連載
posted:2025.2.28 from:富山県魚津市 genre:旅行
〈 この連載・企画は… 〉
さまざまなクリエイターがローカルを旅したときの「ある断片」を綴ってもらうリレー連載。
自由に、縛られることなく旅をしているクリエイターが持っている旅の視点は、どんなものなのでしょうか?
独特の角度で見つめているかもしれないし、ちいさなものにギュッとフォーカスしているかもしれません。
そんなローカル旅のカタチもあるのです。
text
Sekishiro
せきしろ
さまざまなクリエイターによる旅のリレーコラム連載。第44回は、作家のせきしろさん。
定型に縛られず自由な韻律で詠む「自由律俳句」をつくる俳人でもある、
せきしろさんの目的地は富山。魚津のまちを吟行しながら、
旅の途中で思いついた自由律俳句とともに綴ってもらった。
車窓から山が見えた。山は悠々とそして堂々と連なっていた。
自分の原風景にはだだっ広い雪原がある。何もない白い世界である。この山が富山の人の原風景なんだろうなと思った。
ただ、私が故郷にいた頃は見えるものすべてが当たり前の風景であって、それが原風景になるなんて一切思っていなかった。故郷を離れてから原風景だと気づく。きっとこの山々もそうなんだろう。
富山駅に着くとひんやりとして、上着のファスナーを上げた。同時にある記憶が蘇った。私は富山に一度来たことがあった。1989年、平成元年に富山大学を受験したのだ。なぜ富山大学を志望したのかは覚えていない。その頃はとにかく知らないところに行きたかったから、ただそれだけの単純で衝動的な理由だった気がする。受験することが決まってから私はまだ見ぬ富山に住むことばかり想像していた。
ところが仲の良かったクラスメイトが「東京でお笑いをやる」と私に告白してきたので心はそっちに支配されてしまった。受験どころではなくなった。それでも受験することは決まっていたから富山に向かい、前日は富山市に泊まったはずだ。次の日、大きな川があって、橋を渡ったのを覚えている。親にお土産で初めて見るホタルイカを買ったが、私はそのまま東京に行って故郷には帰らなかったので結局渡していない。
山頂白くなり手には赤本
山動かず見る者が変わっていく
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今回の目的地は魚津市である。富山駅から「あいの風とやま鉄道」に乗って魚津へ向かった。また車窓から連なる山々を見た。
魚津駅。初めての駅の改札を抜ける時ほどワクワクすることはなく、そこには知らないポスターや知らないキャラクターや知らない注意事項があり、それらが目の前に現れた時の高揚感は他ではなかなか味わえるものではない。
私は土産店が好きである。観光地に佇んでいる土産店でお土産を見て買うのが好きなのだ。子どもの頃、旅行先ではいつも地名が記されたキーホルダーを買った。いつしか貯金箱だとか湯呑みだとか灰皿だとか置物だとかを好んで買うようになった。「そんなもの買ってどうするんだ」と言われることが多いが、時折「良いなあ」と同意してくれる人がいる。その後者にあたる人が魚津に良い土産店があると教えてくれた。魚津水族館に隣接している土産店、その名も〈真珠コーナー〉である。
駅から魚津水族館方面へ向かう交通手段は何が良いのか?電車か?バスか?それともタクシーか?地図を見るとそれほど遠く感じなかったので歩くことにした。結局はそこそこ遠かった。しかしそこにも醍醐味はあって、知らない町の知らない時間と生活に触れることができる。その時間もまた私には魅力的だった。どこか学校をさぼった日の感覚に似ている。
雪の上と雪が解けかかっているところと完全に解けているところが不規則に続いていて、滑らぬよう慎重に歩いていると商店街に出た。
初めて来たのに初めてではない気がするという表現をよく目にするが、それは本当に多々あることで、望郷と懐古がそうさせるのだろう。今回も一瞬でその状態になった。商店街の中に学生服を売っている店があって、それだけで郷愁を感じた。売っている学生服のメーカーが自分の地元とは違うもので、「ああ今自分は旅先にいるんだ」と再認識する。ここで制服を買う人のことを考えはじめ、やがて自分がもしも住んでいたらと想像し始める。受験前の頃と基本的に変わっていない。
