子どもたちの「こんなかばんがあったらいいな」を叶える。「豊岡鞄®」が挑む、夢のかばんプロジェクト

合格率約5割。厳格な審査が支える高品質なかばん

日本一のかばんの生産地、兵庫県豊岡市。生産量・出荷額・従業員数のすべてで国内トップを誇るこの街から生まれた地域ブランドが「豊岡鞄®」だ。

このブランドがうまれた背景には、約1200年にわたるものづくりの歴史がある。ルーツは奈良時代の蓋付きの箱や籠「柳行李(やなぎごうり)」。柳の枝を編んでつくる収納具は、軽くて丈夫で、湿気にも強い。その実用性の高さから全国へと広まり、豊岡にものづくりの基盤を築いていった。

時代が進み、戦後になると豊岡のかばん産業は市外の有名ブランドから製造を請け負うOEM生産を中心に発展する。全国のブランドを支える産地として成長する一方で、その技術力の高さとは裏腹に、「豊岡」という名前そのものは表に出る機会が少なかった。確かな技術を持ちながらも、その価値が産地としての認知や評価に十分結びついていなかったのだ。

この状況を変えるために生まれたのが、2006年に地域団体商標として認定された「豊岡鞄®」である。

豊岡市で作られたかばんのすべてが「豊岡鞄®」を名乗れるわけではない。兵庫県鞄工業組合が定める厳しい基準を満たした企業が製造し、さらに審査会で合格した製品だけがその名を冠することが許される。

「豊岡鞄®」のタグ
審査に合格したかばんのみが「豊岡鞄®」のタグをつけられる。

2ヶ月に1回開かれる審査会の合格率は約5割。「素材」や「縫製」「仕様」「接着」など7項目の基準に照らし合わせながら、新作が「豊岡鞄®」の名にふさわしいかを厳しくチェックする。この厳しい審査が「豊岡鞄®」の質を担保しているのだ。

現在、認定企業は全部で20社以上。そのうちの1社で帆布バッグブランド「直帆布」を手がけた〈株式会社ナオト〉の宮下さんによると、「各社はライバルでありながら、豊岡鞄®という地域ブランドを守る仲間」なのだ。

豊岡鞄のつくる様子
認定企業である〈ナオト〉の工房で、職人が手作業でかばんを仕立てていく様子。「豊岡鞄®」は、デイリーユースからビジネス、トラベル、ランドセルまで、その用途は実に多彩。布、革、ナイロンなど、各社が得意とする素材も異なり、企業ごとの個性が色濃く表れている。

子どもの“こんなかばんがほしい”を、職人の手で形に

こうして厳しい品質基準のもとでブランド価値を守り続けてきた「豊岡鞄®」。一方で、どれほど優れた技術も受け継がれなければ未来には残らない。今、豊岡のものづくりに必要だったのは、品質を守るだけでなく、次の世代がその魅力に出会うきっかけをつくることだった。

その挑戦として始まったのが、2024年にスタートした「豊岡鞄®とつくる 夢のかばんProject」である。

〈KITTE丸の内〉で開催した「豊岡鞄展」の様子。昨年の夢のかばんProjectで採用されたデザイン案と完成した実物が展示された。

「こんなかばんがあったらいいな」

子どもたちが自由な発想で描いた“夢のかばん”を、豊岡鞄®の職人たちが本気で形にするこのプロジェクト。全国から寄せられたデザイン案のなかから選ばれたアイデアが、実際のかばんとして生み出される。

常識にとらわれない子どもたちのアイデアに、職人たちはどう向き合うのか。そこには、普段のかばんづくりでは出会わない難しさと、ものづくりの原点に立ち返るような発見があったという。

昨年、「アオスジアゲハのかばん」の製作を担当したのは、〈株式会社足立〉の西垣祐香さんだ。

アオスジアゲハのかばん
デザイン考案者である8歳のしおりさんはアオスジアゲハが大好きで、
家で育てているそう。

「『左右の羽をパタパタと閉じられるようにしたい』『羽の形は上下の境目が分かるようにしたい』『模様の色は少しずつ変化させたい』と、具体的な希望がありました。考えが形になるのをすごく楽しみにしてくれていると感じたので、いかに本物の蝶のようにできるかにこだわりました」

製作過程で西垣さんは、デザイン考案者である8歳のしおりさんとのすり合わせを大切にしたという。

「蝶の形をそのままかばんにすると物の出し入れがしにくくなるため、かばんの構造や使いやすさのために必要なポイントを説明して、納得してもらいながら進めました。ショルダーの部分は幼虫をイメージしてデザインしたと教えてくれたので、かわいらしさもありながら幼虫らしくなるように、紐を編んで作りました」

「アオスジアゲハのかばん」のデザイン案
「アオスジアゲハのかばん」のデザイン案。

生き物の繊細な造形を再現する職人がいる一方で、食べ物の質感というまったく異なる難題に挑んだ職人もいる。

「豊岡鞄®」認定企業〈株式会社由利〉の由利歌奈子さんは昨年、パンそっくりな「夢のかばん」を製作した。

10歳のさらさんが考えた「パン好きにはかかせない」のデザイン案
10歳のさらさんが考えた「パン好きにはかかせない」のデザイン案。

「デザイン画を見た瞬間に、形にするためのアイデアがいくつも浮かび、この案を担当したいと思いました。特に難しかったのは、パンの質感や丸みをかばんに落とし込むこと。お皿を使って型を作り、濡らした革を引っ張りながら貼り付けて乾燥させる。この工程を何度も繰り返し、試行錯誤を重ねながらパンらしい理想のフォルムを追求しました」

由利歌奈子さんは入社1年目からこのプロジェクトに参加し、今年で3度目の挑戦となる。

「若手が挑戦することで、かばんづくりの技術のみならず『どうしたら喜んでもらえるか』に向き合えるのがこのプロジェクトのいいところ。お子さんから率直なリアクションをもらえるからこそ、私たち職人も、ものづくりの奥深さに触れる機会になると思っています」

子どもたちが応募用紙いっぱいに描いた「夢のかばん」のイラストと、そんな夢のアイデアを形にする「豊岡鞄®」の職人たちの思い、そして完成したユニークなかばんからは豊岡がさらなる発展を遂げる未来が感じられる。

まちを輝かせるのは、いつだって人の思いなのだろう。毎日手にするかばんがどんなものだったら嬉しいか。使う人が欲しいものをどうやって生み出すか。「夢のかばんProject」を通してそんな原点に立ち返りながらものづくりを続ける「豊岡鞄®」の取り組みに、今後も注目したい。

Information

豊岡鞄®とつくる 夢のかばんProject 2026

2024年にスタートし、今年で3回目を迎える「豊岡鞄®とつくる 夢のかばんProject」。今年も子どもたちが描いた「夢のかばん」が、豊岡鞄®の職人たちの手によって形になる。

応募期間:2026年7月15日(水)まで
応募対象:18歳以下(保護者による代理投稿可。当選時に年齢確認あり)
※応募方法や応募規約などの詳細は公式サイトを確認。

Information

豊岡鞄®

商品は、豊岡市のカバンストリートにあるセレクトショップ「Toyooka KABAN Artisan Avenue」のほか、KITTE丸の内店、KITTE大阪店、伊丹空港ゲート店、全国の取扱店舗で購入可能である。国内有数の鞄産地として培われてきた技術と品質を、実際に手に取って確かめることができる。

憧れの街、芦屋の正体。

コシノヒロコ
01
「絶対に無理だと思っていた」。コシノヒロコが兵庫・芦屋での二拠点生活を実現した理由
日本を代表するファッションデザイナー、コシノヒロコ。1981年、兵庫・芦屋に安藤忠雄設計の自邸を建て、現在も東京との二拠点生活を続けている。ファッション業界の第一線で活躍してきた彼女はなぜ芦屋に拠点を持ち続けるのか。 「大阪や東京など、都会だけで生活していて、日本のよさがわかるのかしらと思ったんです」。
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芦屋アイキャッチ
02
農村から邸宅街へ。芦屋はいかにして「憧れの街」になったのか?文・鈴木淳史
かつては農村と漁村が広がる土地だった芦屋。鉄道の開通とともに発展し、やがて谷崎潤一郎をはじめとする文化人や財界人が集う街へと変わっていった。なぜ人々はこの場所に惹かれたのか。芦屋在住のライター鈴木淳史さんが、その歩みを辿る。
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03
穏やかでエネルギッシュ。神戸から15分、編集部が芦屋で出会ったパワーに触れる理想の1日ルート
神戸から電車でわずか15分。南に大阪湾、北に六甲山を望むロケーション。芦屋は「高級住宅街」というイメージが先行し、どこか敷居が高い街だと思われがちだ。けれど実際には、ふらりと訪れても楽しめるスポットが点在している。巨匠の建築、江戸創業の老舗、縁結びの神社まで。編集部が考える、芦屋で過ごす理想の1日。
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「絶対に無理だと思っていた」。コシノヒロコが兵庫・芦屋での二拠点生活を実現した理由

芦屋への憧れは20代から。自然の中で日本の美を学びたかった

コシノさんは大阪・岸和田出身。一見、芦屋には接点がないように思えるが、実は20代の頃からたびたび足を運び、この街に特別な憧れを抱いていたという。

「親しい友人であり取引先でもあった方が芦屋のハイランドに住んでいたので、友人たちみんなでよく訪ねていました。夏にはバーベキューをして、お庭のプールに飛び込んだりね。

