連載
posted:2026.1.15 from:香川県豊島 genre:旅行
〈 この連載・企画は… 〉
「豊島事件」をきっかけに、瀬戸内海エリアの美しい自然環境を守り、
再生することを目的として、設立された NPO 法人「瀬戸内オリーブ基金」。
2025年に25周年を迎えた「瀬戸内オリーブ基金」のこれまでとこれからを伝える連載です。

writer profile
Junko Shimizu
清水淳子
しみずじゅんこ/愛媛県松山市出身。都内で出版社勤務ののち、地元松山へUターンし四国の旅雑誌の編集長に。2013年からフリーランスの編集者・ライターとして活動を開始し、2020年には子ども図書館を開設するなど、地域活動にも力を入れる。
photographer
Masanori Kaneshita
兼下昌典
かねした・まさのり/写真家。1987年広島生まれ。日本大学芸術学部写真学科卒業。広告制作会社、イイノスタジオを経て2014年より木寺紀雄氏に師事し、2017年独立。広告・雑誌などにおいて様々な分野で活躍中。
https://www.kanegonphoto.com/
香川県の〈豊島〉に国内最大の有害産業廃棄物が不法投棄された「豊島事件」。この事件を契機として、瀬戸内海エリアの美しい自然環境を守り、再生することを目的に2000年から活動をしているのが「瀬戸内オリーブ基金」。連載第2回目は、基金の立ち上げのきっかけとなった、「豊島事件」について紹介する。「豊島事件」は現代社会が抱える大量生産・大量消費・大量廃棄の時代を象徴する事件であり、この島の住民たちによる“闘い”が、日本の環境政策を大きく変えることになった。
「ツツジの花が咲いた美しい山に登り、花見をしながら、重箱に入ったお弁当を食べる。帰りには、広がる砂浜、豊かな潮だまりで水遊びをし、魚や車エビやアサリをたくさん採ってカラになった重箱に詰めてお土産にして。島の北側には〈水ケ浦〉という白砂青松の景勝地があって、島外からも、子どもたちが遠足にやってくるような、住民自慢の場所でした。〈豊島〉は、その名の通り、豊かな島でした」(安岐正三さん)
世界中から多くの人が訪れ、アートの島とも言われる〈豊島〉。船が島に近づくにつれ、穏やかな瀬戸内海を背に、眩い緑に包まれた小さな島が見えてくる。その美しい景色に、心躍り、フェリーを降りると澄んだ空気とゆったり流れる島時間に包まれる。行き交う人たちはみなキラキラした笑顔を見せている。島の中央には〈檀山(だんやま)〉がそびえ、降り注ぐ雨が豊かな土壌を育み、離島では珍しく水が豊かで古くから稲作やみかん栽培が行われ、オリーブ畑も広がっている。

〈豊島〉の海の玄関口、岡山・香川方面や直島・犬島・小豆島とフェリーで結ぶ寄港地、家浦港。緑に覆われた山、そして白砂の海水浴場も見られる
この島を囲む地域は1934年、日本初の国立公園として瀬戸内海国立公園の一部に指定され、風光明媚な島として知られていた。先に語られた光景は、今年75歳となる廃棄物対策豊島住民会議の事務局長・安岐正三さんが子供の頃の話。しかし、1980年代から1990年代までのあいだ、〈豊島〉は「ゴミの島」とも言われ、島の北西端の〈水ケ浦〉は、日本最大級の有害産業廃棄物の不法投棄事件の現場だったとは想像がつかないだろう。
事件摘発から35年以上が経ち、若い世代で「豊島事件」を知る者は少なくなってきた。今、目の前に広がる緑あふれる景色、その背後には、理不尽にも瀬戸内海の離島が都会のゴミを押し付けられ、苦難な道のりを歩んだ住民の長年にわたる闘争と並々ならぬ努力があった。当事者として活動を続けている安岐さんに事件の経緯と“闘い”についてお話を伺った。
1965年頃、島の北西端の土地を所有していた業者が山を切り崩し始め、鋳型材料となる山の土や、ガラス原料となる海岸沿いの砂を採取し販売を始めた。島の景勝地の一つの土と砂が大量に運び出され、住民の誇りでもある風景は大きく変わり、「砂浜が失われ浅瀬のアマモ(海藻)場も喪失した」と安岐さん。
1975年、その業者は、自然を壊し、資源を奪いきったあとの土地を利用すべく、有害産業廃棄物処理の許可申請を香川県に提出。地域住民はそれに猛反対したが、香川県は1978年に、「ミミズの養殖のために行う無害な産業廃棄物の処理」の名目で許可した。しかし、業者は、フェリーを改造した大型の運搬船を使って、許可外の産業廃棄物である自動車の解体クズ(シュレッダーダスト)や廃油、汚泥等、水銀や鉛などを含む有害な産業廃棄物を大量に持ち込み、連日、埋立てと野焼きを繰り返していく。

