コーヒーショップを開こう

編集者から喫茶店のオーナーへ。

家の事情で実家のある岡山県倉敷市に帰った。2005年のことだ。
で、「アジアンビーハイブ」というフィリピンパブみたいな名前の会社を設立し、
『Krash japan(クラッシュジャパン)』というプロレス団体みたいな名前の
フリーマガジンを始めた。
ひたすら工業地帯を写真に撮ったり、定食屋一軒で30ページの特集を組んだり。
自分で言うのもなんだけど一風変わった雑誌で、
英語のテキストを併記して、ロンドンを中心に海外にも配布した。
でも、地元の企業やショップから集めた広告でまかなえるのは印刷費と経費のごくごく一部。
そんな雑誌を年2冊のペースで発行していたものだから、
会社の経営状態は決してよろしくない。
というか最悪で、会社設立当初に信用金庫から借り入れしたお金は1年ももたなかった。
もっともひどかった2007年には、
地元の観光旅館で朝食の配膳と部屋掃除のアルバイトをしながら雑誌を作っていた。
そうやってしぶとく発行を重ね、2010年春にはなんとか当初の予定通りvol.10を発行、
5年にわたる活動に区切りをつけることができたのだった。

会社についてもう少し紹介しておこう。
わがアジアンビーハイブは倉敷市の南端、瀬戸内海に面した児島というまちにある。
仕事は主に広告制作。
先に紹介した『Krash japan』に関連して、
企業の広告やカタログの制作オファーをこなしているうちに、
いつの間にか本業になってしまったというところだ。
社員は今年で在籍3年目になるヒトミちゃん、24歳。
周囲の誰もが認める才色兼備なのだが、なぜか長く彼氏がいない。
最近は「すぐに見つかるから大丈夫よ」的な
ぼくの励ましの言葉も全然届いていない感がある。
アルバイトのサトちゃんは大学3年生、
昨年秋のインターンが心地よかったのか、以来いついてしまった。
そのわりに「うちに来る?」というぼくの誘いを
「わたし東京に行きますから」とむげに断って現在就活中。
当事務所にはサブという雄犬もいる。
昨年の5月までは立派な野犬だったのだが、
事情があって(みんないろいろ事情があるのだ)現在は社のマスコット的存在に。
とはいえ野犬の性癖はなかなか拭えず、クライアントだろうがなんだろうが、
いまもってうちに来るお客さんにはとりあえず牙をむいて吠えまくる。

さて、ここからが本題。
話は2011年の11月の末あたりにさかのぼる。
岡山市中心部の郵便局前の電車通り(岡山にはまちなかに路面電車が走っている)に、
月に2、3回は必ず足を運ぶ喫茶店というかカフェというか、まあそんな場所がある。
通称「街スタ」、正式には「街なか study room」という。
店は厨房を入れて7坪と狭く、まともなテーブル席はひとつしかない。
店主のコイケさんは長年飲食店をやっていて、
4年ほど前に、「美味しいコーヒーを飲ませる店をやりたい」と、
自分のカフェを閉めてこの店を新たに始めた。
言うだけあってコーヒーは実に美味い。
ラッシーやバナナモカシェークといったアレンジドリンク類も秀逸で、
トーストやサンドイッチといった食事メニューも抜群に美味い。
そんな岡山市内で唯一の行きつけの店が閉店すると聞いた。
店主のコイケさん本人から。

「今日不動産屋さんに、2月いっぱいで閉めますと言ったんですよ」
コイケさんは他人事のように、いつもの笑顔でそう言った。
なにやら自分の給料もまともに出ていなかったらしい。
それにしても、いつもながら行きつけの店がなくなるというのは寂しい。
思い浮かぶのは、中目黒ガード下の寿司屋「丸源」、
目黒銀座商店街にあったカレー屋「オレンジツリー」、
近所の美容院のウラくんとよく行った山手通り沿いの定食屋「グリーンウッド」………。

「コイケさん、ぼくがやりましょうか、このお店」
ついつい口に出してしまった。
ぼくは言わないほうが身のためであることを、
ついつい口に出してしまうタイプの男なのである。
「コイケさんにはこれまで通りこの店を切り盛りしてもらって、
うちから給料を支払います。
ぼくの会社で経営するってことなんですけど、そうゆうのどうですか?」
いやあ、そうゆうのは、ちょっとね………という展開も十分にありえたはずだ。
なにせコイケさんは飲食のプロ、しかも還暦も過ぎたいいお歳なのである。
「私、順応性はあるほうです」
コイケさんは笑顔でそう言った。
こうして一晩を境に、ぼくの人生は喫茶店経営という、
これまで想像だにしなかった世界へ足を踏み入れることとなったのだった―――――というか、
うちの会社、本当に大丈夫か?

