豊臣秀吉の最強バディ・豊臣秀長の統治からはじまった、大和郡山の城下町

2026年放送のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の主人公として脚光を浴びている、豊臣秀長。奈良県大和郡山市は、兄・豊臣秀吉が天下統一において最重要と考えた地であり、秀長が人生最後に統治したまちだった。カリスマ的な人間力を持っていたと言われる秀長は、どのように大和郡山を治めていったのか。今回は「豊臣兄弟!」で時代考証を担当した、駿河台大学・黒田基樹教授の話をもとに、秀長の軌跡を辿る。

400年以上の歴史が残る城下町・大和郡山

大和郡山の細い路地
大和郡山の細い路地。

秀長が人生最後に統治した大和郡山。その玄関口となるJR郡山駅までは、奈良駅から快速でわずか1駅とアクセスも抜群だ。いまも城下町の風情を感じる大和郡山は、細い路地が入り組んでいて、歩いて回るのがちょうどいい。

奈良最古の菓子屋〈本家菊屋〉の外観
奈良最古の菓子屋〈本家菊屋〉。建物は江戸時代末期に再建されたもの

JR郡山駅から徒歩10分程度に位置する柳町商店街には、秀長と共に大和郡山にやってきた菓子職人・菊屋治兵衛(きくやじへい)が創業した〈本家菊屋(ほんけきくや)〉がある。名物の「御城之口餅(おしろのくちもち)」は、秀長から「秀吉をもてなすお茶会のための珍果を」との命令を受けてつくられた一品だ。

粒あんを餅で包んで、きな粉をまぶしたひと口サイズの餅菓子。秀吉はこれを気に入って“鶯餅”と名付けた。青大豆のきな粉を使った餅はほんのり緑がかっていて、「これが本当の鶯色なんですよ」と26代目当主の菊岡洋之(きくおかひろゆき)さんが教えてくれる。400年以上たった今日、こうして秀吉と同じものを食べているなんて不思議な気分だ。

奈良市を見下ろす郡山城。僧侶たちをまとめあげた秀長の政治力とは

秀長の菩提寺〈春岳院〉に所蔵されている『豊臣秀長肖像画』

毎年4月22日には法要が行われ、地元の人には「秀長さん」と呼ばれるほど、大和郡山で親しまれている豊臣秀長。秀吉と共に戦を戦い抜き、内政や外交面でも才能を発揮した。

「秀長がいなかったら、秀吉の天下統一はなかったんじゃないか」と、黒田教授が語るとおり、秀吉が最も信頼する優秀な弟であり、最強の相棒だった。

織田信長の時代に大和郡山を統治していた筒井順慶(つついじゅんけい)の亡き後、秀長が郡山城に入城したのは、天正13年(1585年)のこと。自分の分身とも言える秀長を送り込んだ理由はもちろん、大和郡山が秀吉の天下統一にとって重要な場所だったからだ。

駿河台大学・黒田基樹教授
駿河台大学・黒田基樹教授

「奈良は寺社勢力が強く、神職や僧侶が支配していました。中世に入って以来、唯一武家の統制下に入っていなかった地なんですね。大和郡山を拠点に、奈良を大名の支配下に編成する。それが秀長の大きな使命だったんです」

だからこそ、秀長の入城はかなり気合の入ったものだった。大和・和泉・紀伊の3カ国にまたがる約80万石の大大名となった秀長は、5000人の軍勢と、秀吉まで同行し、最初からその権力を見せつけた。

秀長が来るまで、奈良市を拠点に大和(奈良)を支配していた興福寺(仏教法相宗の大本山)に代わるべく、秀長は城のある大和郡山を中心に本格的な統治を行った。まずは耕作地の検地を行い、各村の租税額を改定。また「箱本制度」という、町人による独自の住民自治制度の仕組みを導入し、商人の特権を認めながら、城下町での自由商売を奨励し、まちを発展させた。

もちろん興福寺の僧侶たちは反発。興福寺内の多聞院(たもんいん)の僧・英俊(えいしゅん)が残した『多聞院日記』には“とんでもない奴がきた”という記述も残っている。秀長はどのようにして、彼らをまとめていったのだろう。

