〈天理駅前広場
CoFuFun(コフフン)〉
佐藤オオキデザインによる
古墳モチーフの広場が
フフン〜♪とオープン!

Photo : Takumi Ota

現代の古墳が誕生!〈天理駅前広場 CoFuFun(コフフン)〉

2017年4月、奈良県北中部にある天理駅前に
〈天理駅前広場 CoFuFun(コフフン)〉がオープンしました。

駅を降りると、目の前に芝生が広がり、不思議なかたちをした建物群が……
ここが、このたび完成したコフフン!

コフフンのメインエリア

Photo : Takumi Ota

円形の不思議なかたちが点在する広場のデザインを手がけたのは、
佐藤オオキさん率いるデザインオフィス〈nendo〉。

nendoがデザインのモチーフに選んだのは「古墳」でした。

ユニークなのは、古墳の使い方。
こうして建物にのせると大きな屋根に!

インフォ&ラウンジコフン

〈インフォ&ラウンジコフン〉Photo : Takumi Ota

逆さまにすると、まるで宇宙船のようなかたちに。

屋上に巨大トランポリンがある〈ふわふわコフン〉

屋上に巨大トランポリンがある〈ふわふわコフン〉Photo : Takumi Ota

古代大和時代にヤマト王権が形成された地、天理市には、
古くから連綿と続いてきた暮らしがあります。
市内には、なんと約1600基もの古墳が残っているのだそう。

その古墳のかたちを組み合わせ
起伏に富んだランドスケープをつくることで、
山々に囲まれた奈良盆地の地理的特徴を表したのだとか。

「古墳が複数の役割を果たし、まるで全体がカフェであり、
全体が遊具であり、全体が大きな家具に感じられるような、
そんなゆるやかな空間。
この広場はみなさんに自由に使っていただくのが正しい使い方です。
よそいきの時間じゃなくて、どんどん使ってどんどん関わっていただき、
日常のものにしていただけたら」とnendoの佐藤さん。

ふわふわコフン

Photo : Takumi Ota

コフフンという名前は、モチーフである古墳と、
思わず「フフン〜♪」と鼻歌を歌いたくなるような
心地良さを提供したいという気持ち、
そして市民のみなさんが「フフンッ」と自慢できるような
場所となってほしいという思いからつけたのだそうです。

このプロジェクトは、天理市が
天理駅前からにぎわいを広げていくため
3年前から進めてきたプロジェクト。
以前の駅前には人が憩う場がなく、少々寂しい場所だったそうですが、
コフフンオープン後は、駅前に子どもからお年寄りまでが集い、
とてもにぎわっています。

おじいさんおばあさんと、 僕たちをつなぐ祭りを。〈OKAZAKI LOOPS〉 高木正勝さんインタビュー 

京都の都心部から東へ、平安神宮のある辺り。鴨川の東に広がる、岡崎エリア。
家並みの向こうには京都と琵琶湖を隔てる如意ヶ岳が見え、
春は若い葉や山桜の色に、秋は紅葉の色に染まる。

平安時代に大規模な寺や貴族の別邸が建てられたこの辺りには
いまでも多くの寺院や遺構が残り、また、明治、昭和に建てられた近代建築も多く存在する。
2015年にはそうした景観が評価され、京都市内では初の国の重要文化的景観に選定された。

映像作家・音楽家の高木正勝さんは京都生まれ、京都育ち。
子どもの頃は、岡崎の山や小川で遊んでいたという。
高木さんは今年、岡崎で開催される音楽祭
〈OKAZAKI LOOPS(オカザキループス)〉(2016年9月3日・4日開催)の
ディレクターに就任した。
今回は同祭のメイン会場となるロームシアター京都にて、
暮らしのこと、音楽祭のことについて話をうかがった。

住宅地と山のあいだ

「僕の祖父は、岡崎の南禅寺近くにあるお寺の住職なので、
岡崎は馴染みのある地域です。
最近はロームシアター京都がオープンして人通りが増えましたが、
昔はもっと静かなところでしたね」

以前の岡崎は、都心部から少し離れていることもあり、
京都の人でもなかなか立ち寄る機会のないエリアだった。
明治以降に西洋の流れを取り入れた建物が次々と建てられた岡崎は、
京都のなかでも際立った地域だったらしい。

そこへ2016年1月、まちに回遊性を生み出す文化施設として
ロームシアター京都がリニューアルオープンし、人の流れが変わりだしているようだ。

琵琶湖の水を引く琵琶湖疏(そすい)沿いにはロームシアター京都(写真)や京都市美術館、京都府立図書館などの近代建築が建っている。2016年1月に京都会館から新しい文化施設へと生まれ変わったロームシアター京都の敷地内には二条通から冷泉通までを行き来するプロムナードが開通し、レンタサイクルや蔦屋書店なども入っている。利便性を高め、まちに回遊性を生み出すこころみだ。

岡崎にゆかりのある高木さんだが、子ども時代を過ごしたのは京都の中西部に位置する亀岡市。
そして3年ほど前から、かねてより憧れていた昔ながらの田舎暮らしを始めた。

「もし日本の住環境を都会、郊外の住宅地、
自然に根ざした地区の3つに分けるとしたら、
郊外の住宅地のようなところで育った人たちが一番多いんじゃないかと思います。
僕が育ったのも新興住宅地で、同じような家が並んでいました。
昔ながらの暮らしには、本で読んだり映画を観たり、
よく海外の田舎を旅したりして触れてはいたのですが、
『いつか住んでみたい』と憧れ続けていても仕方がないので、
思い切って兵庫県の山奥に引っ越してみました。
いまのところに暮らし始めて3年になります。
30分ぐらいで歩ける範囲に17軒ぐらいしか家がない、小さな村です。
そこで80、90歳ぐらいのおじいさんやおばあさんたちと暮らしています」

田舎に引っ越して、高木さんは畑を始め、近所づき合いをするようになった。
それ以来、新たに見えてきた世界があるという。

「たとえば村の誰かが困っているときに、自分ならこんなことができるかもしれないとか、
おのずと役割分担が見えてくる。それは自分の仕事を生かす——たとえば僕だったら
音楽で何かするとか、そういうことではなくて、
もっと単純に、同じ土地に住むひとりの人間として、
ただ居るだけで助かるとかうれしいとか、お互いに思い合える生き方を選びたいな、と。
そんな風に考えられるようになったのは、
村の寄り合いや祭りに参加するようになってからです。
村全体が家族のように暮しているところに住まわせてもらっていて、
近所の家に何かあったら自分の家の環境も変わってしまう——みたいな感覚なんです。
以前の生活では、隣の家や町内のことを考えたことがなく、
自分の家だけで完結していたんですよ。
いまは心から愛おしく思える土地と人に出会えて、
世の中ってこういう風に回っていたんだ、ということがようやく見えてきました」

一番近くにあるご近所さんのお宅にて、しずさん(97歳)と。

また、自然を見る目も変わった。

「前は山を見ていても“山”としか見ていなかったんですけれど、
いまはあそこは誰々の山だとか、何が植えてあるとか、
ここはそんなに植林をしていないなとか、いろんなことを思います。
植林をしているところは、畑を見ているような気分にもなりますし」