ゴミ船を家浦港に接岸し、産廃を陸揚げ。産廃を山盛りにしたダンプカーが日に何台も島内を走った。現場では野焼きが連日行われ、有毒な黒煙が立ち上る
「ただ一つ言えることは、この処分場には〈豊島〉で出したゴミはひとかけらもなかったんです。一粒もないということです。業者は〈豊島〉の誇りであり、国民共有の財産でもある国立公園を破壊して全部金(かね)に変えた。そして、さらに金もうけをするために、人が最も嫌がるものを持ち込んだ。それは六価クロムや有機水銀などが含まれる有害な産業廃棄物でした」
住民たちの豊かで穏やかな暮らしは失われ、野焼きによって発生した有害物質の影響で、健康診断では児童の約1割が気管支系障害をもつようになった(全国平均の10倍の数値)。反対運動を行った自治会副会長は喘息悪化によって亡くなったという。
「島を守るため、我々はデモもやりました。差し止め訴訟もやりました。香川県知事にも会いに行きましたし、警察にも国会にも行きました。それでもどうにもならない……、止めることはできなかった。その野焼きが、1990年11月に止まったんです。摘発したのは香川県ではなく、兵庫県警でした。ようやく青い空が見えるようになった、星が見えるようになった、臭いがしなくなった」
これでようやく事件の解決の兆しがみられるかと思われたが、そうはいかなかった。
膨大な量の廃棄物が放置され、有害物質を含む水が海に流出。また、事件報道による風評被害で〈豊島〉の産業、観光業が壊滅的影響を受けた。代々漁業を生業としていた安岐さんも、処分地近くの沖合でハマチの養殖をしていたが、廃業を余儀なくされた。
「業者が摘発されたのが1990年11月。そこから時効まで3年でした。私たち住民は公民館の畳が擦り減るまで、何度も議論を重ねました。我々は県を相手取って闘うのか、それとも今まで通り陳情請願で行くのか。何度もお願いに行ったが、何も聞き入れられなかった。それなら公害紛争処理法に基づく公害調停で闘おうと住民合意で決まりました」

高さ3m×幅3.3mもある、不法投棄された有害産業廃棄物の断面で剥ぎ取って樹脂で固めた標本。そのスケール感に生々しさと恐ろしさを感じる
しかし、お金はない。時間もツテもない。いろいろな弁護士を訪ね歩くも誰も引き受けてくれない。ただ一人だけ、最後に残ったのが元・日弁連の会長だった中坊公平氏だ。中坊氏は「最後まで闘う」という住民の決意を聞き、無報酬で引き受けた。住民たちは島をあげて、香川県の責任を認めさせ原状回復を求めるため、1993年11月に香川県と業者、排出事業者等を相手取った公害調停を国に申請し、同時に世論の理解と支援を得るために住民運動を展開した。

