春光堂書店

売り場の本棚は、お客さんとつくりあげていく。

新宿からあずさ号にのって甲府に向かう。
窓から見える南アルプスや奥秩父の山には雪が見えるけれど、
盆地にある甲府の町に雪が降ることはあまりない。
駅を降りるといつも巨大な宝石のオブジェに目がいってしまう。
研磨産業が盛んなこのまちでは、日本の約8割のジュエリーが生産されている。

駅から約10分、アーケードが架けられた甲府市中央商店街を歩く。
元はこのあたりは甲府城の城内だったのだそうだ。
この商店街の中心に位置するのが銀座通り。日本にいくつもある「銀座」のひとつで、
銀座通りの中ほどに春光堂書店はあった。
入口右手にはたばこの販売スペースがある。
中央の自動ドアを開けると、店長の宮川大輔さんがお客さんと談笑しているところだった。
カウンターの中でタバコ屋からレジから電話の応対から大活躍しているのは、父の久次さんだ。

営業中にもかかわらずあたたかく迎えてくれた、大輔さん。

春光堂書店は1918年に創業した。大輔さんのひいおじいちゃんが始めて、
現在は3代目である父、久次さんと、大輔さんの奥様、愛さんとの3人でお店を運営している。
今の春光堂書店の内装は、20数年前にアーケードを付け替えたときに大きく改装した。
その頃はバブル経済のピーク、商店街も本屋さんもとても繁盛した。
日々やってくるたくさんのお客さんのために、まんべんなく本を揃えたまちの本屋さんだった。
「僕が子どもの頃は、何軒か書店が周りにあったけれど、
その後バブルも崩壊してみんな店をたたんだり、郊外に移ってしまった」
山梨県外で仕事をしていた大輔さんが戻ってきて、お店を手伝うようになったのが5年前。
アーケードの商店街も一度は寂れたけど、最近はまたやる気のある人が集まってきているという。

お店を見渡すと気づくのは、他の本屋であれば目立つ場所にある棚の
「ジャンル分け」の表示がないこと。
「最初はあったけどいつのまにか外してしまいました」と大輔さんは笑うが、
お客さんとの距離が近ければ、わざわざジャンル分けの表示は必要ないのかもしれない。
「今はベストセラーや、地域の人の好みを生かしながら、
自分のやりたいことをどうやっていくか。バランスをとりながらやっています」

棚はテーマごとに並べられ、文庫、新書、単行本など異なるサイズの本が一緒に並んでいる。
本に関するテーマを集めたコーナーには、著者が本屋さんのものや読書術、
「本のしごと」なんてタイトルの本もある。
食べ物の本には、さりげなく、ここから自転車で10分ほどの近所にある、
五味醤油店の五味さんがおすすめする麹の本があったり、
細かくも丁寧に棚がつくられているのがわかる。
さらに見渡すと、大小のPOPと共に、たくさんの企画コーナーがある。

130年以上の歴史を持つ五味醤油さんおすすめの本。手にとってみたくなる。

ヨネクラ玩具店

子どもの能力を引き出す、木のおもちゃの魔法。

カラフルでかわいくって、どこかぬくもりを感じさせる木のおもちゃ。
ヨネクラ玩具店には、そんな、大人でも子どもでも心を踊らせてしまうような
おもちゃが所狭しと並んでいる。
中央には、子どもたちが遊べるスペースが設けられていて、
レールも電車も木製の鉄道セットや、木の独楽、積み木など
さまざまな種類のおもちゃが置かれている。
なかにはいい飴色になったサンプルのおもちゃもあり、
ヨネクラ玩具店の歴史が感じ取れる。
そんな種類の豊富さに驚いていると、そのなかから、
店主の米倉千景さんがひとつのおもちゃについて教えてくれた。
「これは『アムステルダム』という名前で、
166ピースを使ってまちをつくります。ほら、見てください。
右と左でまちを囲っている積み木の家の屋根の色が違うでしょう?
ぼくは不思議に思って、これをつくった子に
“なんで、色が違うの?”と聞いたんです。
そしたら、“昼のまちと夜のまちだから”なんて答えるんですよ。
子どもの想像力はすごいですよね。ひとつのまちを、夜と昼にわけるなんて。
この『アムステルダム』には、そうやって、
子どもたちが編めるたくさんの物語がうずまいているんです」

おもちゃ「アムステルダム」。赤い屋根のほうは、昼のまち。

昭和33年に創業したヨネクラ玩具店は、千景さんで二代目。
父親が若くして亡くなり、千景さんは20代で店を継ぐことになった。
「おやじが亡くなったとき、大阪で別の仕事をしていたんですが、
迷わず田辺に戻ってきました。おやじがいなくなったら、
“やっぱり、ぼくがやらないかん!”と思ったんですね。
弟もまだ大学に通っていたし、ぼくは3人兄弟の一番上で、
『長男が跡を継ぐ』という教育が体にしみこんでいたみたいです」
そうして店を継いだ千景さんだが、
最初から木のおもちゃを扱っていたわけではない。
当時はゲーム機やキャラクターもののおもちゃを販売したり、
「チョロQ」が流行れば、イベントを開催したりと、
どこにでもある普通のおもちゃ屋さんだった。
「電子音がするおもちゃなんかもたくさん販売していましたよ。
だって、ぼくも商売人として売れるとやっぱり面白いですからね。
でも、自分の子どもが生まれたとき、
子どもにあげたいおもちゃが店には見当たらないんですよ。
おもちゃ屋さんなのに(笑)」

取材中、訪れていた常連のお子さん。「ここに来るといつもわくわくしちゃうんです」とお母さま。

以来、それまで扱ったことのない、
特に外国のおもちゃを探すようになった千景さん。
面白そうなものがあると、息子さんに買う。
そのおもちゃを見たお客さんがほしいと言うから、店でも販売する。
それが、ひとつ増え、ふたつ増え、三つ増え……。
気がつけば、木のおもちゃばかりを扱うようになっていた。
「最初は、木のおもちゃを認めてくれるかなという不安もあったんです。
今から30年くらい前ですからね、当時そういった店はなかった。
でも、外国の木のおもちゃって、知れば知るほど面白いんですよ。
手にとってみると、おもちゃに対する思想が日本とは全然ちがうのがわかる。
つくりはとてもシンプルなんだけれども、
子どもが遊んだときにどうなるかっていう『しかけ』が
ものすごく考えてつくられている。ぼくのほうが面白くなってしまったんですね」