戦後にたくさんのスギやヒノキが植林された日本には、
手つかずの自然と呼べる山はほとんどないといわれている。
そうした森は、間伐や枝打ちをすることで環境が維持される森に
なってしまったため、定期的に手入れをしないと荒廃してしまう。
いま高木さんが暮らしている山は、村の人たちが手を入れ、守り育ててきた環境だ。

自然を守り、寄り添う環境で暮らすうちに、高木さんにも
山で暮らす知恵のようなものが身についてきた。

「現在の暮らしは、蛇口をひねれば水が出てくるじゃないですか。
その水がどこからどうつながって家まで届いているかは、すぐにはわからない。
だから何かあって水が止まったら大変なことになります。
僕の家の裏には山から流れてくる川があって、
そこから村の人たちに教えてもらいながら、自分たちで水を引いてみました。
木もたくさんあるので火を熾せ(おこせ)ますし、畑もやっているので
暮らしに必要なものを、最低限は自分たちでつくっているという安心感があります。
村の人を見ていると、生きていく力がたくましいと思います。
生まれてからずっと山で暮らしてこられたので、
山のどこに何があって、どれが役に立って、何が危険なのか、生きる知恵に溢れています。
とても真似できないこともたくさんありますが、
毎日の暮らしのなかで、少しずつ教えてもらっています」

日本一のサンゴの海から みんなの想いでサンゴを育てる 〈3935プロジェクト〉スタート!

沖縄本島から飛行機で石垣島へ向かうとき、
その日の航路によっては、
海のなかにサンゴ礁が見えるかもしれない。

晴れの日に下を見下ろしていると、
海の色が濃い青からエメラルドグリーンに変わり、
徐々に透明になっていく。

その浅瀬に涼しげな影を落としているのがサンゴ礁だ。
海のなかのサンゴは黄色とも緑ともいえない、とてもきれいな色をしている。
光とサンゴと、サンゴに住む生きものたちが織りなす不思議な色だ。

2016年春、以前〈石垣島 Creative Flag〉という
クリエイターの力で島を盛り上げるプロジェクトの
取材でお世話になった離島経済新聞の編集長、鯨本あつこさんからメールが届いた。
それによると、石垣島で“みんなの想いでサンゴを育てる”3935(サンキューサンゴ)という
プロジェクトが始まったということだった。

近年では、沖縄をはじめ世界中の海でサンゴが危機にさらされている。
1997〜1998年にかけて世界的に起きた白化現象(※1)、
1980年代以降続いているオニヒトデによる食害、
農地からの肥料・農薬を含んだ赤土、生活排水や畜産排水の流出……
そういったさまざまな影響を受け、サンゴが減少しているという。

石垣島と西表島のあいだには、〈石西礁湖(せきせいしょうこ)〉と呼ばれる
日本最大のサンゴ礁海域がある。
その、マンタなどの多様な生きものたちが住む八重山(※2)の海は、
訪れたダイバーたちが必ずといっていいほど夢中になってしまう、
国内屈指のダイビングスポットでもある。
そんな海に住むサンゴがおびやかされていると聞くと、
遠方に住む私でも危機を感じてしまう。
これは本物を見に行かなくてはと、いても立ってもいられなくなってきた。

※1 白化現象:海水温の上昇により、造礁サンゴと共生する褐虫藻が失われ、サンゴが白くなる現象。白化したサンゴは生命力が衰え、褐虫藻が戻らなければやがて死んでしまう。1980年代以降急激に増加しており、1997年〜1998年には、地球の温暖化によって世界の70%のサンゴ礁に白化現象が起こった。沖縄では2007年にも大々的な白化現象が起きた。
※2 八重山:八重山諸島または八重山列島。日本最南西端の島々が連なる地域の総称。沖縄本島から400キロメートル、北緯24度に位置する。石垣島、竹富島、小浜島、黒島、鳩間島、波照間島、新城島、西表島、由布島、与那国島からなる。

3935ってどんなプロジェクト?

ロゴデザイン:大田守明

3935プロジェクトは、石垣市が八重山漁業協同組合(以下、八重山漁協)の協力を得て
2016年の春にスタートさせたプロジェクト。
3935という名前には、島の美しい自然に対する感謝の気持ち(Thank you=39)と、
サンゴ(=35)という意味が込められている。

サンゴを再生するために必要なことは、気が遠くなるほどたくさんある。
海水温を上げないこと、海をきれいにすること、
赤土が流出しないようにすること——どれも、とても難しく時間がかかることばかりだ。

そこでプロジェクトのみなさんが着手したのが、
海中にサンゴ畑をつくり、サンゴを養殖するという試みだった。

サンゴ養殖畑にサンゴの苗をセットしている様子。

ゆくゆくはサンゴ移植畑を島内外のダイビングショップへ無償で貸し出し、
沖縄の人や観光客にサンゴの苗づくりや植えつけを体験してもらう計画で、
現地ではすでにサンゴが育ち始めているという。

沖縄・石窯天然酵母パン〈宗像堂〉 宗像誉支夫さん みかさん

酵母の息吹と先人の仕事に耳を澄ます

那覇市街から北東へ車を走らせ、約30分。
国道を西へ折れて高台を上っていくと、
やがて道がなだらかになり、畑の向こうに海が見えてくる。
道のかたわらに〈宗像堂〉と書かれた小さな丸い看板を見つけ、
わきの道を下っていくと、風を避けるようにして白い平屋の建物が建っていた。
天然酵母パンの店、宗像堂だ。

辺りには燦々と日がふりそそぎ、がじゅまるの木が生い茂っている。
木のドアを開けてなかに入ると、台の上にずらっとパンが並んでいた。
まだ辺りが暗いうちから石窯に薪をくべ、じっくりと焼かれたパンたちだ。

宗像堂のカンパーニュをかじると、ライ麦のほろ苦さと酸味が鼻にぬける。
クラムは弾力と水分を抱え、噛みごたえがある。
ゆっくりと発酵した生地を石窯で焼いているため、
表面はパリッと、中はしっとりとした、石窯独特のパンに焼き上がるのだ。
このパンの後をひくおいしさが人びとを惹きつけ、カリスマ的な人気を博してきた。
いま、沖縄に数ある天然酵母パン店の先駆けとなったのも宗像堂だ。
今回はこの店の店主、宗像誉支夫(よしお)さんとみかさん夫妻にお話をうかがった。

後列左から時計まわりに〈角食〉〈ライ麦カンパーニュ〉〈アーサチーズパン〉〈やんばるソーセージベーグルロール〉〈くるみ&カレンズ〉〈黒糖シナモンベーグル〉

宗像堂は、現在の場所に12年。
宗像さん夫妻は、パンをつくりはじめて15年になる。
だがふたりには、パン屋で修業をしたり、
パン職人のもとに弟子入りしたりといった期間がないという。
それでなぜ、こんなに味わい深いパンがつくれるのだろう。

「私はもともと、大学院で微生物の研究をしていたんです。
それが縁あってパンづくりを始め、独学で研究し、
いろんな人やものに影響を受けながらパンをつくってきました。
いまでも私たちの研究はずっと続いていて、見えている世界もどんどん変わってきています。
おもしろいと思うのが、やればやるほど昔の人たちのやり方に近づいていくというか、
昔の人たちの高度さを理解することになっていくんですよ。
日本古来の、千年とか1万年という歴史や文化——そういうものを感じながら、
余計なものを削ぎ落とし、ベストを尽くしていくことが大事かな」(誉支夫さん)