アジアンビーハイブのオフィス内観。家賃は中目黒の駐車場2台分より安い。
JR児島駅からは歩いて7分、目の前に小さな港もあってロケーションよし。

元野犬のサブ。
飼い始めから週2回、2カ月にわたってトレーナーに来てもらっていたのだが、
最終日までトレーナーに敵意むきだしで吠えまくっていた強者なのである。

これが今後の舞台となるコーヒー屋さん「街なか study room」。
路面店の1階と場所は悪くない。にもかかわらず、このひっそり感。

ひだびと。

岐阜県飛騨地方『ひだびと。』 
発行/ひだびと。制作委員会

岐阜県の北部に位置する高山市・飛騨市・下呂市・白川村の3市1村、「飛騨地方」。
昔から脈々と受け継がれてきた文化や、情緒あふれる風土に育まれ、飛騨独特の魅力を持った人々が、飛騨地方の内外で大勢活躍しています。
ひだびと。は、そうした人々にスポットを当て、多角的に飛騨の魅力を再発見していく、飛騨のファンブックです。

ひだびと。Facebookページ
https://www.facebook.com/HIDAbito?sk=info

発行日/2011.9

Krash japan

岡山県倉敷市『Krash japan』
発行/アジアンビーハイブ

2005年9月に創刊され、当初からvol.10で完結すると宣言。そして、2010年3月に本当に最終号を迎えてしまった伝説のフリーマガジン。倉敷のカルチャーを東京、大阪、ロンドンに向けて発信しています。
編集長・赤星 豊さんは、フリーマガジン『風と海とジーンズ。』の編集長もつとめています。

Krash japan
http://www.krashjapan.com/

発行日/2008.9

風と海とジーンズ。

岡山県倉敷市『風と海とジーンズ。』
発行/岡山県倉敷市 制作/アジアンビーハイブ

「国産ジーンズ発祥の地」
として知られる倉敷市児島地区の繊維産業と観光情報を提供するタブロイド紙『風と海とジーンズ。』
「児島地区のもつ反骨の精神を紙面で表現したい」という想いを載せ、倉敷市が発行しています。
編集長は『Krash japan』も手がける、赤星 豊さん。

倉敷市文化産業局商工労働部商工課
〒710-8565 倉敷市西中新田640番地
TEL 086-474-6800

発行日/2010.3

旅手帖 beppu

大分県別府市『旅手帖 beppu』 
発行/特定非営利活動法人 BEPPU PROJECT

『旅手帖 beppu』は、厳選した別府市中心市街地の
「いいとこ」を紹介する季刊誌。別府の魅力を余すところなく伝えています。まち歩きをより楽しむためには、BEPPU PROJECT が発行する、『もぐもぐマップ』と、『てくてくマップ』も必携。

旅手帖 beppu
http://beppu.asia/
特定非営利活動法人 BEPPU PROJECT
http://www.beppuproject.com/

発行日/2011.9

和光

シベリアの山奥で氷づけになったマンモス、のような喫茶店。

ずっと気になる店だった。道沿いにある古い喫茶店で、店名を「和光」という。
どんなところが気になっていたかというと、あまりの目立たなさ加減。
店内が暗いせいで窓はあっても中の様子がまったく見えない。
とはいえ交通量の多い通りの1階にある路面店、しかもまちの中心に近い。
そんな好立地にありながら、同じ児島エリアに長く住んでいる人でも、
「それ、どこよ?」とまったく知らないということがよくあるのだ。