芦屋は自然豊かで季節が感じられるうえに、都会に出るにも時間がかからないですし、洗練されていますから。国内でもレアな土地ですよね。さらに景観ルールが厳しく、かっこいい家ばかりで、誰でも住めるわけじゃない。お金持ちがこぞって住みたがるイメージで、芦屋の暮らしは憧れでした」。

その後、海外のコレクションに参加しはじめるのと時期を同じくして、芦屋に自邸を建てる。

コシノヒロコ
コシノヒロコ

「当時は東京に住んでいましたが、海外で日本人デザイナーとして活動していくなかで、都会だけで暮らしていて日本のよさが本当にわかるのかしら、と考えるようになったんです。

欧米の競合相手には思いつかない、自分ならではのデザインコンセプトをつくりたかった。そのために、芦屋で自然とともに暮らしたいと思いました」。

デザイナーとして、日本の美意識に向き合う必要があると考えたのだ。

「私は、歌舞伎や文楽など和物好きの祖父の影響を受けて日本文化はよくわかっているつもりだったけれど、大阪の街なかで育ったので、自然との直接的な接点はあまりなかったんですよ。でも日本の文化をあらためて学び直すと、衣食住やそのしつらえ、おもてなしに至るまで、自然が反映されているでしょう。

着物だと、模様のテーマは大体、四季の自然にちなんでいる。洋服でも、春になって黒ばっかり着るわけにいかないっていうのが日本の感性だと思うのよ。だから、自然のなかで四季を感じながら暮らしていくのが強みになると考えました」。

思いついたら形にする。「精神的なリッチさ」を大切に

そうして、「20代の頃は絶対に無理だと思っていた」という芦屋暮らしを実現させたコシノさん。背景にはデザイナーであり経営者である彼女の手腕と、バイタリティ溢れる考え方がある。


「芦屋で理想の家を建てるには巨額のお金が必要で、当然ローンを組むので、周囲からも『難しいんじゃないか』という声はありました。でも、なんとかなると思って希望に満ち溢れていたから、不安はなかった。なんとかなるというのは、ただ待ってるだけじゃだめ。考えなきゃいけないよね。

それで思いついたのがライセンスビジネス。洋服だけでなく食器やタオルなど生活に関わるものをデザインして、ライフスタイルと一緒にトータルで提案しました。それから海外でのブランドの売上も高まって、ローンを返し終えることができました。

自分では、世間でいう『お金持ち』 という感覚はないんです。でも、精神的な意味での“リッチさ”は大切にしています。コンサバティブにならずに思いついたアイデアを形にしていくし、そのために持っているお金を使います。そうすることで、結果的にまたお金もついてくるんです」

挑戦的なマインドは芦屋の邸宅の設計を安藤忠雄氏に依頼したことにも表れている。氏はコシノさんと同世代で、同じ大阪出身。二人は若い頃から親交があった。

「当時は安藤さんもまだ今ほど有名ではなかったんです。この家を設計する際にいろいろなアイデアを試し、存分にやりたいことをやって、その後の仕事につなげていきました。住みやすい家ではなかったのだけど、挑戦に満ちていて、デザインの重要性が感じられるようなつくりでしょう。彼が運命を切り開いたきっかけの建築の一つになりました」。

東京で仕事、芦屋でアート。二拠点が創作に幅と奥行きをもたらす

現在は、都内と芦屋の二拠点で生活しているコシノさん。毎週末、芦屋に滞在しては、長唄のお稽古をして、アトリエで絵を描くのが日課だ。デザインと仕事は東京で、アートや趣味は芦屋で、と考えている。

コシノヒロコの芦屋のアトリエ
コシノさんの制作風景。ギャラリーと同じく芦屋にある住まいに併設されているアトリエにて。

「東京はものすごい情報量で、大阪にいた頃より仕事がしやすい。メディアの数も圧倒的に多いのは東京なので、拠点を持っておくのは大切だと思いますね。

でも逆に、東京のようにいろいろな情報が入ってくる場所だと、絵はあまり描けない。芦屋には自然があるので、気分を切り替えられていいですね。落ち着いてから、ここでコンクリートの壁に囲まれて、グレーの世界で想像をたくましくすると、自由な色や形が出てくるんです。

私は大阪で育って、関西のよさを知りながら東京でも仕事をして、パリを始めとする海外にも何度も足を運び、自然豊かな芦屋にも拠点を持った。各地を行き来した経験を活かしてものづくりをしているから、幅や奥行きが出るんです」。

画材
アトリエには、画材や作風の異なるさまざまな作品が並ぶ。

複数拠点を維持し、常に移動する生活に、苦労はないのだろうか。

「お金もかかるし、飛行機で行き来するのはもちろん大変です。特に始めの頃は、時間をつくれないときもありました。でも、自分の家があるとどうにか帰ろうと思うのよね。

そのうち、安藤建築をもっと活かすべきだと考えて、ギャラリーとして一般公開を始めました。芦屋は意外と文化的な催しが少ないから、最近は年に4回ギャラリーでピアノコンサートを開催して、展示作品もよく入れ替えています。

それから、若い頃からもっと絵を描きたいと思っていたけれど場所がなかったので、ギャラリーとは別で、大きなアトリエをつくりました。地方にアトリエを持って東京を中心に発表するというクリエイターは増えているんじゃない?

こちらにはわんちゃんもいるからね。やっぱり毎週帰ってきたいと思いますよ」。

コシノヒロコと愛犬のルビー
新緑輝くお庭で愛犬のルビーちゃんと。

Profile

コシノヒロコ

1937年、大阪府岸和田生まれ。ブランド〈HIROKO KOSHINO〉や数多くのファッションアイテムを手がける一方、アーティストとしての絵画制作活動にも情熱を傾け、2013年には自身の作品発表の場として「KHギャラリー芦屋」をオープン。

今年2026年5月26日からは、半世紀以上のキャリアと多岐にわたる創作活動を同時代的な視点から捉え直す展覧会『(UN)KNOWN HIROKO KOSHINO』が開催中。コシノが名誉館長となり伝統芸能からサブカルチャーまで、日本の文化を幅広く紹介するYouTubeチャンネル「日本のカルチャーMUSEUM」もスタート。

Instagram:@koshinohiroko_official

Information


『(UN)KNOWN HIROKO KOSHINO ー新説/真説 コシノヒロコー』

会期:2026年5月26日(火)〜7月26日(日)
会場:東京都現代美術館
住所:東京都江東区三好4丁目1-1|地図

フランスから、豊岡・竹野へ。 “知られすぎていない”町で見つけた、自分らしい暮らし

海も山もある。心地のいい、竹野という場所

兵庫県北部、日本海に面した豊岡市・竹野エリア。透明度の高い海と山々に囲まれたこの場所で、カフェ〈Cafe Coucou〉と宿〈Coucou House〉を営んでいる中田樹さん。

海までは徒歩すぐ。夏はSUPやカヤック、冬はスキーやスノーボードを楽しめる環境で、中田さん自身もサーフィンやアウトドアを楽しみながら暮らしている。

竹野浜
〈Coucou〉から歩いてすぐの竹野浜。透明度の高い海は“竹野ブルー”とも呼ばれ、「日本の渚百選」にも選ばれている。

「アウトドアが好きな人にとって、豊岡は本当にいい場所なんです。海も山も近いし、まだ“知られすぎていない”。そこがすごく魅力だと思っています」。

竹野は、関西屈指の透明度を誇る海水浴場として知られる一方、近くの城崎温泉エリアほど観光地化されていない。だからこそ、地元の暮らしの空気が色濃く残っている。

「今は、観光地によっては人が集まりすぎてしまうオーバーツーリズムの問題もありますよね。でも竹野はまだ“アンダーツーリズム”に近い感覚。だからこそ、地域の人も、観光客の方も気持ちよく暮らせる余白があると思っています」。

中田さんは兵庫県南部・加西市の出身。母方の祖父母が豊岡市日高町に住んでいたため、幼少期から夏休みなどによく豊岡を訪れていた。

「小さい頃から、竹を切ったり家庭菜園を手伝ったりしていました。だから豊岡は、昔から身近な場所でしたね」。

中田樹
中田樹さん

コウノトリと農業。豊岡で見つけた可能性

高校卒業後は京都外国語大学でフランス語を専攻。卒業後はワーキングホリデーでフランスへ。そのまま現地就職を目指していたが、当時のフランスでは移民政策が厳格化し、外国人として働くハードルが高くなっていた。そんななか、中田さんはサステナビリティや一次産業への関心を深めていく。

「ちょうどパリ協定やSDGsが広がり始めた頃で、食や農業、環境問題に興味を持つようになりました」。

その後は、フランス北部・リールの大学院へ進学。農業やサステナビリティについて学びながら、日本企業のアグリテック部門への就職も決まっていた。しかし、その報告をした際、豊岡で農業を営む祖父から思いがけない言葉をかけられる。

「『農業も知らんのに、なにがアグリテックだ』と言われて。最初は、“内定おめでとう”じゃないんだ、と思いましたけど(笑)。でも、その一言がずっと頭から離れなくて。“そんなこと言うなら……“という気持ちで、祖父のいる豊岡の農業や取り組みを調べてみることにしました」。

