STUDY 地熱発電

火山大国・日本の地熱の有効活用。

地熱発電は、地球内部のマグマのエネルギーを活用し、
地上に噴き出た高温の蒸気あるいは熱水により発電を行う自然エネルギーの一種です。
火山大国である日本には、豊富な地熱資源があり、
その資源量はアメリカやインドネシアに次ぐ世界第三位と言われています。
実際に日本国内には多くの温泉があり、熱利用が盛んです。
地熱発電については、1966年に国内初の地熱発電所が運転を開始してから、
これまで導入された地熱発電所の設備容量は約55万kWに留まっています。
これは、2010年末の段階でアメリカの310万kW、フィリピンの190万kW、
インドネシアの120万kW、メキシコの100万kW、イタリアの90万kW、
ニュージーランドの80万kW、アイスランドの60万kWに次ぐ
世界第8位の規模になります。
その一方で、海外の地熱発電の設備の多くには日本の技術や製品が生かされています。
現在、世界の24か国で地熱発電所が稼働しており、
全世界で約1100万kWの発電設備が稼働しています。
ひとり当たりの発電容量ではアイスランドが世界のトップで、
アイスランド国内の発電量の約26%を占めるまでになっています(日本は0.3%程度です)。
日本では、1970年代のオイルショック後に地熱開発の機運が高まり、
民間主導で地熱発電設備が導入されました。
その後、1990年からは国の主導するさまざまな政策で発電設備の導入が進みましたが、
1999年の八丈島への導入を最後に新たな地熱発電の設備の導入が進まず、
「失われた10年」と呼ばれるような状況となっています。
これまで、大部分の地熱発電は、
エネルギー政策の中で特に支援が必要な「新エネルギー」として位置づけられておらず、
その普及を支援するRPS法の対象にもなっていませんでした。
最近、新しい固定価格買取制度や自然公園などでの規制の緩和などにより、
地熱発電の普及に向けた政策の見直しが始まっています。
日本国内で大きな地熱の資源ポテンシャルがあることから、
国内産業育成や温泉と共存したかたちでの地域の活性化などの観点から注目されています。
高温の蒸気ではなく、熱水を用いる地熱発電を、温泉熱発電あるいはバイナリー発電と呼びます。
比較的小型で、発電出力の規模も数10kW程度からあり、
高温の源泉を持つ温泉がある地域で、その導入が検討されています。
発電した電気やお湯を有効活用できればと、
地熱発電と温泉が共存できる新しい仕組みとしても注目されています。
日本国内で地熱発電が多い都道府県として、
九州地方の大分県や鹿児島県、東北地方の秋田県や岩手県などがあります。
大分県では、家庭やオフィスで使う電気のうち、
20%程が地熱発電による電気でまかなわれている計算になります。
市町村の中には、大分県の九重町や福島県の柳津町のように、
地熱発電によって発電された電気の量で、
計算上その地域の全ての電力をまかなえるような地域もあります。

民間ホテルの地熱発電所(提供:九重観光ホテル)

TOPIC 山梨県北杜市 メガソーラー

メガソーラーのまち、北杜市の取り組み。

山梨県北杜市は、山梨県の北西部に位置する人口4万4千人の市です。
北に八ヶ岳連峰、西に甲斐駒ヶ岳に囲まれ、釜無川をはじめとする多数の川が流れています。
水資源が豊かで、サントリーの白州工場もこの地に立地しています。
また、雨の日が少なく、日本で一番長い日照時間を誇る土地としても知られています。
住宅用太陽光パネルで発電された電気の余剰分を固定価格で買い取る制度が
2009年11月に導入されましたが、
今年7月から住宅用太陽光パネル以外にも対象を拡張した
新しい固定価格買取制度が導入されることになっています。
このため、全国各地でメガソーラーへの関心が高まっています。
北杜市は、長い日照時間を生かして、
その先駆けとなるメガソーラーを2006年から運営しています。
このメガソーラーは、
系統連系時に電力系統側へ悪影響を及ぼさないシステムの実現を目指した実証実験設備として、
新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)の委託によって設置されました。
実証実験の終了にともない、
2011年4月からは市営の「北杜サイト太陽光発電所」となっています。
中央高速道路脇に設置されたこのメガソーラーには、
さまざまな種類の太陽光パネルが合計1840kW設置されています。
面積は約10haで、事業費は約32.3億円でした。
年間発電量は約200万kWhで、2008年度の設備利用率は15.16%、
2008年4月から2010年4月の期間における設備利用率は14.26%と良好な結果を残しています。
このサイトでは、大規模な太陽光パネルシステムを支える
大容量パワーコンディショナの開発を行うとともに、
さまざまな種類の太陽光パネルの性能評価やモジュールの設置角度の検討などが行われました。
北杜市ではメガソーラーの見学会も行っています。
メガソーラーサイトには、展望台と説明パネルが設置されており、
見学会に参加しなくても概要を把握することができます。

北杜サイト全景:北杜市北杜サイト太陽光発電所HP

近景:筆者撮影

焙煎所「カフェリコ」にて

開店まであと 33日——————

撮影でロンドンに滞在していた2008年の冬のこと。本屋で写真集を買った。
タイトルは『LONDON CAFFS』
ロンドンにある古いカフェ「CAFF(カフ)」(ロンドンっ子はそう呼ぶ)を集めた
写真集だった。
ある日、そこに掲載されていた店の一軒でカメラマンと待ち合わせた。
ところがお互いにその店を見つけられず、店があるはずの住所のあたりで鉢合わせした。
どうやらそのカフは閉店したようだった。
同じことがもう一度あって、そこでようやく理解した。
その写真集にある眩しいばかりの素敵なカフたちは絶滅危惧種なのだ。
外来種の「M」とか「S」に追われるようにして、
ロンドン固有の文化が姿を消しつつある—————これって日本もまったく同じじゃないか? 
ほどなくして帰国したぼくは、早速、『Krash japan』の次号の特集名を決めた。
「KURASHIKI CAFFS」、倉敷の喫茶店の特集である。
地方で発行している雑誌で日本固有の喫茶店文化が守れるとは思わないが、
少なくとも美しいカタチで記録に残したいと。
ところが、気持ちだけが先走って、大切なことを忘れていた。
オレ、コーヒーが飲めないのでは? 
コーヒーが飲めなくても、喫茶店を特集することができるのか。
そして、ロケハンがスタート。
一日4〜5軒の喫茶店をまわり、ぼくは決めごとのように、各店で必ずコーヒーをオーダーした。
しかも飲むのはブラック—————結構つらかった。
苦行ではあったが、1週間でムカムカがなくなった。
2週間もすればなんとなく美味しさがわかるようになってきた。
こうしてぼくはコーヒーを克服したという話。
美味しいコーヒーが美味しく飲めるようになったというだけで、
しかし、いまもそれ以上ではない。

