能登の祭は死なない。石川「だらぼち音楽祭」が証明したこと

辻野さん
2026年5月16日。能登町で「だらぼち音楽祭」が開催された。復興半ばのこの土地に、ヒップホップのレジェンドたちが集まった。もともと能登は、とても祭の数が多い土地。集落ごとに祭があり、その数はよく知られているものだけでも百を超えるという。震災や豪雨災害を経て、能登の里山の魅力を最大限に感じられる青い海を見下ろす高台で、音楽を軸とした新たな祭が生まれた。主催者の一人で能登に拠点を置く辻野実さんに開催に至った想いと、今後の展望を聞いた。

「帰ってこんでいい」と言われた町を離れて

辻野実さんは、能登町で生まれ育ち大学進学を機に大阪へ、その後東京や金沢で仕事をしたのち、コロナ禍に地元へと戻ってきた。現在はウェブデザインを手がける傍ら、能登町にスタンド珈琲店〈DOYAコーヒー〉を経営している。

辻野さん

「僕が10代だった頃、進学先を決める時に周りの大人からは、能登には仕事がないから、地元から出て就職することを勧められていました。帰ってこんでいいわって若者を送り出してるような感じ。祭がある時だけ帰ってくればいいからと(笑)。当時はインターネット環境もほとんどないし、『Boon』や『Cool Trans』などの雑誌を読んでは都会への憧れが募っていたので、高校を卒業して町を出ることは自然な流れでした」

進学先は大阪。辻野さんはブレイクダンスをしたり、DJをしたりとヒップホップカルチャーに傾倒していく。

「ヒップホップは、人の真似はカッコ悪いというカルチャー。だから、自分が何者なのか、どんなバックグラウンドを持っているかアイデンティティを鮮明にする必要があります。その時に、自分のオリジンをすごく意識するようになりました。

僕の場合は能登出身ということが良かった。周りに同郷も見当たらなかったし、わりと簡単に差別化になって。その時に初めて故郷を誇れたと思います。能登の祭をはじめとした文化、僕らが当たり前だと思って育ってきたものは他の地域ではそうではなく。地元カルチャーに対するアプローチは、僕の生き方として如実に出ているらしく、能登を見直すきっかけになりました」

学生生活を終え、辻野さんはそのまま大阪で就職するも数年後に大阪支社がクローズ。それと同時に、2007年能登地震が発生した。「なんとなく実家の近くに戻っていた方がいいかな」という考えもあり、そのタイミングで金沢へと移動し、災害情報を自治体のホームページや防災無線などに流せるシステムを販売する会社に転職した。

営業マンとしてシステムを販売するうちに、既存のものを営業する仕事よりも、自分自身で全てを構築したりデザインしたりできる仕事をしたいとプログラミングやデザインをいちから勉強し、ウェブデザイナーとして2012年に独立する。

ヒップホップが教えてくれた、地元という武器

金沢でデザイン事務所を立ち上げていた辻野さんに転機が訪れる。たまたま家族で祭に参加するために能登に帰省した時のこと。幼い時の賑わいの記憶とは異なり、参加している人の少なさに気がつくと同時に新聞のある記事が目に留まったのだ。

「新聞に”消滅可能都市”という言葉を見つけて、その中に能登町がランクインしていたんです。その時、すごくムカついたんですよ。当時すでに僕が通っていた保育園とか小学校とか中学も高校も全て統廃合によってなくなっていました。それなのに町まで無くなるのかと。ヒップホップは自分のアイデンティティをレペゼンするカルチャーだというのに、自分が通ってきた何もかもがなくなると言われてることに腹が立ったんです。

※「レペゼン」は英語の「represent(リプレゼント)」に由来する言葉で、「〜を代表する」「〜を象徴する」という意味のヒップホップ・ストリートカルチャー発祥のスラング。

その時に僕は、過疎問題にアプローチすると決めたんです。過疎とは地域の誇りを失ったことだと定義して、地元をかっこいいと自信を持って言うことができるならば、それは過疎ではなくなると考えました。すでにデザインの仕事をスタートさせていたので、何気ない景色も視点を変えればカッコよく見えることを伝えられると。それが、僕が立ち上げた〈NOTONOWILD〉というサイトです」