初めて入ったのは3年ほど前。
2005年から始めた倉敷の雑誌『Krash japan』で
喫茶店を特集したときだった(vol.7/2008年9月発行)。
ちょっとした驚きだった。シベリアの山奥で、
そのままの姿で氷づけになったマンモスを見つけてしまったみたいな。
店内は40年かそこら、完全に時間が止まっていたみたいだった。
店の内装も什器もすべて、それこそ
テーブルの上の灰皿ひとつとっても、かなりの時代を感じさせる。
でも、ただ古いというだけじゃ、心はとらえられない。
古道具とかアンティークとか、そんな類に興味ないし。
ぼくが心を動かされたのは、それらひとつひとつが、長年、
丁寧に大切に扱われてきたことがうかがえて、
それによって店に風格と、なんともいえない品のよさが漂っていたことである。
自分のごくごく身近にこんな世界があった、というのも驚きだった。
やっぱり、気になるところは入ってみるもんだな、つくづくそう思った。

以来、和光には今もときどき訪れる。
しばらく顔を出さないと、「最近は忙しいの?」と店主の藤川夫妻が気遣ってくれる。
たしか70歳近いと思うけど、ともにお元気だ。
いつも座るのは窓側のソファ席。外からは見えないけど、
店の中からはレース越しでも外がよく見える。
信号待ちしている車の運転手の顔なんかはっきりと。
店は静かだ。午前中は混んでいるらしいけど(早朝6時から営業!)、
午後は常連さんがぽつぽつ。
コーヒーもおいしくて、ただ窓の外を眺めてゆったりと時間を楽しめる。
コーヒーを飲んだ後は、必ずこぶ茶が運ばれてくる。
これ、ぼくだけへのサービスじゃなくて、すべてのオーダーの後に付いてくるから、
店を出るときのお客さんはすべからくこぶ茶の口になっているというわけだ。
そんなところもかわいくて面白い。長く続いてほしいなと思う。

『Krash japan』vol.7(2008.9)でも大きく紹介されている。

いつも座る窓側の席。開店は午前6時。日課の散歩を終えた常連が集まる。写真・池田理寛

Information


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和光

住所:岡山県倉敷市児島下の町8-1-4

TEL:086-472-5764

営業時間:6:00〜19:00

定休日:日曜休

六角橋商店街

老舗商店街のもうひとつの顔は、サブカルイベントのメッカ。

東急東横線・白楽駅を降りると、華やかなアーチの看板が見えてくる。
住宅地に囲まれている六角橋商店街は、
約500mのメインストリート「六角橋大通り」と、
それに平行する裏路地アーケード通り「仲見世通り」、
さらに、多数の小さな路地で構成されている。
近くには神奈川大学もあるため、通学途中の学生や、
商店街にやってくるたくさんの人で通りはにぎわっている。

六角橋商店街の歴史は古く、横浜市内でも戦前から続く老舗商店街。
第二次世界大戦中には、延焼を防ぐため
ほとんどの建物はつぶされてしまったというが、
戦後、たくさんの商店が並んだ。
なかには、戸板で闇物資を売るものも。こうして、今の商店街が始まった。

乾物を扱う足立商店も戦後すぐにお店を構えた。
「昔は、商売が楽しくってね。なんでって、そりゃ、売れるからさあ。
サラリーマンなんかやってるより、ずっと面白かったよ」
ご主人の隆さんは当時を懐かしそうに話す。
開店当時から変わらない足立商店のレトロな看板が、心をくすぐる。
そんな歴史ある六角橋商店街では、
近年「ヤミ市」というイベントでにぎわいを見せているらしい。
一体、ヤミ市とは……?

