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瀬戸内国際芸術祭 2013
大島「やさしい美術プロジェクト」

ローカルアートレポート
vol.045

posted:2013.9.11   from:香川県高松市  genre:アート・デザイン・建築

〈 この連載・企画は… 〉  各地で開催される展覧会やアートイベントから、
地域と結びついた作品や作家にスポットを当て、その活動をレポート。

editor's profile

Ichico Enomoto

榎本市子

えのもと・いちこ●東京都出身。エディター/ライター。美術と映画とサッカーが好き。おいしいものにも目がありません。

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撮影:田子芙蓉

島そのものを見てもらうということ。

瀬戸内国際芸術祭が開催される12の島のうち、
大島は少しほかの島と事情が異なる。
大島は、島全体が国立ハンセン病療養所なのだ。
1909年に開園したこの「大島青松園」は、
全国に13ある国立療養所のうちのひとつで、唯一の離島。

ハンセン病の感染力はきわめて低く、治療法が確立されているが、
かつては誤った知識から不治の病とされ、長く差別の対象となってきた。
法律によって隔離され、子孫を残すことも禁じられた。
その誤った「らい予防法」が廃止され、
療養所に人が自由に行き来できるようになったのは1996年。
つい17年前のことだ。
療養所にいる人たちはすでに治療は終わっているので
「患者」ではなく「入所者」と呼ばれる。
大島には現在も約80人の入所者が暮らし、その平均年齢は80歳を超える。

この大島では、2010年の第1回芸術祭から、絵本作家で美術家の田島征三さんと、
「やさしい美術プロジェクト」が関わっている。
芸術祭の構想が立ち上がったとき、ぜひ大島でも開催したいと考えた
総合ディレクターの北川フラムさんは、いち早く大島を訪れた。
やさしい美術プロジェクトを手がけるアーティストの高橋伸行さんは、
北川さんに声をかけられ、2007年から大島に足を運ぶようになった。
だが、最初は何をしていいのかまったくわからなかった、と高橋さんは言う。
「何度も来るようになって少しずつ入所者のみなさんと交流できるようになりました。
そこで感じたのは、この島全体が発しているメッセージのようなもの。
でもそれが外に伝わっていないという気がして、
それを伝えていくようなことをやろうと思いました。
僕自身が作品を持ち込んで展示するのではなくて、
この島そのものをきちんと見てもらう。
そういうことに意味があるんじゃないかと思えてきたんです」

田島征三さん作の絵本『海賊』。「青空水族館」では、この海賊と人魚の物語の世界が、空間絵本として展開している。

やさしい美術プロジェクトが大島で取り組む{つながりの家}は、
大きく3つの柱からなる。ガイド、ギャラリー、カフェだ。
芸術祭ではほかのどの島も来島者が島内を自由に見て回るが、
大島ではガイドとともに島を見て回る。
島には入所者の居住区域もあるので、そういった配慮もあるが、
島の歴史を知ってもらい、見てもらうという意図がある。

来島者はまず、ここで亡くなっていったたくさんの入所者の遺骨を納める
納骨堂で手を合わせ、その魂を弔う「風の舞」というモニュメントを訪れる。
このガイドを担うのが、芸術祭のボランティアサポーターである「こえび隊」。
周辺地域の若い世代がその役割を担うことにも、大きな意味がある。

ギャラリーでは、亡くなった方の遺品や、捨てられていたものなど、
大島のさまざまなものを集めて展示している。
それらは単に資料としての展示ではない。
「資料的な価値があるかはわからないけれど、
僕らアーティストにとっては、何かを感じとらせてくれるもの。
そこで生きてきた人の息づかいや記憶、暮らしぶりが見えてくるようなものです」
と高橋さん。入所者の人たちが、昭和30年代に
園の許可をとってつくったという船なども展示している。

全国のハンセン病療養所には必ずある納骨堂。亡くなっても自分の家に戻ることのできなかった人たちのお骨が収められている。

1992年に1000人のボランティアによって建てられたモニュメント「風の舞」。魂が風に乗って自由に解き放たれるよう祈りを捧げる。

そして「カフェ・シヨル」は、来島者、入所者、療養所の職員などが
分け隔てなく集まる場所。高橋さんと一緒に活動する女性ふたりが運営する。
芸術祭会期中の土日、会期外も月に1度営業して、ランチやお菓子を提供している。
島には戦時中の食糧難の時代に、入所者たちが開墾した畑があり、現在も作物がとれる。
それらの野菜や果物を素材にとり入れ、ふたりが工夫して毎月メニューを考案。
とても評判がよく、ランチ目当てに島外からやって来る人もいるという。