店内の遊べるスペースで、カプラを積みはじめた店主の千景さん。

無限に広がっていく、積み木遊びの面白さ。

外国の木のおもちゃを扱うようになった千景さんの興味は
どんどん深まっていく。そんなとき、あるひとつのおもちゃに出合った。
「福音館書店が発行する、月刊『母の友』で記事を見たのがきっかけでした。
ひと目見て、これだ! って思って、すぐに問い合わせました」
千景さんが一目惚れしたおもちゃというのが、
フランスのおもちゃ「kapla(以下カプラ)」だ。
薄くて小さな木のピースを組み合わせて、
お城をつくったり、タワーをつくったりと、積み木のようにして遊ぶ。
見た目はなんの変哲もない板だけれど、このピースを使って遊びはじめると
子どもたちは黙々とカプラに没頭してしまうのだという。

ひとつひとつ、カプラを組み合わせて、まずは、正方形をつくる。

さらに、カプラを組み合わせていけば、お城の屋根に!

その理由は1ピースの高さ:横:縦が、1:3:15の比率でできているから。
ただ、積み上げるだけなのに、どう積んでも美しいかたちにおさまる。
しかも、薄くて軽いカプラは子どもでもたくさん積み上げることができ、
創作は無限に広がっていく。
「カプラの1ピースを5枚並べると、正方形ができます。
それを積み上げるだけでも、とってもきれいなかたちなんですね。
だからつくる側にも自然と達成感が生まれる。
積み木は、かつてフレーベルという教育者が、
自然や宇宙の摂理を知るための道具として、つくったんだそうです。
子どもたちは、比率の数字のことなんてわかりません。ただ、遊びながら、
この比率のなかに秘められた法則を感覚的にわかるようになるんですね。
そんな風に遊びのなかで、
子どもの能力を無限に引き出してくれるおもちゃはたくさんあるんですよ」

赤が印象的な、カプラのパッケージ。200ピースが基本。生成り他に、カラーのピースもある。

流行を追うだけではない、子どもにとって楽しくって、
能力もひっぱりだしてくれる遊びも考えられている。
積み木に、そんな奥深さが隠されていたなんて知らなかった。
さらに、千景さんはドイツのneaf社の「セラ」というおもちゃを持ってきてくれた。
「これなんかも、無限に遊べるんです。
立法体を面に沿って大小9つのピースに分けられている。
まずはバラバラにして大きい順に積み上げていってみましょう。
真上からみると、さあ、何のかたちが見えてきますか? 六角形なんです。
次は小さい順から重ねていくこともできるし、家をつくって遊ぶこともできる。
一定の比率が計算されているからこそ、できる遊びなんですね。
この青のグラデーションもとても美しいでしょ」
と言って千景さんは、セラの何通りもの遊び方を見せてくれる。
一見するとただの大小の立法体の集まりなのに、
組み合わせ方次第で、幾通りにも遊びが増えていく。

各色の立法体をつみあげながら、子どもはバランス感覚も身につけていけるのだという。

目をキラキラさせて、セラの遊び方を教えてくれる千景さん。

もうかれこれ1時間以上おもちゃについて話を伺っているけれど、
千景さんの言葉からは、大人でも思わず引き込まれてしまうほど、
おもちゃの魅力が溢れてくる。
さらに、おもちゃの説明は続く。
そばにあった独楽を手にとれば、今度は独楽の説明が。
奥さまの富美子さんが隣で苦笑しながら
「独楽が一番好きなんです」なんて耳打ちするが、
「まぁまぁ、いいから、いいから。これはね……」と話し始める千景さん。
「独楽と言えば、これです。でももっとおもしろいのは、こっち……」。
と、店内にあるおもちゃすべてについて話してくれそうな勢い。
それも、おもちゃへの愛情があるからこそ。

千景さんが大好きという独楽。さまざまな国の独楽がヨネクラ玩具店には並ぶ。

「幼稚園や保育園に行ってカプラのワークショップをやっているんですが、
子どもたちと遊ぶにはね、体力が必要なんですね。
子どもたちのキラキラした目を見ると、期待に応えないと! って思ってしまって。
だから、体力づくりのために、今は、毎日走ってるんですよ」
とチャーミングな笑顔を見せる千景さん。富美子さんもそれをあたたかく見守る。
木のぬくもりと、ご夫婦のおもちゃへの愛がいっぱいつまったヨネクラ玩具店。
先生でも、エライ教育者でもない、それでもこんな風に子どもの遊びについて
教えてくれる人が自分の住んでいるまちにいたら、なんてすてきなんだろう。
毎日でも訪れたい。そう思わずにはいられない居心地のよい時間が店に流れていた。

二人三脚でヨネクラ玩具店を支えてきた、千景さんと富美子さん。

マチスタ・コーヒーのはじまり

開店まであと 47日——————

「大丈夫か、うちの会社?」で終わった前回の連載。
こんなことを自問するからには、あんまり大丈夫じゃない。
2月7日現在、当社のメインバンクの口座残高、記録更新だ——————862円。
昨日までしばらく5万円台だったけど、明日撮影があるので
なけなしの5万円を下ろしてしまった。
個人のほうはある意味もっとひどい。
誓って言うけど、48歳にしてぼくの貯金は500円玉貯金が唯一である。
コイケさんに「この店、ぼくがやりましょうか」と言ったとき、
頭のすみっこでこの500円玉貯金のことを考えていたのだが、
それ自体がもうダメなような気がする。そう、もうなんか全然ダメなのである。
「またやっちゃったか、オレ……」
正直、あの夜から軽く落ちた。
コイケさんの店「街なかstudy room」の経営を
ぼくが引き継ぐと口にしてしまったあの夜からである。
なんとか浮上のきっかけを求めてカフェや喫茶店の本を読み始めた。
下北沢の人気カフェの店主が書いた本とか焙煎の本とか、
喫茶店の経営本とか(タイトルは『いざ、開業!』だったな)。
その手の本を読み進めるうちに、不思議となんとかなるような気がしてきた。
そして読み終わる頃にはなんとかなるどころか、
結構成功するような気がしてきたのだった。
「少なくとも、負ける気がしないんですよね」
ぼくがそう言うとコイケさん、
「商売を始める人って、みんな最初はそう言うんです」
見事な袈裟切りをくらったのだった。