ガラスケースに並ぶ、揚げたての唐揚げに思わず立ち寄る高校生の姿も。

新聞に目を通しながら店番なんて、なんだか昭和のドラマみたいです。

「20年くらい前かな、閉店する店が増えてしまったから、
客引きのためのイベントをいろいろ考えたんです。そしたら、
シンボルイベントの大道芸が失敗。お客さんは来たんだけどね。
結局、野毛(※)の二番煎じにしかならない。
もっと六角橋らしいものは何かと、考えた結果、
アジアのナイトマーケットのようなフリマをしようと。
それなら、近隣住人たちでライブもしようってなったんです。
この街にはミュージシャンたちが結構住んでいましたから。
しかも、場所は店が閉まった後の仲見世通りの路上。これがウケましてね」
このアイデアの発案者で、現在、六角橋商店街の販売促進部長を務める
石原孝一さんが、真相を教えてくれた。

以来14年ほど、夏季(4月〜10月)限定で、
「ヤミ市」と称して、フリマの他にもさまざまなイベントが、
夜な夜な開催されているのだ。
20時以降、しかも路上だからか、開催されるイベントはどれも個性的!
南陀楼 綾繁さんの一箱古本市、
パフォーマンスアーティスト・ギリヤーク尼崎さんの公演など、
サブカル好きにはたまらない有名人たちの名前も。
さらには、チャリティー野宿、ストリート結婚式など、
あの狭い道幅で、どんな風に開催されるものなのか興味惹かれる。
「基本、誰でもウェルカムですからね!
おもしろいことをしてくれれば、それでいいんです」

ヤミ市の様子。古本市とかっぱのダンサー・おいかどいちろう氏のパフォーマンス。

左から専務理事の糸井勇さんと、石原孝一さん。

高久智基さん

自然環境と自分の生活が結びつく場所・ニセコへ移住。

生まれ育った神奈川県藤沢市から、北海道ニセコ町へ移り住んだ
プロスノーボーダーの高久智基さん。
モンゴル最高峰の登頂滑降をはじめ、シベリアやアラスカなど
海外のビッグマウンテンを経験してきた彼が、たどり着いたのがニセコだった。
「世界的に見てもニセコのパウダースノーの質はかなり高い。
ヨーロッパやアラスカのように急な斜面は少ないですが、その分山麓部まで深い雪があるので
スノーボードを日々楽しむ上ではとてもいい場所なんです」
今でもシーズンになると海外で滑ったり、
国内各地の山でイベントや冬山ガイドの仕事をしたりと、
多忙を極める高久さんだが、ニセコを拠点にしてよかったと話す。
「ニセコのシーズンは、11月の終わりから4月の終わりくらいまで。
その間は、冬山ガイドの仕事をしています。ニセコの自然環境や観光資源は素晴らしい。
その地の利を活かして、冬だけではなく夏もアクティビティを楽しんでもらえるよう
自転車コースを製作中です。
スノーボードも自転車も自然からの恩恵を受けて遊ぶもの。
だから、喜びとともに怪我などのリスクも各自が受け入れる自己責任の意識が広まればと」

「POWDER COMPANY」事務所。敷地内に自転車コースを設けている。

2012年以降、300mほどの自転車コースを無料開放する予定。

高久さんは冬山ガイドとして、ユーザーが安全に雪山を楽しむための活動をしている。
そのときに伝えているのは「ルールを守る」ことと「自分の身は自分で守る」こと。
「スキー場のリフトで登ってしまえば、ゲレンデからたいがいのバックカントリーに行けます。
でも、スキー場内のルールは守らなければなりません」
なぜなら、スキー場はエキスパートだけの場所ではなく、
日々多くの「初めての人」が訪れるパブリックな施設ですから。
例えば、経験の少ない人が真似をしないよう、立ち入り禁止のロープをくぐらない。
そして、管理されていないところで起こる立ち木への激突などは自身で気をつける。

「その認識は、みんなで作り上げることが大切。これだけの人が何を目的にニセコを訪れ、
そこに伴うリスクは何なのかということを、事業者にもユーザーにも落とし込みたいんです」
シーズンになると朝7時半前から、前日と当日の雪山のコンディションを照らし合わせる。
そして高久さんの所感とガイド全員の所感、天気予報も交えてその日の予測を立てる。
「今日はこういう範囲で行こう」という判断も、ガイドの大切な仕事だ。
「シーズン中はほとんどフィールドにいます。
アンヌプリスキー場内の事務所にもたくさん人が来ますしね。
もちろん自分も滑りを楽しみながらの仕事ですから、四六時中ウェアは着たままです(笑)」
ニセコに訪れる人が、ニセコのアウトドアを楽しみ、この地を好きになってくれたらうれしい。
道外から移り住むほどニセコを愛した高久さんだからこそ、その思いは深いのである。