1996年9月20日銀座での抗議キャラバンの様子。写真提供:廃棄物対策豊島住民会議、撮影:小林 惠
香川県庁前で延べ550日(150日間連続抗議を含む)にわたる抗議の立ちっ放しを皮切りに、考えうる限りの闘いを繰り広げた。
「県庁が開いている時は梅の花が咲いても、桜の花が咲いても抗議をやめん。小さな街宣カーを買って香川県内を100カ所以上回り、座談会もやる。夜行バスで上京し、東京・銀座で産廃を提げて抗議のキャラバンをするなど、中坊公平弁護士の指揮のもと、徹底的にやりました」
それは過酷すぎる草の根の闘いでもあり、住民たちの「ふるさとを取り戻す」ための決意でもある。その行動力に人々の心は動かされ、新聞・テレビなどマスコミやジャーナリストからも取材を受け、大量生産・大量消費・大量廃棄社会を象徴する社会問題として注目を浴びることになった。
安岐さんの口から堰を切ったように当時の話が溢れ出る。「豊島事件」の経緯と教訓を後世に伝えるために作られた資料館〈豊島のこころ資料館〉には、高さ3メートルにも及ぶ産廃の地層の剥ぎ取り標本が残されており、見るものすべての胸を締め付ける。「なぜ、何も悪いことをしていない島の住民がこれほどまでに苦しまなければならなかったのか」という理不尽は、怒りとやり場のない悔しさを残すのみだった。住民が守りたかったのは、島の一部の環境だけではなく、家族や仲間と過ごす平穏な日常だったはずだ。理不尽な業者や杜撰な行政を相手に、粘り強い抗議活動を続けた住民たちの心中を察すると、ただただ言葉を失う。

約50年ものあいだ、住民運動の中心となり、活動を続ける安岐正三さん。同じ過ちが繰り返されないよう、語り継いでいる
1997年の夏に香川県と豊島住民が中間合意を結び、2000年6月6日、公害調停で香川県知事が謝罪し、原状回復の合意が成立。最終合意まで25年。その時までにすでに公害調停に名を連ねた申請者549人のうち69人が死亡しており、島の高齢化が急速に進行していた。
「私たちが叫び続けた願いは世論を動かし、支持の輪を広げ、正しいことだったと認められました。暗闇の中を光明を求めて一歩ずつ前に進めてきましたが、これからは〈豊島〉が自然と調和する元の姿に戻るように、前を向かなくてはいけないと強く思いました」
そして公害調停が合意されたその年、建築家の安藤忠雄氏と「豊島事件」弁護団長の中坊公平氏が呼びかけ人となり「瀬戸内オリーブ基金」を設立した。この事件は〈豊島〉だけの問題でないと広く市民に知らせる契機とするために。
廃棄物の処理は当初の予定を5年以上オーバーして、2017年に最後の船が出て行った。しかしそれでもこの問題は終わらなかった。業者は、想像以上に悪質で、穴を掘って地中深くに汚染されたドラム缶を隠していたのだ。再調査と撤去が行われ、取り残し廃棄物616トンの処理が完了したのは2019年7月のこと。産廃の総量は90万トンを超え、野焼きにより嵩が減り最終的に正確な数値はわからないが、100万トン以上が不法投棄されていたと言われている。地下水の浄化は今も抱えている問題で、「排水基準(工場排水レベル)」は達成されたものの、未だ「環境基準(水道水レベル)」には達しておらず、これを達成するまでこれからまだ数十年単位で、モニタリングが続けられる。豊島住民の元にこの土地が返還されるまで、まだまだ長い年月がかかる。

かつては岩の上まで産廃が積み上がっていた処分場跡地。植生の再生、砂浜や潮だまりの復活など少しずつ生態系回復に向かい進んでいる
「最終合意からもいろいろありました。(産廃処理中に、処理施設では)爆発事故も火災も起こりました。(2013年には)中坊さんも亡くなり、時間も過ぎていった。しかし、廃棄物の撤去作業を続ける中で、徐々に海がよみがえってきました。あれだけ磯焼けしていた海にアマモが茂り、緑の絨毯みたいになった。アマモが茂ったら、イカが産卵のために帰ってきた。その卵が成長して、また沖へ出て3年経ったらまた戻って来る。循環する生態系が復活したんです。そんな自然の奇跡を目の当たりにした時、ふと思ったんです。我々にとってこの事件は一体何だったのだろう、と。運び込まれた産業廃棄物を撤去させること。それが着地点ではないのではないか」
「豊島事件」は、私たちの社会が目先の利益を追い続け、生産・消費・廃棄を繰り返していると、取り返しのつかない結果を招くことを多くの人に知らせることになった。また、廃棄物処理法改正、マニフェスト制度導入、リサイクル関連法の成立を促し、産業廃棄物の不法投棄の厳罰化や、排出者責任の考え方の広がりにも大きく寄与した。

