長い手紙を書いてアタック!「舟蔵で働けないなら移住を諦めよう」くらいの気持ちが通じて見事採用(笑)!

ダンナちゃんが働いた郷土料理「ひるぎ」。ホテルミヤヒラ系列。当時店長だった砂川さん(現「あだん亭」オーナーシェフ)から島の食材や料理方を習った。白保から働きに来ていたオバーからもいろんなこと教えてもらったな~!

石垣市公設市場「里子売店」は観光客だった頃、里子ネーネーに「石垣島に住んでみたいな~!」と言ったら「住んだらいいさ~!あなた達なら住めるはずよー!」と優しく言ってくれた恩人のひとり。石垣島ラー油を仕入れてくれた第一号小売店さんでもある。

新栄町「知念スーパー」。新栄町の自宅の裏の「プリマート(現「マックスバリュー」)」とここ「知念スーパー」はほぼ毎日行った我が家の冷凍冷蔵庫だった。特に、貝や島野菜など島の食材が欲しい時は今も買いに行く。食べ方もずいぶん教えてもらったもんです。お気に入りは「ジューシーおにぎり」「中味汁」「白玉入りぜんざい」。おいしーですよー!

最初に住んだ新栄町の元我が家からの眺め。今は取り壊され立派なマンションになった。マルハ鮮魚の大濱長弘ニーニーの漁具倉庫の二階だった。5LDKで1か月7万円。一番小さな部屋が10畳、Lが20畳、オーシャンビューのだだっ広いベランダがサイコーだった。

「木田商会」で新栄町の自宅のリフォーム材料を買いまくりました。ゴッキー対策でコーキング材、二重網戸、よしず、ペンキ、さび止め用ペンキ、土、アウトドアグッズ、テーブル、棚、等々。当時は自転車と50ccバイクだけで往復。楽しかったな~!

フォトいばらき 2012年夏季号

茨城県『フォトいばらき』 
発行/茨城県

茨城県をもっと知りたい県民グラフ誌『フォトいばらき』の2012年の夏季号は、太平洋に面し、美しく変化に富んだ190kmの海岸線を持つ「いばらきの海」を特集。誌面やホームページでは「私の自慢したい茨城のスポットの写真」を募集しているので、そちらも要チェック。

フォトいばらき
http://www.pref.ibaraki.jp/photoiba/

発行日/2012.6

KAMAKURA

神奈川県鎌倉市『KAMAKURA』
発行/chameleon

「観光情報誌ではない、カマクラのまち情報誌」を掲げる『KAMAKURA』。鎌倉在住の学生や主婦、社会人が中心となって制作しています。文化、歴史、自然、人、暮らし、商業、コミュニティなど、いにしえを偲ぶ鎌倉ならではの魅力を掘り下げ、より楽しむための情報を発信しています。
「まちには沢山の魅力的な人達が暮らし活動しています。そんなまちの人の活動を紹介することで、人と人が繋がって、もっと面白きまちになればいいなと思っています。」(代表・宮部さん)

KAMAKURA
http://chameleon-kamakura.com/webkamakura/

発行日/2012.3

日和 VOL.77

長野県長野市『日和』
発行/株式会社 まちなみカントリープレス

長野県ならではのユースカルチャーを発信しているフリーペーパー「日和」。今月号は、小布施のひと・もの・場所、そしてその活動に注目しています。ゆったりと流れる「小布施タイム」が誌面から伝わってきます。

日和
http://www.nao-magazine.jp/cp/hiyori/

発行日/2012.4

きっと

長野県伊那市『きっと』
発行/きっと編集部

南アルプスからほど近い長野県伊那市高遠町で3人の女性が制作する、リトルプレス。
毎号、豊かな山の恵み、水の恵みを慈しみながら自然に寄り添って暮らす人々を特集し、ページをめくるたびに、丁寧に綴られた記事と、素朴で美しい日本の田園風景の写真に心癒やされます。
「きっと」あなたのお気に入りも見つかるはずです。

きっと
http://kitto.petit.cc/

定価500円

発行日/2011.8

SeCue

静岡県伊豆地方『SeCue』
発行/株式会社BACCO

静岡県東部・伊豆から発信され、「ひと」と「もの」と「まち」をつなぐ『SeCue』。
各号ワンテーマを掲げ、伊豆の美しい風景や歴史文化、この地に暮らす個性的な人々に目を向け、地域色豊かにお届け。
伊豆の食材を使ったフードやドリンク、伊豆をテーマにしたおみやげの企画開発も行っています。

