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母の遺影

児島元浜町昼下がり
vol.010

posted:2015.1.13  from:岡山県倉敷市  genre:暮らしと移住

〈 この連載・企画は… 〉  コロカル伝説の連載と言われる『マチスタ・ラプソディー』の赤星豊が連載を再開。
地方都市で暮らすひとりの男が、日々営む暮らしの風景とその実感。
ローカルで生きることの、ささやかだけれど大切ななにかが見えてくる。

writer's profile

Yutaka Akahoshi

赤星 豊

あかほし・ゆたか●広島県福山市生まれ。現在、倉敷在住。アジアンビーハイブ代表。フリーマガジン『Krash japan』『風と海とジーンズ。』編集長。

母が脳梗塞で入院したのは2004年の9月末だった。
朝、電話で知らせを受け、すぐに新幹線で岡山に向かった。
入院先の病室に入ると、母はベッドで半身を起こした状態でまっすぐぼくを見た。
久しぶりに会うぼくの顔を見ても喜ぶでも驚くでもなく、
顔にはベニヤ板が張りついたようで表情というものがまるでなかった。
命には別状がなかった。でも、母は右半身に麻痺を負っていた。
言葉も思うように出てこない。
しかしそのときは、「こういうのってリハビリで結構治ったりするんじゃないの?」
とお気楽に考えていて、
まさかその後10年以上にわたって介護生活を送るなんて思いもしなかった。

かなり早い時期から、ぼくは母の介護態勢のなかで重要なポジションにいた。
入院の付き添いからしてそうだった。
月曜日から木曜日の4日間を父が病室に寝泊まりし、
金〜日曜日の3日間をぼくが泊まった。
ほぼ毎週、東京から金曜日の午後に新幹線で岡山に戻り、
月曜の朝に東京に戻る(その3日間は実家に帰ることはまずなく、
ずっと病室で母と過ごした)。
そんな慌ただしい生活を母が退院する12月まで約3か月続けた。
退院後は自宅での介護に切り替わるわけだが、
病院での付き添いがそうだったように、
母の介護態勢について家族で話し合うようなことは一切なく、
ぼくのポジションはそのままなしくずし的に継続となった。
でも、なしくずし的ではあったが、それはぼくが自ら選びとったポジションでもあった。
母は善い人だった。なにより善き母だった。

母は昭和4年、香川県の丸亀市で生まれた。
実家はうちわづくりをして生計をたてていた。
姉がふたりに妹が4人、兄弟も4人いた。総勢11人の兄弟姉妹。
家は相当に貧しかったが、にぎやかだったに違いない。
丸亀の女学校を出て、高松の看護学校を卒業した後、
看護師として自衛隊に入隊した。
いくつかの赴任地を経て、広島県の福山に赴く。そこで隊員の父と知り合った。
知り合ったのは、父が自衛隊を除隊するまさにその日の朝だった。
父は結核治療のため、実家のある倉敷の病院に向かってそのまま入院する予定だった。
同僚の隊員に見送られ乗り込んだバスに夜勤明けの母も偶然乗り込んだ。
そのバスのなかでどんなやりとりがあったかまでは知らない。
除隊していく部下へねぎらいの言葉をかけ、
そこから話が発展して「お茶でも飲んで行く?」と母の方から言ったのかもしれない。
七歳年上の母から見れば二十歳そこそこの父は異性として意識するには幼すぎた。
でも、母にまったくその気がなかったとも断言できない。
というのも、父はとんでもなくハンサムだった(悲しいかな、ぼくは母親似である)。
そのあたりの母の心情はいまとなっては薮のなかなのだが、
いずれにしても父を家に上げた時点で母の運命は決まってしまった。
命運が尽きた、と言い替えることもできる。父は母と違って善の人じゃない。
かといって、純粋に悪というわけでもないのだけれど、とにかく行動が尋常じゃない。
若かりし頃の父をあえて一字で記すなら、「狂」の人だった。

父はその日から母の家に強引に居座り、帰ろうとしなかった。
いったん倉敷の病院に入院はするものの、
病室を抜け出しては福山にいる母の下宿に舞い戻った。
倉敷にいる父の兄や従兄弟が福山まで行って実家に帰るように説得したが、
父は頑として受けつけなかった。
そんな父に対して、母は「好きなようにしたらいい」と言ったという。
ほどなくして籍を入れ、その報告にと父は倉敷の下津井にある実家に母を連れて行った。
当時、家で絶対的な権力をもっていた父の祖母は、ふたりに「帰りなさい」と言った。
正面の玄関からではなく、裏の勝手口から。事実上の勘当のようなものだった。
その当の祖母が亡くなった後は勘当も解かれているはずなのだが
(父の両親は実に穏やかで優しい人たちだった)、
当時受けた仕打ちを父はいまも忘れていないようで、
いまだに本家とはぎくしゃくした関係をつづけている。
ともあれ、母は父と一緒になったせいでしなくていい苦労をいやというほどした。
本家との間の気まずい関係もそのひとつに挙げていいと思う。