ここで出すお菓子「ろっぽう焼き」は、かつて大島でつくられていたお菓子。
ルーツは大島にはないが、あんこをうどん粉で包んで焼いた焼菓子で、
これがおいしかったと懐かしそうに話す入所者が多く、再現してカフェで出すことにした。
「これは大島の人たちが自分たちの暮らしのなかで育んできた
小さな、知られていない文化。単なるお菓子ではなくて、
食べて味わうことで、入所者のみなさんの記憶を共有するという作品なんです」
島の外の人と入所者が一緒にお茶を飲んだりできるような場所が、それまではなかった。
カフェ・シヨルは2010年の芸術祭後も月に1度営業し、定着してきた。
準備期間も合わせると、月の半分くらいは大島にいるという彼女たちは、
入所者にもすっかりおなじみの存在だ。

空き室を利用してつくられた「カフェ・シヨル」。シヨルという名は「~しよる(する)」という香川県の方言から。

あんこをうどん粉で包み、六面体にして焼いた「ろっぽう焼き」。(写真提供:カフェ・シヨル)

見て、知って、感じて帰ってほしい。

大島自治会長の森和男さんと副会長の野村宏さんは、ふたりとも60年以上ここで暮らす。
当初は芸術祭や現代アートといっても、まるで見当もつかなかったという。
「そんなことをしてお客さんが来るんだろうかと半信半疑でした。
始まってみたら関東や九州から来る人も多い。まさかこんなににぎやかになるとは」
と野村さん。
なかには大島が療養所の島だということを知らずに来る人もいるが、それでもいい。
森さんは「これまでこの島は知られていなかったに等しい。
芸術祭の作品を見に来ることによって、大島の認知度が上がる。
たくさんの人が来てくれるのはいいことだと思います」と話す。

野村さんは高知県出身。大島に作品を展示している田島征三さんは
高知に疎開していたことがあり、年齢が近いこともあって、意気投合したのだそう。
「田島先生も高橋先生も、よくわからないものをいっぱい集めてきて展示したり、
突飛というか、我々が全然思いつかないようなことをされます。
こえび隊の人たちもたくさん手伝いに来て、みんな暑いのにようやるなと思います」
と楽しそうに笑う。アートなんてわからん、と言いつつ、やっぱり楽しいのだ。

野村さんが入所した昭和27年当時は、入所者は700人もいた。
けれどそれに対して介護する職員はたった20人ほど。
人手が足りないので、比較的症状の軽い軽症者が
さまざまな作業をしなければならなかった。
家や道路を直したり、畑仕事をしたりと、
半分、軽症者によって療養所が運営されていた時代もあったのだ。
また生活だけでなく、医療までもが隔離されていた。
らい予防法が廃止されるまでは、病気になっても
外の病院で治療を受けることもできなかったという。

ふたりはこれまで多くの仲間たちの死を見てきた。
「もっと早く法律が廃止になっていれば、こんなにも差別に苦しむことなく、
もう少し楽だったんじゃないかと思います。
いつのまにか年月が過ぎてしまいましたが、あまりにも長かった」と野村さん。
森さんも「芸術祭をきっかけに来てくれた人が、大島のことを知って、
何かを感じて帰ってくれるんじゃないか。それが大事なことだと思います」
と話してくれた。

野村さんの趣味は盆栽。みごとな鉢がいくつも並び、足を止める来島者と会話を交わすきっかけにもなる。

入所者たちが釣りをするために、庵治町の漁師につくってもらった船。あまり遠くまで行くことは許されなかったが、つかの間の解放感を味わったに違いない。下からも見上げて鑑賞できるようになっている。

船の下を掘ったときにできた土の山を、高橋さんのアイデアで畑に。トマトやすいかもたくさんできたという。

ここで暮らす人たちにとって当たり前のものが、実は当たり前じゃないんだと、
外の人間だから言えることがある、と高橋さんは語る。
「いままで入所者がとるに足らないと思い込んでいたものをあえて展示し、
大島を訪れた人々がそれらをじっと見つめる。
入所者のみなさんはその光景を見ていると気持ちが変わります。
誰にも見てもらうことがないと思っていた、自分たちの使ってきた生活用具などに
ほのかに刻まれた痕跡のようなものを、涙を流しながら見て感じてくれる人がいる。
そうすると、自分たちの生きてきた時間や記憶に、それまでなかった価値が与えられて、
少しずつ、生き抜いてきた自身への誇りが芽生えているように思います。
人としての存在価値さえ認めない隔離政策がとられてきたけれど、
そこには悲しみがあり痛みがあり、そして喜びもあったのだと。
つぶさに見ていくと、大島にあるどんな些細なものにも、
その背景には、ここで生きてきた人たちのストーリーがあるんです」

