農村から邸宅街へ。芦屋はいかにして「憧れの街」になったのか?文・鈴木淳史

芦屋川
かつては農村と漁村が広がる土地だった芦屋。鉄道の開通とともに発展し、やがて谷崎潤一郎をはじめとする文化人や財界人が集う街へと変わっていった。なぜ人々はこの場所に惹かれたのか。芦屋在住のライター鈴木淳史さんが、その歩みを辿る。

文・鈴木淳史

『家どこですか?』と聞かれて、『芦屋です』と答える。『セレブ!』という反応を飽きるほど浴びてきた。高級住宅地という言葉を飛び越えて、今やセレブなんていう陳腐な言葉で括られる。

母方の祖父母が芦屋に住み始めて約80年。赤ん坊の頃から芦屋には遊びに来ていたらしいが、芦屋へと引っ越したのは5歳。当時の記憶は確かでは無いが、セレブなんて言葉は浸透していない時代で、5歳の幼稚園児は高級住宅地という言葉もピンときていなかったはず。ただ、ひとつ言えるのは昔も今も住みやすいということ。穏やか緩やか、のんびりのどか。だからこそ、セレブ=お金持ちの単なる高級住宅地という着地は、とても居心地悪い。

知ってるつもりで深く知ろうとしなかった芦屋の歴史を、来年で50歳の学年というエエ歳でもあるので、様々な歴史文献を参考にして紐解いてみることにした。ある意味、パンドラの箱を開けちゃう気分。

まずは明治22年(1889年)、打出(うちで)村・芦屋村・三条村・津知(つじ)村という四つの村が合併して精道(せいどう)村が発足したところから話を進めたい。明治時代になっても江戸時代から続く農村漁村風景が広がる場所だったらしく、芦屋市という地名になったのも昭和15年(1940年)。未だに78歳の母親は未だに市役所や税務署や警察署がある阪神芦屋駅付近を精道村と呼ぶ。そんな村がなぜ人気の街へと進化したのか。

住宅開発の大きなきっかけは鉄道。明治7年(1874年)、大阪神戸間に 現在のJR東海道本線である官設(かんせつ)鉄道が開通した。で、大正2年(1913年)、ようやく芦屋駅が開設。明治38年(1905年)には、阪神電鉄が開業して芦屋停留場と打出停留場が開設される。大正9年(1920年)には、現在の阪急電鉄である阪神急行電鉄の神戸線が開通して芦屋川停留場も開設。一方、その頃の大阪は日本一の大都市で工業が発達したものの、大気汚染と水質の悪化に悩まされていた。なので桃源郷のように眩い光の輝きを放つ芦屋地域には、大阪と近距離ということもあり、高島屋創業家・朝日新聞創業者・八馬財閥家といった企業家がこぞって邸宅を構えていく。セレブや高級住宅地という言葉にピンとこない私でも子供の頃から御屋敷という言葉には馴染みがある。いわゆる成金的なお金持ちでは無く、一種の品の良さを感じていた。

開園したころの芦屋遊園地
開園したころの芦屋遊園地

芦屋に移り住んだ人々の多くは上流階級で、大阪は船場(※心斎橋周辺に広がる江戸時代から続く商業地区)の商人が主体とも言われている。跡継ぎを重視した起業家や商人にとって、子育てに最適な芦屋を住処に選ぶのはごく普通のことだったのかも知れない。また起業家や商人は、国際貿易港として栄える神戸近隣の芦屋に住み始めたことで洋風文化にも触れて、和洋折衷の独自の文化を育んでいく。

その様子を見事に描いたのが、昭和18年(1943年)に発表された谷崎潤一郎【明治19年(1886年)〜昭和40年(1965年)】の小説『細雪』。谷崎自身も芦屋に居を構えていたことがあり、芦屋市には谷崎潤一郎記念館も建てられている。阪急芦屋川駅の駅前にある商店街には、谷崎が懇意にしていた和菓子屋『杵屋』が現在もあり、谷崎公認の和菓子『細雪物語』は芦屋市民にとっては欠かせないお土産品。

余談だが、通学する山手中学校の下校時に生徒たちがコンビニで買い食いをする中、私は杵屋の和菓子で買い食いしていたのも懐かしい話。

ちなみに『細雪』についてもう少し記述するならば、登場人物の四姉妹の末っ子である妙子は、いわゆるモダンガールとして描かれた。流行語的に言うならばモガ。芦屋を含む阪神地域には、「阪神間モダニズム」という言葉もあり、近代的という意味合いも持つモダンは芦屋にとって最重要キーワード。