辻野さんの狙いは成功し、Tシャツを作ったり〈NOTONOWILD〉を活動を通じて、能登の新しい側面を見せることができたという。

「一番面白かったのは、金沢の感度の高い人たちが、〈NOTONOWILD〉のグッズをピックアップしてくれて、能登ってかっこいいと言ってくれたことなんです。同じ石川県でも、能登出身というと馬鹿にされることも結構あって、だからこそ、ゲームチェンジできた瞬間だと感じました。

ただ、発信する自分は能登の外にいるというやり方に、このままでいいのかな?という疑問も自分の中には生まれていたんです。コロナ禍に入り、ウェブの仕事は場所を選ばないし、実家の近くで育児を手伝って欲しい気持ちも重なり、地元に帰ることにしました。そしてウェブの仕事と並行して、〈DOYAコーヒー〉を立ち上げたんです」

DOTAコーヒー
ゆっくり寛ぐ店内というより、会話が始まりやすいスタンドスタイルのコーヒー店に。

「能登では、挨拶の最初に「どうや?」って相手に聞くんですよ。最近どう?みたいな意味です。そのコミュニケーションをそのまま店名にしました。店を始めたのは、コーヒーを作りたいということではなく、場を作りたかったから。喫茶店とか定食屋ってその町の文化を育てると思うんですよ。それがコロナ禍で軒並み閉店してしまっていました。

小さな町なのに1杯500円のコーヒーなんて売れるのかと僕も周りも思っていたけれど、すぐにみなさんに来ていただけるお店になりました。きっとみんな、集まれる場に飢えていたんでしょうね。だから、ここからもっと面白いことできるなと思った矢先、2024年元日の能登半島地震が起きたんです」

能登半島地震と豪雨災害が変えた景色

「僕は地元の消防団にも所属しているので、地震が起きた直後から、救助に避難支援に走り回り、正直あんまり記憶がない。目の前のことで精一杯でした。ただ、自分の気持ちとして不思議な感覚も経験しました。元日の夜に、その日できる救助を終えてふと空を見上げたら、星がすごく綺麗だったんです。家も道も全てがめちゃくちゃなのに、綺麗だと思う心が残ってるなんて、人間ってすごいなって。この時の景色や気持ちは今でも覚えています。その後は、この地震後の状況からなんとかするぞと。

〈NOTONOWILD〉や、〈DOYAコーヒー〉のアカウントから物資援助のお願いして届けていただいたり、それまでに構築してきた仕事や関係性など全てが点と点が繋がった瞬間でした。おかげで物資の供給拠点も1日で構築できたんです。出来ることを出来る人がやる、そういう時期でしたね。

よく役場や自治体の機動力を指摘する人がいますけど、役場は役場で大変な状況の中すごくしっかりやってるんです。だからまずは自助。周りに対して自分が出来ることを粛々とやっていくことが大切だと思います。幸い僕はそれが出来る状況だったしキャラクターだったし、だから取り組んでいただけなんです。ストリートの助け合いというか、このエリアの困りごとに、自分たちが出来ることにアプローチする。水道が復旧しはじめて、炊き出しを縮小していくタイミングが一区切りになりました」

さらに能登半島は地震から半年後、豪雨災害にも見舞われる。

「本当に、なんで能登半島の真上に線状降水帯?って思いましたよ。二つの災害を経て、生き死にの段階をなんとか乗り越えたのが2025年。道路などインフラの整備も完全ではありませんが、能登はいま、ようやく心を癒していくというフェーズに入ったところだと思います」

「だらぼち音楽祭」が、僕たちの復興のかたち

「これまでの間、多くの方が能登に助けに来てくれた。恩返しがしたくて、その想いを形にしたのが、だらぼち音楽祭です。誰かの力に頼って開催するのではなく、自分たちの力で始めようと考えました」

音楽祭の主催者は3人。それぞれが、能登町、狼煙町(のろしまち)、能登島と住むエリアは離れている。能登半島は祭が盛んだったけれど、それぞれの町で開催してきた歴史があるからこそ、この音楽祭は、広域に分かれるメンバーが手を繋いで一つのものを立ち上げるという形にこだわった。
「だらぼち」とは能登半島の方言で、要領は良くなくても真っ正直に生きる人を指す。開催までの道のりは、広域だけに、前例がないだけに、困難もあったが、自分たちで立ち上げていく姿は、まさに言葉通りだ。