改めて豊岡について調べるなかで、中田さんが強く惹かれたのが、豊岡市が推進していた「コウノトリ育む農法」。化学農薬に頼りすぎず、野生復帰したコウノトリと共生するための農業の仕組みだ。

「環境問題って、立場によって対立が生まれることも多い。でも豊岡では、コウノトリという存在を真ん中にして、人も農業も地域もつながっていたんです。それがすごく面白いなと思いました」。

さらに当時の豊岡市では、地域おこし協力隊の「起業型」枠がスタート。地域資源を活用した事業づくりに取り組みながら、最長2年間の任期中に市内での起業を目指すものだった。豊岡の考え方や取り組みに惹かれた中田さんは、その一期生として移住を決意する。

「コロナ禍で、フランスにいた友人が亡くなったり、家族の近くにいられない状況を経験したりして、“どこで、誰と暮らしたいのか”を改めて考えるようになりました。もともとはフランスで働き続けるつもりでしたし、日本に帰ったあとも東京で働く選択肢を考えていました。でも、コロナ禍を経て、家族と離れて都会で働くことに以前ほど魅力を感じなくなっていたんです。

そんなタイミングで豊岡の地域おこし協力隊の募集を知って、“25歳なら失敗してもやり直せるかもしれない”と思えた。最初から絶対にここで暮らし続けると決めていたわけではないですが、実際に来てみると、海や山が近い暮らしや、人との距離感が自分に合っていたんです」。

海辺で育てる、地域の人と旅人が集まる場所

地域おこし協力隊として活動していた2年間は、食育イベントや農業体験ツアー、ビーチクリーン、インバウンド向けのアグリツーリズムなど、さまざまな企画を実施。英語やフランス語を活かしながら、地域と外をつなぐ活動を続けた。一方でその活動を通して感じたのが、「地域には場所が必要」だということだった。

「地方って、“いつ行ってもここにある”ことが、安心感や信頼につながるんです。たとえば今日は休みなのかな、とか、どこで営業しているかわからないと、特に地元のおじいちゃんおばあちゃんは来づらい。だからキッチンカーなどの移動販売ではなく、地域の人が気軽に立ち寄れる場所をちゃんと作りたいと思いました」。

そうして2024年、日本海近くにカフェ〈Cafe Coucou〉をオープン。2026年には宿〈Coucou House〉も開業した。カフェの開業にあたっては、店舗設備の導入や改装費に、〈ひょうご産業活性化センター〉の「起業家支援助成金」を活用。地域からの支援も受けながら、少しずつ理想の場所を形にしていった。

店づくりの原点には、フランス留学時代に触れた量り売り文化がある。

地元で採れたものを大切にし、必要な分だけを買う。地産地消や食品ロス削減への意識が根付くフランスの暮らしに共感した中田さんは、その考え方を〈Coucou〉にも取り入れることに。グラノーラを看板商品に据えたのも、その経験があったから。

店で提供するデザートには、豊岡産のいちごや梨をはじめ、地域の農家が育てたフルーツを数多く使用。地域の恵みを身近に味わえることも、この店の魅力のひとつだ。

「農家さんと関わる中で感じたのが、“作ること”と“届けること”は別だということ。

こだわりを持って作物を育てている農家さんのなかには、自身で販路を開拓したり、お客さんに向けて情報発信をしたりしている方もいます。でも、それを続けるのって本当に大変なんです。だから、自分たちが加工や販売の“出口”になれたらと。たとえば、ここで食べたいちごパフェが美味しくて、“このいちごを作っている農家さんのところにも行ってみたい”と思ってもらえたら、地域の循環にもつながるのではと考えています」。

中田さんが目指しているのは、観光客だけの場所ではない。地域の人もふらっと訪れ、旅人と自然に交わるような場だ。

「“信頼貯金”っていう言葉が好きで。地域って、どれだけ顔を出したかとか、どれだけ時間をかけたかで関係性ができていく。効率だけでは測れない面白さがあると思っています」。

竹野はいま、オーバーツーリズムとは無縁の場所。だからこそ、まだこれからの可能性があると中田さんは話す。

「もっと人が来てほしい気持ちもあります。でも、増えすぎて地域の暮らしが壊れてしまうのは違うと思っていて。地元の人にとっても、訪れる人にとっても、心地いい観光、交流の形を作っていきたいです」。

中田樹

Profile

中田樹
中田樹

兵庫県加西市出身。フランス留学を経て、豊岡市の地域おこし協力隊(起業型)一期生として移住。2024年にカフェ〈Cafe Coucou〉、2026年に宿〈Coucou House〉をオープン。

Information

Cafe Coucou
Cafe Coucou

海まで徒歩10秒。手づくりグラノーラとコーヒーを味わいながら、竹野のゆったりとした時間を楽しめる。豊岡産のフルーツを使った季節のデザートも人気。

住所:兵庫県豊岡市竹野町竹野50-3 1F|地図
TEL:0796-20-7941
Instagram:@coucou_takeno

Information

Cafe house
Coucou House

2026年オープン。海を望む一組限定の宿。キッチン付きの空間で、竹野の暮らしを身近に感じながら滞在できる。

住所:兵庫県豊岡市竹野町竹野50-3 2F|地図
TEL:0796-20-7941
Instagram:@coucou_stay

コシノヒロコが愛する、“ほんまもん”の味。芦屋〈神嵜屋宗兵衛商店〉の昆布と鰹田麩

江戸時代から守る技法と、原材料のこだわり

芦屋市と有馬温泉を結ぶ有料道路「芦有(ろゆう)ドライブウェイ」。その玄関口、通称「芦屋ゲート」の料金所すぐ横に、2023年、〈神嵜屋宗兵衛商店〉はオープンした。

神嵜屋宗兵衛商店

その源流は、遡ること江戸時代。北海道と大阪を結ぶ北前船によって良質な昆布が運ばれるようになると、関西では独自の昆布文化が花開いた。うどんやおでんなどの出汁文化はもちろん、塩昆布や佃煮といった加工品も広く親しまれ、日々の食卓や贈答文化を支えてきた。

初代・神嵜屋宗兵衛が大阪で創業したのも、そんな昆布商が盛んだった時代。以来、代々受け継がれてきた製法と味を守りながら、昆布や鰹節を使った加工品づくりを続けている。現在はその伝統を芦屋で受け継いでいるのが、八代目・尾嵜宗兵衛さんだ。

「江戸時代に、すでに味は確立されてるんですよ。だから、伝統を守って添加物は使わず、厳選した素材で作っています。

昆布や削り節に含まれる旨味成分を引き出す超軟水に、調味料は本醸造醤油と本みりん、甘味は北海道産のてんさい糖。清酒は灘・白鷹の純米酒を使っています」と尾嵜さん。

関西、昆布、と言えばやはり出汁が連想されるが、大阪商人の知恵と加工技術は昆布の加工品をも普及させ、古くから関西の食卓を支えてきたのだ。

コシノヒロコが「ほっこり」する昆布と鰹田麩

この店の味がお気に入りだと話すのが、大阪・岸和田出身で、芦屋にギャラリーとアトリエを持つ、ファッションデザイナーのコシノヒロコさん。

コシノヒロコ、八代目尾嵜宗兵衛
左から、コシノヒロコさん、八代目尾嵜宗兵衛さん。

「神嵜屋さんの鰹田麩とお昆布は、芦屋の家にも東京の家にも常備しているんです。甘さが軽くて、温かいご飯にかけて食べるととってもおいしい、安心する味。関西弁で言えば『ほっこり』やね。お醤油とみりんとお砂糖の味付けに子どもの頃から慣れ親しんできたからっていうのもあるんかな」。

八代目尾嵜宗兵衛さんも「お客さまにはよく『優しい味やね』と言っていただきます」と微笑む。

コシノヒロコ
コシノさんと八代目の付き合いは長く、神嵜屋宗兵衛商店の本店にはコシノさんが開店祝いに贈った絵が飾られている。

そんな昆布を始めとする海産物の加工品は、贈り物文化のなかでも発展してきた。神嵜屋宗兵衛商店の味もまた、手土産や贈り物として親しまれている。長唄三味線の名手でもあるコシノさんは、楽屋見舞いのお返しに選ぶこともあるそうだ。

「おたふくのパッケージがかわいくて、贈り物にもいいでしょう」とコシノさん。

「おたふく」のパッケージや「笹に小判」の瓶ラベルなど、縁起ものづくしのデザインは、コシノさんの友人でもある三木健デザイン事務所によるもの。モチーフは、八代目が蔵の整理をしていたときに見つけた神嵜屋の家宝がもとになっている。

神嵜屋宗兵衛商店の商品
鰹田麩と華こんぶのセットが人気。

これぞ、コシノさんがおすすめする芦屋のとっておき。

「大量生産しないと商売になりにくい今時ですけど、こだわって作られた本物を食べたいという人は多いと思うんですよ。そういうニーズのためにも、江戸時代から続く本物の味を受け継ぐ神嵜屋さんにはぜひ続けていただきたいですね」。

Information

神嵜屋宗兵衛商店
神嵜屋宗兵衛商店

大阪の老舗昆布店「神宗(かんそう)」の創業家の流れを汲む八代目店主・尾嵜宗兵衛氏が、2023年4月に芦屋で開業。名物の「鰹田麩」をはじめ、厳選された昆布と海産物を取り扱う。