「秀長は優れた交渉術を持つ人物でした。たとえば寺社の税収が下がる分、彼らが祭礼をやる時には大盤振る舞いでスポンサーになる。統制下には置きながらも、しっかりと保護するという方法を採用したんです。また秀長は、興福寺や奈良市の春日大社を頻繁に参拝していたようです。最終的には両者の関係はそこまで悪くなかったのではないでしょうか」

大大名の居城にふさわしいようにと、秀長の時代には郡山城の大規模な拡張工事も行われた。現在も残る立派な石垣は、寺院の礎石や石仏をかき集めて造られたというのは有名な話。石垣をよく見てみると、模様が彫刻された石材や、仏様がそのまま石垣の一部になっているのがわかる。

秀長の当時の権力を目で感じることができるのが、天守台からの景色だ。

「どの寺社仏閣よりも高い位置から、奈良市を見下ろすことができるんです。この城が、秀長が国主であり一番偉いんだということを、大和中に示していたということです」と、黒田教授。

郡山城跡の天守台展望施設からの景色

現在の郡山城は、周辺が〈郡山城跡公園〉として整備されて石垣や内堀が良好に残る国指定史跡・続日本100名城だ。天守台展望施設に立ってみると、眼下に奈良盆地が広がる。手前に大和郡山、その奥に広がる奈良市のまちなみ。左の方には東大寺や興福寺も見える。秀長は天正19年(1591年)に病没するまでのわずか6年間、この天守台から、自らが中心地として発展させた大和の地をどんな気持ちで見つめていたのだろうか。

豊臣家、天下統一への重要なステップだった大和郡山統治の背景とは

秀長の尽力により、ついに大和も手中に納めた秀吉政権。大和郡山統治は、天下統一への重大な足がかりになったことは間違いない。若くして秀長が亡くなった後には、豊臣政権五奉行の1人である増田長盛を配置し、秀吉は引き続き大和郡山を大和国の中心に据え続けた。

「秀長を研究して、支配者でこんな人間がいるのかと、本当にびっくりしました」

秀長が偉業を成し遂げられた背景には、政治的手腕だけでなく、人間性の良さがあったからかもしれない。その証拠にこんなエピソードがある。

『羽柴秀長文書集』東京堂出版(左)、『羽柴秀長の生涯』平凡社新書 (右)
黒田教授が秀長についてまとめた著書。『羽柴秀長文書集』東京堂出版(左)、『羽柴秀長の生涯』平凡社新書 (右)

「秀長の葬式の時、京都の偉いお坊さんが『穏やかで思いやりがある人物だった』と言った記録が残っているんです。そんな性格描写の文章自体、あまり見たことがありません。また徳川家康や長宗我部元親、毛利輝元といったそうそうたる大名たちが、秀長の追善供養をしているんですね。みんな秀長から指南を受けた大名たちで、彼らにとって大切なボスだったことが想像できます」

郡山城内で没した秀長の墓所〈大納言塚〉
郡山城内で没した秀長の墓所〈大納言塚〉には戒名を刻んだ五輪塔がある。

もしも秀長が長く生きていたら、豊臣政権はもっと続いていたかもしれない。秀吉の右腕であり、大和郡山開拓の祖である豊臣秀長。彼の痕跡を辿りながらまちを歩いてみると、城下町の風景がまた違って見え、大和郡山の魅力をより深く、新鮮な楽しさとともに味わえるはずだ。

Profile

駿河台大学・黒田基樹教授
黒田基樹

くろだ・もとき/歴史学者。駿河台大学法学部教授。1979年の大河ドラマ『草燃える』を見て歴史に目覚める。専門は北条氏を中心とした日本の戦国時代。

Information

奈良最古の菓子屋〈本家菊屋〉の外観
本家菊屋

郡山城の御用菓子屋として天正13年(1585年)に創業。豊臣秀吉のためにつくられた「御城之口餅」が名物。
住所:奈良県大和郡山市柳1-11|地図
TEL:0743-52-0035
Instagram:@honkekikuya.japan

Information

郡山城
郡山城跡

住所:奈良県大和郡山市城内町|地図
TEL:0743-53-1151

Information

大和郡山市の大納言塚
大納言塚

住所:奈良県大和郡山市箕山町14-8|地図

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