ペンション&喫茶店だった物件を買い、自宅に。冬の間は友人が飲食店を開く。

高久さんのスノーボード写真の手前に、ニセコのバックカントリーマップ。

Profile

TOMOKI TAKAKU 
高久智基

1972年生まれ。バックカントリーを中心に活躍するプロスノーボーダー。海外ビックマウンテンでの滑走経験多数。アラスカ急斜面や、氷河キャンプなどにて撮影を行い数多くの映像を発表する。ニセコ町の冬山ガイド集団「POWDER COMPANY」代表。ライディングクリニックやツアーを通じ、ゲストのスキル向上を図るとともに、安全で楽しいスノーボードを提唱している。http://www.powcom.net/

ショウヤ・グリッグさん

大好きなニセコを、たくさんの人に楽しんでもらいたい。

オーストラリア出身・北海道ニセコ在住のショウヤさんが、日本へわたったのは17年前。
元々日本には興味があった。しかし首都東京ではなく、北海道を訪れたのには理由がある。
「オーストラリアの学校で勉強するより、その国に行った方が言葉を覚えられる。
その点、東京のような大きな街だと英語が話せる人が多いかもしれない、と思ったんです」
加えて彼は、山や雪といった自然を愛していた。ある日図書館で本を読んでいたら
目を疑うほどに美しい自然風景の写真を見たという。それが、北海道だった。
「来日して半年ほど、自転車で道内を回りました。自然の匂いや水の音を感じながらね。
僕の生まれはイギリスだけど、イギリスとニセコはなんとなく雰囲気が似ているんです」
周辺環境に惹かれた彼は、2年前、ニセコに大きな自宅を建設。
洋風建築の中には日本画や書などが飾られ、茶室までが用意されていた。
「今、庭に蔵を移築しようと考えています。茶室の窓から見えるような位置にね」
洋と和を上手に融合させたスタイリッシュな建築には、彼独自のセンスが溢れている。
オーストラリアではフォトグラファー、そして
来日してからはクラブやラジオのDJ、イベントのMCなどをしていたというショウヤさん。
そのうちに知り合いが増え、元々やっていた写真の仕事が舞い込み始めたという。
やがて、パーツだけではなくデザイン全体にも興味を持っていた彼は会社を設立し
プランニングから、グラフィックやweb制作まで、
一貫して行なうという仕事を生業にするようになった。
「それだけでなく、建築やインテリアも好きだった。でも最初は仕事がなかったから、
自分で作品をつくってしまおう、と。そうしてできたのが『J-SEKKA』なんです」
「J-SEKKA」は、ホテル・ダイニング・アクティビティを提供する複合施設。
洋の中に「わび・さび」を取り入れた斬新な建築デザインと、
北海道の味覚が楽しめるカフェやラウンジバーなどが
地元の人だけでなく、雪山に訪れる外国人にも大人気だ。

スタイリッシュな自宅。羊蹄山が望める位置に、広々としたリビングを配置した。

「僕は専門家じゃないからこそ、自由にアイデアを出せる。それが面白いですね」
次々と発想をかたちにし続けるショウヤさんの、次の目標は「旅館」。
自宅の2万坪の敷地を使い、2012年の夏頃から着工する予定だ。
「中庭を建物で囲うようにして、縁側をつくたい。だから土地もかなり広めに購入しました。
竹林も最初は鬱蒼としていたけど、かなりの量、僕が機械で刈ったんです(笑)」
羊蹄山の美しい姿が望めるこの敷地には美しい池もあり、水がこんこんと沸いている。
そんなロケーションへのこだわりも、自身が「自然好き」だから。
羊蹄山を始めとする山にもよく登り、夏はトレッキングをし、冬は雪山へ行く。
またニセコのテニスクラブに入っており、地元の人たちとの交流も盛んだ。
「僕は、ニセコが大好きなんです。
旅館ができたら、日本人にも、外国人にも泊まりに来てもらいたい。
冬は、雪山に来る外国人のお客さんが多くなるかもしれませんね。
そういう方たちはコンドミニアムに泊まることが多いけど、
やっぱり純和風な旅館に泊まって温泉を楽しみたい方も多いはずです」
外国人ならではの発想が活きた、洋と和が調和する新しいタイプの旅館になるだろう。
このような型破りな活動は、そうそう容易にできることではない。
彼のバイタリティーとエネルギーは、どこから来るのだろうか。
「やりたいことを実現するために、なるべく具体的にイメージするようにしています。
“ホントにそんなことできるの? 大丈夫?”と思われることもあるかもしれないけど、
自分の体や頭を信じていれば、周りの人にも少なからずその影響を及ぼすことができる。
そうすればたくさんの人が知恵を貸してくれて、どんどん形になるんです」
周囲を巻き込んでニセコに新しい風を吹き込むショウヤさん。今後の展開が楽しみだ。