やると決めたからには、開店までにやらなきゃいけないことをやるまでだ。
まずは東京で経理の面倒みてもらっている税理士のシマヅさんに電話で報告し、
コイケさんをどのようなカタチで雇用するかを相談した。
結果、当社アジアンビーハイブの社員とすることになった。
これに一番反応したのは社員1号のヒトミちゃんだ。
「えーっ! 私の初めての後輩がコイケさん……」
「そう、会社の平均年齢が一気に上がっちゃうね」
コイケさんは人に雇われるのが初めてらしく、
なにやらそれを楽しんでいるような気配がうかがえる。
ぼくが店を引き継ぐと決まってからのコイケさんは、なにごとにつけ楽しそうである。
「お店の名前はどうしましょうか?」
コイケさんに聞いた。一番大事なところである。
一番大事なところなんだけど、コイケさんの軽いこと。
とても還暦を過ぎているとは思えない軽さで、
「この際、まったく新しい名前でいきましょう」
ここはぼくが文鎮にならなきゃダメなような気がした。
で、後日、店の名前はぼくが決めさせてもらった。
「せっかくなのでこれまでの呼び名を生かして『マチスタ』でいきたいと思います。
そのあとにコーヒーをつけて『マチスタ・コーヒー』で」
「いいんじゃないですか」
ニコニコ顔でコイケさんは言った。
お店に立つのはコイケさんなので、
ぼくは何を決めるのもコイケさんの意見を尊重したいと思っている。
でも、コイケさんはコイケさんでぼくの意見を尊重してくれる。
だからといってお互いが遠慮し合うのではなく、
言いたいことは言える空気がすでにぼくとコイケさんとの間にはあった。
関係としては悪くない。
これからいろんなことに、お互いが納得するラインを導きだすことができそうだった。
こうやって、週に2回ほど店に顔を出し、
年末にかけていろんなことを決めていった。
メニューのこと、お店のロゴや内装の雰囲気、内装にどれくらい手を入れるか、
リニューアルオープン日をいつにするかなどなど。
しかし、店の帳簿を見せてもらったときに思った。
いくらカッコいいロゴを作っても、内装をよく見せたとしてもダメなのだ。
なにかを劇的に変えないとこの店は失敗する。
それぐらいこれまでの赤字の幅は大きかった。
「テイクアウトをメインにして、朝の営業に力を入れようと思うんです」
これが店の経営を口にした最初からぼくの頭にあった作戦だった。
これまでの「街スタ」は午後からの営業だった。
それを朝からの営業にし、通勤途中のサラリーマンにテイクアウト用のコーヒーを提供する。
成功するにはこれしか考えられなかった。
でも、どうみても夜型のコイケさんに、朝型にシフトしてもらうことができるんだろうか?
「大丈夫ですよ」
こうして店の骨格の部分が決まった。
朝からやってるまちのコーヒースタンド。これが「マチスタ・コーヒー」だ。
オープンは年度の始めということで4月2日の月曜日に決まった。
開店まであと1か月半。
(つづく)

コイケさんの淹れるコーヒーは美味しい。岡山にはコイケさんのファンも多い。なのになぜこんな赤字に?

店の周辺は繁華街なのだが、郵便局やNTTがあるなど、岡山有数のビジネス街でもある。場所はけっして悪くない。

テイクアウト用のペーパーカップ案。若干レトロがかかったロゴ(仮)はコイケさんのリクエストをもとにデザインした。

ぱんとたまねぎ

福岡県福岡市『ぱんとたまねぎ』
発酵/林 舞

パン好きがパン好きのためにおくる『ぱんとたまねぎ』。
編集・制作・デザインを一手に担う林 舞さんが、全国各地のうわさのパンを求め、「歩いて 見て 聞いて 食べて」発酵(発行)したリトルマガジン。
芳しいかおりが誌面から漂ってくるようです。

ぱんとたまねぎ
http://d.hatena.ne.jp/pantotamanegi/

定価600円

発行日/2011.11

チャンネル vol.4

長野県長野市『チャンネル』
発行/ch.

グラフィック・デザイナーの青木さんと、編集・ライターの島田さんのふたりで、長野市に2011年7月に小さな本屋、ch.books(チャンネルブックス)をオープン。
隔月でフリーペーパー『チャンネル』を発行しています。
「フリーペーパーは、自分たちが興味を持った、長野の面白いものや人を取り上げよう。それがチャンネルとch.booksの広告にもなればいいという意識で行って、結果的にそれが地域の活性化につながっていけば面白いと思います。」
(青木さん)

ch.books
http://chan-nel.jp/

発行日/2011.12

roast

佐賀県唐津市『roast(ロースト)』
発行/いきいき唐津株式会社

唐津がこれまで大切に育んできた食や風景、文化、ヒトを丹念に情報発信し、「ないものねだりではなくあるもの探し」の観点から、唐津のまちづくりや観光の活性化を図っていくことを目的に創刊された『roast(ロースト)』。素朴だけど味わいのある唐津の素顔を紹介しています。創刊号には岡本仁さんの寄稿も。

いきいき唐津
http://ikiiki-karatsu.jp/

発行日/2011.9

コーヒーショップを開こう

編集者から喫茶店のオーナーへ。

家の事情で実家のある岡山県倉敷市に帰った。2005年のことだ。
で、「アジアンビーハイブ」というフィリピンパブみたいな名前の会社を設立し、
『Krash japan(クラッシュジャパン)』というプロレス団体みたいな名前の
フリーマガジンを始めた。
ひたすら工業地帯を写真に撮ったり、定食屋一軒で30ページの特集を組んだり。
自分で言うのもなんだけど一風変わった雑誌で、
英語のテキストを併記して、ロンドンを中心に海外にも配布した。
でも、地元の企業やショップから集めた広告でまかなえるのは印刷費と経費のごくごく一部。
そんな雑誌を年2冊のペースで発行していたものだから、
会社の経営状態は決してよろしくない。
というか最悪で、会社設立当初に信用金庫から借り入れしたお金は1年ももたなかった。
もっともひどかった2007年には、
地元の観光旅館で朝食の配膳と部屋掃除のアルバイトをしながら雑誌を作っていた。
そうやってしぶとく発行を重ね、2010年春にはなんとか当初の予定通りvol.10を発行、
5年にわたる活動に区切りをつけることができたのだった。