住所:兵庫県芦屋市奥池南町1-35|地図
営:10:00〜16:00
休:不定休
TEL:0797-26-7580

※店舗は有料道路内にあります。お車で料金所を通行される場合は、別途通行料がかかります。徒歩の場合は、料金所横からそのままお越しいただけます。

Profile

コシノヒロコ
コシノヒロコ

1937年、大阪府岸和田生まれ。ブランド〈HIROKO KOSHINO〉や数多くのファッションアイテムを手がける一方、アーティストとしての絵画制作活動にも情熱を傾け、2013年には自身の作品発表の場として「KHギャラリー芦屋」をオープン。

今年2026年5月26日からは、半世紀以上のキャリアと多岐にわたる創作活動を同時代的な視点から捉え直す展覧会『(UN)KNOWN HIROKO KOSHINO』が開催中。コシノが名誉館長となり伝統芸能からサブカルチャーまで、日本の文化を幅広く紹介するYouTubeチャンネル「日本のカルチャーMUSEUM」もスタート。

穏やかでエネルギッシュ。神戸から15分、編集部が芦屋で出会ったパワーに触れる理想の1日ルート

10:30|阪急神戸三宮駅から芦屋へ

神戸・三宮から電車で約15分。乗り換えなしでアクセスできる芦屋は、半日でも十分楽しめる街だ。阪急芦屋川駅を起点に、編集部おすすめの1日ルートを巡ってみよう。

芦屋川
阪急芦屋川駅。そばには、六甲山から大阪湾へと注ぐ芦屋川が流れる。

11:00|ヨドコウ迎賓館(旧山邑家住宅

まず訪れたいのが、阪急芦屋川駅から徒歩10分、芦屋川を望む丘の上に佇む国指定重要文化財。近代建築の巨匠フランク・ロイド・ライトが、灘の酒造家・八代目山邑太左衛門の別邸として設計し、1924(大正13)年に竣工した。

大谷石に施された彫刻、マホガニーの複雑な木組み、銅板の飾り金具。自然と融和するライトの建築思想が、細部のひとつひとつに宿っている。屋上バルコニーからは六甲の山並みと大阪湾が一望でき、芦屋の地形そのものを感じられる場所でもある。所要時間は約1時間半。ゆっくりと、隅々まで歩きたい。

Information

ヨドコウ迎賓館(旧山邑家住宅)

住所:兵庫県芦屋市山手町3-10|地図
営:10:00〜16:00(入館は15:30まで)
公開日:水・土・日曜日と祝日
入館料はHPをご確認ください。

13:00|芦屋神社

阪急芦屋川駅とJR芦屋駅より、それぞれタクシーでワンメーターの場所にある芦屋神社。

天穂日命(アメノホヒノミコト)をご祭神とし、縁結びや産業繁栄の神として知られている。1100年以上の歴史をもち、「芦屋の総鎮守」として親しまれている由緒ある場所だ。

境内には、樹齢300年と伝えられるヤマモモの木が。夏には緑に包まれ、秋には紅葉が見られる。自然とともにあるのも大きな特徴だ。

2025年にはブルゴーニュからワイン樽が奉納された。神社にワイン樽が並ぶ光景は全国的に見ても珍しく、明治神宮にも同様の奉納が見られる。これは、芦屋出身でブルゴーニュ名誉市民でもある実業家の働きかけによって実現したもので、以来、ワイン愛好家たちの間でも新たな注目を集めている。

Information

芦屋神社

住所:兵庫県芦屋市東芦屋町20-3|地図
TEL:0797-34-1833
拝観:境内自由(祈祷受付あり)

14:00|八代目神嵜屋宗兵衛商店

次は長い歴史を持つ一軒へ。「芦屋ゲート」と呼ばれる芦屋市と有馬温泉を結ぶ有料道路の入り口、料金所すぐ横に位置するのが、〈八代目神嵜屋宗兵衛商店〉だ。

ルーツは、1700年代後半に大阪で創業した昆布商〈神嵜屋宗兵衛〉。2023年、その創業家の直系にあたる八代目・尾嵜宗兵衛氏が、この店をオープンした。

八代目は創業家代々の製法を用い、原材料にこだわった鰹田麩、華こんぶ、塩昆布を製造・販売している。

すべての商品は特注の鉄鍋とステンレス鍋(アルミフリー)で丁寧に炊き上げている。「笹に小判」の瓶ラベルや「お多福」のパッケージ、「松竹梅の唐草模様」の包装紙と、縁起ものづくしの設えも人気。

Information

神嵜屋宗兵衛商店

住所:兵庫県芦屋市奥池南町1-35|地図
営:10:00〜16:00
休:不定休
TEL:0797-26-7580
※店舗は有料道路内にあります。お車で料金所を通行される場合は、別途通行料がかかります。徒歩の場合は、料金所横からそのままお越しいただけます。

15:30|KHギャラリー芦屋

六甲山中腹・奥池エリアの高台に佇む〈KHギャラリー芦屋〉は、安藤忠雄が初期に手がけた住宅建築。この名建築は、日本を代表するファッションデザイナー、コシノヒロコの自邸として1981年に竣工した。

増改築が繰り返された後、2013年からはコシノヒロコのアート活動を紹介するギャラリーとして、一般公開(予約制)。館内では約2600点に及ぶ作品群から選ばれた絵画が展示され、季節ごとに入れ替えも行われる。

大きな窓や、直線と曲線の組み合わせ、光が綺麗に差し込むよう設計されたスリット。建築とコシノヒロコの絵画作品と芦屋の自然風景を一緒に楽しめる、特別なスポットだ。

Information

KHギャラリー芦屋

住所:兵庫県芦屋市奥池町17-5|地図
営:12:30〜16:00(入館は15:30まで)
公開日:木・金
HP:https://www.kh-gallery.com/
TEL:0797-63-5678
予約制(公式サイトより事前予約)。
悪天候や展示替えなどで臨時休館の場合あり。

18:00|グリル末松

神戸に来たなら、やはり洋食を食べておきたい。建築や老舗、神社を巡った一日の締めくくりは、神戸洋食の名店へ。

向かったのは、三宮エリアの喧騒を抜けた先にある〈グリル末松〉。

開業は1998年。オーナーシェフの千崎智平さんは、イタリア料理店での経験を経て、「将来的に神戸で洋食店を開く」と決意。京阪神の洋食店を食べ歩くなかで、1952年に神戸・新開地の老舗洋食店〈グリル一平〉のオムライスとデミグラスソースに感銘を受け、同店での修業を経て独立した。

看板のひとつ「ビーフカツレツ」は、丁寧に仕込まれた肉とソースが一体となった、王道の一皿。サクッとした衣とやわらかな肉質のコントラストが心地よく、神戸洋食らしい満足感を残してくれる。

グリル末松のビーフカツレツ

Information

グリル末松

住所:兵庫県神戸市中央区加納町2-1-9|地図
営:11:30〜14:30(L.O.14:00)/18:00〜22:00(L.O.21:30)
定休日:火曜
TEL:078-241-1028

北海道で出会い、兵庫・豊岡へ。UターンとIターンで始めたピーマン農家の生活

夫婦で選んだ、豊岡という土地

能勢明宏さんは、豊岡市のお米農家の出身。20代の頃は、ホテルの和食調理で働いていた。

「京都で住んで働いていた中で、田舎のほうがお米がおいしいな、ということに気がついて。その頃から農業をやりたい気持ちが強まり、当時働いていた飲食店で農業部門への異動を希望しました」。

しばらくして、将来的に地元・豊岡で農家を始めることを見越し、北海道の大規模農家で働き始める。

「実家が農家だったこともあり、大体の作業やトラクターの扱いはわかっていましたが、もっと栽培管理や経営を学びたいと思うようになりました。実際、大規模農家で働くことで小規模農家にも活かせるような効率的な方法を学べましたし、有機農業に取り組んでいる農家だったので、持ち帰れることが多かったと思います」。

そこで旭川市出身の能勢理絵さんと出会い、数年後、二人は夫婦で豊岡に移住した。

「私は、北海道の旭川で生まれ育ち、農業に従事していたわけでもないので、豊岡に移住して農家をやるとは思ってもみませんでした」と妻の理絵さん。

「実際に豊岡に来てまず驚いたのは山の近さでした。瓦屋根の家並みも北海道では見かけないので、少しタイムスリップしたみたいだな、と思ったり。道はカーブが多く、コンビニも少ないなど発見はいろいろありましたが、自然のなかでゆったり子育てできる環境はいいなと感じました」

能勢さん夫妻が農作業する様子
左から、能勢 明宏さん、理絵さん。

農業スクールから始まった、二人三脚のピーマン農家

移住後、新規就農にあたっては豊岡市の支援制度を活用した。

「『農業スクール』という1年間の研修で、お米や野菜の栽培基礎を学びながら、自分に合う作物を少しずつ考えていきました。

そのなかで出会ったのが、地域の農家さんが育てたピーマン。ひと口食べた瞬間、肉厚でジューシーで、それでいて甘みがしっかりあって。他の産地のものとはまったく違うおいしさに驚きました。“おいしい野菜を作りたい”という思いがずっとあったので、このピーマンでやってみようと自然に決まりました。

とはいえ、すぐに形になるわけではなくて。地域の農業法人に相談したり、豊岡農業改良普及センターにアドバイスをもらったりしながら、一つずつ準備を積み重ねていきました。