沖縄の地で

宗像誉支夫さん、みかさん

誉支夫さんは福島県に生まれて琉球大学の大学院に進み、
微生物発酵液を練りこんで焼いたセラミックスがウイルスの感染を
阻止する方法について研究していた。
みかさんと出会ったのは、ちょうどその頃。
みかさんは奄美大島に生まれて東京で働いた後に沖縄へ移住し、
沖縄音楽のミュージシャン〈ネーネーズ〉のマネージャーをしていた。

「当時の私は、一生研究に携わっていくもんなんだと思っていました。
それでみかさんのお父さんに結婚の挨拶に行った時も、
“微生物の研究所に勤めますのでよろしくお願いします”と、
そういう感じだったんですけどね(笑)」(誉支夫さん)
                
ところが誉支夫さんはほどなくして体調を崩し、研究所を辞めてしまう。
そして、立ち上がれないほど疲弊していた時に出会ったのが、陶芸家の與那覇朝大さんだった。
土にふれると、粘土細工や工作が好きだった子どもの頃の感覚がよみがえり、
「こんなことを仕事にしていけたらどんなにいいだろう」と思った。
当時は、陶器をつくることだけが生きる喜びだった。
それから誉支夫さんは與那覇さんに頼みこんで弟子にしてもらい、陶芸の道に入る。

目の前のことに全力で打ち込んでしまう性格だという誉支夫さんは、
約3年の間、陶芸の仕事に打ち込んだ。
ところが、陶芸の粉塵や釉薬などが原因で喘息にかかり、
仕事を続けることが困難になってしまう。

みかさんは、仕事を辞めたのは病気だけが原因ではなかったと言う。

「修業していくうちに、先生から求められることと、
彼が表現したいことの間にギャップが出てきて。
そのストレスもあったんですよね」

ものをつくる人がしばしばぶつかる壁だ。

「まあ、ものを知らない若者がはまってしまう穴だと思うんですけれど。
そこに見事にはまってしまって(笑)」(誉支夫さん)

〈ありんこ文庫〉 主宰 池城かおりさん

宮古島に図書室をつくる

沖縄の宮古島で〈ありんこ文庫〉という絵本の図書室を主宰する、池城かおりさん。
ありんこ文庫は、宮古島市平良のアパートの1階にある。
赤ちゃん向け、低学年向け、高学年向けの部屋に分かれているものの、
3LDKの間取りに仕切りはなく、棚やソファがゆったりと置かれている。
日の光がさしこみ、車の音のほとんど聞こえない静かな部屋で、
子どもたちが来るのを待ちながら池城さんの話を聞いた。

宮古島 来間大橋 Photo: Chiaki Okuhira

筆者と池城さんの出会いは3年ほど前にさかのぼる。
私は2011年に、那覇の市場中央通りで〈市場の古本屋ウララ〉という古本屋を始めた。
池城さんは2012年、まだ〈ありんこ文庫〉が生まれていないときに、
その古本屋を訪ねてくれたことがある。

「今度、宮古島で絵本の図書室を始めようと思っています」
そんな風に話しかけられたのだったか。
「絵本を仕入れるには、どんな方法があるでしょう」
自分なりに知っていることを説明しながら内心では、
この人、本気かしらと怪しんでいた。
図書室というのはもちろん利益が出るものではない。
志だけでやっていこうというのだろうか。
こちらの勝手な心配をよそに、おそらく私と同年代の(あとで同学年だとわかった)
池城さんは、明るく笑っていた。

図書館が好き

Photo: Chiaki Okuhira

池城かおりさんは、ありんこ文庫のある宮古島市で生まれ育った。
子どものころは公民館や小学校の図書室に通い、科学の本を読みあさった。
高校のときにレイチェル・カーソンの『沈黙の春』に出会い、
環境問題に関心を持つようになって、大学は理系学部を選んだ。

「初めての東京で寮に入ってアルバイトもして、楽しく過ごしました。
ただ、自分には研究者としての適性がないことも思い知らされました。
子どものころから好きな分野だっただけに、苦しかったですね」

研究職に就くことをあきらめて、さて、この先どうするか。
教職をとったり、一般企業の採用試験を受けてみたりと試行錯誤を続けるうちに、
子どものころから通っていた図書館のために働きたいと思うようになった。

ある日、司書講習の実習の課題でウェブを検索していたら、
日本科学未来館の求人が出てきた。
図書館の司書は狭き門だから、まずは社会人になって経験を積んでおこう。
池城さんはお台場の日本科学未来館で、
解説や企画を担当するサイエンスコミュニケーターの仕事を始めた。

「科学館の役割は、科学の魅力を伝えて、相手の好奇心に火をつけることです。
探究心があれば、あとは自分で学んでいける。
家に帰ったら、地元の図書館で調べてほしいと思っていました」
科学館にいながら、池城さんの視線の先にはいつも図書館があった。

5年の任期を終えて、28歳になった池城さんは再び岐路に立つ。
いずれ宮古に戻ろうと決めてはいたものの、島で自分に何ができるかわからない。
そんなとき、宮古島の新聞社が主催するエッセイのコンクールに応募した。
宮古島に帰ったらやってみたいことや島への思いを、素直に書いた。

「入賞しなかったら帰るのやめようと思っていたら、優秀賞に入って。
私の思いが審査員の誰かの心を動かしたのなら、
帰ってもいいのかな、と感じられました」

絵本の図書室をつくる

来間島 長間浜 Photo: Chiaki Okuhira

2008年、池城さんは宮古島に戻り、少しずつ自分の仕事を探っていった。
地元の新刊書店でアルバイトもした。
「児童書の担当をしたのですが、本は商品だから、管理が優先になるでしょう。
思う存分、読ませてあげたいって思いました」
その思いから、2009年に〈はじめまして絵本プロジェクト〉を始めた。
島内外からの募金で絵本を購入して、島の赤ちゃんひとりひとりにプレゼントする。
池城さんが中心となってボランティアグループを結成し、いまも活動を続けている。

池城さんをこのような活動に向かわせたのは、宮古島の図書館の厳しい現状だった。
宮古島に帰ったとき、島には市立図書館が2館と、県立図書館宮古分館があった。
市立図書館は狭く老朽化しているため、2013年に新館が開館する予定だったのに、
2009年に突然、計画が白紙となり、その後計画は再検討に入っている。
さらに2010年には県立図書館の宮古分館が廃止されてしまった。
「すごくショックでした。私にとって図書館は、
電気や水道やガスと同じ、生活に欠かせない存在なのに」

調べてみると、市立図書館の利用カードを持っている市民は2割弱。
特に気になったのは6歳以下の利用状況だった。
「図書館の新設が延期されたのには、相応の事情もあるでしょう。
でも、子どもの成長は待ってくれません。
宮古島の子どもたちの多くは10代で島を離れます。
知らない土地で暮らすとき、図書館の使い方を知っていたらどれだけ心強いか。
自分でできる範囲で、いまの子どもたちのために何かやってみたいと思いました」