会社についてもう少し紹介しておこう。
わがアジアンビーハイブは倉敷市の南端、瀬戸内海に面した児島というまちにある。
仕事は主に広告制作。
先に紹介した『Krash japan』に関連して、
企業の広告やカタログの制作オファーをこなしているうちに、
いつの間にか本業になってしまったというところだ。
社員は今年で在籍3年目になるヒトミちゃん、24歳。
周囲の誰もが認める才色兼備なのだが、なぜか長く彼氏がいない。
最近は「すぐに見つかるから大丈夫よ」的な
ぼくの励ましの言葉も全然届いていない感がある。
アルバイトのサトちゃんは大学3年生、
昨年秋のインターンが心地よかったのか、以来いついてしまった。
そのわりに「うちに来る?」というぼくの誘いを
「わたし東京に行きますから」とむげに断って現在就活中。
当事務所にはサブという雄犬もいる。
昨年の5月までは立派な野犬だったのだが、
事情があって(みんないろいろ事情があるのだ)現在は社のマスコット的存在に。
とはいえ野犬の性癖はなかなか拭えず、クライアントだろうがなんだろうが、
いまもってうちに来るお客さんにはとりあえず牙をむいて吠えまくる。

さて、ここからが本題。
話は2011年の11月の末あたりにさかのぼる。
岡山市中心部の郵便局前の電車通り(岡山にはまちなかに路面電車が走っている)に、
月に2、3回は必ず足を運ぶ喫茶店というかカフェというか、まあそんな場所がある。
通称「街スタ」、正式には「街なか study room」という。
店は厨房を入れて7坪と狭く、まともなテーブル席はひとつしかない。
店主のコイケさんは長年飲食店をやっていて、
4年ほど前に、「美味しいコーヒーを飲ませる店をやりたい」と、
自分のカフェを閉めてこの店を新たに始めた。
言うだけあってコーヒーは実に美味い。
ラッシーやバナナモカシェークといったアレンジドリンク類も秀逸で、
トーストやサンドイッチといった食事メニューも抜群に美味い。
そんな岡山市内で唯一の行きつけの店が閉店すると聞いた。
店主のコイケさん本人から。

「今日不動産屋さんに、2月いっぱいで閉めますと言ったんですよ」
コイケさんは他人事のように、いつもの笑顔でそう言った。
なにやら自分の給料もまともに出ていなかったらしい。
それにしても、いつもながら行きつけの店がなくなるというのは寂しい。
思い浮かぶのは、中目黒ガード下の寿司屋「丸源」、
目黒銀座商店街にあったカレー屋「オレンジツリー」、
近所の美容院のウラくんとよく行った山手通り沿いの定食屋「グリーンウッド」………。

「コイケさん、ぼくがやりましょうか、このお店」
ついつい口に出してしまった。
ぼくは言わないほうが身のためであることを、
ついつい口に出してしまうタイプの男なのである。
「コイケさんにはこれまで通りこの店を切り盛りしてもらって、
うちから給料を支払います。
ぼくの会社で経営するってことなんですけど、そうゆうのどうですか?」
いやあ、そうゆうのは、ちょっとね………という展開も十分にありえたはずだ。
なにせコイケさんは飲食のプロ、しかも還暦も過ぎたいいお歳なのである。
「私、順応性はあるほうです」
コイケさんは笑顔でそう言った。
こうして一晩を境に、ぼくの人生は喫茶店経営という、
これまで想像だにしなかった世界へ足を踏み入れることとなったのだった―――――というか、
うちの会社、本当に大丈夫か?

アジアンビーハイブのオフィス内観。家賃は中目黒の駐車場2台分より安い。
JR児島駅からは歩いて7分、目の前に小さな港もあってロケーションよし。

元野犬のサブ。
飼い始めから週2回、2カ月にわたってトレーナーに来てもらっていたのだが、
最終日までトレーナーに敵意むきだしで吠えまくっていた強者なのである。

これが今後の舞台となるコーヒー屋さん「街なか study room」。
路面店の1階と場所は悪くない。にもかかわらず、このひっそり感。

ひだびと。

岐阜県飛騨地方『ひだびと。』 
発行/ひだびと。制作委員会

岐阜県の北部に位置する高山市・飛騨市・下呂市・白川村の3市1村、「飛騨地方」。
昔から脈々と受け継がれてきた文化や、情緒あふれる風土に育まれ、飛騨独特の魅力を持った人々が、飛騨地方の内外で大勢活躍しています。
ひだびと。は、そうした人々にスポットを当て、多角的に飛騨の魅力を再発見していく、飛騨のファンブックです。

ひだびと。Facebookページ
https://www.facebook.com/HIDAbito?sk=info

発行日/2011.9

Krash japan

岡山県倉敷市『Krash japan』
発行/アジアンビーハイブ

2005年9月に創刊され、当初からvol.10で完結すると宣言。そして、2010年3月に本当に最終号を迎えてしまった伝説のフリーマガジン。倉敷のカルチャーを東京、大阪、ロンドンに向けて発信しています。
編集長・赤星 豊さんは、フリーマガジン『風と海とジーンズ。』の編集長もつとめています。

Krash japan
http://www.krashjapan.com/

発行日/2008.9

風と海とジーンズ。

岡山県倉敷市『風と海とジーンズ。』
発行/岡山県倉敷市 制作/アジアンビーハイブ

「国産ジーンズ発祥の地」
として知られる倉敷市児島地区の繊維産業と観光情報を提供するタブロイド紙『風と海とジーンズ。』
「児島地区のもつ反骨の精神を紙面で表現したい」という想いを載せ、倉敷市が発行しています。
編集長は『Krash japan』も手がける、赤星 豊さん。

倉敷市文化産業局商工労働部商工課
〒710-8565 倉敷市西中新田640番地
TEL 086-474-6800

発行日/2010.3

旅手帖 beppu

大分県別府市『旅手帖 beppu』 
発行/特定非営利活動法人 BEPPU PROJECT

『旅手帖 beppu』は、厳選した別府市中心市街地の
「いいとこ」を紹介する季刊誌。別府の魅力を余すところなく伝えています。まち歩きをより楽しむためには、BEPPU PROJECT が発行する、『もぐもぐマップ』と、『てくてくマップ』も必携。

旅手帖 beppu
http://beppu.asia/
特定非営利活動法人 BEPPU PROJECT
http://www.beppuproject.com/