そうした支えがあったからこそ、不安よりも“やってみよう”という気持ちの方が大きかったように思います」。

能勢さんのピーマンハウス
能勢さんのハウス。現在は二人三脚でピーマンを育て、手が足りないときにはアルバイトとして理絵さんのママ友に手を借りることも。

知らない人に頼らなくていい、豊岡の子育て支援

一方、旭川から豊岡へIターンしてきた理絵さんは、移住当初、豊岡に知り合いが一人もいない状態からのスタート。戸惑いや不安があったという。

「最初はお試しで2年間住める市営住宅に住んでいたので、その間に少しでも知り合いをつくろうと思って、住民のみなさんに声をかけていました(笑)。子育ても、自分の両親に頼れない分、市の支援やママ友とのつながりに助けられながらやってきましたね」。

理絵さんが特に「ありがたかった」と話すのは「豊岡市ファミリーサポートセンター」の仕組みだ。「子育てを応援してほしい人(おねがい会員)」と「応援したい人(まかせて会員)」を市がつなぐ制度で、送迎や一時預かりなどを地域で支え合う。

「近所の方がサポートしてくださるので、知らない人に頼む不安もなくて。移住して間もない頃は心細さもありましたが、こうした仕組みや人とのつながりに支えられて、少しずつ暮らしに慣れていきました」。

明宏さんも、こう続ける。

「こんな山奥ですけど、20分くらいで海にも行けるんです。夫婦でアジ釣りにハマったこともありました。遊ぶスポットも意外と多いですし、京都にもすぐ行ける距離感。とてもいい場所だと思います。妻にも支えてもらいながら、これからもおいしいピーマン作りを続けていきたいです」。

能勢さん夫妻

Profile

能勢明宏、理絵

豊岡市在住。夫・明宏さんは地元豊岡からのUターン、妻・理絵さんは北海道旭川市からのIターンで豊岡へ。市の農業スクールをきっかけにピーマン農家として就農し、現在はハウスで栽培しながら3人の子どもを育てる。

農村から邸宅街へ。芦屋はいかにして「憧れの街」になったのか?文・鈴木淳史

文・鈴木淳史

『家どこですか?』と聞かれて、『芦屋です』と答える。『セレブ!』という反応を飽きるほど浴びてきた。高級住宅地という言葉を飛び越えて、今やセレブなんていう陳腐な言葉で括られる。

母方の祖父母が芦屋に住み始めて約80年。赤ん坊の頃から芦屋には遊びに来ていたらしいが、芦屋へと引っ越したのは5歳。当時の記憶は確かでは無いが、セレブなんて言葉は浸透していない時代で、5歳の幼稚園児は高級住宅地という言葉もピンときていなかったはず。ただ、ひとつ言えるのは昔も今も住みやすいということ。穏やか緩やか、のんびりのどか。だからこそ、セレブ=お金持ちの単なる高級住宅地という着地は、とても居心地悪い。

知ってるつもりで深く知ろうとしなかった芦屋の歴史を、来年で50歳の学年というエエ歳でもあるので、様々な歴史文献を参考にして紐解いてみることにした。ある意味、パンドラの箱を開けちゃう気分。

まずは明治22年(1889年)、打出(うちで)村・芦屋村・三条村・津知(つじ)村という四つの村が合併して精道(せいどう)村が発足したところから話を進めたい。明治時代になっても江戸時代から続く農村漁村風景が広がる場所だったらしく、芦屋市という地名になったのも昭和15年(1940年)。78歳の母親は未だに市役所や税務署や警察署がある阪神芦屋駅付近を精道村と呼ぶ。そんな村がなぜ人気の街へと進化したのか。

住宅開発の大きなきっかけは鉄道。明治7年(1874年)、大阪神戸間に 現在のJR東海道本線である官設(かんせつ)鉄道が開通した。で、大正2年(1913年)、ようやく芦屋駅が開設。明治38年(1905年)には、阪神電鉄が開業して芦屋停留場と打出停留場が開設される。大正9年(1920年)には、現在の阪急電鉄である阪神急行電鉄の神戸線が開通して芦屋川停留場も開設。一方、その頃の大阪は日本一の大都市で工業が発達したものの、大気汚染と水質の悪化に悩まされていた。なので桃源郷のように眩い光の輝きを放つ芦屋地域には、大阪と近距離ということもあり、高島屋創業家・朝日新聞創業者・八馬財閥家といった企業家がこぞって邸宅を構えていく。セレブや高級住宅地という言葉にピンとこない私でも子供の頃から御屋敷という言葉には馴染みがある。いわゆる成金的なお金持ちでは無く、一種の品の良さを感じていた。

開園したころの芦屋遊園地
開園したころの芦屋遊園地。
城山から望む芦屋市街地
城山から望む芦屋市街地。

芦屋に移り住んだ人々の多くは上流階級で、大阪は船場(※心斎橋周辺に広がる江戸時代から続く商業地区)の商人が主体とも言われている。跡継ぎを重視した起業家や商人にとって、子育てに最適な芦屋を住処に選ぶのはごく普通のことだったのかも知れない。また起業家や商人は、国際貿易港として栄える神戸近隣の芦屋に住み始めたことで洋風文化にも触れて、和洋折衷の独自の文化を育んでいく。

その様子を見事に描いたのが、昭和18年(1943年)に発表された谷崎潤一郎【明治19年(1886年)〜昭和40年(1965年)】の小説『細雪』。谷崎自身も芦屋に居を構えていたことがあり、芦屋市には谷崎潤一郎記念館も建てられている。阪急芦屋川駅の駅前にある商店街には、谷崎が懇意にしていた和菓子屋『杵屋』が現在もあり、谷崎公認の和菓子『細雪物語』は芦屋市民にとっては欠かせないお土産品。

余談だが、通学する山手中学校の下校時に生徒たちがコンビニで買い食いをする中、私は杵屋の和菓子で買い食いしていたのも懐かしい話。

ちなみに『細雪』についてもう少し記述するならば、登場人物の四姉妹の末っ子である妙子は、いわゆるモダンガールとして描かれた。流行語的に言うならばモガ。芦屋を含む阪神地域には、「阪神間モダニズム」という言葉もあり、近代的という意味合いも持つモダンは芦屋にとって最重要キーワード。

芦屋には当時のトップクラスの建築家が手がけたモダンな邸宅が建ち並ぶが、その最たるものが、近代建築三大巨匠のひとりフランク・ロイド・ライトが設計した旧山邑邸(ヨドコウ迎賓館)。しかし、ただモダンな邸宅が建ち並んだわけではない。主に接客に使用される洋の空間と日常生活の場としての和の空間を兼ね備えた和洋館という独特の建築であった。単なる西洋住宅では無く、和の文化にも昇華させた芦屋人たち。

そういや単なる平屋である山手町の我が家も玄関入ってすぐに西洋的な応接間があったが、すぐ横は和の畳部屋であったことも思い出す。そうそう、阪神淡路大震災まで山手町で暮らした私にとって、同じ山手町の坂に佇む旧山邑邸は日常の観慣れた風景でしかなかった。なので、大人になってから調べれば調べるほど立派な建物であったことがわかり、今更ながら感銘を受けている。

他にも旧松山家住宅松濤館(芦屋市立図書館打出分室)・芦屋仏教会館・旧芦屋郵便局電話事務室(芦屋モノリス)・芦屋警察署など、大正時代から昭和時代初期に建てられた歴史的建造物が多数存在する。芦屋警察署は阪神芦屋駅すぐ目の前にあるが、あまりにもモダンで洒落た入り口というか門構えに、初めて観た知り合いは尋常じゃ無く感激する。私には子供の頃から観慣れた風景過ぎるのだが、確かにありふれた警察署の堅苦しい威圧感は全く無い。芦屋ならではの景観に知り合いが感激するのには他にも理由がある。

芦屋は景観を損なわないために屋外の広告物に対して条例があり、映画館・パチンコ・ラブホテルといった派手な娯楽施設も一切無い。コンビニやチェーン店の一部では、本来のショップカラーよりも抑えた店構えも見受けられる。誤解のないように書いておくと、それらは規制されたというより、芦屋のモダンなムードに敬意を払った礼儀正しさや気品に倣っている。

芦屋の歴史で忘れてはならない歴史も書き留めたい。

大正12年(1923年)の関東大震災。震災から逃れようと東京より多くの人々が関西に移ってきたが、その際に環境の良い芦屋も選ばれ、多くの財界人や文化人が邸を構えた。なので東京生まれ江戸っ子の谷崎然り、芦屋には江戸文化も根付いている。谷崎が愛した杵屋も東京で修業した職人であるため、江戸風和菓子である。また鰻屋も、上方は商人が多かったので、腹を割って話すということから腹開きが多い。しかし、芦屋は武士が多かった江戸文化を吸収したことで、切腹を連想させる腹開きでは無く背開きが多い。

大震災でいうと避けて通れない平成7年(1995年)の阪神淡路大震災。上方も江戸も相通じるのは人情。セレブや高級という言葉に捉われがちな芦屋も紛れもない人情の街。三代に渡って芦屋市民を支える上塚耳鼻咽喉科の上塚院長が、高速道路も倒壊した悲惨な状況の芦屋市街を視察に来ていた大阪の救急車を発見して、運転手を説き伏せ、芦屋と大阪の救急奔走ルートを切り拓いた話は、芦屋市民でも知っている人は少ない。どの街も勿論そうだが、芦屋という街も人の情によって間違いなく成り立っている。