SeCue
http://www.loopto.com/magazine/jp/secue/
ブログ
http://se-cue.blogspot.com/

発行日/2012.3

暖暖松山

愛媛県松山市『暖暖松山 だんだんまつやま』
発行/松山市

松山市が主導となり、松山の歴史やカルチャーを発信するフリーペーパー。なかでも日本最古の湯と言われる道後温泉のシンボル、道後温泉本館の歴史を紐解いた内容は、読み応えあり。さらに市民が愛するカフェやバーなどが紹介され、身近な松山を発見できそう。松山の人々のあたたかさをそのままあらわしたような、ゆるりと美しいデザインや写真も必見。新しくてなつかしい、そんな愛媛・松山本。次号にも期待が募る。

愛媛県松山市『暖暖松山 だんだんまつやま』
http://www.dandanmatsuyama.com/

発行日/2012.1

チャンネル vol.5

長野県長野市『チャンネル』
発行/ch.

長野市のリトルマガジン『チャンネル』のVol.5では、
「ぼくらがZINEを作る理由」と題して、2月からch.booksで開催されていたZINE展について特集しています。
大規模に流通していない本=ZINE のつくり手の想いが伝わる一冊です。

ch.books
http://chan-nel.jp/

発行日/2012.2

日和 VOL.76

長野県長野市『日和』
発行/株式会社 まちなみカントリープレス

グルメやファッションはもちろん、音楽やイベント情報まで、長野県ならではのユースカルチャーを発信しているフリーペーパー「日和」。長野市善光寺のすぐそばに編集室を構え、同じビルの地下には「hiyori CAFE」を併設。取材に向かう編集部の最新情報などがアップされるwebサイトもお見逃しなく。

日和
http://www.nao-magazine.jp/cp/hiyori/

発行日/2012.2.29

桜坂劇場

「映画館」から「劇場」へ。

那覇市民の台所、マチグヮー(牧志公設市場)のにぎわいを横手に外れると、
桜坂と呼ばれる細く急な坂がある。
アメリカの施政権下にあったときにはキャバレーやスナック、
バーが並び色街として栄えたが、
今はスナックが少々残る程度でかつての面影はない。

その桜坂のてっぺんに建つのが、桜坂劇場。
1952年に開業した「珊瑚座」という芝居小屋から歴史は始まる。
1953年に映画館に転身し「桜坂琉映館」と改称。
1986年11月に「桜坂シネコン琉映」としてリニューアルする。
そもそも沖縄は、映画興行の文化や歴史が、他の地域とは大きく異なる。

戦後しばらくの間、沖縄では、昭和初期の無声映画と、
新しいアメリカ映画が同時に上映され、多くの人が映画に親しんだ。
その後、沖縄を題材にした多くのインディーズ作品の台頭と流行を経て、
最近は沖縄国際映画祭が開催されるといった、
独自の映画文化を築きあげてきたという背景がある。
しかし、まちの小さな映画館だった「桜坂シネコン琉映」は、
2005年4月にとうとう力尽きてしまう。

なんとか那覇市内に映画館を存続させたいという想いを持った
県出身の映画監督・中江裕司さんを中心とする5人の仲間が
2005年7月に「桜坂劇場」をオープンさせた。
現在は、3つのスクリーンを擁し、年間300本上映するまちの映画館はそのままに、
カフェ「さんご座キッチン」と、
雑貨・本・沖縄クラフトを販売する「ふくら舎」も同時に運営しており、
さまざまな年代のお客さんでにぎわっている。

モーニングを食べられる店が意外と少ない沖縄で重宝するカフェ。
沖縄在住の工芸作家の作品が多く並べられるショップ。そして映画館。
ゆったりとした沖縄タイムに身をゆだねられる空間がつくりあげられた。

「映画だけでなく、音楽のライブがあったり、雑貨や本があったり。
経営側の都合ではなく、“お客さんは何を求めているのか”という視点でセレクトします。
一方でお客さんも、従来の映画館の枠組みを越えて、楽しみ方をセレクトするのです」
と話すのは、桜坂劇場を運営する株式会社クランクの上原力(つとむ)さん。
ショップにセレクトされているものも、沖縄の映画の歴史書や、
やちむん(沖縄陶器)の重鎮の作品、若手のテキスタイル作家の作品など。
どれも一般の土産物屋では手に入らないような個性的で手に取りたくなる品々だ。