発行日/2011.9

和光

シベリアの山奥で氷づけになったマンモス、のような喫茶店。

ずっと気になる店だった。道沿いにある古い喫茶店で、店名を「和光」という。
どんなところが気になっていたかというと、あまりの目立たなさ加減。
店内が暗いせいで窓はあっても中の様子がまったく見えない。
とはいえ交通量の多い通りの1階にある路面店、しかもまちの中心に近い。
そんな好立地にありながら、同じ児島エリアに長く住んでいる人でも、
「それ、どこよ?」とまったく知らないということがよくあるのだ。

初めて入ったのは3年ほど前。
2005年から始めた倉敷の雑誌『Krash japan』で
喫茶店を特集したときだった(vol.7/2008年9月発行)。
ちょっとした驚きだった。シベリアの山奥で、
そのままの姿で氷づけになったマンモスを見つけてしまったみたいな。
店内は40年かそこら、完全に時間が止まっていたみたいだった。
店の内装も什器もすべて、それこそ
テーブルの上の灰皿ひとつとっても、かなりの時代を感じさせる。
でも、ただ古いというだけじゃ、心はとらえられない。
古道具とかアンティークとか、そんな類に興味ないし。
ぼくが心を動かされたのは、それらひとつひとつが、長年、
丁寧に大切に扱われてきたことがうかがえて、
それによって店に風格と、なんともいえない品のよさが漂っていたことである。
自分のごくごく身近にこんな世界があった、というのも驚きだった。
やっぱり、気になるところは入ってみるもんだな、つくづくそう思った。

以来、和光には今もときどき訪れる。
しばらく顔を出さないと、「最近は忙しいの?」と店主の藤川夫妻が気遣ってくれる。
たしか70歳近いと思うけど、ともにお元気だ。
いつも座るのは窓側のソファ席。外からは見えないけど、
店の中からはレース越しでも外がよく見える。
信号待ちしている車の運転手の顔なんかはっきりと。
店は静かだ。午前中は混んでいるらしいけど(早朝6時から営業!)、
午後は常連さんがぽつぽつ。
コーヒーもおいしくて、ただ窓の外を眺めてゆったりと時間を楽しめる。
コーヒーを飲んだ後は、必ずこぶ茶が運ばれてくる。
これ、ぼくだけへのサービスじゃなくて、すべてのオーダーの後に付いてくるから、
店を出るときのお客さんはすべからくこぶ茶の口になっているというわけだ。
そんなところもかわいくて面白い。長く続いてほしいなと思う。

『Krash japan』vol.7(2008.9)でも大きく紹介されている。

いつも座る窓側の席。開店は午前6時。日課の散歩を終えた常連が集まる。写真・池田理寛

Information


map

和光

住所:岡山県倉敷市児島下の町8-1-4

TEL:086-472-5764

営業時間:6:00〜19:00

定休日:日曜休

六角橋商店街

老舗商店街のもうひとつの顔は、サブカルイベントのメッカ。

東急東横線・白楽駅を降りると、華やかなアーチの看板が見えてくる。
住宅地に囲まれている六角橋商店街は、
約500mのメインストリート「六角橋大通り」と、
それに平行する裏路地アーケード通り「仲見世通り」、
さらに、多数の小さな路地で構成されている。
近くには神奈川大学もあるため、通学途中の学生や、
商店街にやってくるたくさんの人で通りはにぎわっている。

六角橋商店街の歴史は古く、横浜市内でも戦前から続く老舗商店街。
第二次世界大戦中には、延焼を防ぐため
ほとんどの建物はつぶされてしまったというが、
戦後、たくさんの商店が並んだ。
なかには、戸板で闇物資を売るものも。こうして、今の商店街が始まった。

乾物を扱う足立商店も戦後すぐにお店を構えた。
「昔は、商売が楽しくってね。なんでって、そりゃ、売れるからさあ。
サラリーマンなんかやってるより、ずっと面白かったよ」
ご主人の隆さんは当時を懐かしそうに話す。
開店当時から変わらない足立商店のレトロな看板が、心をくすぐる。
そんな歴史ある六角橋商店街では、
近年「ヤミ市」というイベントでにぎわいを見せているらしい。
一体、ヤミ市とは……?

ガラスケースに並ぶ、揚げたての唐揚げに思わず立ち寄る高校生の姿も。

新聞に目を通しながら店番なんて、なんだか昭和のドラマみたいです。

「20年くらい前かな、閉店する店が増えてしまったから、
客引きのためのイベントをいろいろ考えたんです。そしたら、
シンボルイベントの大道芸が失敗。お客さんは来たんだけどね。
結局、野毛(※)の二番煎じにしかならない。
もっと六角橋らしいものは何かと、考えた結果、
アジアのナイトマーケットのようなフリマをしようと。
それなら、近隣住人たちでライブもしようってなったんです。
この街にはミュージシャンたちが結構住んでいましたから。
しかも、場所は店が閉まった後の仲見世通りの路上。これがウケましてね」
このアイデアの発案者で、現在、六角橋商店街の販売促進部長を務める
石原孝一さんが、真相を教えてくれた。

以来14年ほど、夏季(4月〜10月)限定で、
「ヤミ市」と称して、フリマの他にもさまざまなイベントが、
夜な夜な開催されているのだ。
20時以降、しかも路上だからか、開催されるイベントはどれも個性的!
南陀楼 綾繁さんの一箱古本市、
パフォーマンスアーティスト・ギリヤーク尼崎さんの公演など、
サブカル好きにはたまらない有名人たちの名前も。
さらには、チャリティー野宿、ストリート結婚式など、
あの狭い道幅で、どんな風に開催されるものなのか興味惹かれる。
「基本、誰でもウェルカムですからね!
おもしろいことをしてくれれば、それでいいんです」