芦屋という街は、何故これほどまで財界人や文化人を始め多くの人々を惹きつけるのか。JR芦屋駅前にモンテメール芦屋という昭和55年(1980年)開業の商業施設がある。モンテメールとはフランス語で山と海という意味。私も小学生の時から中学生の時まで在籍した芦屋少年少女合唱団では、こんな歌が歌われている。

『モンテメール 山と海の街 芦屋我が街』

未だに口ずさむ歌。てか、この歌詞に芦屋の全てが詰まっている。明治の農村漁村時代と或る意味変わらず、今も阪神芦屋駅からは芦屋川を繋ぐかの様な山と海を共に眺められる。人はお金を持とうが持たまいが、自然を何処かで欲している。心の安息を求めて芦屋に辿り着くのは如何にも必然ではなかろうか。

そう誰が何と言おうと、芦屋は山と海の街なのだ。

Information

鈴木淳史
鈴木淳史

1978年生まれ。芦屋在住のライター、インタビュアー。ABCラジオ『真夜中のカルチャーBOY』のパーソナリティと構成も担当。
X:@suzudama14

参考文献:『芦屋 あしやを歩く本』(株式会社コミニケ出版)

画像提供:芦屋市

安心できる町でのびのびと暮らしたい。イスラエルから兵庫・豊岡へ、家族5人の移住物語

のどかで、安心できる場所を条件に

「イスラエルは情勢が不安定で。空襲警報が鳴り、シェルターに逃げなあかん毎日。 そんな生活から逃れるために、日本へ引っ越すことを決めました。なので、国内でも特に静かに過ごせそうな場所を探しましたね」。

そう話すのは、歳國真由子さん。一家は、大阪出身の真由子さんとイスラエル出身の夫・ガジット・バラックさん、3人の子どもたちの5人家族だ。

大阪で生まれ育った真由子さんが日本を離れたのは約25年前のこと。フィリピンでバラックさんと出会い、彼の母国であるイスラエルへ移り住んだ。その後はそれぞれの仕事に伴い海外を転々とし、結婚・出産を経て再びイスラエルで暮らすようになる。豊岡への移住は、家族にとって初めての日本での暮らしとなった。

歳国真由子さん、ガジット・バラックさん
左から、夫のバラックさん、妻の真由子さん。

移住先を探すうえで重視したのは、「静かに暮らせること」と「自然災害のリスクが比較的少ないこと」だった。

「都市のほうが災害があったときのインパクトが大きいので、私の出身地である関西を中心に、のどかなエリアをリサーチしていきました」。

もともと豊岡のことはほとんど知らなかったという真由子さん。たまたま大学時代の友人から教わったのをきっかけに候補地にした。

「調べてみると豊岡には豊かな自然があり、ハザードマップを確認しても災害の影響を受けにくそう。都会からほどよく距離があって、子どもたちとのびのび暮らすイメージができたんです」。

海外からでも進められた移住準備

一家が豊岡を選んだ理由の一つに、移住サポートの手厚さがある。

「『豊岡 移住』と検索したら充実したウェブサイトがヒットして。連絡した翌日には市役所の担当者とオンラインでミーティングができました。夫が希望していた空き家物件も、まちのリフォーム会社の方とのコミュニケーションもスムーズ。当時はまだイスラエルに住んでいたにもかかわらず、トントン拍子で移住の準備が進みました」。

豊岡の移住支援は、ポータルサイト「飛んでるローカル豊岡」から確認ができる。実際に移住を経験した市民が案内人を務める移住相談窓口や、移住に関わる下見や空き家の改修、引越しなどにかかる費用を補助する制度の紹介され、一家のような海外からの移住者にとっても心強い仕組みだった。

「関西の別のエリアとも比較しましたが、豊岡ほど受け入れ体制が整っているところはなかなかなかったですね。相談窓口だけでなく、空き家情報や補助制度もわかりやすくまとまっていて。海外に住んでいる状況でも『ここなら移住できそう』と思えたのは大きかったですね」。

毎晩のようにパソコンの前に並び、空き家サイトとハザードマップを見比べながら候補を絞っていった。現在の住まいと出会ったのは豊岡市の空き家サイトで、実際に下見に訪れたのは、あたり一面が雪に覆われた冬の日だった。

「川が流れていて、森が綺麗で、離れのある大きな空き家も気に入りました。冬だったのですが、雪が積もっても家の前にある水路に流すことができ、不動産屋さんも『大事なポイントやよ』と教えてくれて。移住サポートのおかげもあってここで暮らすイメージができ、この場所に決めました」。

自然と人のあたたかさに惹かれて

夫のバラックさんは、お住まいの地域や豊岡の魅力をこう話す。

「すぐ近くの森や川が美しく、夏は竹野エリアのビーチで遊んだり、冬はスキーをしたり、自然や四季とのコネクションを感じられるのがいいですね。ずっと都会で暮らしてきたこともあり、新鮮でありがたい経験として楽しんでいます。

のんびりしているけれど不便はなく、近所の人々もみんなフレンドリーで、温かく迎えてくれました。いつもお裾分けをくれたり、手助けをしてくれたりします」。

畑で野菜収穫する様子
ご近所さんの畑で野菜の収穫をする様子。

生活スタイルの違いも、自然に受け入れてもらえた。

「夫はアメリカ時間で、私はヨーロッパ時間でリモートワークをしているので、朝、子どもたちを学校に送り出したら午前中は一度寝ています。でも近所の人たちは早起きだから、午前中にピンポンを鳴らしてお裾分けをしてくださるんです(笑)。総会があったタイミングで事情を話したら、みなさんすぐに理解してくださって。地域の当番や集まりも『午前中の役割はしなくていいよ』と気を遣ってくれたり、本当にあたたかい方ばかりです。地域のみなさんのやさしさを日々感じながら暮らしています」。

移住前は「田舎ってどうなんだろう」と不安もあったと真由子さんは言う。

「でも豊岡に来て、心配する必要なかったな、と思うくらい満たされています。日本ってどこへ行っても不自由がない。こんなにゆっくりのんびり過ごせる場所が、こんなに近くにあったんだって。毎日何もかもがありがたいと感じています」

歳国真由子さん、ガジット・バラックさん

Profile

歳國 真由子、ガジット・バラック

真由子さんはプロダクトローカリゼーションのフリーランスとして、バラックさんはハイテクスタートアップ企業の管理職として、それぞれリモートで働く。異なるタイムゾーンで仕事をしながら、豊岡で5人の新しい生活を送っている。

【地元の人はここで食べる】住宅街のレストランからグローサリーまで。長崎・諫早エリアのおすすめ3選

素材と向き合う、予約制レストラン

長崎市内の閑静な住宅街に佇むレストラン〈condate(こんだて)〉は、昼夜どちらも予約制のおまかせコースのみ。島原や佐賀の農家から届く野菜と、長崎の魚介を中心にした料理を、ゆっくりと味わえる。

「野菜のおいしさを喜んでもらえることが多いですね」
そう語る店主・澁谷啓之さんの料理には、派手な技巧に頼るのではなく、素材の持ち味をそのまま引き出す力が感じられる。それは、若い頃に日本料理店で修業した経験があってこそ。和食をベースにしながらも、ジャンルに縛られない自由な発想が魅力だ。

「大切な友人を連れていきたいお店です。渋谷さんのフィルターを通した長崎の魚や野菜の料理は、本当に滋味深いんです」と〈nai〉の近藤さん。

お酒好きの渋谷さんが、自ら取り揃えるナチュラルワインや日本酒は、どれも料理にすっと馴染むものばかりだ。

「料理や空間から感じられるものを、思い思い自由に楽しんでいただけたうれしいですね」
店主の言葉どおり、ここでは食事が体験として残る。

Information

CONDATE

住所:長崎県長崎市泉1-12-9|地図
電話:080-5696-7735
営:12時〜15時、18時〜22時
休:不定休
Instagram:@condate123

40年続く店の新しいかたち、ドイツ菓子とナチュラルワイン

1984年創業のドイツ菓子店〈クロンプリンツ〉は、地元で長く愛されてきた存在。2024年、装いも新たに、少しユニークな形へ生まれ変わった。ドイツ菓子に加え、サワードゥブレッドやナチュラルワイン、チーズ、シャルキュトリなど、食卓を彩る食材が並ぶマルチグローサリーへ進化したのだ。

店に入ると、パンの香り。その隣にはワインボトルが並び、冷蔵ケースには名熟成士から仕入れるチーズや加工肉まで。ついあれこれ手に取ってしまう。

特徴は、素材選びに一切の妥協がないこと。パンにはすべて自家培養酵母を使用し、有機・自然栽培の原料を中心に、サワードゥ製法で焼き上げる。ケーキや焼き菓子に使用する卵は、諫早産のつしま地鶏の平飼い卵、乳製品は風味を損なわない低温殺菌「パスチャライズド牛乳」を採用。素材への配慮が行き届いているからこそ、安心して味わえるおいしさにつながっている。

ワインはボトル販売が中心だが、時間帯によっては角打ちも可能。〈久米桜酒造〉の日本酒やヨロッコビール、〈nobana〉のミードなども揃い、そのラインナップは実に幅広い。昼からグラス片手に、パンやチーズをつまむ、そんな過ごし方も、この店では自然に馴染んでいる。