1月の最後の日曜日、焙煎所「カフェリコ」の稲本道夫さんの工房に行った。
コイケさんからは「無口な人」とだけ聞いていた。
他に、稲本さんのとある知人には、
「次の日曜日、ココリコの遠藤さんのところに行く」と言ったら、
「冗談でも言ったらダメ」と冷たく釘を刺されていた。
どうもまじめな人らしい。
焙煎所の外観からして、稲本さんの性格が表れていた。
絶対この人、几帳面だ。
モノをあった場所にきっちり戻すタイプの人だ。
コイケさんと一緒に焙煎所の中に入って確信した。
空間に置いてあるものすべてが、平行だったり垂直だったり、
意味不明な角度に置かれているものがない。
ここまでの数少ない情報だけで、何事につけズボラなぼくは結構臆していた。
が、臆しながら同時に信頼し始めていた。
仕事をするには絶対こういう人がいいのだ。
やっぱり無口な人だった。
でも、コワい感じはまったくなく、語り口はむしろ優しい。
年齢は50代半ばか後半か。
背はすらっと高くて(ココリコの遠藤よりも田中でした)、
こんな田舎ではあまりお目にかかれないダンディなお人だった。
そして、なんといっても趣味の良さだ。
稲本さんがほとんど手がけたというこの焙煎所とオフィスの内装は、
『クウネル』を愛読する女子と『男の隠れ家』を愛読するオヤジが
ともに「いいね!」を押してしまうようなグッドテイストなのだった。
焙煎室の隣にあるオフィスの巨大なテーブルの上に
「ダ・テーハ」というブラジルの豆(スペシャリティ)が用意されていた。
3つの袋に小分けされていて、「216℃」「222℃」「225℃」の表示が貼り付けられている。
それぞれ焙煎の度合いの違いで、
数字は煎りあがり(焙煎後に窯から豆を出すとき)の温度だという。
それぞれ稲本さんが自らペーパードリップで淹れてくれた。
216℃はぼくが好きな程度の酸味があったが、
222℃になると酸味がほとんど感じられない。
たったの6℃で味がこうも変わるのか。
226℃になると、ぼくにはちょっと重いぐらいだった。
「ブレンドはたんに豆を混ぜるのではなく、新たな味を作るんです。
ブレンドには融合とか、調和って意味もありますよね」
なるほど。ぼくはてっきり、種類の異なる豆を混ぜて作るんだと思っていた。
同じ豆をセレクトしたブレンドでも、
そのうちどれか焙煎の度合いをちょっと変えるだけでも出来上がりは異なってくる。
「浅煎りのほうが香りが出るので、中間に浅煎りをもってきて香りをつけるとか。
でも、浅いのが勝ると今度は渋みが出てくるんです」
なるほど。これは奥が深い、深すぎる。
さて、じゃあどうしようかとその場で相談と思いきや、
「エアロプレス(空気圧を利用して抽出するコーヒーの抽出器具)、見せてくださいよ」
というコイケさんのリクエストに答えて、
稲本さんが「これ、結構力がいるんですよ」と実演を見せ始め、
エアロプレスで淹れたコーヒーを、
ジャズのBGMをバックにまったり飲みながら言葉少なめの大人の談笑。
それからおもむろに、「じゃあ、そろそろ店があるので」とコイケさんが立ち上がると、
「じゃあ、また届けておきます」と稲本さん。
あれれ、なんですか、この淡白な展開は? 
なんか、ブレンド作りに参加しているような、参加していないような。
そんな消化不良な思いを抱いたままカフェリコを後にしたのだった。
開店まであと40日を切った。いまだコーヒーのブレンドは決定していない。
そういえば、その日ぼくはほとんど稲本さんに話しかけることはなかった。
話しかけていたとしても憶えていない。唯一憶えているのは、この一言。
「あのディードリッヒっていう焙煎機、機関車みたいですよね」
コメントはなんにも返ってこなかった。
もしかしたら、バカだと思われたかもしれない。
(つづく)

ロンドンの古いカフェ「CAFF」を集めた写真集。外装や内装、什器や食器などどれをとってもくらくらするほど魅力的。

カフェリコの焙煎室。黒いのがディードリッヒ、奥にあるのが国産の焙煎機。左手にはイタリア製のペトロンチーニ、計3台の焙煎機がある。

自らコーヒーを淹れてくれる稲本道夫さん。ブルゾンの襟を立てておしゃれに着こなす大人の男性を久々に見ました。

コーヒーはカッピングではなく、実際に淹れて試飲。「カッピングは慣れないと難しい」(稲本さん)のだとか。普通に淹れても難しいんですが。

桜坂劇場

「映画館」から「劇場」へ。

那覇市民の台所、マチグヮー(牧志公設市場)のにぎわいを横手に外れると、
桜坂と呼ばれる細く急な坂がある。
アメリカの施政権下にあったときにはキャバレーやスナック、
バーが並び色街として栄えたが、
今はスナックが少々残る程度でかつての面影はない。

その桜坂のてっぺんに建つのが、桜坂劇場。
1952年に開業した「珊瑚座」という芝居小屋から歴史は始まる。
1953年に映画館に転身し「桜坂琉映館」と改称。
1986年11月に「桜坂シネコン琉映」としてリニューアルする。
そもそも沖縄は、映画興行の文化や歴史が、他の地域とは大きく異なる。

戦後しばらくの間、沖縄では、昭和初期の無声映画と、
新しいアメリカ映画が同時に上映され、多くの人が映画に親しんだ。
その後、沖縄を題材にした多くのインディーズ作品の台頭と流行を経て、
最近は沖縄国際映画祭が開催されるといった、
独自の映画文化を築きあげてきたという背景がある。
しかし、まちの小さな映画館だった「桜坂シネコン琉映」は、
2005年4月にとうとう力尽きてしまう。

なんとか那覇市内に映画館を存続させたいという想いを持った
県出身の映画監督・中江裕司さんを中心とする5人の仲間が
2005年7月に「桜坂劇場」をオープンさせた。
現在は、3つのスクリーンを擁し、年間300本上映するまちの映画館はそのままに、
カフェ「さんご座キッチン」と、
雑貨・本・沖縄クラフトを販売する「ふくら舎」も同時に運営しており、
さまざまな年代のお客さんでにぎわっている。

モーニングを食べられる店が意外と少ない沖縄で重宝するカフェ。
沖縄在住の工芸作家の作品が多く並べられるショップ。そして映画館。
ゆったりとした沖縄タイムに身をゆだねられる空間がつくりあげられた。

「映画だけでなく、音楽のライブがあったり、雑貨や本があったり。
経営側の都合ではなく、“お客さんは何を求めているのか”という視点でセレクトします。
一方でお客さんも、従来の映画館の枠組みを越えて、楽しみ方をセレクトするのです」
と話すのは、桜坂劇場を運営する株式会社クランクの上原力(つとむ)さん。
ショップにセレクトされているものも、沖縄の映画の歴史書や、
やちむん(沖縄陶器)の重鎮の作品、若手のテキスタイル作家の作品など。
どれも一般の土産物屋では手に入らないような個性的で手に取りたくなる品々だ。

映画館の薄暗いイメージを払拭する、明るく開放的なロビー。

沖縄の手しごとが集まるふくら舎。

沖縄の海を想起させる青い壁紙が印象的なホール。

市民大学を劇場で。

桜坂劇場の大きな特徴のひとつは「桜坂市民大学」という、
体験型のワークショップを主催していることだ。
「情報をただ消耗するだけではなく、情報を“つくる”ことも大切だという意識で、
従来にはない劇場のかたちをつくりあげていきました」
と上原さんは語る。