ヤミ市の様子。古本市とかっぱのダンサー・おいかどいちろう氏のパフォーマンス。

左から専務理事の糸井勇さんと、石原孝一さん。

高久智基さん

自然環境と自分の生活が結びつく場所・ニセコへ移住。

生まれ育った神奈川県藤沢市から、北海道ニセコ町へ移り住んだ
プロスノーボーダーの高久智基さん。
モンゴル最高峰の登頂滑降をはじめ、シベリアやアラスカなど
海外のビッグマウンテンを経験してきた彼が、たどり着いたのがニセコだった。
「世界的に見てもニセコのパウダースノーの質はかなり高い。
ヨーロッパやアラスカのように急な斜面は少ないですが、その分山麓部まで深い雪があるので
スノーボードを日々楽しむ上ではとてもいい場所なんです」
今でもシーズンになると海外で滑ったり、
国内各地の山でイベントや冬山ガイドの仕事をしたりと、
多忙を極める高久さんだが、ニセコを拠点にしてよかったと話す。
「ニセコのシーズンは、11月の終わりから4月の終わりくらいまで。
その間は、冬山ガイドの仕事をしています。ニセコの自然環境や観光資源は素晴らしい。
その地の利を活かして、冬だけではなく夏もアクティビティを楽しんでもらえるよう
自転車コースを製作中です。
スノーボードも自転車も自然からの恩恵を受けて遊ぶもの。
だから、喜びとともに怪我などのリスクも各自が受け入れる自己責任の意識が広まればと」

「POWDER COMPANY」事務所。敷地内に自転車コースを設けている。

2012年以降、300mほどの自転車コースを無料開放する予定。

高久さんは冬山ガイドとして、ユーザーが安全に雪山を楽しむための活動をしている。
そのときに伝えているのは「ルールを守る」ことと「自分の身は自分で守る」こと。
「スキー場のリフトで登ってしまえば、ゲレンデからたいがいのバックカントリーに行けます。
でも、スキー場内のルールは守らなければなりません」
なぜなら、スキー場はエキスパートだけの場所ではなく、
日々多くの「初めての人」が訪れるパブリックな施設ですから。
例えば、経験の少ない人が真似をしないよう、立ち入り禁止のロープをくぐらない。
そして、管理されていないところで起こる立ち木への激突などは自身で気をつける。

「その認識は、みんなで作り上げることが大切。これだけの人が何を目的にニセコを訪れ、
そこに伴うリスクは何なのかということを、事業者にもユーザーにも落とし込みたいんです」
シーズンになると朝7時半前から、前日と当日の雪山のコンディションを照らし合わせる。
そして高久さんの所感とガイド全員の所感、天気予報も交えてその日の予測を立てる。
「今日はこういう範囲で行こう」という判断も、ガイドの大切な仕事だ。
「シーズン中はほとんどフィールドにいます。
アンヌプリスキー場内の事務所にもたくさん人が来ますしね。
もちろん自分も滑りを楽しみながらの仕事ですから、四六時中ウェアは着たままです(笑)」
ニセコに訪れる人が、ニセコのアウトドアを楽しみ、この地を好きになってくれたらうれしい。
道外から移り住むほどニセコを愛した高久さんだからこそ、その思いは深いのである。

ペンション&喫茶店だった物件を買い、自宅に。冬の間は友人が飲食店を開く。

高久さんのスノーボード写真の手前に、ニセコのバックカントリーマップ。

Profile

TOMOKI TAKAKU 
高久智基

1972年生まれ。バックカントリーを中心に活躍するプロスノーボーダー。海外ビックマウンテンでの滑走経験多数。アラスカ急斜面や、氷河キャンプなどにて撮影を行い数多くの映像を発表する。ニセコ町の冬山ガイド集団「POWDER COMPANY」代表。ライディングクリニックやツアーを通じ、ゲストのスキル向上を図るとともに、安全で楽しいスノーボードを提唱している。http://www.powcom.net/

ショウヤ・グリッグさん

大好きなニセコを、たくさんの人に楽しんでもらいたい。

オーストラリア出身・北海道ニセコ在住のショウヤさんが、日本へわたったのは17年前。
元々日本には興味があった。しかし首都東京ではなく、北海道を訪れたのには理由がある。
「オーストラリアの学校で勉強するより、その国に行った方が言葉を覚えられる。
その点、東京のような大きな街だと英語が話せる人が多いかもしれない、と思ったんです」
加えて彼は、山や雪といった自然を愛していた。ある日図書館で本を読んでいたら
目を疑うほどに美しい自然風景の写真を見たという。それが、北海道だった。
「来日して半年ほど、自転車で道内を回りました。自然の匂いや水の音を感じながらね。
僕の生まれはイギリスだけど、イギリスとニセコはなんとなく雰囲気が似ているんです」
周辺環境に惹かれた彼は、2年前、ニセコに大きな自宅を建設。
洋風建築の中には日本画や書などが飾られ、茶室までが用意されていた。
「今、庭に蔵を移築しようと考えています。茶室の窓から見えるような位置にね」
洋と和を上手に融合させたスタイリッシュな建築には、彼独自のセンスが溢れている。
オーストラリアではフォトグラファー、そして
来日してからはクラブやラジオのDJ、イベントのMCなどをしていたというショウヤさん。
そのうちに知り合いが増え、元々やっていた写真の仕事が舞い込み始めたという。
やがて、パーツだけではなくデザイン全体にも興味を持っていた彼は会社を設立し
プランニングから、グラフィックやweb制作まで、
一貫して行なうという仕事を生業にするようになった。
「それだけでなく、建築やインテリアも好きだった。でも最初は仕事がなかったから、
自分で作品をつくってしまおう、と。そうしてできたのが『J-SEKKA』なんです」
「J-SEKKA」は、ホテル・ダイニング・アクティビティを提供する複合施設。
洋の中に「わび・さび」を取り入れた斬新な建築デザインと、
北海道の味覚が楽しめるカフェやラウンジバーなどが
地元の人だけでなく、雪山に訪れる外国人にも大人気だ。