ショウヤさんが旅館を作るために購入した竹林は、自宅のすぐ向かいにある。

異国の屋敷を思わせる、広々としたリビング。開放的な窓から光が入ってくる。

日本的なしつらいが随所に散りばめられている。庭づくりもポイント。

ふたりの娘に囲まれて、幸せいっぱい。バルコニーは、愛犬のくつろぎスペース。

ショウヤさんの書斎には、カメラのコレクションがずらり。今では貴重な型も。

伝統的な茶室も、現代風にアレンジされているためどことなくモダンな雰囲気。

晴れた日には、羊蹄山が臨めるバルコニー。自然が見せる顔も季節ごとに変わる。

Profile


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Shouya Grigg 
ショウヤ・グリッグ

イギリス・ヨークシャー出身。13歳よりオーストラリアに移り、17年前に来日。ニセコに住み始める。クラブやラジオDJなどを経て、デザインカンパニーを設立。フォトグラファーやグラフィック・ウェブデザイナーとして活躍しながら、空間もデザインし始める。ホテル・ダイニング・アクティビティを提供する「J-SEKKA」オーナー。

http://www.j-sekka.com/

森岡尚子さん

自給自足を目指す家族を受け入れた、ちゃんぷるー文化。

沖縄北部、この島で最も豊かな森林が残るやんばる(山原)の東村で、
自然農法を取り入れた農業を営む森岡尚子さん・浩二さん夫妻は、
この土地に移住して6年になる。
「5年くらいずっと、あちこち自分たちの住む場所を探していたんです。
石垣島に3年半ほど住んだ後に、やっとこの場所を見つけて。当時、
このあたりにはほとんど移住者はいなかったんですが、今はずいぶん増えました」
と尚子さんが振り返る。
その間に、和鼓ちゃん(9歳)、然くん(4歳)、丸ちゃん(1歳)の
3人の子どもに恵まれ、今では賑やかな5人暮らしになった。

尚子さんの「住む場所探し」への思いは、
今思えば「ずっと小さい頃から始まっていたのかも知れない」という。
東京・渋谷区という「超」のつく都心部に生まれた彼女は、
「新宿副都心の超高層ビルを見ながら育ったせいか、
自然の中で暮らしてみたいとずっと思っていた」
「文明のないところで自給自足するような生活に憧れていたんです。
だから、大きくなってから何度も旅をしたけど、
旅そのものが目的というよりも、“自分の住む場所を見つけたい”という思いが強くて。
初めから目標は決まっていたんですよね」

高校生の頃、国際的な政治や国際経済、環境問題に興味を持ち、
フォトジャーナリストに憧れて、大学では写真学科を専攻した。
その在学中、英語を学ぶために休学して向かったロンドンでの体験は、
その後の人生に大きな影響を与えたという。
「ロンドンで暮らし始めると、ジャマイカやアフリカなど、
色々な国から来た移民がすごく多いことが分かって。
しかもみんな『お客さん』ではなくて、その土地にしっかり根ざして生活している。
下町の商店街を歩いていると、あちこちからいろんな種類の音楽が聞こえてくるし、
いろいろな国の食べ物が売っていて、それがもう楽しくて。大好きでした」