「〈nai〉から本明川を挟んで徒歩3分ほど。近所に一軒あるだけで、暮らしの質がぐっと上がるお店です。仕入れの帰りについ一杯、なんてことも」と近藤さん。日常に少しの豊かさを添えてくれる、頼もしい存在だ。

Information

クロンプリンツ

住所:長崎県諫早市八天町4-31|地図
電話:0957-23-8335
営:水〜土11時〜19時、日 12時〜17時
休:月、火
Instagram:@kronprinz_1984

魚も、ワインも、焼き菓子も。ちょっと自由な居酒屋

「諫早では珍しく、居酒屋でナチュラルワインが楽しめるうえに、お通しのレベルがとにかく高い。近所にあってよかったと心から思えるお店です」

そう語る近藤さんが3軒目に選んだのは、居酒屋〈暁&bonbonアカツキ〉。

料理の軸にあるのは、地元の食材。刺身やカルパッチョなど、旬の魚を使った一皿が人気を集めている。ランチでのアジフライ定食も地元の人々には評判だ。

夜にはさらに楽しみが広がり、ナチュラルワインに加え、焼きたての米粉グルテンフリーのおやつも並ぶ。ジャンルにとらわれない自由な組み合わせも、この店ならではの魅力。

「地元の食材を使って、身体がよろこぶ料理を届けたいんです。一人でもふらりと立ち寄れる、そんな近所の店でありたいですね」と店主の水永さん。

その言葉どおり、自然と足が向く店が、街には必要だ。〈暁&bonbonアカツキ〉はまさに、そんな一軒である。

Information

暁&bonbonアカツキ

住所:長崎県諫早市八坂町7-19|地図
電話:0957-21-3828
営:11時30〜14時30分、18時〜10時30分
休:日
Instagram:@bonbonakatsuki

教えてくれた人

Information

近藤 彰

長崎県諫早市でコーヒー豆屋兼コーヒースタンド「nai」を営む。
 nai
「感性を刺激しつつ日常にあるコーヒー」をテーマに生豆の買付けから焙煎、販売、抽出までを一貫して自社で行う。クオリティを向上しながら町にコミットしたコーヒー屋である事を目指している。
住所:長崎県諫早市本町1-19-1|地図
電話:0957-46-5504
営:土〜水 10時〜18時、金 12時〜18時
休:木
Instagram:@._n_a_i._/

【地元の人は、ここで食べる】〈アンペキャブル〉のシェフが惚れ込んだ、長崎の通いたい店2選

汁あり派?汁なし派?町中華で愛される〈平和楼〉の担々麺

長崎の町中華を語るなら、外せない一軒がある。昭和28年創業の〈平和楼〉だ。
担々麺とジャンボ焼餃子を目当てに、地元の人たちが足を運ぶ店である。

〈アンペキャブル〉の大坪さんが、必ず頼むというのが名物の担々麺。汁あり、汁なし、どちらも人気で、長崎の中華好きのあいだでも意見が分かれる看板メニューだ。

濃厚な旨味があとを引く「汁なし担々麺」は、香ばしい肉味噌とピリリと効いた辛味が麺に絡み、気づけば箸が止まらない。一方、細麺にピリ辛スープのコクがよくなじむ「汁あり担々麺」も、根強い支持を集めている。

「どちらも甲乙つけがたいですが、僕は汁あり派。最後にライスを入れて食べます。心もカラダもおなかも幸せぱんぱんに満たされます」

そして、もう一つ外せないのがジャンボ焼餃子。こんがり焼けた皮の中には、肉汁をたっぷり含んだ餡。ひと口かじれば、じゅわっと旨味が広がる。

昭和28年創業の〈平和楼〉は、現在3代目。店を切り盛りするのは蘇さん夫妻だ。
「小さな店ですが、安心して食べてもらえる料理を出すことを大切にしています」

長崎でお腹を満たすなら、まずはここから。そんな一軒だ。

Information

平和楼

住所:長崎県長崎市万屋町4-3|地図
TEL:095-822-0931
営:11時30分〜14時00分、17時〜20時
休:木
Instagram:@_heiwarou_

店主に会うために人がふらりと集う、小さな立ち飲み店〈Bar Lino〉

長崎の夜を、もう少しだけ楽しみたい。そんなとき、大坪さんがふらりと立ち寄る一軒がある。〈Bar Lino〉は、地元の人たちが自然と集う小さなバーだ。

店内は立ち飲みスタイルで、カウンターは8席のみ。距離の近い空間だからこそ、隣り合った人同士の会話が自然と生まれる。

「長崎出身の店主、ケントさんに会いに地元の人が集まってくるオアシスのようなスタンドバー。ここに来ると、長崎らしさを感じられるんですよ」

ドリンクはすべて500円。スパークリングやハイボール、トマトサワーなど、気軽に楽しめるラインナップが揃う。

店主にその日のおすすめを尋ねると、こんな言葉が返ってくることも。
「フードは持ち込み自由です。気が向いたら、パスタを作ることもありますよ」

その懐の深さと、どこか気まぐれなスタイルもまた、この店の魅力。
長崎の夜を少しだけ延ばしてくれる一軒だ。

Information

Bar Linoの外観
Bar Lino

住所:長崎市古川町8-8 めがね橋LogicL3棟|地図
営:Instagramを確認
休:日
Instagram:@lino_lino_lino_369

Information

アンペキャブル

住所:長崎市油屋町2-10八坂ストリートビル2F|地図
電話:095-824-2047
営:12時〜14時、18時〜22時   
休:不定休
Instagram:@impeccable2peccable

泥にまみれ、未来を耕す。棚田を守る女子サッカーチーム「FC越後妻有」

日本の心と技術が編みなす、棚田の風景

日本有数の米どころとして知られる新潟は、全国でも屈指の棚田面積を誇る県。農林水産省が優れた棚田を認定する「つなぐ棚田遺産~ふるさとの誇りを未来へ~」では、新潟県から全国最多となる36地区が選ばれている。新潟といえば、米や日本酒。“こめどころ”を支えているのが、この棚田の風景だ。

棚田の風景が美しいのは、山の斜面に田んぼがただ並んでいるからではない。そこには、水を均等に巡らせる精巧な水管理や、整えられた畦(あぜ)や石積みなど、長い年月をかけて培われてきた精緻な農業技術の粋、同時に、畦のラインを整え、周囲の山並みと調和するように田んぼをつくるという、日本人ならではの美意識があるからこそ。また、カエル、メダカ、タガメ、野鳥などの豊かな生態系を支え、さまざまな役割を担っている。山間部の多い日本において、日本人の原風景として、愛される存在でもある。

新潟県にはいくつか美しい棚田があるが、なかでも十日町市を中心とした越後妻有(えちごつまり)エリアにある「星峠の棚田」は、季節によって様々な表情を見せる棚田として有名だ。春は、雪解けとともに水が張られた田んぼが、空を映す「水鏡」となる。夏は青々とした稲が風に揺れ、秋には黄金色の穂が実り、冬は深い雪に包まれる。大小およそ200枚の水田が、まるで魚の鱗のように山の斜面に広がる景観は、四季折々の表情を見せながら、一年を通して里山の美しさを感じさせてくれる場所だ。

しかし今、この絶景は危機に瀕している。

棚田は急峻な地形にあるため大型機械が入りにくく、多くの作業を人の手に頼らざるを得ない。担い手の高齢化も重なり、維持が難しくなった田んぼは、少しずつ耕作放棄地へと姿を変えてしまうことも少なくない。

さらに、人の手が入らなくなると畦や水路は雨や雪解け水によって崩れやすくなる。草木が生い茂り、モグラなどの生き物が土を掘ることで、田んぼを支える土の構造も次第に弱っていく。水を引き、水を貯める仕組みが壊れてしまえば、棚田としての機能は失われてしまうのだ。

一度荒れた田を元に戻すのは、容易ではない。地域の宝であるこの風景を守るため、地域に貢献する若者たちがいる。それが女子サッカーチーム「FC越後妻有」だ。

棚田で働き、地域に生きるサッカー選手たち

左上から時計回りに、元井淳監督、三井愛里沙選手、藤井円香選手、大矢千尋選手、大平友紀子選手、和田美優選手、山下由衣選手。

女子サッカーチーム「FC越後妻有」の母体は、越後妻有エリアで開催される「大地の芸術祭」を運営するNPO法人越後妻有里山協働機構。監督・元井淳さんは、チーム設立の背景をこう話す。

「過疎は、若い女性の都市流出から始まる、と言われています。女性が地域に残らなければ、コミュニティそのものが維持できなくなる。そこで、サッカーを通じて若者を地域に迎え入れて地域課題の担い手になってもらうというアイデアが生まれ、2015年に『大地の芸術祭』から派生したプロジェクトとして立ち上がったと聞いています」

このチームの特徴は、選手たちがNPOの職員として働きながら活動していること。彼女たちの一日は、いわゆる「企業スポーツ」のアスリートとは根本から異なる。

朝は、それぞれの配属先へ。棚田で農業に携わる者もいれば、「大地の芸術祭」の運営サポートやツアーの企画、観光施設や食堂の運営など、業務は多岐にわたる。日中は地域活動にどっぷりと浸かったのち、夕方以降や週末にサッカーの練習や試合に臨む。まさに二足のわらじ、いや五足、六足のわらじとも言える生活だ。