映画館の薄暗いイメージを払拭する、明るく開放的なロビー。

沖縄の手しごとが集まるふくら舎。

沖縄の海を想起させる青い壁紙が印象的なホール。

市民大学を劇場で。

桜坂劇場の大きな特徴のひとつは「桜坂市民大学」という、
体験型のワークショップを主催していることだ。
「情報をただ消耗するだけではなく、情報を“つくる”ことも大切だという意識で、
従来にはない劇場のかたちをつくりあげていきました」
と上原さんは語る。

150ほどの講座が随時開かれており、市外や県外からも参加する人が多い。
それもそのはず。講座は、「おじーおばーのウチナーグチ(古くからの沖縄の方言)講座」や
「ウチナー芝居」といった沖縄の文化継承の講義から、
「映画の学校」や「脚本講座」という、映画館の特性を活かした講義もあり、
まさに、ここ桜坂劇場でないと受講できないものが多いのだ。

例えば、「おじーおばーのウチナーグチ講座」について、
「沖縄にくる方には“リアル”と“驚き”という二通りの体感の目的があるのですが、
ここ桜坂劇場は、沖縄の“リアル”の部分なのです。
つまり、ウチナーグチを使いたいという人が学びにくるのです」と上原さん。
なので、桜坂市民大学ではしっかりと使う場も与える。
桜坂市民大学学園祭と称し、講義終了後に成果発表の場が設けられ、
講師も生徒も鍛錬するそうだ。
その様子たるや「単に習いにきているという感覚ではなく、修行ですね」とのこと。
卒業生の中にはウチナー芝居の役者として活躍する人や、
実際に職業として身を立てる人もいるほど。その、講師と生徒の真剣さも人気のゆえんだ。

通常であれば、公民館やそれに準ずる場所で行われることの多い市民大学が、
まちの映画館で行われるということはとても珍しいのでは?
「珍しいどころか、映画館が文化発信の中心になるということ自体、
お手本がなかったのです。もう映画館単体では
人を呼び込むことは難しいと考えた代表の中江裕司が、
日本だけでなく世界中のスクリーンを視察してよい試みを吸収し、
“映画館”ではなく、総合的な“劇場”にしようと。そうしてできたのが桜坂劇場でした」
また、上原さんは、“開かれた場所”という言葉をキーワードとしてあげた。

「映画館は元来クローズドな場所で、
まず入り口にあるチケット売り場でチケットを買ってから
中に入らなければならなかったのです。
でも桜坂劇場では、チケットを持っていなくても中に入れ、利用できます。
映画館という場を“開かれた場”にし、さまざまな人に自由に出入りしてもらい、
いつも誰かがいる空間にする、という考えは新しいかもしれません」

その取り組みもあり、今では、桜坂劇場の会員は1万人に達した。
これは全国的にみても大成功と言える。
「本当に会員・リピーターに支えられています」と笑う。
運営に悩む全国のミニシアターも手本にしたいのでは? 
という問いに、上原さんはこう答えた。

「その土地に合ったやり方というのが必ずあるはずです。
沖縄は地域との結びつきや郷土愛がとても強いし、
興行などの一般的なランキングに左右されず自分の楽しみは自分で選ぶという意識が強い。
沖縄映画の歴史的、文化的な背景もありますし、この場所も昔からあった。
それが良かったのかもしれませんね」

赤い手すりの階段を上ったところは元々会社の事務所だった。今は桜坂市民大学の教室として使用されている。

桜坂市民大学。この日はヨガのクラスが開講中。若い男性も多い。

桜の見頃は2月上旬。桜坂の名にふさわしい光景が見られるという。

ながさき「にこり」

長崎県長崎市『ながさき「にこり」』 
発行/長崎県広報課

長崎県の広報課がつくるながさき「にこり」は、年6回(奇数月)発行する地域情報誌です。県庁や県の地方機関、観光窓口、空港などで無料で配布しています。長崎県のすばらしい魅力をわかりやすくご紹介し、読んでいて思わず「にっこり」する情報誌です。

長崎県広報課
http://www.pref.nagasaki.jp/koho/plaza/dream/

発行日/2012.1