スタイリッシュな自宅。羊蹄山が望める位置に、広々としたリビングを配置した。

「僕は専門家じゃないからこそ、自由にアイデアを出せる。それが面白いですね」
次々と発想をかたちにし続けるショウヤさんの、次の目標は「旅館」。
自宅の2万坪の敷地を使い、2012年の夏頃から着工する予定だ。
「中庭を建物で囲うようにして、縁側をつくたい。だから土地もかなり広めに購入しました。
竹林も最初は鬱蒼としていたけど、かなりの量、僕が機械で刈ったんです(笑)」
羊蹄山の美しい姿が望めるこの敷地には美しい池もあり、水がこんこんと沸いている。
そんなロケーションへのこだわりも、自身が「自然好き」だから。
羊蹄山を始めとする山にもよく登り、夏はトレッキングをし、冬は雪山へ行く。
またニセコのテニスクラブに入っており、地元の人たちとの交流も盛んだ。
「僕は、ニセコが大好きなんです。
旅館ができたら、日本人にも、外国人にも泊まりに来てもらいたい。
冬は、雪山に来る外国人のお客さんが多くなるかもしれませんね。
そういう方たちはコンドミニアムに泊まることが多いけど、
やっぱり純和風な旅館に泊まって温泉を楽しみたい方も多いはずです」
外国人ならではの発想が活きた、洋と和が調和する新しいタイプの旅館になるだろう。
このような型破りな活動は、そうそう容易にできることではない。
彼のバイタリティーとエネルギーは、どこから来るのだろうか。
「やりたいことを実現するために、なるべく具体的にイメージするようにしています。
“ホントにそんなことできるの? 大丈夫?”と思われることもあるかもしれないけど、
自分の体や頭を信じていれば、周りの人にも少なからずその影響を及ぼすことができる。
そうすればたくさんの人が知恵を貸してくれて、どんどん形になるんです」
周囲を巻き込んでニセコに新しい風を吹き込むショウヤさん。今後の展開が楽しみだ。

ショウヤさんが旅館を作るために購入した竹林は、自宅のすぐ向かいにある。

異国の屋敷を思わせる、広々としたリビング。開放的な窓から光が入ってくる。

日本的なしつらいが随所に散りばめられている。庭づくりもポイント。

ふたりの娘に囲まれて、幸せいっぱい。バルコニーは、愛犬のくつろぎスペース。

ショウヤさんの書斎には、カメラのコレクションがずらり。今では貴重な型も。

伝統的な茶室も、現代風にアレンジされているためどことなくモダンな雰囲気。

晴れた日には、羊蹄山が臨めるバルコニー。自然が見せる顔も季節ごとに変わる。

Profile


map

Shouya Grigg 
ショウヤ・グリッグ

イギリス・ヨークシャー出身。13歳よりオーストラリアに移り、17年前に来日。ニセコに住み始める。クラブやラジオDJなどを経て、デザインカンパニーを設立。フォトグラファーやグラフィック・ウェブデザイナーとして活躍しながら、空間もデザインし始める。ホテル・ダイニング・アクティビティを提供する「J-SEKKA」オーナー。

http://www.j-sekka.com/

森岡尚子さん

自給自足を目指す家族を受け入れた、ちゃんぷるー文化。

沖縄北部、この島で最も豊かな森林が残るやんばる(山原)の東村で、
自然農法を取り入れた農業を営む森岡尚子さん・浩二さん夫妻は、
この土地に移住して6年になる。
「5年くらいずっと、あちこち自分たちの住む場所を探していたんです。
石垣島に3年半ほど住んだ後に、やっとこの場所を見つけて。当時、
このあたりにはほとんど移住者はいなかったんですが、今はずいぶん増えました」
と尚子さんが振り返る。
その間に、和鼓ちゃん(9歳)、然くん(4歳)、丸ちゃん(1歳)の
3人の子どもに恵まれ、今では賑やかな5人暮らしになった。

尚子さんの「住む場所探し」への思いは、
今思えば「ずっと小さい頃から始まっていたのかも知れない」という。
東京・渋谷区という「超」のつく都心部に生まれた彼女は、
「新宿副都心の超高層ビルを見ながら育ったせいか、
自然の中で暮らしてみたいとずっと思っていた」
「文明のないところで自給自足するような生活に憧れていたんです。
だから、大きくなってから何度も旅をしたけど、
旅そのものが目的というよりも、“自分の住む場所を見つけたい”という思いが強くて。
初めから目標は決まっていたんですよね」

高校生の頃、国際的な政治や国際経済、環境問題に興味を持ち、
フォトジャーナリストに憧れて、大学では写真学科を専攻した。
その在学中、英語を学ぶために休学して向かったロンドンでの体験は、
その後の人生に大きな影響を与えたという。
「ロンドンで暮らし始めると、ジャマイカやアフリカなど、
色々な国から来た移民がすごく多いことが分かって。
しかもみんな『お客さん』ではなくて、その土地にしっかり根ざして生活している。
下町の商店街を歩いていると、あちこちからいろんな種類の音楽が聞こえてくるし、
いろいろな国の食べ物が売っていて、それがもう楽しくて。大好きでした」

さまざまな国や民族・文化に触れる楽しさを知った尚子さんは、
かねてから興味のあったアフリカへ、ロンドンから旅に出るようになった。
特に、マリやカメルーン、ブルキナファソなど西アフリカの国々で出合った、
日本やヨーロッパの国々の近代的な生活とは違う、
自然とともにあるプリミティブな暮らしに、強く惹かれた。
その理由を尋ねると、
「説明するのは難しい」
と尚子さん。
「好きなことって、理由がないじゃないですか? 
好きなものは好き、という感じで、
ただそこにいることが気持ちよかっただけなんですよね」

結局、ロンドンでは一年半ほど暮らし、そのまま大学は中退した。
帰国後、ロンドンで学んだアフリカの「ろうけつ染め」や
写真の個展を各地で開きながら暮らしていた尚子さんの心が農業に向かったのは、
一冊の本との出合いだった。
自然農法の創始者、故・福岡正信氏の著書『自然農法 わら一本の革命』。
田畑を耕さず、農薬はおろか肥料も使用しない
独自の農法を提唱するその思想に、大きな衝撃を受けた。
「本を読んで、すぐ愛媛の福岡さん宛に手紙を書いたんです。
すごく緊張してポストに手紙を入れたのを覚えています。
するともう次の日の朝、すぐに福岡さんご本人から電話があったんですよ。
本当にびっくりしました。“こちらに来ていいですよ”と言っていただいたので、
こちらもすぐに“行きます!”と答えました」

移住者も多く、やんばる地域ではこの東村だけが唯一子どもが増えている。

台所には周辺で自生するハーブなどを使った手作りの調味料や保存食が並ぶ。

愛媛で農園を営んでいた福岡氏の元で学び始めた尚子さん。
「福岡さんは当時すでにかなりのご高齢でしたので、
実際に畑仕事をたくさん一緒にやったわけではないんですが、
そばにいることで福岡さんの哲学が学べました。
やっぱりそれが一番大事なことなんですよね」