展示されているもののなかには、生々しくショッキングなものもある。
かつて実際に大島で使われていた解剖台だ。
浜辺にうち捨てられていたものを引き上げて、前回の芸術祭から展示している。
どのように、何を目的に解剖が行われたのかは、
詳しい調査が進んでいないのでわからない。
そのうえで展示するのはどうかという指摘もあるが、
実際に解剖台の上で遺体を洗ったり、
解剖の終わった遺体をお棺に移した経験のある入所者は多いそう。
高橋さんのなかでもまだ結論は出ないが、
これも島の歴史を伝える象徴的なものであることは確かだ。

高橋さんは、自身もだんだん島に溶け込んでいったせいか、
芸術祭によって島が大きく変化したとはあまり感じていなかったが、
森さんたちの口から、芸術祭から島が変わってきたんだという言葉を聞いた。
「たしかに、いまは僕やこえび隊の人が大島にいると、
久しぶりだね、なんて入所者の方がふつうに声をかけてくれます。
大島を訪れるようになった頃はそんな雰囲気ではなかったので、
いま思えばゆっくり変わってきたんですね。
部屋から出ることのなかった入所者の方が、カフェに行ってみたいと、
それを励みにしてお店に来てくれる方もいて。
そんなことがあるとすごくうれしいですね」

展示されていた碁盤。囲碁や将棋は入所者たちの数少ない娯楽のひとつ。手が不自由な人はスプーンをうまく使って碁石を並べたそう。

ハンセン病療養所には、歌集や詩集を自費出版していた歌人や詩人が多くいた。それらの本を集めていた入所者の蔵書も展示されている。

コンクリートでできた解剖台。浜から運び上げるときに割れてしまった。

高橋さんは、大島以外でも「やさしい美術プロジェクト」を各地で展開している。
もともと彫刻作品をつくっていたが、立体作品をつくる際に
空間や場所との関わりに目をつけることが多くなり、やがて人との関わりや、
人の背景にある地域や歴史も見つめながら作品をつくることを考えるようになった。
また兄を病気で亡くし、自身も交通事故で入院した経験から、
病院という場所で表現のかたちを探れないかという構想を持つようになった。
現在は、病院の緩和ケア病棟や老人福祉施設、
障害を持つ子どもが通園する施設などでプロジェクトを展開している。

「病院にいる人たちは楽しいことよりも、
辛い、苦しい、痛いということがほとんどです。
だからこそ意識から遠のかれてしまいがちですが、
あえてそういう場所から出発してみたい。
人の痛みを感じるというのは人間に備わった大切な能力だと思うんです。
人の痛みを感じることから始めて、何かをつくり出していく。
そういう創造性の積み重ねをしていくプロジェクトです」

大島で暮らす人々はみな高齢で、入所者は年ごとに少なくなっていく。
やがて誰もいなくなるという現実をしっかり見つめて、
この島をどうしていくかは今後の大きな課題だ。
「いまのうちにみなさんにできるだけいろいろなお話をうかがって、
何らかのかたちで継承していきたい。そのためにはまず、
たくさんの人がこの島に関わることが大事だと思います。
ここで生きてきた人たちのことを、僕たちは絶対に忘れない。
いまこの瞬間も、そして将来にわたっても、
この島を多くの人々が訪れる島にしたいという願いを持つ入所者がおられます。
これからもそこにずっと関わっていきたいと思っています」

やさしい美術プロジェクトは、美術という枠組みを超えた、
人と人とのつながりから何かが生まれていくような営み。
これが瀬戸内国際芸術祭の真のねらいではないだろうか。

娘さんと一緒に島を訪れていた高橋さん。「やさしい美術プロジェクト」はこれからも各地で続いていく。

profile

NOBUYUKI TAKAHASHI
高橋伸行

1967年愛知県生まれ。アーティスト、「やさしい美術プロジェクト」ディレクター、名古屋造形大学教授。彫刻作品を発表し、個展やグループ展に参加する傍ら、2002年から「やさしい美術プロジェクト」を開始。愛知県厚生連足助病院や新潟県十日町病院などで活動を続ける。
http://gp.nzu.ac.jp/

information

Setouchi Triennale 2013
瀬戸内国際芸術祭 2013

秋会期 10月5日(土)~11月4日(月)
会場 瀬戸内海の12の島+高松・宇野(直島、豊島、女木島、男木島、小豆島、大島、犬島、沙弥島、本島、高見島、粟島、伊吹島、高松港・宇野港周辺)
http://setouchi-artfest.jp/

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