150ほどの講座が随時開かれており、市外や県外からも参加する人が多い。
それもそのはず。講座は、「おじーおばーのウチナーグチ(古くからの沖縄の方言)講座」や
「ウチナー芝居」といった沖縄の文化継承の講義から、
「映画の学校」や「脚本講座」という、映画館の特性を活かした講義もあり、
まさに、ここ桜坂劇場でないと受講できないものが多いのだ。

例えば、「おじーおばーのウチナーグチ講座」について、
「沖縄にくる方には“リアル”と“驚き”という二通りの体感の目的があるのですが、
ここ桜坂劇場は、沖縄の“リアル”の部分なのです。
つまり、ウチナーグチを使いたいという人が学びにくるのです」と上原さん。
なので、桜坂市民大学ではしっかりと使う場も与える。
桜坂市民大学学園祭と称し、講義終了後に成果発表の場が設けられ、
講師も生徒も鍛錬するそうだ。
その様子たるや「単に習いにきているという感覚ではなく、修行ですね」とのこと。
卒業生の中にはウチナー芝居の役者として活躍する人や、
実際に職業として身を立てる人もいるほど。その、講師と生徒の真剣さも人気のゆえんだ。

通常であれば、公民館やそれに準ずる場所で行われることの多い市民大学が、
まちの映画館で行われるということはとても珍しいのでは?
「珍しいどころか、映画館が文化発信の中心になるということ自体、
お手本がなかったのです。もう映画館単体では
人を呼び込むことは難しいと考えた代表の中江裕司が、
日本だけでなく世界中のスクリーンを視察してよい試みを吸収し、
“映画館”ではなく、総合的な“劇場”にしようと。そうしてできたのが桜坂劇場でした」
また、上原さんは、“開かれた場所”という言葉をキーワードとしてあげた。

「映画館は元来クローズドな場所で、
まず入り口にあるチケット売り場でチケットを買ってから
中に入らなければならなかったのです。
でも桜坂劇場では、チケットを持っていなくても中に入れ、利用できます。
映画館という場を“開かれた場”にし、さまざまな人に自由に出入りしてもらい、
いつも誰かがいる空間にする、という考えは新しいかもしれません」

その取り組みもあり、今では、桜坂劇場の会員は1万人に達した。
これは全国的にみても大成功と言える。
「本当に会員・リピーターに支えられています」と笑う。
運営に悩む全国のミニシアターも手本にしたいのでは? 
という問いに、上原さんはこう答えた。

「その土地に合ったやり方というのが必ずあるはずです。
沖縄は地域との結びつきや郷土愛がとても強いし、
興行などの一般的なランキングに左右されず自分の楽しみは自分で選ぶという意識が強い。
沖縄映画の歴史的、文化的な背景もありますし、この場所も昔からあった。
それが良かったのかもしれませんね」

赤い手すりの階段を上ったところは元々会社の事務所だった。今は桜坂市民大学の教室として使用されている。

桜坂市民大学。この日はヨガのクラスが開講中。若い男性も多い。

桜の見頃は2月上旬。桜坂の名にふさわしい光景が見られるという。

「マチスタの味」をつくろう

開店まであと 40日——————

「こいつ、いったいなんなん?」
ヤツを見ながら、そんなことを考えたりする。
当社アジアンビーハイブで飼っている元野犬のサブである。
普段、犬や猫を見て感じる可愛さが、実はこの犬にはない。
サブに対して愛情がまったくないというわけじゃない。
犬というより、むしろ人間だと思わせるなにかがサブにはあるのだ。
人間だとしたら薄汚れた元浮浪者のオッサンなわけで、そのオッサンから、
毎朝フェラーリの馬のポーズで何発も飛び蹴りされたり、
そばで暑苦しくじっと見つめることで朝夕の散歩をねだられたり、
その散歩で腕が抜けるほどひっぱり回されたり、
事務所の中で一日に何回も放屁されたりというのが毎日なものだから、
通りいっぺんの腹立たしさを通り越して、
日に何回と、哲学的にサブの存在の意味というところまで考えてしまったりするわけだ。
先週になって、『風と海とジーンズ。』の最新号のギャラが入った。長かった。
これでやっと、会社の口座残高が1000円以下なんてシュールな状況から抜け出すことができた。
お金が入って真っ先に買ったのが、サブの首輪だった。
前の首輪は幅広の赤い革に金メッキのスタッズが無数に入っているようなタイプで、
「無駄にイカツすぎる」と当社の女子たちに不評だった。
新しい首輪は5000円以上もしただけあって、
なるほどあの薄汚れたサブがちょっとだけ垢抜けて見える。
垢抜けたら垢抜けたで、今度はこれまで使っていた
麻縄のような古いリードとの見た目の相性が最悪だということが判明したのだが、
そのリードまで買い替える予定はいまのところない。

新生マチスタの最大の売りは、いわずもがな、コーヒーである。
なにせ正式な店名が「マチスタ・コーヒー」なわけだから。
これまでのコイケさんの店では、シングルオリジンコーヒーという、
ブレンドではなく単一の産地の豆を使用したものを提供していた。
しかも、どの産地のどの農園(生産者)という履歴が明らかで、
豆の品質等級でもトップクラスのものを使用したスペシャリティ・コーヒーだ。
実はこの手のコーヒーにこだわった喫茶店は近年珍しくはない。
どちらかというと結構な流行りのような印象もある。
そこで戦略的には、シングルオリジンから旧スタイルに戻すことを提案した。
主力メニューをブレンドにしようというのだ。
あまのじゃくというのも多分にあるんだけど、
シングルオリジンでコーヒーのメニューが複数あるというスタイルよりも、
ブレンドを作ってシンプルにしたほうが、テイクアウトスタイルにマッチすると思った。
コイケさんもこのアイデアにすんなり同意してくれた。
1月中旬、マチスタに焙煎されたブレンドの豆が届けられた。
豆を持ってきてくれたのはコイケさんの友人で、
街スタのコーヒーを焙煎・納品していた焙煎人の稲本道夫さん。
岡山で「カフェリコの稲本さん」といえばコーヒー業界の有名人だ。
20代の頃に神戸で修行し、地元の旧灘崎町(現在は岡山市内)に戻ってからは、
コーヒーの焙煎一筋約30年、
いろんな喫茶店に卸すことで岡山のコーヒーの味を作ってきたという業界の重鎮である。
実は稲本さんには一度も会ったことはなかったが、
新生マチスタでも引き続き焙煎をお願いしてあった。
豆は焙煎の深さの違いで、浅い順からシナモン、ミディアム、フルシティの3種があった。
それぞれ、コイケさんがペーパードリップで淹れてくれた。
ぼくの焙煎の好みからいうと、フルシティはちょっと濃い。
ミディアムあたりがちょうどいいんだけど、シナモンでも美味しく飲める。
コイケさんは濃いコーヒーが好みなので、このフルシティでもまったく問題ないと言う。
ふたりであれこれ短い言葉で感想を述べ合った。が、「美味い」という言葉はなかった。
焙煎の度合いはなんとなくつかめたが、豆のブレンドはこれでいいのかどうか。
そもそも、こうやって稲本さんから届いた豆をそのまま飲んでいるけど、
ブレンドってどうやって決めるのだ?
そんなとき、コイケさんから思わぬ言葉が飛び出した。
「ぼく、やっぱりこの香味があまり好きじゃないです」
「………というと?」
「ブレンドによくある、この口に残る感覚がイヤなんです」
意味がわからない。
ぼくにはコイケさんの感覚を解するだけの味覚はないみたいだ。
そういえば、コーヒーが飲めるようになったのはこの5年ぐらいだった、
自分でも忘れることがあるけど(それまでは飲むと必ず胃がムカムカしてたっけ)。
どっちにしても、ブレンドを主力にすると決めて準備を進めているのに、
ブレンドそのものが苦手ともとれるこの発言、到底聞き過ごすわけにはいかない。
この店で、コイケさんが自信をもって薦められないコーヒーを出しちゃいけないのだ。
「ブレンドで後口に残らないようにする方法はないんですか?」
「………ないことはないです。スペシャリティだけでブレンドを作るんです」
「………?」
「普通、ブレンドはスペシャリティの下のクラスの豆を混ぜるんです。
ブレンドによくある口に残る感じというのは、それゆえです。
でも、スペシャリティコーヒーは単一農園が条件ですから、基本的にブレンドはしません。
コストはかなり割高になると思いますが、規格外でお願いしてみますか?」
考えるまでもなかった。
「是非お願いしてみましょう」
後日、稲本さんからコイケさんのもとに連絡が入った。
次の日曜日、稲本さんの焙煎所「カフェリコ」に来てほしいと。
「もちろん、行きますと伝えてください」
そうコイケさんに回答したはいいが、コーヒーの味覚にまったく自信のないぼくは、
その日から数日、不安な日々を過ごすことになったのだった。
ああ、面倒だなあ。ブレンドなんて調子にのって言わなきゃよかったかなあ。
(つづく)