どんな子も気軽に来られるように、無料公開の図書室をつくりたい。
でもどうやって?
そこをあと押ししてくれたのが、クラウドファンディングだった。
インターネットを通じて、活動への支援金を集める方法である。
まずは友人や知人、元同僚などに支援をお願いすると、
その人たちがSNSなどで呼びかけを手伝ってくれて、どんどん輪が広がった。
おかげで2012年11月、見事に目標額を達成。
翌年の春、全国から寄せられた資金で絵本を揃えて、ありんこ文庫は開室できた。
所蔵する絵本のなかには、支援者が子どもたちに読んでほしいと
推薦した作品も並んでいる。

個人スポンサーが推薦した絵本の巻末には推薦者の名前が記載される。約600冊の蔵書のうち、52冊はスポンサーが薦めた作品たちだ。名前を見つけることが楽しく、興味津々でページをめくる子もいる。

私も少額ながら2年にわたってスポンサーとなり、
2冊の絵本をありんこ文庫に入れてもらった。
お金を通じて関われるのは、遠くから応援したい側としてもありがたい。
また、ありんこ文庫のブログでは個人スポンサーの人たちからのメッセージや、
推薦された絵本のリストを見ることができる。
全国から寄せられた応援コメントを読み、絵本のタイトルを眺めていると、
たくさんの人が宮古島のありんこ文庫に期待しているのが感じられて、
こちらまでうれしくなる。
ありんこ文庫は現在もスポンサーを募集している。
興味をもたれた方は、下のサイトから参加してみてはいかがだろうか。

ありんこ文庫の個人スポンサー受付専用サイト

ありんこ文庫の時間

Photo: Chiaki Okuhira

話を聞いているあいだ、何人かお客さんがやってきた。
4歳の男の子は、来るなり奥の部屋に駆けこんで、畳の上に絵本を広げた。
力を入れすぎたのかページがバリッとはがれ、お母さんが真っ青になる。
「大丈夫ですよ、直せますから」
にっこり笑って補修を始めた池城さんを、男の子が下からおずおずと覗きこむ。
「心配いらないよー」
明るい声に安心したのか、男の子は「お茶、お茶」と声をあげ、
池城さんに入れてもらったさんぴん茶を飲みほした。

1歳4か月の女の子は次々に本を引っぱりだし、テーブルに積み重ねていく。
お母さんは、女の子がお腹にいるときからここに来ていたという。
「絵本が好きなんです。私は関東の出身で、向こうでは本屋によく行っていました。
この子はまだ公園に行ってもうまく遊べないんですけど、ここは落ち着けますね」
先に来ていた男の子は、小さな女の子に絵本を渡したりそっと抱っこしたり、
まるでお兄ちゃんのようにふるまった。

その様子を眺めていたら、別の女の子が私のほうに絵本を持ってきた。
読み聞かせているうちに男の子も近づいてきて、みんなで読んだ。
こんなふうに本を読ませてくれて、
私もありんこ文庫の仲間に入れてもらえたようでとてもうれしかった。

Photo: Chiaki Okuhira

〈レフェルヴェソンス〉シェフ 生江史伸さん

活気、泡、生み出す、人々を集わすなどの意味がある
フランス語のことば〈L'Effervescence(レフェルヴェソンス)〉。
東京の表参道に、このことばを冠したレストランがある。
店名には“人々が集い、元気になれる場所を創造していきたい”という思いがこめられている。
今回はこのレストランのエグゼクティブシェフ、
生江史伸(なまえしのぶ)さんにお話を伺った。

生江さんは慶応大学法学部政治学科を卒業後、
東京・広尾にあるイタリアンレストラン〈アクアパッツァ〉で
フロアとして働きながら基礎を学んだ後、2003年に北海道の洞爺湖へ。
フランスに本店があるレストラン〈ミシェル・ブラス トーヤ ジャポン〉で
シェフとして働きはじめた。
その後、本店での研修を経て2005年よりスーシェフ(副料理長)に就任。
2008年にはイギリスへ渡り、イギリスのレストラン情報誌によるランキング
〈世界のベストレストラン50〉のNo.2に入っていたレストラン
〈ザ・ファットダック〉で働きはじめ、この店でもスーシェフを務めた。

日本に帰国したのは2009年のこと。
その翌年、東京の表参道にレフェルヴェソンスを開き、
時季の野草や花、全国各地から集めた食材を使用し、
目にも舌にも新しい、現代的なフレンチを提供。
徐々に評判が広がり、昨年は〈ミシュランガイド東京2015〉の
二ツ星レストランにも選ばれた。

かつては大学で政治学を学んでいた生江さんが、
料理の道に進んだのは、なぜだったのだろう。

「昔からものをつくることは大好きだったのですが、
特別料理に興味がある子どもというわけでもありませんでした。
料理の道に入ったのは、アルバイトがきっかけです。
僕は大学入学と共に自活をはじめたので、当時は夜中にアルバイトをして学費を稼ぎ、
朝方ちょっと寝てから学校に行くという生活をしていたんです。
そうすると、働きながらおいしいものが食べられる仕事のほうがいいじゃないですか(笑)。
それでイタリアンレストランの厨房で働きはじめたんです。
その時に、自分のつくった料理にその場で反作用があるのがいいなと思ったんです。
すぐにお客さんから反応が返ってくる。
そのことに仕事をしている実感を感じたというか、生きている実感がわいてきたといいますか。
僕はわりと目に見えるもの、体で感じられるものじゃないと、
駄目な性格なのかもしれません。
ほかの仕事を批判するつもりはまったくないのですが、
自分がネクタイをして、流れてきた書類に判子を押してお給料をいただく——、
といったような仕事をするイメージはわかなかったですね」

生江さんは相当忙しくない限り、お客さんに言葉をかけることも忘れない。

「最後の料理を出した後に“今日はいかがでしたか?”と挨拶に行きます。
やっぱり、お客さんの反応は直に感じていたいですね。
また、通常のフランス料理店はクローズド・キッチンなんですけれど、
僕らのレストランでは地下のフロアへ行く階段を降りたところで、
シェフたちが手を動かしているところが見えるようになっています。
顔が見える関係でものをつくるのは、いいことだと思いますね」

ミシェル・ブラスに学んだ、自然を生かす料理法

レフェルヴェソンスの料理には各シーズン30種類あまりの野草や、
山菜採りの名人から取り寄せた山菜など、ふんだんに野の野菜を使う。
たとえば春ならカラスノエンドウやノカンゾウ、タネツケバナ、
かたくりの花、ヤブジラミなどといった野草が登場する。
少々意外な、高級店と野の草花の取り合わせ。
そういった感性は、どこで養われたのだろうか。

「自然のものを取り込む料理方法は、
北海道のミシェル・ブラス トーヤ ジャポンにいた時に身につきました。
その店の本店は、フランスのライヨールにある三ツ星レストランです。
ピレネー山脈の高地に近代建築の宇宙船のような建物がぽつんと建っているんですが、
そのような場所で、市場やスーパーに出回らないような、
周りの大地から採れたものをふんだんに使用した料理を提案しているんです。
当時としては、かなり革新的なレストランでした。
その店のことは、たまたまニューヨークの本屋さんで
ミシェル・ブラスの〈Bras〉という料理本を見つけて知ったのですが、
その料理の写真を見た時に“これだ!”と思ったんです。
それからミシェル・ブラスの二号店が北海道にあるということを知り、
日本に戻ってすぐに現地へ飛び、働きはじめました」