福岡氏の提唱する自然農法は、畝を作らない。
筋蒔きをしない。「ほとんど『ばらまき』に近い」、
現代の農業においては非常に特異な農法と言えるものだ。
「今でも他人から“そんなやり方じゃ無理じゃない?”
なんて言われることもあるんですけど、
本当に石だらけの土地で大根ができるんですよ。
タイミングさえ間違わなければ、除草も間引きも一度もしなくてもいい。
毎年、ここで実践をして、どんどん結果が出ている。
すごくワイルドで味のいい野菜ができるんです」

タイミングを見逃さないこと。
それは福岡氏の自然農法の大きなポイントだと尚子さんは語る。
「福岡さんはいつも“観察が大切だ”と仰っていました。
雑草ひとつとっても、その状態はいつも同じではないんですね。
だから、“知恵を捨てろ”と言うんですね。
先入観や知識が、観察を邪魔してしまうから」

夫の浩二さんもまた、福岡氏の元へ行き、
それまで持っていた先入観や知識を覆されたという。
「僕はそれまでずっと有機農業をやっていたから。
当初はなかなか自然農法のことが理解できなかったんです。
でも、僕も福岡さんの山に行ってみて、“ああ、そういうことか”と。
あちこちに生えている雑草だって木だって、
何でも食べられるものなんだって分かった。
そう考えたら、自分たちの目の前には食べ物だらけじゃないか! って。
だけど、“これは雑草でしかない”というガチガチに固まった頭で見てしまったら、
そうは見えないですよね」

自然の中のありとあらゆるものが、必要であり、役割があるということ。
「自然農法をやっていると、感謝しか出てこない」
と尚子さんは言う。
「自分は何もやってないのに、自然から与えられるばかりだから。
福岡さんはよく、
“人間は何もせずに、ただ感謝して生きていれば良かったんだ”と仰っていました。
ここで暮らして、本当にそういうことを感じるようになりましたね」

キャベツ、レタス、トマト、じゃがいも、葱……、
周りの人たちから「できないよ」と言われていた米もできた。
「まだまだ…。麦も大豆もやりたい。味噌も自分で作りたい。
どんどん増えてきますね。
来年はあそこをこうやってみようとか、ずっと完結しない。だから、飽きないんです」
と浩二さんは話す。

そもそも、尚子さんが沖縄に住むことになったきっかけは、
「もともと南方が好きだったんです。
たまたま沖縄でろうけつ染めの個展をやることになって、
その時にいろいろな人達と知り合って、
だんだんとこの場所との縁が深まっていった」とのこと。
当時、同じく農業を志していた浩二さんと出会い、
二人で自給自足を目指す生活を始めることになった。
その理由について、尚子さんはこう語る。
「自給自足することで環境破壊になるべく加担しないですむ。
そういうものに大きく加担していると思うと
すごく居心地が悪いという気持ちはありました。
自分の知らないところで誰かが犠牲になっているという暮らし方はしたくない。
とは言っても、自分としてはやっぱり
ただ気持ちのいい方、いい方へとしか行けない性分だったというのが大きいんです。
都会は自分にとっては大変なことが多かったから。
こういう暮らし方が、自分にとっては気が楽だったということなんです」
浩二さんも
「農業は身体的には辛いこともあるけど、対人関係のストレスに比べればずっと楽。
汗水流して、細かいことは気にせず、快眠快食。働いた結果がお金でなく、
食べ物で得られる。シンプルでいいなあと思いますね」と快活に笑う。

土地を見つけた後、浩二さんがテントで寝泊まりしながら自ら家を建てた。

自然の素材を生かした室内。冷蔵庫や掃除機などの家電は使わない。

自然の中で成長する娘の姿に「自分は街で育ったので、羨ましい限り」と浩二さん。

東村に土地を見つけた後、自分たちの住む家は大工の友人に教えてもらいながら
セルフビルドで半年かけてつくり上げた。
沖縄という地に馴染み、根を下ろして生活していく中で、
南国の明るさや軽さだけではない、
この土地のさまざまな目に見えない文化も理解できるようになったという。
「沖縄には、すごく相手を気づかう言葉の文化があるんです。
『だからよ』っていう方言は翻訳が難しいけど、ちょっとした相槌みたいな言葉で、
その一言だけで相手に気持ちを伝えたり、ハッとさせられたりする。
あと、自分が帰る時に相手に向かって“行きましょうねえ”なんていう、
自分と相手の境をなくして、全てを抱きかかえるような言葉もあります。
お酒の場でも、そこにいない人の悪口はタブーなんですよ。
ウチナーンチュは本当に楽しくお酒を飲むんですよね。
狭い島だからこそ、人間同士がうまくやっていくためのルールとか行動規範が
洗練されていて、スマートなんですね。文化的なレベルの高さを感じます」
と浩二さん。その文化的ルーツは
やはり「海洋民族」ということにあるんじゃないか、と尚子さんは言う。
「『ちゃんぷるー』という言葉は元々インドネシア語ですが、
黒潮に乗って多くの人々がやってきた海洋民族だからこそ、
いろんなものを受け入れる『ちゃんぷるー文化』ができたんじゃないかな。
そんな沖縄の人たちの優しさが、
現代の基地問題なんかにも繋がっているのかもしれないけれど、
やっぱり彼らは人やものを拒むのではなく、受け入れてくれるんです。
すごく懐の深い文化だなあと思いますね」

自分たちのような移住者をも拒むことなく受け入れてくれた、沖縄の土地と人々。
それは、そこに住む人々がとてつもなく長い時間をかけて培ってきた、
平和に暮らしていくための文化と技術に裏打ちされているのかもしれない。
「まだまだこれから、ゆっくり土地に馴染んでいきたい」
と浩二さんは語る。
「ウチナーンチュの時間軸は、内地の人間とぜんぜん違う。
すごく長いスパンで物事を考えているんですよ。
すぐに成果を求めない。決してあせらない。
とても余裕があるんです。だからもう、彼らには本当にかなわないですよ」

Profile

NAOKO MORIOKA 
森岡尚子

1972年東京生まれ。大学の写真科を中退してロンドンへ渡り、その後は全国各地でアフリカをテーマにしたロウケツ染めと写真の個展を開催。自然農法創始者・福岡正信のもとで農業を学んだ後、沖縄へ移住。現在は東村・高江で夫と3人の子どもと暮らす。著書に『沖縄、島ごはん』(ネコパブリッシング)『ニライカナイの日々』(ピエ・ブックス)。