「僕ら3人は、それぞれにDJをやったりしていて、元々は音楽つながり。震災前にもフェスを開催しようと思っていたほど。能登は各所に祭があって自分の祭にプライドがあるからこそ、隣町と仲良くなれないこともあった。だからこそ僕らが主催するものは、広域の人たちが手を取り合って作るものにしたかった。祭の要素はあるけれど、神様を降ろしてくるような祭ではなくて、音楽祭という形にしたら僕らでも作り上げられるのではないかと考えました。

愛知県の『橋の下世界音楽祭』を参考に、手作り感があって、土着のカルチャーを表現できて、ステージで繰り広げられる演奏を見るのではなくて、その場所に音楽が溶け込んでいて、時間も空間も演出していくイメージ。だからこそ、空間の音を任せられるという意味で、アーティスト選びも慎重に考えて、結果、ベストを超えるような素晴らしいアーティストの方々が出演してくださいました」

海が見えるだらぼち音楽祭会場
ゆったりと流れる時間と気持ちのいい空と海とが抜ける高台で、地元のフードと共に来場者に新鮮な景色を見せた。
だらぼち音楽祭

だらぼち音楽祭は、午前中から夜まで、里山ステージ、里海ステージ、だらぼちディスコと名付けられた3つの会場で開催された。ヨシハルヨシダやタテタカコのステージに始まり、切腹ピストルズやNatti Nuts、そして辻野氏が10代でそのリリックに出会い衝撃を受けたというTHA BLUE HERBなど、錚々たるメンツが集結。「県外からも多くの方が来場してくださいました。僕らが能登で大好きな海と山の両方を味わえる場所を会場に選んだので、来てくれた方も自然の中に溶け込むような形で音楽を楽しんでもらえたと思います」

ボルテージが高まった会場を辻野さんは振り返る。

「今日、俺に果たせることはここまでだ、精一杯やったよ。あとはあなたたちだよ。」とILL-BOSSTINO(THA BLUE HERB)が言った時は、本当に鳥肌が立って、僕の中学生の息子にも刺さりまくってましたね。どの出演者の方も、みなさん神がかったパフォーマンスで、あの場にいられたことを主催者ながら心から感謝しています。

あの日、アーティストの方皆さんに”能登は素晴らしい”とたくさんの強いメッセージをもらって、僕たちを肯定してもらったことが、本当に嬉しかったし自信に繋がった。震災が起きてどうやって生きていこうかと誰もが考えていたから、すごく勇気をもらいました。こうした瞬間を続けていくことが、次に繋がっていくんじゃないかと実感しました」

辻野さん
能登に新たな祭が生まれた瞬間だと、辻野さんをはじめ来場者の多くが認知したという。

今回のだらぼち音楽祭は、新しい能登の側面を見せたが、これからの能登について、辻野さんが描く未来とはどんなものだろうか。

「復興という言葉の再定義からスタートすることが必要だと考えています。災害によって壊れてしまったものがある状態に戻り、そこからさらに盛んになっていくことを想定する言葉ですが、過疎地においてはそれは違うと思うんです。実際震災後にさらに人口が流出していますから。

そうなると、僕たちが能登に住むことを好んで選び、誇りを持って楽しく暮らしている姿こそが復興だと思うんです。物質的ではなく、心豊かに暮らしている姿を見せることが大切で、だらぼち音楽祭を開催したこともその一貫。だからこそ、アップデートして来年もまた僕たちの手で開催することが、能登の人の心も、県外から訪れてくれる方、出演してくれるアーティストの方に対しても、さらなる復興の姿を見せる機会になると思っています」

Information

だらぼち音楽祭のロゴ
だらぼち音楽祭

能登半島地震からの創造的復興を目指し、2026年5月16日に石川県能登町の「Heart & Beer 日本海倶楽部」で初開催された音楽イベントです。地元の方々が主体となって企画・運営し、音楽や地域の伝統・食を通じて能登に新たな「目的地」を創ることを目的としている。
HP:https://darabochi.com/
Instagram:@darabochi.fes

Profile

辻野実(つじの・みのる)

能登町出身。デザインプロダクションSCARAMANGA .inc と、 DOYACOFFEE​​を経営。だらぼち音楽祭共同主催者の一人。
HP:https://scaramanga.jp
  https://notonowild.com

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