ミシェル・ブラス トーヤ ジャポンが入った
〈ウィンザーホテル〉の目の前は海、後ろは山に囲まれた湖だ。
当時は森に入って摘み草をしたり、
山菜やきのこを採ることが日常であったという。
そこで培われた5年間の経験が、いまの料理にも生きている。

ノーマのレネ・レゼピさんからのリクエスト

生江さんは、今年の1月9日~1月31日まで、
日本橋のマンダリンオリエンタル東京の37階にオープンしていた
レストラン〈ノーマ アット マンダリン オリエンタル ホテル 東京〉の
エグゼクティブシェフ、レネ・レゼピさんに日本の食材を紹介した人物でもある。

デンマークのコペンハーゲンに本店があるノーマは、
世界のベストレストラン50に4年連続でNo.1に選ばれた、
世界でもっとも予約が取りにくいといわれているレストランだ。
蟻を使用した料理など、北欧の自然を生かしたおどろきのある料理で知られている。
日本での営業は、彼らのかねてよりの希望だったという。
2013年末、ノーマのスタッフ一行は開店準備のために来日した。
ノーマ・ジャパンにふさわしい日本の食材を探すためだった。

「レネたちは、僕と会う以前にも一度、来日していたらしいんです。
ところが、その時に案内された大手市場や築地市場の素材からは、
彼らが求めるクオリティの素材や、農家さんの熱心さは見えてこなかった、と。
それで彼らが素材のソーシングを手伝う人を探していた時に
何人かの方が僕の名をあげて下さったらしく、僕のところに連絡がきたのです」

かくして、生江さんはノーマ一行の食材探しの旅を先導することになった。
レネ・レゼピさんが最初に生江さんに
伝えた希望は“山が見たい”ということと、
“熱心な農家さんを紹介してほしい”ということ。
そして、“お寺の食事を見たい”ということだった。
肉や魚を使わず、山のもの、海のものの命をいただくという
概念が基本にある精進料理は、彼らにとって興味深いものだったに違いない。

レネ・レゼピさんは4年間かけてデンマーク、スウェーデン、
フィンランド、ノルウェーをくまなく歩いて食材を探し、
その土地土地にある素晴らしい素材を取り込んだ
北欧料理と呼ばれるスタイルを築いた。
彼は日本でも、そういうことがしたかったのだという。

自然を味わう、ノーマ流・食材探し

レフェルヴェソンスと付き合いのある農家〈エコファーム アサノ〉(千葉県八街市)を訪れた際のワンショット。エコファーム アサノの浅野悦男さん、ノーマのエグゼクティブシェフ、レネ・レゼピさん(右から2番目)、Larsさん、Danさんと。

食材探しは、青森県の白神山地に住むマタギを訪ねる旅から始まり、
四国や九州、沖縄の石垣島まで訪れた。
ノーマのシェフたちが特に興味を持った場所は、長野と沖縄。
長野県では古くから受け継がれてきた昆虫食の文化にシンパシーを感じ、
沖縄県の石垣島では、亜熱帯の植物や風土におどろいた。

石垣島を訪れた時、気になる素材を見つけると
その場で味をたしかめる彼らは、
農家で見つけた肉桂の根っこを掘りおこし、口に入れてみた。
肉桂は、クスノキ科の常緑高木だ。根っこの皮は、強い香りと辛みを発する。
彼らはその味を気に入り、ほぼそのままの姿の肉桂が
チョコレートをかけた醗酵きのこと共に
ノーマ・ジャパンの食卓に上った。
彼らの料理は、自然の中にいる時からはじまっていたのだ。

肉桂と発酵きのこ(Petit four: chocolate and cep mushroom and cinnamon branches)Photo: Satoshi Nagare

石垣島 Creative Flag クリエイティブフラッグ

沖縄県の八重山諸島にある石垣島にて、
島の創造力(Creative)に旗(Flag)を立て、
国内外に発信するプロジェクト「石垣島 Creative Flag」がはじまっている。
これは、石垣市の主催で2013年の秋からスタートした、
島のデザイナーやイラストレーター、カメラマン、編集者などを集め、
クリエイティブの力で島を盛り上げていこうという取り組みだ。

そして2014年の秋、同プロジェクトにて新しいスクールが開講した。
その名も「石垣島Creative Labo」。
このラボでは、国内外で活躍するクリエイターを招き、
島のクリエイターを実践的にバックアップする
ワークショップなどを行っていくという。
石垣島には、どんなクリエイターたちがいるのだろう?
2014年12月、銀河ライター/東北芸術工科大学客員教授の河尻亨一さん、
「まちづクリエイティブ」の寺井元一さん、
小田雄太さんが講師をつとめるワークショップの現場を訪ねた。

石垣島の自然と現役クリエイターが先生!「石垣島Creative Labo」

2013年3月に新しく開港した「南ぬ島 石垣空港」空港に着くと、
なんと現地は冬でも暖かだ。
道端にはハイビスカスが咲き、あちこちにガジュマルやヤシの木も生えている。
沖縄本島の南西約400kmに位置する石垣島は、熱帯の島なのだ。

ワークショップ会場は、商店街の真ん中にある「まちなか交流館 ゆんたく家」。
会場には石垣市企画政策課の宮良賢哉さん、
タウンマネージメント石垣の西村亮一さん、
離島経済新聞の鯨本あつこさん、小山田サトルさん、多和田真也さんら、
このプロジェクトの立ち上げ時から支えてきたメンバーの皆さんが揃っていた。

まずは石垣市企画政策課の宮良さんに
このプロジェクトを立ち上げた経緯についてお話を聞いた。

石垣市企画政策課の宮良賢哉さん。音楽が好きで、DJ マルセイユという名前でDJとしても活動しているそう。

宮良「僕自身、もともと音楽が好きで、2009年から
『トロピカルラバース・ビーチフェスタ』という音楽フェスを開催してきました。
会場はフサキリゾートビレッジという所なのですが、
素晴らしいロケーションも手伝って、毎年たくさんの方に来ていただいています。
石垣島にはミュージシャンも多いですし、
音楽の活動はわりと知られているんですよね。
でもじつは石垣島には、音楽以外のクリエイターもたくさんいるんです。
そういう人たちにもっと活躍してもらいたい、
この島に仕事をつくっていこう——ということで始まったのがこのプロジェクトです。
今年の1月に開催した『クリエイティブセッション』を皮切りに、
石垣島にゆかりのあるクリエイター35組を選出し、
彼らを紹介するウェブや冊子の制作、渋谷ヒカリエ内『aiiima』でのPRイベント、
展示会『rooms』、『TAIWAN DESIGN EXPO』への出展などを行ってきました。
そうやってここ1年、僕たちも手探りで色々なことを試してきた中で、
より確実にクリエイティブを仕事につなげ、仕事を定着させていくためには、
もっと実践的にクリエイターを育てていく場が必要だと思いました。
そうして今年の秋からスタートしたのが『石垣島Creative Labo』です」