夫婦にとって激動の昭和三十年代。
その半ばに待望の第一子である兄が生まれた。父が24歳、母は31歳だった。
そして3年後に次男のぼくが生まれた。ぼくが生まれた当時、父は無職だった。
数か月前まで福山の建設会社に勤務していたが、
労働争議に巻き込まれて解雇されていた。
しかし、ぼくが生まれても家事を手伝うでもなく、
朝から家を出ては映画ばかり見ていた。
幼い子供たちの世話に追われる母のもとには、
4人いる妹のひとりが泊まりこみで手伝いに来ていた。
そしてぼくが1歳にもならないとき、一家は丸亀に移り住む。
住んでいたのは精肉店の2階で、
いつもコロッケを揚げる油の匂いがたちこめていたらしい。
丸亀には約2年いた。
それから、従兄弟の口利きで父が倉敷のバス会社で運転手の職を得て、倉敷の児島に移った。
丸亀から児島を結ぶフェリーを一家4人で降り立ったときの写真がある。
3歳になるかならないかのぼくが兄と一緒に笑っている。父と母も笑っている。
家族みんなが新しい生活に胸を躍らせていた。

児島での二十年間、母はぼくと兄を育てるためにすべてを捧げた。
趣味らしい趣味はもたなかったし、洋服や宝飾品にお金を遣うこともなかった。
旅行にも一切行っていない。
日々の家事をこなすだけでなく、
看護師として毎日ひたすら働いて一家の生計の柱となり、
貧しいなりにぼくら兄弟にはなにひとつ不自由な思いをさせなかった。
勉強しなさいなんてただの一度も言われたことがない。
ぼくの思い出しうるかぎり、なにかを禁止したり、
強制するようなことも一切なかった。甘いといえば甘かった。
原付免許をもっていることがバレて高校から呼び出されたときも
「そんなことでなあ」と笑っていたし、
ぼくが「しばらく旅に出ます」と書き置きして、
家のお金を持ち出して家出したときも、
翌日しらっとした顔で帰って来たら「お帰り、カレーあるけど食べる?」と
なにごともなかったように家に入れてくれた。
堅実で保守的ではあったけど、リベラルな面をもちあわせていた。
なにより、明るかった。
こうした母の性格には丸亀の家庭環境と温暖な気候が関係しているとぼくは思っている。

そんな母がぼくに一度だけ頼みごとをしたことがある。
小学校の教員をしている兄が
大腸の病気で数年にわたって入退院を繰り返していた頃のことで、
ぼくが正月休みに帰省していたときだ。
やせ細った兄を見舞った後、
母はぼくの目の前でぼろぼろ涙をこぼしながら一言、「帰ってきてや」と言った。
ぼくはなにも言えなかった。母もそれ以上なにも言わなかった。

昨年の秋になって、母は施設から病院に移されていた。
母の喉は切開され、そこに円柱のプラスチックの呼吸器がとりつけられていた。
両の底の部分から苦しげな呼吸音が漏れる。
喉を切開しているから声は一切出ない。
不規則に空気の漏れるヒューヒューという音が聞こえるだけである。
父もタカコさんも、母の病室に行くといつも目を閉じて眠っていると言う。
目を開けてもどこを見ているかわからないと言う。
でも、ぼくがひとりで病室に入っていくと、
うつろではあるが目を開けてまっすぐぼくを見た。
ぼくにはわかっていた。母がぼくに言いたかったことはひとつだけだ。
早く逝かせてほしい、と。
でも、その願いにもぼくは応えることができなかった。

2014年12月22日午後2時18分、
入院先の病院で母は亡くなった。享年85歳だった。

母にとってこの十年は苦しいことばかりだった。
いっそのこと、脳梗塞を起こしたあの日に亡くなっていたら
母はどんなに楽だったかと何度思ったかしれない。
この十年は母になんの意味があったのか。
でも、父にしてみれば、この十年があってはじめて善き夫になれた。
母はそのチャンスを父に与えた。そしてぼくには家族を与えてくれた。
母は最後まで自分を犠牲にして、父とぼくをまっとうな道に引き上げてくれた。

2004年に母が入院していた当時のこと。
東京から毎週末に帰って来ていたぼくは、
月曜日の朝に病院を出て児島駅を発車する瀬戸大橋線の電車に乗って岡山に向かった。
列車がホームを出てほどなくして、母の入院している病院の前を通過すると、
きまって父と母がふたり並んで病室の窓から手を振っていた。
電車は相応に混んでいるし距離もあるので、父と母にぼくの姿は見えていない。
にもかかわらず、
あたかもぼくが見えているかのように電車が見えなくなるまでずっと手を振っていた。
ふたりのその姿をはじめて見たときからぼくにはわかっていた。
母が亡くなって、思い出すのはあのときの姿だと。

遺影には5年前に父と一緒に家の前で撮った写真を使った。
数年ぶりに写真を見た。記憶していたよりも、母はずっと笑顔だった。

※著者・赤星 豊さんご尊母のご訃報に接し、コロカル編集部一同、謹んで哀悼の意を表します。

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