先祖の想いを繋ぐ、棚田の里親制度

彼女たちの活動の柱の一つが、400年以上前から受け継がれてきたこの風景を守るために、棚田を守る仕組みとして生まれた「まつだい棚田バンク」。NPOスタッフや地域の人々、そしてFC越後妻有の選手たちが、耕作を担い、地域外の人々がオーナー(里親)として出資し、保全を支援するという制度である。オーナーには秋に収穫された新米が届けられるほか、田植えや稲刈りを体験するイベントも用意されている。

「平地の効率的な大規模農業と比較すれば、棚田での米作りは合理的とは言えません。機械が入らない場所は手作業になりますし、収益性だけを考えれば割に合わないことばかりです」と元井監督は言う。

それでも彼女たちが田んぼに立ち続けるのは、そこに地域の人々のある思いを感じているから。

「この地域の方々は、決してお金のためだけに棚田を守ってきたのではありません。先祖から受け継いできた大切な土地を、自分の代で絶やしてはいけない。その一念で、過酷な労働を続けてきたんです。活動当初は、外部から来た若者たちが農業を行うことに対して、冷ややかな視線が向けられることもありました。でも、雨の日も風の日も、選手たちが本気で泥にまみれ、額に汗して働く姿を地域住民は見てくれていたのでしょうね。『本気でやってくれている』、そんな認識が広まったとき、地域の人も認めてくれるようになりました」

FC越後妻有の選手たちと地域の人々が、一年間かけて慈しむように育てたコシヒカリは、「大地の米」という名のブランド米として世に送り出される。この地域特有の昼夜の寒暖差と粘土質の土壌が生み出す、豊かな甘みと粘りが特徴のコシヒカリだ。

この米は、選手たちが作品の管理運営を担う〈越後妻有里山現代美術館 MonET〉のミュージアムショップで購入できるほか、〈まつだい「農舞台」フィールドミュージアム〉内の〈越後まつだい里山食堂〉でも味わうことができる。地域の旬の食材をふんだんに使ったおかずとともにいただく一膳は、この土地でしか出会えない贅沢なひとときを届けてくれる。


売り上げの一部は棚田保全の活動資金として再び地域へ還元される。この米を食べ、購入することは、越後妻有の美しい風景を守る循環の輪に加わることでもあるのだ。

里山の暮らしとともにあるサッカークラブ

元井監督は、なでしこリーグなどでの指導経験を経てこのチームに来た。

「FC越後妻有がユニークな活動をしていることは知っていました。ただ監督の話をもらったときは、京都に住んでいたので断ろうと思っていたんです(笑)」

しかし、この地域で見た光景が、その考えを変えたと言う。

「これまでJリーグやなでしこリーグの世界に身を置いてきましたが、そこでは常に『地域貢献活動』という言葉がついて回っていました。でも私は、その言葉にずっと違和感を抱いていたんです。本当に地域の一部として存在していれば、わざわざ『貢献』などと言う必要はないはずですから。越後妻有では選手たちが文字通り地域の中で暮らし、働き、生きている。その姿を見たとき、これこそが自分がやりたいスポーツの姿だと思いました。この活動を絶やしてはいけないと感じ、十日町に来ることを決めたんです」

元井監督は選手たちの「引退後」のキャリアについても、この独自の形態が大きな意味を持つと説く。 

「一般的なスポーツ選手は、企業に所属し会社員として働くことになりますが、企業で任される仕事は、責任の軽い単純作業であることが少なくありません。それでは引退後に社会へ出た際、キャリアとして通用しにくい。一方で、FC越後妻有が担うのは、自分の仕事の先に誰がいるのか、誰を笑顔にしているのかが直接見える仕事です。ただ、うちの選手たちは慣れない作業に涙しながら、泥にまみれて仕事をすることもありますが(笑)。ここで培った力は、サッカーを引退した後の人生において、どんな場所でも通用する武器になるはずです」

軽トラックで集まる、地域のサポーターたち

チームのホームゲームが行われる会場には、独特の光景がある。駐車場に並ぶのは、軽トラック。観客の多くは、地元のおじいちゃん、おばあちゃん。彼らは芸術祭の運営や地域の活動を通して出会った人たちだ。

「試合の日には、地域の人たちがたくさん来てくれますよ。サッカーを見に来たというより、私たちを応援しに来てくれている感じです」

取材中、そんな話をしていると、大平選手が「おじいちゃんたち、呼びましょうか?」と声をかけてくれた。すると、ほどなくしてサポーターの佐藤達夫さんと、佐藤竹二さんが駆けつけてくれた。

左から、サポーターの佐藤達夫さん、佐藤竹二さん。

「選手のみんなに呼ばれたら、どんなときでもすぐに駆けつけますよ」。そう笑う竹二さんは、こう続ける。

「私は、2021年に親の介護のために十日町に戻ってきました。ある日、外から元気な女性たちの声が聞こえるので何だろうと思ったら、彼女たちが練習していたんです。それからFC越後妻有を応援するようになりました。正直、サッカーのルールはよく分からんのですよ(笑)。でも彼女たちは孫のような存在です。近くで練習し、仕事をし、言葉を交わす。彼女たちが一生懸命走っている姿を見ると、自分たちも元気をもらえるんです」

応援の仕方も、この地域ならではだ。

「応援旗やタオル、横断幕などのグッズはもちろん、応援歌まであるんですよ。十日町で退職された学校の先生がギターで演奏してくれて、試合前やハーフタイムにみんなで歌う。サッカーに応援歌という文化はないので、相手チームにはいつも驚かれています(笑)」

チームの目標は北信越リーグ優勝。しかし、それだけがゴールではない。「おじいちゃんおばあちゃんの笑顔を創り出す」というチームのコンセプト通り、「地域の人たちに愛されるチームでありたい」と大矢千尋選手は言う。

「芸術祭や農業を通して地域の人と関わり、『応援したい』と思ってもらえるチームになることが大事だと、選手同士でもよく話しています。活動を続けていく中で、自分たちだけでなく『地域のみんなで一緒に優勝したい』という想いが強くなりました。支えてもらっている分、たくさん恩返ししたいです」 

元井監督も同じ思いだ。

「このクラブでは、選手たちが地域の生活の中に入り込んでいます。地域の人の日常の中に存在している。『家族』『孫のようだ』と言ってもらえる関係は、本来あるべき姿。形だけの地域貢献ではなく、もっと深いところでつながっている。それが『大地の芸術祭』や『棚田バンク』であり、僕たちの活動です」

「棚田バンク」の活動をきっかけにサッカーに興味を持つ人もいれば、サッカーをきっかけに、田植えや稲刈りに協力してくれる地域の人の姿を見ることも少なくない。気づけば、今では彼女たちの存在そのものが、人と人をゆるやかにつなぐ地域のハブのような存在になっていたのだ。

棚田の風景とともに生きるサッカーチーム。越後妻有で始まったこの挑戦は、スポーツと地域の新しい関係を、今日も力強く描き続けている。

Information

FC越後妻有

新潟県十日町市を拠点に活動する女子サッカー実業団チーム。「大地の芸術祭」から派生し、2015年に発足。選手はNPO法人の職員として、棚田の保全作業や芸術祭の運営に携わりながら、農業とサッカー、大地の芸術祭の「三刀流」でトップリーグ昇格を目指す。現在、新規加入選手募集を募集中。興味のある方は、練習参加や就業体験、ご質問など、ご用件をご記載の上、下記メールアドレスまでご連絡を。
メール:fc-echigotsumari@tsumari-artfield.comInstagram: @fc.echigotsumariX:@fcechigotsumari

Information

にいがた棚田ネット

新潟県内の棚田地域では、棚田の保全活動や棚田を舞台としたイベントなど、独自の活動が行われています。興味のある方は、以下のURLをチェック。
HP:https://www.pref.niigata.lg.jp/site/tanadanet/

りんごにバジル? 地元の料理人が唸る、青森・八戸のジェラート店〈KIBI GELATO〉

「素材の組み合わせに、毎回ハッとさせられます」
八戸市でレストランを営む〈ZUPPA〉の店主が青森で甘いものを食べるなら、と名前を挙げるのが〈KIBI GELATO〉。理由は明快だ。

週替わりで並ぶ8種のフレーバーは、いずれも青森県産の素材が軸。鮮度の良い採りたての苺、さくらんぼ、ネクタリン等の地域果実だけでなく、トマトやカボチャ、トウモロコシといった野菜を使ったジェラートも。リンゴにバジルを合わせるなど、意外性のある組み合わせも、この店では自然に成立している。

その理由は製法にある。イタリアで学んだ久慈さんが使うのは、手動式のジェラートマシン。空気を含ませすぎず、密度の高い食感に仕上げることで、素材の風味がぼやけない。さらに、食感を細かく調整できるのも手仕事ならではだ。

短いスパンで入れ替わるメニューも、この店の楽しさのひとつ。行くたびに違う表情を見せながら、芯の部分はぶれない。料理人が信頼を寄せるのも、納得の一軒だ。

Information

KIBI GELATOの外観
キビジェラート KIBI GELATO

住所:青森県十和田市西二番町8-48 KIBI GELATO|地図
電話:0176-51-4121
営:11時〜17時
休:月・火
Instagram:@kibi_gelato

Information

ZUPPA

住所:青森県八戸市堤町1 大丸ビル1F|地図
電話:0178447303
営:18〜24時(月に一度昼営業あり、Instagramでお知らせ)
休:日曜 +α
Instagram:@zuppa_8nohe