さまざまなジャンル、さまざまな立場のクリエイターが一緒に学べる場

ワークショップの時間になると、参加クリエイターたちが集まって来た。
参加者は駆け出しのアーティストから、
既にバリバリ仕事をこなしているデザイナーやプログラマーまでと、さまざまだ。
このスクールではゲストの話を聞くだけではなく、
この場に集う人たちのアイデアを融合させ、
何かを生み出すことを目的としているので、
さまざまな立場のクリエイターが一緒に学べるのだ。
この日は、河尻亨一さんによるワークショップの日。

銀河ライター/東北芸工大客員教授の河尻亨一さん。編集執筆のほか、イベントや戦略立案、PRコンテンツの企画・制作・アドバイスなども行っている。

前半は河尻さんが「地域で活かせる先端広告のクリエイティブ」というテーマでレクチャー。
世界最大の広告祭「Cannes Lions」の受賞作を集めた動画集
Cannes Lions 2014 Best 100 の中からセレクトした映像を見せながら、
「クリエイティブを企画に結びつけていくにはどうしたらいいのか」
という課題を投げかけた。

後半は、参加者の悩みをヒアリング。
河尻さんが「ここまでは講義スタイルでお話しましたが、
後半は皆さんにインタビューしてみたいですね。
私はインタビュアーでもあり、
かなりたくさんのクリエイターに取材していますから、
皆さんが“そんなに価値がない”と思っている言葉の中から、
宝石を見つけ出すこともできるかもしれません」と語りかけると、
「ものづくりの作業量と対価が見合わない」、
「制作をしているとひきこもりになりがち」などの意見が出てきた。
ひとり、ふたりと悩みを語ると、どんどん意見が出てくる。
「石垣島を“クリエイターがこもれる島”としてPRすれば」などといった
ユニークな意見も飛び出した。

最後に河尻さんが「自分たちの持っている資産や悩みをプロデュースし、
そこから解決方法や企画を立ち上げていくことが大事。
この地理的環境を生かし、“アジア視座”をもって、
アジアのクリエイターのハブとして打ち出してみては」と語り、
この日のワークショップは終了。
参加者の本音を引き出し、解決に導く
河尻さんのプロデュース力を目の当たりにしたことも学びになった。

翌日のスピーカーは、コロカルの「リノベのすすめ」にもご登場いただいた
千葉県松戸市のまちづくりプロジェクト「MAD City」の
株式会社まちづクリエイティブ代表取締役 寺井元一さん、
アートディレクターの小田雄太さん。
“クリエイティブな自治区”をつくるために寺井さんが進めてきたプロジェクトの話から、
小田さんによる「デザインからはじまるまちづくり」についてレクチャーが行われた。

まちづクリエイティブの寺井元一さん(左)、アートディレクターの小田雄太さん(右)。

寺井「『MAD City』は、息苦しいまちなんか抜け出して、どこかのまちをのっとり、
ルールづくりからはじめてクリエイティブなまちをつくろう——ということで
スタートしたプロジェクト。まずはじめに『MAD City』という名前を決め、
小田君に依頼してロゴをつくり、
クリエイターが集まるようなまちづくり・コミュニティづくりからはじめました。
でも、僕はお金を出してアーティストを誘致するのは間違っていると思う。
そんなことをしても中途半端なアーティストしか集まらない。
それより“やれるもんならやってみろ”ぐらいの勢いでやっていきたい。
そうしていい緊張関係を築いていかないと、
可能性のあるアーティストは来てくれないと思うんです」

そう語る寺井さんがプロジェクト立ち上げ後、
すぐに着手したのが不動産事業だった。
これは、お金はなくてもアイデアがあるクリエイターを中心に
改装可能・原状回復不要な住宅やアトリエ、店舗を提供するというもの。
現在では多数のアーティストがこの物件に暮らし、
居住者からは「MAD Cityにおける何よりの魅力はコミュニティ」
という声も聞こえてきている。
歯に衣着せぬ寺井さんの話、クリエイターの皆さんには
かなり刺激になったのではないだろうか。
まちづクリエイティブの取り組みはリノベのすすめでも紹介している。

石垣島クリエイターの仕事場

「石垣島Creative Flag」には、さまざまなジャンルのクリエイターが参加している。
今回の旅では、彼らのアトリエや工房も訪ねた。

■大浜 豪さん(藍染め)

島藍農園の大浜豪さん。オリジナルブランド「shimaai」のストールは八重山藍のブルー、フクギ(福木)のオレンジがテーマカラー。

石垣市出身の大浜さんが営む「島藍農園」は、平原の中にある小さな農園だ。
こちらでは、植物の栽培から加工、染色、商品開発まで、一貫して手づくりで行っている。
およそ小学校の校庭ぐらいの敷地の中に、畑から藍色素を抽出するための加工所、
工房、販売所、番犬と猫の家まで、すべてがここにある。

藍染めの原料には、古くから八重山諸島だけで用いられてきた
「南蛮駒繋(ナンバンコマツナギ)」という植物を使用。
大浜さんはこの植物から生まれた藍の色に魅せられ、
2003年に農園を設立し、土づくりからはじめた。
この農園ではすべての工程を化学肥料や除草剤、薬品類を使用せずに行っている。

南蛮駒繋(ナンバンコマツナギ)

また大浜さんは、商業目的で自然に生えている植物を採り、
草木染めに使用することにも抵抗があるという。
理由は「もしその商品がヒットしてしまったら、
自然に生えている植物を乱獲することになってしまうから」。
大浜さんが研究を重ねて生み出した制作工程は、
この土地から生まれた材料にこだわり、
土地に還すところまでを考えた、島への愛の賜物なのである。
この農園から生まれた藍色と、フクギ(福木)という木の皮からとれた
橙のストライプは、オリジナルブランド「shimaai」の定番デザインになっている。

■池城安武さん(シルクスクリーン/グラフィック)

アーティストの池城安武さん。着用しているTシャツは八重山の伝統的な模様をモチーフにしている。

自宅を改造し、12月に初の路面店をオープンしたばかりの池城さん。
八重山諸島の文化や動植物、沖縄の詩人・山之口貘さんを
モチーフにしたTシャツや、シルクスクリーン版画、グラフィックなどを制作している。
石垣島で育ち、琉球大学法文学部を卒業後はロンドンへ留学。
世界各国を旅して沖縄に戻ってきたという池城さんだが、
その言葉から、作品から、八重山の詩情があふれてくるようだ。

たとえばオリジナルTシャツ「カフヌキィン」は、
沖縄・八重山の言葉で幸せを意味する「カフ」と
着物を意味する「キィン」をかけあわせた言葉。
「あなたにたくさんの幸せが訪れますように」という想いがこめられた服だ。
八重山の伝統的な模様をモチーフにしたTシャツや、
池城さんが描いた文様がとてもかわいい。
河尻さんも、山羊をモチーフにしたTシャツをお買い上げされていた。

■十河 学さん(映像/写真/プログラミング)

プログラマーの十河学さん。プログラミングを駆使したものづくりからスペースの企画までこなす、オープンソースな精神の持ち主。自宅を宿として貸し出すAirbnbも行っている。