1月末に発行された『風と海とジーンズ。』最新号のvol.3。この写真を見てると、ついつい『風と海とジーンズとサブと。』と書きたくなる。

サブ、惰眠をむさぼるの図。いつもはもっとストーブに近いところで寝ている。脚がストーブの下に入っていることもある。

街スタで販売しているコーヒー豆。袋に描かれた意味不明のイラストはコイケさんによるもの。このイラストは新生マチスタでは却下の予定。

これが噂のカフェリコの外観。次回、ここを舞台に繰り広げられる激しいコーヒーバトル(?)の模様を詳しくレポート。

Onomachi α

「呼ばれてくる」場所。

和歌山市の中心部を流れる紀ノ川からほど近いところに、
Onomachi α(おのまち あるふぁ)は構えている。
昭和初期の建築としてはオーソドックスなネオ・ルネサンス様式だが、
他と異なるのは近代的な鉄筋コンクリート造りであるということだ。
外装は、1階が御影石(みかげいし)の化粧張りで、2階から上は茶色いタイル張り。
その切り替えがモダンな印象を与える。
3階建てだが、それぞれのフロアの天井が高い造りになっているため、
外から臨むと実際の階数より高く見える。
少し建物の歴史をひもといていく。
Onomachi αが入っている西本ビルは、1927年(昭和2年)に建てられた。
西本組(現・三井住友建設)という建築会社の本社オフィスとして使用されてきたが、
1945年7月9日の和歌山大空襲によって西本ビルのある小野町周辺はほとんどの建物が焼失。
鉄筋コンクリートづくりの西本ビルだけが残った。
以後、和歌山市の復興と成長を見守ってきた西本ビルは、
1990年代に本社ビルとしての機能を終え、
いくつかの会社の事務所として使用されたのち、
カフェやショップが入った「小野町デパート」という名で再出発。
2000年には、国の登録有形文化財として登録された。

現在のテナントは、1階はショップ&ギャラリー「ka-boku」、
2階はカフェ「茶室ゑびす」、3階はレンタルギャラリー「2410“α”」となっており、
和歌山市内外への文化発信地として注目されている。

Onomachi αのオーナー別所葉子さんはこの建物との出合いを、
「呼ばれてきた」と表現する。
「学生時代に京都で、おてんばKIKI(現・ゴスペル)という
銀閣寺近くにある古い洋館風につくられたアンティークショップとカフェで、
アルバイトをしていました。
数年前にこの建物が載っている新聞記事を読んだときに、
そのおてんばKIKIでのことや、自分がやりたかったことが、
わいてくるように思い出されたのです。
まだ、建物の現物もみていないのに、ここにいなければいけない気がして、
次の日には扉を開けていました。
そのうちに魅了され、ここにお店を持ち、今やこの場所が日常になっています」
だから、強く影響を受けたおてんばKIKIにならって、
ギャラリーとカフェという形態にしたのだと言う。
2011年夏には「小野町デパート」から「Onomachi α」と名を変えたが、
建物の外観と骨格は現代に受け継ぎ、
荘厳な姿はそのままに、静かに住宅街の中に佇んでいる。

登録有形文化財でもある古い建築物の西本ビルを
ギャラリーやカフェとして利用していくことに関して別所さんは、
「不安はあります。
ですが、文化財だからと言って保存するだけでは、どんどん朽ちるしかないのです。
人間が年を重ねていく中で、何か昨日とは違うプラスのことをしなければ、
どんどん老け込んでしまうように、建物にも人間が日々息を吹き込むことが大切なのです」
と語る。
そうした別所さんの想いは、Onomachi αのギャラリーやカフェで知ることができる。
例えば定期的に開催される、本の朗読会や、お菓子教室は、
Onomachi αならではの特別な体験となるだろう。
「昨日とは違うプラスのこと」を求めてここへ立ち寄るのもいいかもしれない。
Onomachi αのαとは、「はじまり」を意味している。
「“こんなの見たことないわ”“やったことないわ”“和歌山にこんなところあったなんて知らへんわ”
という、みんなのはじめての体験をここで実現したいですね」

鉄筋コンクリートづくりの堂々たる玄関。
ペディメントを支える継ぎ目のない一本の石柱は、ギリシャ建築に由来する。

基壇にはごつごつとした割肌の御影石、中層部には目の細かい御影石を用いている。

段差が高いので、一段一段階段を踏みしめるように2階へあがる。
コンクリートの階段はひんやり冷たい。

マリー・ローランサンや草間彌生の絵が見事に調和する空間。(2階「茶室ゑびす」)

高い天井と、木製の上げ下げ窓は時代を感じさせる。

ねぼけ食堂

お客さんと一緒につくる食堂。

このユニークな店名は、
マスターの吉田純治さんがむかし見習いで働いていた割烹料理屋の奥さんから、
高知の老舗料亭“祢保希(ねぼけ)”にあやかって、と勧められたことが由来という。
「それに、ほら、二人ともねぼけた顔してるやろ」
とマスターと、ママ・吉田輝美さんは笑う。