雪解けの音右にも左にも
故郷と似たところを探す無意識
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商店街を抜け、海の方へと歩く。海沿いを歩きながら「そうかこの海も富山の人の原風景なのか」と思う。遠くに見えていた観覧車が少しずつ近づいてくる。いよいよ〈真珠コーナー〉だと思った時、突如発祥の地が現れた。その名も『米騒動発祥の地』だ。
私は発祥の地を見るとテンションが上がる。ただ、発祥の地を目掛けて旅に出ることはなく、いつも偶然に身を任せている。前回は『うーめん発祥の地』で、その前は『名古屋コーチン発祥の地』に出会った。さらにその前は『じぇじぇじぇ発祥の地』。ちなみにうーめんとは宮城県白石市の食べ物であり、そうめんの一種である。
米騒動。その言葉は知っている。教科書で見た記憶がある。しかし詳しいことはわからない。ファミコンソフトの『いっき』しか頭に浮かんでこないがそれはきっと違うはずだ。
近くの公園には米俵のモニュメントがあった。冬のせいかコンパクトな米俵の形と色が際立っていて愛おしくさえなった。米俵越しに海も見える。この景色はここでしか見ることができない。
公園には誰かが作った雪だるまがあった。そういえばここまで人とすれ違っていないことに気づいた。いや、そんなことはないか。しかし記憶がない。ふと、雪だるまに人を感じた。
冬の空見て冬の汗を拭く
知らぬ雪だるまの明日を知らぬ
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ついに目的地である〈真珠コーナー〉に到着した。〈真珠コーナー〉といっても真珠だけ売っているわけではなく、その他にも商品はある。むしろその「その他」の方が多い。そしてその「その他」は大量なのである。80年代前後のファンシーショップで目にしていたような商品と鉱物と貝殻が同居している。とにかく嫌いなものが何もない空間だ。
お土産を見始めると、これいいなとかあれが欲しいなとなる。自分用のものを選びつつ、やがて「これはあの人にあげよう」となる。いつも何人かの顔が浮かぶ。お店の人に買い物かご代わりのトレイを貸していただき、目についたものを入れていく。迷って入れなかったものを、二周目で入れていく。
渡したい人に渡せるか。あるいは渡せないものだらけになるか。
帰りは富山地方鉄道の西魚津駅まで歩くことにする。日が暮れ始め雪で白い山々がさらにくっきりとしている。この景色を見て「いよいよ冬か」と思う時と「もう冬だ」と思う時と「まだ冬か」と思う時と「もうすぐ春だ」と思う時があるのだろう。
この初めて歩く長閑な道が、誰かにとっては生活に根付いた道であり、思い出の道であろう。そんなことも考える。周りの音はほとんどなく、自分が歩く音だけが聞こえる。雪の上の誰かの足跡は自分とは別の方へ向かっている。観覧車は徐々に遠くなり、私のような旅行者にひとりだけ会って、会釈する。
西魚津駅は無人駅だった。ホームで電車を待つ。
あとは魚津でお酒が飲めるところを探すだけである。そこで明日はどこに行くのか決めるのだ。
知らない足跡夕闇へ向かう
渡せなかったお土産見えないところへ
profile
せきしろ
1970年北海道訓子府町生まれ。作家、自由律俳句俳人。主な著書に『去年ルノアールで』『1990年、何もないと思っていた私にハガキがあった』『たとえる技術』『バスは北を進む』『放哉の本を読まずに孤独』、自由律俳句集『そんな言葉があることを忘れていた』、『蕎麦湯が来ない』など。東北各地を歩きながら、自由律俳句を生み出していく旅番組『又吉・せきしろのなにもしない散歩』(BSよしもと)に出演中。
Instagram:@sekishiro2
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