広島県出身で2012年より石垣島に移住し、
現在は島の自然からインスピレーションを受け、映像、写真、アプリ制作、
サイト運営、ファブリケーションスペースのプロデュースなど、
あらゆるもの・ことを手がけている十河さん。
インターネットさえあれば、どこでも仕事ができてしまうというのが強みだ。
都会の喧噪から離れ、仕事に集中できるいまの環境は快適なよう。
スペースを訪れて驚いたのは、小型飛行ロボット「ドローン」が何機もあったこと。
十河さんは「ドローン」をつくるワークショップなど、
さまざまなデジタルファブリケーションのワークショップを企画している。

また現在は、「iBeacon」というタブレット端末向けのサービスを
石垣島に導入するため、システムを開発中だ。
もはやインターネットやデジタルファブリケーションは島の生活に欠かせないもの。
活躍の場は、まだまだ広がっていきそうだ。

■Maki UEDA(香り)

匂いのアートの第一人者、Maki UEDAさん。さまざまな匂いを香水やワークショップなどのかたちで体験させてくれる。

最後にご紹介するのは、香りのアーティスト、Maki UEDAさん。
食べ物や香辛料、体臭など、あらゆる素材から匂いを抽出して香水化し、
その香りをインスタレーションやワークショップなどのかたちで発表している。
UEDAさんは東京に生まれ育ち、大学卒業後はオランダに移住。
「匂いのアート」の第一人者として、
オランダの王立美術学校&音楽院などで教鞭をとってきた。

現在は石垣島を拠点に活動を展開しているUEDAさん。
石垣は匂いの資源が豊富で、素材にはことかかないという。
アトリエで石垣の土からとれた匂いを嗅がせてもらうと、
香水のように甘く、強い香りにびっくりさせられた。

石垣島 Creative Flagのこれから

参加クリエイターたちは、
このプロジェクトが主催するイベントで作品発表を行ったり、
ワークショップの講師をつとめたりしている。
イベントを訪れれば、彼らの作品や言葉から、
石垣島の魅力にふれられる。
そういったクリエイターたちの放つ魅力こそ、
このプロジェクトの大きな資産なのかもしれない。
今後は、企画や運営にも参加し、アーティストと石垣市が
一緒になってこのプロジェクトを盛り上げていくとのこと。
すでに新しいプロジェクトも進行中だそうだ。

今回のラボに参加して印象に残ったのは、
石垣島では昔から日本とアジアの玄関口として、
さまざまな地域の人が訪れ、独特な文化やコミュニティが育まれてきたという話。
沖縄には「いちゃりば ちょーでー」(一期一会、一度会ったら皆兄弟という意味)
という言葉がある。
そんな精神とクリエイティブが融合したら、おもしろいことが起こりそうだ。
これからここでどんなクリエイティブが育まれていくのか、
今からとても楽しみだ。

写真家 石川直樹さん

空から、海から、陸から

北極や南極、アジア、アフリカ、ヒマラヤなど、
世界を旅して未知の風景を写してきた写真家の石川直樹さんが
大分県の国東(くにさき)半島に通い、人びとや自然、伝統文化をカメラに収めた。
2014年の秋に発売された写真集「国東半島」には、
その中から厳選された172点がつまっている。
撮影にのぞんだのは、今年初開催された「国東半島芸術祭」がきっかけだった。
石川さんは芸術祭のメインビジュアルを撮影し、参加作家として展覧会も開催した。
同祭のクロージングを見とどけ、東京に戻ったばかりの石川さんにお話を聞いた。

「国東半島には以前から興味をもっていました。
ちょっと変わった仮面のお祭りがあると聞いて、見に行きたいと思っていたんです。
日本各地に仮面が登場する祭祀儀礼があって、
僕は10年以上前からそうしたお祭りを撮り続けてきました。
たとえば鹿児島のトカラ列島のボゼとか、岩手県のスネカとか、秋田のナマハゲもそうですね。
そうしたお祭りのことを調べているうちに
国東半島の『修正鬼会(しゅじょうおにえ)』と『ケベス祭り』を知り、
行きたいと思っていたところへ芸術祭の話が来たんです」

杵築市奈多 奈多宮 Photo: Naoki Ishikawa

国東半島は、周囲を別府湾・伊予灘、周防灘に囲まれ、
半島の中央には両子(ふたご)山をはじめとする火山群がそびえたつ。
石川さんは今年の秋に開催された「国東半島芸術祭」の
プレ事業「国東半島アートプロジェクト」(2012)の立ち上げ時から参加。
以来、幾度となくその場所へ通い、さまざまな角度からアプローチしていった。

「空撮をしたり、漁師さんに同行して海に出たり、
猟師さんについて行って山の中で鹿や猪狩りを撮ったり。
これまで、海外のどこかにフォーカスをあてたことはあったのですが、
日本のひとつの地域をここまでつぶさに撮影し、一冊にまとめたのは初めてです。
国東半島は、朝鮮半島から伝わってきた文化が九州北部を伝って
瀬戸内海に入ってくる際に出会う交差点のような場所に位置しています。
そこで山の文化と、渡来の文化がまじりあい、独特の風土が生みだされました」

見過ごしてしまいそうな場所に、突然異世界の入口が現れる。自分自身が異人となりながら、日常と非日常を、ハレとケを、彼岸と此岸を往来できる希有な土地、それがぼくにとっての国東半島である。―石川直樹写真集「国東半島」収録「日常と非日常の渚」石川直樹 P.178より / 豊後高田市香々地 長崎鼻 行者洞穴 Photo: Naoki Ishikawa

古くから途切れることなく続く、国東の祭り

石川さんが興味をもったお祭りのひとつ「修正鬼会」は、
天念寺、成仏寺、岩戸寺という3つの寺を舞台に行われる、
六郷満山(国東半島の6つの郷にある寺院の総称)を代表する伝統行事だ。
修正会という正月法要に鬼祭りと火祭りの行事が集合したといわれており、
国指定重要文化財にも指定されている。

国東市国東町岩戸寺 岩戸寺 修正鬼会 Photo: Naoki Ishikawa

「修正鬼会では、お寺のお坊さんが鬼役をつとめます。
普段は物静かなお坊さんが体中を荒縄で縛り、鬼の仮面をつけて鬼に変身するんですよ。
この鬼はご先祖さまが姿を変えて現れた、善い鬼とされています。
鬼を『おにさま』と呼んで敬意をもって接するような場所は、日本でもめずらしい。
修正会というものは各地にありますが、修正鬼会となっているのは、
全国でも国東半島だけです」

鬼はお寺で松明(たいまつ)を振り回して舞った後、
お堂を飛び出し、集落の家を一軒一軒まわる。
石川さんはこの鬼について、明け方まで続く儀礼の一部始終を撮影した。

「家に入った鬼は、まず仏壇に向かい、ご先祖さまに祈ります。その隣には神棚がある。
国東には、古くから神と仏が同居する神仏習合の文化が受け継がれているんです。
その後、鬼はご馳走とお酒をふるまわれて心からのもてなしを受け、
最後は家の人たちの頭に手をあて、無病息災を祈っていました。
怖がって泣いてしまう子どももいましたけどね(笑)」