JR和歌山駅から徒歩5分。10人入ればいっぱいになってしまう「ねぼけ食堂」は、
マスターとママが脱サラして始めた。
31年前のことだ。
4人の子どもを育てながら、市内はもとより、
近くに停留所がある高速バスで大阪や東京へ行き来する
旅行客やビジネスマンの胃袋も満たしてきた。
とはいえ、お客さんの中心は常連さん。
営業時間は朝7時から夜10時までという、
働き者のマスターとママを頼ってお客さんはやってくる。
ひとりで来てもみんななんとなく顔見知りで、
いつの間にかテーブルがにぎわっているのもこの店の特徴。
モーニングやランチなど、決まった時間でのメニューのくくりもないせいか、
「ねぼけ」に流れる時間はちょっと不思議だ。
つまり、朝から飲む人も、歌う人もいるということ。
常連さんはお店に入るなり、まずは入り口近くの冷蔵ケースに向かう。
そこには、缶ビールや缶チューハイなどのお酒と、
ひじきの五目煮や煮魚などのお惣菜があって、
みんなそれを手に取ってテーブルに着くのだ。
つまみを口にし、一杯やり始め、中にはマイクを手に取る常連さんもいる。
この店はカラオケがあり、一曲100円。しかも、営業時間中ずっと利用できる。
歌声はお店の外まで丸聞こえだが、誰も気にはしない。
いつ来ても「ねぼけ」は「ねぼけ」なのが心地よいのだろうか、
温暖な気候に育まれた陽気な県民性が垣間みられる場所なのだ。

お店につり下げられたメニューに目をやると、
中華そば(和歌山ラーメン)、うどん・そば、和洋中の定食、丼ものがずらり。
その他に一品もののメニューも並ぶ。
「なんでも屋さん」というマスターの言葉のとおり、
とにかくメニューが豊富なので、
お客さんはあれもこれもと、随分悩むことになりそうだ。
「お客さんが“あれ食べたいな”“これほしいな”って言ったものを
つくらせていただいてます。
だからどんどんメニューが増えてしまってね(笑)」
と、お客さんのリクエストがあれば、まだまだ増えていきそうな気配。
「このだし巻き卵もね、料亭みたいに格好よくは焼けないけれど、
みなさん“お母ちゃんの味や!”言うて食べてくれはるんですよ」
この“お母ちゃんの味”が恋しくて、みんな「ねぼけ」に集まってくるのだ。

「おかいさん」のある風景。

朝食に、ほうじ茶でお米を炊いた“茶がゆ”を食べる文化がある和歌山では、
茶がゆのことを、親しみを込めて「おかいさん」と呼ぶが、
ここねぼけ食堂では、一日を通してそのおかいさんも味わえる。
夜お酒をたらふく飲んだあとでも、二日酔いの朝でも、
おかいさんならサラサラといただける。
「有田(有田市)、日高(日高町)、十津川(十津川村)などの山間部では
今も昔も変わらずに食べるけど、
他のところでは今は若い人はおかいさんを食べなくなったからね」
と、マスター。
時代の流れと共に、食文化も移り変わっていくが、
だからこそ、マスターもママもおかいさんを出し続けるのだ。
「若い人にも食べてもらいたいから」と、
ひとりひとつの小鍋に、たっぷりとおかいさんを盛りつけ、
数種類のお総菜を添えて「満腹セット」という名で出す。
小鍋から自分でおかいさんをすくって器に盛りつけて食べるのだが、
一杯目は自家製の梅干しと、二杯目はこんぶと、
三杯目は金山寺味噌と一緒にいただく、というように
味の変化も楽しめるので、あっという間に小鍋の底が見えた。
「暑い日も、寒い日も食べてもらえるように」と
おかいさんは常に温かいものと冷たいものを用意されているのもうれしいし、
「まずは、やっぱり、健康作りは朝食から」
というメニューに添えられた言葉も説得力と気づかいがあっていい。
店を出てからも、あの豊富なメニューを思い出し、
次来たときには何を食べようかな、と想像しては幸せな気分になれるのも、
「ねぼけ」だからなのかなと思う。

営業は朝7時から夜10時まで、休みは月に1回という働きもののマスターとママ。

じゅっと卵の焼ける音もごちそう。

今年の正月に張り替えたというマスター手書きの新しいメニュー。

茶がゆと総菜の「満腹セット」は店の看板メニュー。ほうじ茶の味が濃く、水分が多いのが特徴。

マチスタ・コーヒーのはじまり

開店まであと 47日——————

「大丈夫か、うちの会社?」で終わった前回の連載。
こんなことを自問するからには、あんまり大丈夫じゃない。
2月7日現在、当社のメインバンクの口座残高、記録更新だ——————862円。
昨日までしばらく5万円台だったけど、明日撮影があるので
なけなしの5万円を下ろしてしまった。
個人のほうはある意味もっとひどい。
誓って言うけど、48歳にしてぼくの貯金は500円玉貯金が唯一である。
コイケさんに「この店、ぼくがやりましょうか」と言ったとき、
頭のすみっこでこの500円玉貯金のことを考えていたのだが、
それ自体がもうダメなような気がする。そう、もうなんか全然ダメなのである。
「またやっちゃったか、オレ……」
正直、あの夜から軽く落ちた。
コイケさんの店「街なかstudy room」の経営を
ぼくが引き継ぐと口にしてしまったあの夜からである。
なんとか浮上のきっかけを求めてカフェや喫茶店の本を読み始めた。
下北沢の人気カフェの店主が書いた本とか焙煎の本とか、
喫茶店の経営本とか(タイトルは『いざ、開業!』だったな)。
その手の本を読み進めるうちに、不思議となんとかなるような気がしてきた。
そして読み終わる頃にはなんとかなるどころか、
結構成功するような気がしてきたのだった。
「少なくとも、負ける気がしないんですよね」
ぼくがそう言うとコイケさん、
「商売を始める人って、みんな最初はそう言うんです」
見事な袈裟切りをくらったのだった。

やると決めたからには、開店までにやらなきゃいけないことをやるまでだ。
まずは東京で経理の面倒みてもらっている税理士のシマヅさんに電話で報告し、
コイケさんをどのようなカタチで雇用するかを相談した。
結果、当社アジアンビーハイブの社員とすることになった。
これに一番反応したのは社員1号のヒトミちゃんだ。
「えーっ! 私の初めての後輩がコイケさん……」
「そう、会社の平均年齢が一気に上がっちゃうね」
コイケさんは人に雇われるのが初めてらしく、
なにやらそれを楽しんでいるような気配がうかがえる。
ぼくが店を引き継ぐと決まってからのコイケさんは、なにごとにつけ楽しそうである。
「お店の名前はどうしましょうか?」
コイケさんに聞いた。一番大事なところである。
一番大事なところなんだけど、コイケさんの軽いこと。
とても還暦を過ぎているとは思えない軽さで、
「この際、まったく新しい名前でいきましょう」
ここはぼくが文鎮にならなきゃダメなような気がした。
で、後日、店の名前はぼくが決めさせてもらった。
「せっかくなのでこれまでの呼び名を生かして『マチスタ』でいきたいと思います。
そのあとにコーヒーをつけて『マチスタ・コーヒー』で」
「いいんじゃないですか」
ニコニコ顔でコイケさんは言った。
お店に立つのはコイケさんなので、
ぼくは何を決めるのもコイケさんの意見を尊重したいと思っている。
でも、コイケさんはコイケさんでぼくの意見を尊重してくれる。
だからといってお互いが遠慮し合うのではなく、
言いたいことは言える空気がすでにぼくとコイケさんとの間にはあった。
関係としては悪くない。
これからいろんなことに、お互いが納得するラインを導きだすことができそうだった。
こうやって、週に2回ほど店に顔を出し、
年末にかけていろんなことを決めていった。
メニューのこと、お店のロゴや内装の雰囲気、内装にどれくらい手を入れるか、
リニューアルオープン日をいつにするかなどなど。
しかし、店の帳簿を見せてもらったときに思った。
いくらカッコいいロゴを作っても、内装をよく見せたとしてもダメなのだ。
なにかを劇的に変えないとこの店は失敗する。
それぐらいこれまでの赤字の幅は大きかった。
「テイクアウトをメインにして、朝の営業に力を入れようと思うんです」
これが店の経営を口にした最初からぼくの頭にあった作戦だった。
これまでの「街スタ」は午後からの営業だった。
それを朝からの営業にし、通勤途中のサラリーマンにテイクアウト用のコーヒーを提供する。
成功するにはこれしか考えられなかった。
でも、どうみても夜型のコイケさんに、朝型にシフトしてもらうことができるんだろうか?
「大丈夫ですよ」
こうして店の骨格の部分が決まった。
朝からやってるまちのコーヒースタンド。これが「マチスタ・コーヒー」だ。
オープンは年度の始めということで4月2日の月曜日に決まった。
開店まであと1か月半。
(つづく)