処分場跡地に立つ安岐正三さん。100万トンを超える産業廃棄物は撤去されたが、豊かな自然を取りもどすにはまだまだ時間がかかる
「元の自然に戻すには、膨大な時間と労力がかかります。第2、第3の〈豊島〉を作らないためには、自分の目で見て、耳で聞いて、頭で考えて行動すること。教育が大切です。自分の代で解決できなくても、次世代により良い環境を残すことが財産であり、私たちの責務だと思っています」
「豊島事件」は、決して過去の、あるいは遠い島だけの出来事ではない。私たちが日々の生活の中で、安さや便利さを優先して行う行動の裏側で、目に見えていないだけで、どこかの誰かが犠牲となっているかもしれない。自分の購買活動や、何気ないゴミの出し方の中に、反省すべき点はないだろうか。現地を訪れ、当事者の声を聞くことで、初めて事件が「自分事」として心に刻まれた。

環境教育で資料館を訪れた子どもたちからのメッセージ。「豊島事件」は決して過去のものではないと伝え続けている
「人間は忘れやすい、でも、忘れたらあかん。住民の高齢化が進み、物言わず亡くなっていく方もさらに増えています。私には伝える責任がある。命ある限り、この事件を語り継ぐ活動を続けます」と、安岐さんは決意を語る。
〈金だけ・今だけ・自分だけ〉という、目先の利益を追う刹那的な考え方が「豊島事件」を象徴するように多くの犠牲を生んだ。ここから学びを得て、行動に移すのは次世代を生きる者たちだ。私たちはこの島の豊かさ・美しさと、その背景にある痛みを忘れてはならない。未来や他者に対する想像力こそが、第2、第3の〈豊島〉を作らないための最大の防波堤となるのではないだろうか。
オリーブの植樹や豊かな海を取り戻すプロジェクト、環境保護団体への助成など、多岐にわたる活動をするために、2000年に立ち上げた「瀬戸内オリーブ基金」。その呼びかけ人であり、地域と活動を共にした建築家の安藤忠雄氏からメッセージをいただいた。

撮影:閑野欣次
瀬戸内オリーブ基金25周年に寄せて
中坊公平さん、河合隼雄さんとともにスタートさせた瀬戸内オリーブ基金が設立25周年ということで、思えばずいぶん長く続けて来られたものだと思います。
ここまで地道に植樹活動や環境問題への取り組みを続けて来られたのは、ユニクロの柳井さんをはじめとして、多くの方々が長きにわたりサポートして下さったお陰です。
かつて海外から訪れた多くの人々を魅了した、瀬戸内海の豊かな自然環境を取り戻し、世界に誇れる美しいふるさととして、次の時代を生きる子どもたちに残していく──設立当初から掲げている目標に向けては、まだまだ道半ばです。瀬戸内を自然と人間が共存する豊かな地域へと再生していくため、これからも頑張っていきたいと思います。
安藤忠雄
安藤氏が世界中から尊敬される建築家である理由の一つには、さまざまな社会や環境の問題にコミットし、継続的に活動を続けていることが挙げられる。
大阪で生まれ育った安藤氏は、子どもの頃に瀬戸内の海で泳ぎ遊んだ。凪いだ瀬戸内海に浮かぶ緑の島は、安藤氏の原風景のひとつ。その〈豊島〉で、産廃問題に長年関わってきた、弁護士の中坊公平氏から「ゴミを取り除くだけじゃだめだ。〈豊島〉を昔のような緑あふれる島に戻したい」という切実な願いを聞き、中坊氏とともに「瀬戸内オリーブ基金」立ち上げの呼びかけ人となった。
豊かな自然は簡単に失われてしまう、その象徴となった「豊島事件」の記憶とともに、蘇りつつある自然を次世代に繋ぐためのメッセージとして、中坊氏の提案のもと、安藤氏が一緒に植えたのが「1000年生きる」と言われるオリーブ。それは、美しいふるさとを守るために闘った〈豊島〉の人々の熱い思いと希望を象徴している。

information
瀬戸内オリーブ基金
所在地:香川県小豆郡土庄町豊島家浦3837-4
Web:https://www.olive-foundation.org/
Instagram:https://www.instagram.com/olive_foundation/
瀬戸内オリーブ基金を支援する:https://congrant.com/project/olivefoundation/20593
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