芦屋には当時のトップクラスの建築家が手がけたモダンな邸宅が建ち並ぶが、その最たるものが、近代建築三大巨匠のひとりフランク・ロイド・ライトが設計した旧山邑邸(ヨドコウ迎賓館)。しかし、ただモダンな邸宅が建ち並んだわけではない。主に接客に使用される洋の空間と日常生活の場としての和の空間を兼ね備えた和洋館という独特の建築であった。単なる西洋住宅では無く、和の文化にも昇華させた芦屋人たち。

そういや単なる平屋である山手町の我が家も玄関入ってすぐに西洋的な応接間があったが、すぐ横は和の畳部屋であったことも思い出す。そうそう、阪神淡路大震災まで山手町で暮らした私にとって、同じ山手町の坂に佇む旧山邑邸は日常の観慣れた風景でしかなかった。なので、大人になってから調べれば調べるほど立派な建物であったことがわかり、今更ながら感銘を受けている。

他にも旧松山家住宅松濤館(芦屋市立図書館打出分室)・芦屋仏教会館・旧芦屋郵便局電話事務室(芦屋モノリス)・芦屋警察署など、大正時代から昭和時代初期に建てられた歴史的建造物が多数存在する。芦屋警察署は阪神芦屋駅すぐ目の前にあるが、あまりにもモダンで洒落た入り口というか門構えに、初めて観た知り合いは尋常じゃ無く感激する。私には子供の頃から観慣れた風景過ぎるのだが、確かにありふれた警察署の堅苦しい威圧感は全く無い。芦屋ならではの景観に知り合いが感激するのには他にも理由がある。

芦屋は景観を損なわないために屋外の広告物に対して条例があり、映画館・パチンコ・ラブホテルといった派手な娯楽施設も一切無い。コンビニやチェーン店の一部では、本来のショップカラーよりも抑えた店構えも見受けられる。誤解のないように書いておくと、それらは規制されたというより、芦屋のモダンなムードに敬意を払った礼儀正しさや気品に倣っている。

芦屋の歴史で忘れてはならない歴史も書き留めたい。

大正12年(1923年)の関東大震災。震災から逃れようと東京より多くの人々が関西に移ってきたが、その際に環境の良い芦屋も選ばれ、多くの財界人や文化人が邸を構えた。なので東京生まれ江戸っ子の谷崎然り、芦屋には江戸文化も根付いている。谷崎が愛した杵屋も東京で修業した職人であるため、江戸風和菓子である。また鰻屋も、上方は商人が多かったので、腹を割って話すということから腹開きが多い。しかし、芦屋は武士が多かった江戸文化を吸収したことで、切腹を連想させる腹開きでは無く背開きが多い。

大震災でいうと避けて通れない平成7年(1995年)の阪神淡路大震災。上方も江戸も相通じるのは人情。セレブや高級という言葉に捉われがちな芦屋も紛れもない人情の街。三代に渡って芦屋市民を支える上塚耳鼻咽喉科の上塚院長が、高速道路も倒壊した悲惨な状況の芦屋市街を視察に来ていた大阪の救急車を発見して、運転手を説き伏せ、芦屋と大阪の救急奔走ルートを切り拓いた話は、芦屋市民でも知っている人は少ない。どの街も勿論そうだが、芦屋という街も人の情によって間違いなく成り立っている。

芦屋という街は、何故これほどまで財界人や文化人を始め多くの人々を惹きつけるのか。JR芦屋駅前にモンテメール芦屋という昭和55年(1980年)開業の商業施設がある。モンテメールとはフランス語で山と海という意味。私も小学生の時から中学生の時まで在籍した芦屋少年少女合唱団では、こんな歌が歌われている。

『モンテメール 山と海の街 芦屋我が街』

未だに口ずさむ歌。てか、この歌詞に芦屋の全てが詰まっている。明治の農村漁村時代と或る意味変わらず、今も阪神芦屋駅からは芦屋川を繋ぐかの様な山と海を共に眺められる。人はお金を持とうが持たまいが、自然を何処かで欲している。心の安息を求めて芦屋に辿り着くのは如何にも必然ではなかろうか。

そう誰が何と言おうと、芦屋は山と海の街なのだ。

Information

鈴木淳史
鈴木淳史

1978年生まれ。芦屋在住のライター、インタビュアー。ABCラジオ『真夜中のカルチャーBOY』のパーソナリティと構成も担当。
X:@suzudama14

参考文献:『芦屋 あしやを歩く本』(株式会社コミニケ出版)


画像提供:芦屋市

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兵庫県は、日本海と瀬戸内海の二つの海に面し、港町の文化と山あいの素朴な暮らしが共存する土地です。海と山に囲まれた豊かな自然の中に、城下町や温泉地、異国情緒あふれる街並みなど、多彩な風景が広がっています。古くから交通と交流の要衝として栄え、さまざまな文化や人々が行き交ってきました。異なる風土と歴史が重なり合い、土地ごとに個性豊かな魅力が息づいています。

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