コイケさんの淹れるコーヒーは美味しい。岡山にはコイケさんのファンも多い。なのになぜこんな赤字に?

店の周辺は繁華街なのだが、郵便局やNTTがあるなど、岡山有数のビジネス街でもある。場所はけっして悪くない。

テイクアウト用のペーパーカップ案。若干レトロがかかったロゴ(仮)はコイケさんのリクエストをもとにデザインした。

RICE475収穫祭レポート(後編)

いざ、収穫祭BBQへ!

1日目のオリエンテーションで仲間になり、2日目早朝から座禅で精神状態を整え、
着々とRICE475の新米を食すコンディションを整える、
<RICE475収穫祭>にご参加のみなさん。
次に向かった先は魚沼が誇る銘酒「鶴齢」でおなじみの青木酒造さん。

通常、酒蔵見学を行っていない酒蔵ですが、
なんと特別に酒蔵見学をさせていただきました!
魚沼の美味しい水、美味しいお米から造られる地元自慢のお酒は、
また改めてじっくりレポートさせていただきたいと思います。

その後、冬野菜の収穫を体験させてもらいに、南魚沼市の石打農園へ。
さっそくおじいさんご指導の下、でっかい大根とでっかい白菜を収穫。
泥まみれの虫だらけが、野菜の本来の姿なのですね。
貴重な農園での収穫体験に、みなさんとても良い表情をされていたのが印象的でしたよ!

そしていよいよ、メインイベントの収穫祭BBQ!

まずは、豊作を祝して鏡割り☆
もちろん「鶴齢」で。青木酒造さんありがとうございました!
淡麗ながら、やさしいお米の甘みを感じる「鶴齢 純米吟醸」をすすりつつ、
小山流の方々による、津軽三味線の演奏を堪能しました。
演奏していただいた小山流3代目、小山豊さんは、
紅白歌合戦やレコード大賞などでも演奏され、古典的な演奏だけでなく、
バンド形式での演奏も多く、枠にとらわれない独自のスタイルでご活躍されています。
共演者には北島三郎さんからナオト・インティライミさんまで。幅広いですね!
素敵な演奏ありがとうございました!

鏡割り、三味線と縁起物を楽しんだ後は……
腹ごしらえのみ!!

八色しいたけ、自然薯、神楽南蛮、採れたて大根……旬の野菜満載のBBQ。
もちろんお肉は越後もち豚です!
きのこたっぷりの芋煮は、鶴齢の酒粕を使った醤油ベースと関興寺の味噌ベースの2種!
さらに、皆で収穫を祝して餅つきをしました!

とどめに、田植えや除草など、皆さんと一緒に育てた
無農薬栽培の南魚沼産コシヒカリ「RICE475無農薬無化成肥料栽培米」の新米を、
ぬか釜で炊飯!!!
ぬか釜とは、籾殻と杉の葉を燃料に羽釜で炊飯するスタイルです。
昔はどこの農家でもぬか釜で炊飯していたそうです。
直火でお釜で炊飯する訳ですから、美味しくない訳が無いです!
重い木の蓋を開けたときに、蒸気の奥から現れる、つやつやご飯、
思い出すだけでヤバイ……

地元の旬の食材をおかずに、
獲れた産地で、生産者の方と共に食べるご飯。
しかも、福岡からご参加いただいた方から、本場の明太子のお土産が!
なんとも最高の贅沢☆

今年のRICE475は豊作でした。
そのうえ、甘みも強く、お米自身の味がしっかりしています。
参加者の方からも、
「今まで食べたお米の中で一番美味しい!」
「お米に味があるのを初めて知りました!」
「実はお米はあまり好きじゃないけど、コレは好き!」
など、嬉しい感想を沢山いただきました☆
中には、
「美味しくて食べ過ぎて太ります」
と、うれしいクレームも。笑
みなさんに魚沼フルコースをドーンとご堪能いただけたかと思います!

ほぼ寝てない上に、満腹でみなさんが動けなくなったところで、収穫祭も無事に終了☆
迷アテンドではありましたが、本当にみなさんと一緒になって楽しませていただきました!
収穫の感謝はもちろんでしたが、
まだまだ手探りなRICE475を応援し続けてくださるみなさんと一緒にお祝いできたことに、
感謝の気持ちで一杯になりました。

驚いたのはその後。
数日後に参加者のみなさまから何通もメールをいただきました。
その内容は、「楽しかった」「美味しかった」の先にある、
僕らが目指す「農家の価値向上」に対するメッセージに溢れていました。

「大きな組織ではなかなかできない大切なことをされていると思うので、
大変だとは思いますが、頑張ってくださいね。
いつか、大きな実を結ぶことを期待しています☆」
「今後の農業の発展に向けて頑張ってください!
農業をした事が無く分らない事だらけだけど
自分なりに考えつつ生活をしてみようと思っています」
「6次産業化が目指す、地方が持つ魅力を活かしたスケジュールで感動しました」
などなど。

たった2日間の、しかも迷アテンドで、みなさんにそこまで想像していただけたことがうれしく、
また前進する僕らの活力になりました!

新米農家と新米米屋ではありますが、リバース・プロジェクトと共に、
僕らだからこそ出来るアクションを起こし続けます!
そして、農家の価値を高めることで、日本の未来に貢献できるよう、
日々前進して行きたいと思います!