さまざまな国や民族・文化に触れる楽しさを知った尚子さんは、
かねてから興味のあったアフリカへ、ロンドンから旅に出るようになった。
特に、マリやカメルーン、ブルキナファソなど西アフリカの国々で出合った、
日本やヨーロッパの国々の近代的な生活とは違う、
自然とともにあるプリミティブな暮らしに、強く惹かれた。
その理由を尋ねると、
「説明するのは難しい」
と尚子さん。
「好きなことって、理由がないじゃないですか? 
好きなものは好き、という感じで、
ただそこにいることが気持ちよかっただけなんですよね」

結局、ロンドンでは一年半ほど暮らし、そのまま大学は中退した。
帰国後、ロンドンで学んだアフリカの「ろうけつ染め」や
写真の個展を各地で開きながら暮らしていた尚子さんの心が農業に向かったのは、
一冊の本との出合いだった。
自然農法の創始者、故・福岡正信氏の著書『自然農法 わら一本の革命』。
田畑を耕さず、農薬はおろか肥料も使用しない
独自の農法を提唱するその思想に、大きな衝撃を受けた。
「本を読んで、すぐ愛媛の福岡さん宛に手紙を書いたんです。
すごく緊張してポストに手紙を入れたのを覚えています。
するともう次の日の朝、すぐに福岡さんご本人から電話があったんですよ。
本当にびっくりしました。“こちらに来ていいですよ”と言っていただいたので、
こちらもすぐに“行きます!”と答えました」

移住者も多く、やんばる地域ではこの東村だけが唯一子どもが増えている。

台所には周辺で自生するハーブなどを使った手作りの調味料や保存食が並ぶ。

愛媛で農園を営んでいた福岡氏の元で学び始めた尚子さん。
「福岡さんは当時すでにかなりのご高齢でしたので、
実際に畑仕事をたくさん一緒にやったわけではないんですが、
そばにいることで福岡さんの哲学が学べました。
やっぱりそれが一番大事なことなんですよね」

福岡氏の提唱する自然農法は、畝を作らない。
筋蒔きをしない。「ほとんど『ばらまき』に近い」、
現代の農業においては非常に特異な農法と言えるものだ。
「今でも他人から“そんなやり方じゃ無理じゃない?”
なんて言われることもあるんですけど、
本当に石だらけの土地で大根ができるんですよ。
タイミングさえ間違わなければ、除草も間引きも一度もしなくてもいい。
毎年、ここで実践をして、どんどん結果が出ている。
すごくワイルドで味のいい野菜ができるんです」

タイミングを見逃さないこと。
それは福岡氏の自然農法の大きなポイントだと尚子さんは語る。
「福岡さんはいつも“観察が大切だ”と仰っていました。
雑草ひとつとっても、その状態はいつも同じではないんですね。
だから、“知恵を捨てろ”と言うんですね。
先入観や知識が、観察を邪魔してしまうから」

夫の浩二さんもまた、福岡氏の元へ行き、
それまで持っていた先入観や知識を覆されたという。
「僕はそれまでずっと有機農業をやっていたから。
当初はなかなか自然農法のことが理解できなかったんです。
でも、僕も福岡さんの山に行ってみて、“ああ、そういうことか”と。
あちこちに生えている雑草だって木だって、
何でも食べられるものなんだって分かった。
そう考えたら、自分たちの目の前には食べ物だらけじゃないか! って。
だけど、“これは雑草でしかない”というガチガチに固まった頭で見てしまったら、
そうは見えないですよね」

自然の中のありとあらゆるものが、必要であり、役割があるということ。
「自然農法をやっていると、感謝しか出てこない」
と尚子さんは言う。
「自分は何もやってないのに、自然から与えられるばかりだから。
福岡さんはよく、
“人間は何もせずに、ただ感謝して生きていれば良かったんだ”と仰っていました。
ここで暮らして、本当にそういうことを感じるようになりましたね」

キャベツ、レタス、トマト、じゃがいも、葱……、
周りの人たちから「できないよ」と言われていた米もできた。
「まだまだ…。麦も大豆もやりたい。味噌も自分で作りたい。
どんどん増えてきますね。
来年はあそこをこうやってみようとか、ずっと完結しない。だから、飽きないんです」
と浩二さんは話す。