国東市国東町成仏 成仏寺 修正鬼会 Photo: Naoki Ishikawa

国東市国東町成仏 成仏寺 修正鬼会 Photo: Naoki Ishikawa

「鬼はそうやって家を一軒ずつまわり、最後はもとの寺へ戻って行く。
お酒をしこたま飲んだ上に、仮面によってトランス状態になっていますから、
手がつけられない状態です。
そこを寺のお坊さんたちが押さえつけて餅をくわえさせると、
我に返って、鬼から人間に戻っていく。お祭りはこれで終わりです」

こうした日常と非日常を行き来するような光景が、石川さんの心をとらえた。

国東を体現するような行事、修正鬼会は日常と非日常の渚として、ぼくの目前にゆらゆらと立ち現れ、国東半島への扉を開くきっかけとなった。―石川直樹写真集「国東半島」収録「日常と非日常の渚」石川直樹 P.174より / 国東市国東町岩戸寺 岩戸寺 修正鬼会 Photo: Naoki Ishikawa

写真集には「修正鬼会」のほか、奇怪なお面をつけたケベスと白装束のトウバが争う
火祭り「ケベス祭り」の様子も収められている。

新しい世界への入口

2009年に群島を意味する「ARCHIPELAGO」という名の写真集を出版した石川さんは、
以前から島や半島というものに興味をもち、自然やそこで育まれた人や風土を撮影してきた。
そこには、6,000以上もの島からなる日本を含む、環太平洋の国や地域を
“島の連なり”としてとらえ直したいという思いがあった。

杵築市奈多 奈多宮 Photo: Naoki Ishikawa

「陸側から見ると島や半島の端は行き止まりですが、
海や空から見ると、入口でもある。
そうやって半島を見直すことによって、新しい世界が立ち現れてくる。
仮面のお祭りは日本列島の東北、北陸、九州、沖縄に点在していて、
しかも海沿いに集中しています。日本の人たちは、
海の彼方からやってくる他者を拒絶したり排除したりするわけではなく、
恐れながらも言葉を交わし、時に受け入れてきた。
仮面のお祭りには、そうした身ぶりが表れているのではないかと思います」

また国東では、はるか昔の九州と朝鮮半島の繋がりを想像させるランドマークにも出会った。

「田原山の奥に熊野磨崖仏という巨大な石仏があるのですが、
とても魅力的な顔をしています。
国東にはそうした磨崖仏がいくつかあって、
同じようなものが韓国の南東部・慶州にもあります。
また、慶州には国東半島の修験道のルーツとも繋がる修験道の文化が残されています。
昔、仏師や僧侶が朝鮮半島から渡ってきたことを考えると、
山の文化と海の文化が国東という場所で融合したことについての
手がかりが見えてくるのではないか、と思うんです」

豊後高田市田染平野 熊野磨崖仏 Photo: Naoki Ishikawa

その土地に写真を還す

BEPPU PROJECTの山出淳也さんが総合ディレクターをつとめた「国東半島芸術祭」には、
アントニー・ゴムーリーさんやオノ・ヨーコさん、飴屋法水さん、
川俣正さんらが参加し、全国から噂を聞きつけた人が集まった。
石川さんも国見ふるさと展示館にて、写真展「国東半島 KUNISAKI PENINSULA」を開催。
訪れた人からは、感動とともに「国東の見え方が変わった」、
「石川さんの書いた文章も良かった」という声が伝わってきた。
同展に展示されていた写真とテキストは、写真集「国東半島」に収録されている。
また、国東で女性モデルを撮影したことをきっかけに生まれた“髪”をテーマにした
新作の展覧会「HAIR」も同時開催された。こちらも写真集として刊行されている。
石川さんは写真集を出版後も、国東半島を撮り続けているという。

「三年間半島をまわって、農家の人や猟師さんをはじめ、
いろんな市井の人と知り合えましたし、これからもずっとつき合っていきたい場所です。
今回の写真集は地元の方が買って下さっているというのが嬉しいですね。
その土地のことを、誰よりもよく知っている地元の人に写真を見ていただくのは
緊張しますし、国東半島を知らない人はもちろん、
地元の人たちにこそ新しい半島の姿を見せたいんです。
やっぱり、その土地で撮った写真はその土地に還さないといけない、と思っていて」

豊後高田市田染荘小崎 後藤文治さん Photo: Naoki Ishikawa

写真集のアートディレクションを手がけたのは、
資生堂の企業文化誌「花椿」などで知られる仲條正義さん。
布張りの表紙の碧(あお)い色がうつくしい。

「今回は気合いが入っていたので――といっても、
すべての写真集に気合いが入っているんですけれど(笑)、
昔から敬愛している仲條さんのご自宅へ通い、お願いしに行きました。
仲條さんはすぐには引き受けて下さらなかったのですが、
国東の写真を見せながら説明して、つくっていただけることになりました」

印刷には、朝から翌日の明け方まで立ち会った。

「僕がいない時に何かあったら困りますから、印刷には毎回立ち会っています。
印刷所は、写真集の印刷を数多く手がけている
京都のサンエムカラーというところなんですが、夜通し印刷機を回してくれて。
そんな対応をしていただけるだけでもありがたいです」

最後に、国東半島に通い続けた石川さんに、お気に入りの場所を聞いてみた。

「やっぱり修験道の道は面白いと思いますね。
ヒマラヤを登っていると体を使い果たして、
自分の中身が入れ替わるような感覚があるのですが、修験道も同じだと思っています。
山を歩き続けることによって、いつしか生まれ変わる。
8,000mの高さまで行かなくてもそういう体験ができるのは、ちょっとすごいですよね。
国東半島では、来春に峯道ロングトレイルという道が開通します。
10のコースに分かれているのですが、10日間、通しで回れたら最高ですね。
修験道の道がロングトレイルとして整備されているのは
日本全国でも国東ぐらいなので、すごく面白くなると思います」

国東市安岐町両子 両子寺にて 副住職 寺田豪淳さん Photo: Naoki Ishikawa

写真集「国東半島」は、国東を深く、じっと見るまなざしに包まれている。
その土地が愛おしくなってくるような写真群は、
見る人の視点をぐっと高みへ引き上げてくれるようだ。
空から、海から、陸からのアプローチ、そして地元の人たちとの関わりについてうかがい、
その秘密に少しふれられたような気がした。

information

石川直樹写真集「国東半島

出版社 :青土社
価格:¥5,000(税別)

profile

NAOKI ISHIKAWA
石川 直樹

1977年東京生まれ。東京芸術大学大学院美術研究科博士後期課程修了。2000年、PoletoPoleプロジェクトに参加して北極から南極を人力踏破、2001年、当時の世界最年少で七大陸最高峰登頂を達成。人類学、民俗学などの領域に関心をもち、行為の経験としての移動、旅などをテーマに作品を発表し続けている。『NEW DIMENSION』(赤々舎)、『POLAR』(リトルモア)により、日本写真協会新人賞。『CORONA』(青土社)により第30回土門拳賞受賞。著 書多数。最近では、ヒマラヤの8000m峰に焦点をあてた写真集シリーズ『Lhotse』『Qomolangma』『Manaslu』『Makalu』 (SLANT)を四冊連続刊行。最新刊に写真集『国東半島』『髪』(青土社)がある。