みなさまも機会がありましたら、ぜひ魚沼を体験しにいらしてください☆

STUDY 太陽光発電

太陽光発電の特徴と国の取り組み。

枯渇しない再生可能なエネルギー源として、
地球に降り注ぐ太陽光を太陽エネルギーとして直接利用する発電です。
シリコンなどの半導体から作られる太陽電池を用いて、
太陽光のエネルギーを直接、電気に変換する方式が主流になっています。
開発当初は高価だったため、人工衛星の電源や電卓などの電気製品に用いられて来ましたが、
日本国内では、1970年代からスタートした国のサンシャイン計画での技術開発、
民間での研究開発や大量生産技術の確立に伴い、
次第に電力供給を目的とする太陽光発電のシステムが確立してきました。
同じ1970年代に技術開発が行われた、
太陽光を集光し熱に変換して発電する太陽熱発電とは区別されます。

日本国内では、これまで住宅用の太陽光発電が比較的多く導入されてきました。
1990年代に電力会社が、太陽光発電による余剰電力を買い取る自主的な取り組みがスタートし、
電力を供給する配電網に太陽光発電設備を接続する系統連系の技術が標準化されました。
1994年度からは国による住宅用太陽光発電導入促進に対する補助金制度が始まり、
2005年度まで12年間実施され、
電力会社による自主的な買取制度と、この住宅用発電設備への補助金制度により、
2005年度末までに住宅用太陽光発電システムが累積で約100万kWまで導入されました。
その時点で日本は世界のトップランナーとして
導入量、生産量ともに世界第1位の座を得ましたが、
2005年度以降の住宅用の補助金制度廃止などにより、
単年度導入量は約20万kW程度で低迷しました。

その結果、2004年に自然エネルギー法(EEG)を改正したドイツに、
単年度導入量を抜かれた上に、
2010年までの累積導入量では1700万kWを超えたドイツ、さらにはスペインにも抜かれ、
世界第3位の約360万kWとなり、大きく差がついてしまうこととなったのです。

太陽光発電(長野県飯田市)
写真提供:おひさま進歩エネルギー(株)

TOPIC 葛巻町(2)バイオマス利用

再生可能エネルギーのまち、葛巻町のバイオマス利用。

岩手県葛巻町は、風力発電のみで町内の総電力需要の2倍以上に達する
再生可能エネルギー生産がありますが、酪農と林業が盛んであることを活かして、
バイオマス資源の利用にも積極的に取り組んでいるのです。
このことが、「再生可能エネルギーのまち」として注目される
一番の理由となっています。

酪農からは乳牛の糞尿などの畜産廃棄物が出され、
林業からは集成材工場・パルプ工場などから端材など木質系の廃棄物が出されます。
まちではこれらを利用したさまざまな再生可能エネルギー利用を取り入れています。
例えば、第三セクターである葛巻町畜産開発公社が運営するくずまき高原牧場内には、
畜産バイオガスシステムがあり、
牧場内で産出される畜産廃棄物と町内の生ごみから発生するバイオガスを利用して、
発電と熱供給を行うとともに、残余物も堆肥として活用しています。

また、林業から発生する木質系の廃棄物を使って木質ペレットを生産し、
町内4施設で稼働しているペレットボイラーの燃料の全量を町内でまかなっており、
さらに、一般家庭への薪ストーブやペレットストーブの普及も進んでいるのです。
その他、公共施設における太陽光発電設備や太陽光・風力ハイブリッド型の街灯など、
さまざまな再生可能エネルギー利用設備が各所に導入されています。

葛巻町の再生可能エネルギー利用のうち、特にバイオマス資源の利用は、
農林業や酪農業といった地場産業とリンクすることによって
エネルギーを確保しようという試みがあります。
これによって、既存の産業の活性化や、
雇用の増加といった経済的波及効果が期待され、
ひいてはまちの税収の増加にもつながる可能性があるのです。
地域産業と連携したかたちで再生可能エネルギーを普及させ、
地域産業の活性化につなげていくことができるのか。
葛巻町はその試金石として注目すべき場所なのです。

くずまき高原牧場の畜産バイオガスプラント。

森のこだま館のペレットストーブ。

町立葛巻中学校の太陽光発電設備。

コーヒーショップを開こう

編集者から喫茶店のオーナーへ。

家の事情で実家のある岡山県倉敷市に帰った。2005年のことだ。
で、「アジアンビーハイブ」というフィリピンパブみたいな名前の会社を設立し、
『Krash japan(クラッシュジャパン)』というプロレス団体みたいな名前の
フリーマガジンを始めた。
ひたすら工業地帯を写真に撮ったり、定食屋一軒で30ページの特集を組んだり。
自分で言うのもなんだけど一風変わった雑誌で、
英語のテキストを併記して、ロンドンを中心に海外にも配布した。
でも、地元の企業やショップから集めた広告でまかなえるのは印刷費と経費のごくごく一部。
そんな雑誌を年2冊のペースで発行していたものだから、
会社の経営状態は決してよろしくない。
というか最悪で、会社設立当初に信用金庫から借り入れしたお金は1年ももたなかった。
もっともひどかった2007年には、
地元の観光旅館で朝食の配膳と部屋掃除のアルバイトをしながら雑誌を作っていた。
そうやってしぶとく発行を重ね、2010年春にはなんとか当初の予定通りvol.10を発行、
5年にわたる活動に区切りをつけることができたのだった。

会社についてもう少し紹介しておこう。
わがアジアンビーハイブは倉敷市の南端、瀬戸内海に面した児島というまちにある。
仕事は主に広告制作。
先に紹介した『Krash japan』に関連して、
企業の広告やカタログの制作オファーをこなしているうちに、
いつの間にか本業になってしまったというところだ。
社員は今年で在籍3年目になるヒトミちゃん、24歳。
周囲の誰もが認める才色兼備なのだが、なぜか長く彼氏がいない。
最近は「すぐに見つかるから大丈夫よ」的な
ぼくの励ましの言葉も全然届いていない感がある。
アルバイトのサトちゃんは大学3年生、
昨年秋のインターンが心地よかったのか、以来いついてしまった。
そのわりに「うちに来る?」というぼくの誘いを
「わたし東京に行きますから」とむげに断って現在就活中。
当事務所にはサブという雄犬もいる。
昨年の5月までは立派な野犬だったのだが、
事情があって(みんないろいろ事情があるのだ)現在は社のマスコット的存在に。
とはいえ野犬の性癖はなかなか拭えず、クライアントだろうがなんだろうが、
いまもってうちに来るお客さんにはとりあえず牙をむいて吠えまくる。

さて、ここからが本題。
話は2011年の11月の末あたりにさかのぼる。
岡山市中心部の郵便局前の電車通り(岡山にはまちなかに路面電車が走っている)に、
月に2、3回は必ず足を運ぶ喫茶店というかカフェというか、まあそんな場所がある。
通称「街スタ」、正式には「街なか study room」という。
店は厨房を入れて7坪と狭く、まともなテーブル席はひとつしかない。
店主のコイケさんは長年飲食店をやっていて、
4年ほど前に、「美味しいコーヒーを飲ませる店をやりたい」と、
自分のカフェを閉めてこの店を新たに始めた。
言うだけあってコーヒーは実に美味い。
ラッシーやバナナモカシェークといったアレンジドリンク類も秀逸で、
トーストやサンドイッチといった食事メニューも抜群に美味い。
そんな岡山市内で唯一の行きつけの店が閉店すると聞いた。
店主のコイケさん本人から。