そもそも、尚子さんが沖縄に住むことになったきっかけは、
「もともと南方が好きだったんです。
たまたま沖縄でろうけつ染めの個展をやることになって、
その時にいろいろな人達と知り合って、
だんだんとこの場所との縁が深まっていった」とのこと。
当時、同じく農業を志していた浩二さんと出会い、
二人で自給自足を目指す生活を始めることになった。
その理由について、尚子さんはこう語る。
「自給自足することで環境破壊になるべく加担しないですむ。
そういうものに大きく加担していると思うと
すごく居心地が悪いという気持ちはありました。
自分の知らないところで誰かが犠牲になっているという暮らし方はしたくない。
とは言っても、自分としてはやっぱり
ただ気持ちのいい方、いい方へとしか行けない性分だったというのが大きいんです。
都会は自分にとっては大変なことが多かったから。
こういう暮らし方が、自分にとっては気が楽だったということなんです」
浩二さんも
「農業は身体的には辛いこともあるけど、対人関係のストレスに比べればずっと楽。
汗水流して、細かいことは気にせず、快眠快食。働いた結果がお金でなく、
食べ物で得られる。シンプルでいいなあと思いますね」と快活に笑う。

土地を見つけた後、浩二さんがテントで寝泊まりしながら自ら家を建てた。

自然の素材を生かした室内。冷蔵庫や掃除機などの家電は使わない。

自然の中で成長する娘の姿に「自分は街で育ったので、羨ましい限り」と浩二さん。

東村に土地を見つけた後、自分たちの住む家は大工の友人に教えてもらいながら
セルフビルドで半年かけてつくり上げた。
沖縄という地に馴染み、根を下ろして生活していく中で、
南国の明るさや軽さだけではない、
この土地のさまざまな目に見えない文化も理解できるようになったという。
「沖縄には、すごく相手を気づかう言葉の文化があるんです。
『だからよ』っていう方言は翻訳が難しいけど、ちょっとした相槌みたいな言葉で、
その一言だけで相手に気持ちを伝えたり、ハッとさせられたりする。
あと、自分が帰る時に相手に向かって“行きましょうねえ”なんていう、
自分と相手の境をなくして、全てを抱きかかえるような言葉もあります。
お酒の場でも、そこにいない人の悪口はタブーなんですよ。
ウチナーンチュは本当に楽しくお酒を飲むんですよね。
狭い島だからこそ、人間同士がうまくやっていくためのルールとか行動規範が
洗練されていて、スマートなんですね。文化的なレベルの高さを感じます」
と浩二さん。その文化的ルーツは
やはり「海洋民族」ということにあるんじゃないか、と尚子さんは言う。
「『ちゃんぷるー』という言葉は元々インドネシア語ですが、
黒潮に乗って多くの人々がやってきた海洋民族だからこそ、
いろんなものを受け入れる『ちゃんぷるー文化』ができたんじゃないかな。
そんな沖縄の人たちの優しさが、
現代の基地問題なんかにも繋がっているのかもしれないけれど、
やっぱり彼らは人やものを拒むのではなく、受け入れてくれるんです。
すごく懐の深い文化だなあと思いますね」

自分たちのような移住者をも拒むことなく受け入れてくれた、沖縄の土地と人々。
それは、そこに住む人々がとてつもなく長い時間をかけて培ってきた、
平和に暮らしていくための文化と技術に裏打ちされているのかもしれない。
「まだまだこれから、ゆっくり土地に馴染んでいきたい」
と浩二さんは語る。
「ウチナーンチュの時間軸は、内地の人間とぜんぜん違う。
すごく長いスパンで物事を考えているんですよ。
すぐに成果を求めない。決してあせらない。
とても余裕があるんです。だからもう、彼らには本当にかなわないですよ」

Profile

NAOKO MORIOKA 
森岡尚子

1972年東京生まれ。大学の写真科を中退してロンドンへ渡り、その後は全国各地でアフリカをテーマにしたロウケツ染めと写真の個展を開催。自然農法創始者・福岡正信のもとで農業を学んだ後、沖縄へ移住。現在は東村・高江で夫と3人の子どもと暮らす。著書に『沖縄、島ごはん』(ネコパブリッシング)『ニライカナイの日々』(ピエ・ブックス)。