「今日不動産屋さんに、2月いっぱいで閉めますと言ったんですよ」
コイケさんは他人事のように、いつもの笑顔でそう言った。
なにやら自分の給料もまともに出ていなかったらしい。
それにしても、いつもながら行きつけの店がなくなるというのは寂しい。
思い浮かぶのは、中目黒ガード下の寿司屋「丸源」、
目黒銀座商店街にあったカレー屋「オレンジツリー」、
近所の美容院のウラくんとよく行った山手通り沿いの定食屋「グリーンウッド」………。

「コイケさん、ぼくがやりましょうか、このお店」
ついつい口に出してしまった。
ぼくは言わないほうが身のためであることを、
ついつい口に出してしまうタイプの男なのである。
「コイケさんにはこれまで通りこの店を切り盛りしてもらって、
うちから給料を支払います。
ぼくの会社で経営するってことなんですけど、そうゆうのどうですか?」
いやあ、そうゆうのは、ちょっとね………という展開も十分にありえたはずだ。
なにせコイケさんは飲食のプロ、しかも還暦も過ぎたいいお歳なのである。
「私、順応性はあるほうです」
コイケさんは笑顔でそう言った。
こうして一晩を境に、ぼくの人生は喫茶店経営という、
これまで想像だにしなかった世界へ足を踏み入れることとなったのだった―――――というか、
うちの会社、本当に大丈夫か?

アジアンビーハイブのオフィス内観。家賃は中目黒の駐車場2台分より安い。
JR児島駅からは歩いて7分、目の前に小さな港もあってロケーションよし。

元野犬のサブ。
飼い始めから週2回、2カ月にわたってトレーナーに来てもらっていたのだが、
最終日までトレーナーに敵意むきだしで吠えまくっていた強者なのである。

これが今後の舞台となるコーヒー屋さん「街なか study room」。
路面店の1階と場所は悪くない。にもかかわらず、このひっそり感。

地域プロデューサー・本田勝之助のしごと

会津発、地域を経営するという視点。

古くから東北の要所として栄え、激動の幕末期には戊辰戦争の舞台となり、
白虎隊の悲劇や新撰組との関わりなど、数多くの歴史ロマンに彩られた会津若松。
そこかしこに重厚な時間の堆積を感じさせるこのまちはまた、
恵まれた農業資源を背景に豊かな食文化が花開き、
会津漆器をはじめとしたさまざまな伝統工芸品の産地としても知られる。

本田勝之助さんは、その会津若松を拠点に活動する地域プロデューサーである。
大正時代から続く青果商の家に生まれ、
大学卒業後は会津と東京を拠点にしたIT関連会社を起業し、
順調に業績を伸ばしていたが、
父親の勝美さんが病で倒れたのを機に家業を継ぐ意思で、
2004年に食と農業のプロデュースを行う「会津食のルネッサンス」を設立した。
「僕は経営が専門なので、この仕事を始めるにあたって重要視したのは、
地域を経営するという視点でした。
会津にはたくさんの特産品がありますが、
県外、ひいては海外にも通用するポテンシャルを持っているものは何かと考えたとき、
それは農業、しかもお米だと思ったんです。
お米ならすぐに賞味期限が切れることはないから、1年かけてじっくりと売ることができる。
幸い父が青果市場の経営者だったこともあり、農業関係の人たちをたくさん知っているし、
わからないことがあればすぐに聞けるので、その点も心強かったです」
米づくりを始めるにあたって、勝之助さんはまず何よりも土にこだわった。
よい土をつくることで、稲は健康に育ち、美味しいお米ができるとの思いからだ。
そのことを父の勝美さんに相談すると、旧知の信頼できる農家を紹介してくれた。
勝美さん自身、40年来、青果の流通に従事してきたプロフェッショナルであり、
みずからが組織して「会津の伝統野菜を守る会」を立ち上げるなど、
地域の食文化の継承と発展に尽力してきた頼れる先達である。
「勝之助が考えたように、美味しい米をつくるためには土づくりは欠かせません。
そしてその土をつくるのは人です。
知り合いの農業家の中には、
高い技術を持ってマジメに農業に取り組んでいる人たちがいるから、
お互いをつないであげました。
私も長いあいだ流通をやってきて、消費者が何を求めているのか、
どうしたら消費者に買ってもらえるのか、ずっと考えてきたので、
彼がやろうとしていることの意義はよく理解できたし、頑張ってほしかった」
こうして5年の月日をかけ、丹念に土づくりを行って2007年に生まれたのが、
「会津継承米 氏郷」である。
そもそも会津は、財団法人日本穀物検定協会が行う米の食味ランキングで
最高値「特A」を得ている地域だが、
その中でも甘さとモチモチの食感を兼ね備えた「氏郷」の評価は高く、
今や寿司の名店「銀座久兵衛」や老舗料亭の「金田中」が、
こぞって採用するほどの人気ブランドとなった。

そのぶんチャンスは限りなく大きくなった。

お米から始まった勝之助さんの事業は、同様にお酒やりんごなどにも広がっていき、
近年はホテルや伝統産業のプロデュースやコンサルティングといった分野にまで及ぶ。
「お米をやろうと決めたときから、これからのものづくりは、
“もの”自体のコンテンツよりも、“もの”が生まれた地域やバックグラウンドを含めた物語、
コンテキストが大事になってくるだろうと考えていました。
だとしたら、地方にはコンテキストがいっぱいあるんですよね。
それらを地域経営の視点からきちんとデザインして、
あわせてひとつひとつのコンテンツもしっかり磨き上げていけば、
マーケットは必ず開かれていくはずです。
おかげさまで、ここ数年で取り扱うものはかなり増えましたので、
まずは会津でモデルケースをつくって、それを他の地域にも応用し、
そのうえで地域間のコラボレーションなど、大きく展開していければと思っています」
さらに3.11の震災を経て、東日本の食の復興が関心事となっている現在、
勝之助さんの活動は以前にも増して重要な役割を担うようになり、
そのフィールドも加速度的に拡大している。
「震災の問題はやはり重たいです。
特に福島にはいろいろな課題がどーんとのしかかってきています。
ただ、見方を変えれば、そのぶんチャンスは限りなく大きくなったとも言えます」
実際、個人や企業を問わず、「福島だからこそ力になる」との声は多く、
復興に向けたプランは次々と動き出しているという。
この地域から次の社会のあるべき姿を創り上げていく。
その思いを胸に、勝之助さんは今日もどこかで奔走中。

会津の名産「緋の衣」を使ったリンゴジュース「復古三兄弟」も、勝之助さんがプロデュースしたもののひとつ。

ワークショップで話す勝之助さん。手にしているのは、からむし織(昭和村の特産)で、日本を代表する帽子デザイナー平田暁夫氏が復興支援のために制作した帽子。

Profile

KATSUNOSUKE HONDA 
本田勝之助

ほんだ・かつのすけ●福島県会津若松市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。会津食のルネッサンス代表取締役。ヒルサイドコネクション代表取締役。地域を経営するという視点で、会津地方や福島県内を中心に食やモノづくりのプロデュース、ならびに伝統産業のコンサルティングやリノベーション事業を展開している。福島復興のキーパーソン。

会津食のルネッサンス http://www.a-foods.jp/

株式会社ヒルサイドコネクション http://hillsideconnection.jp/