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連載

なぜ彼らは山へ向かうのか?
作家たちが捉える聖なる山とは。
『ホーリー・マウンテンズ』展

ローカルアートレポート

posted:2016.8.11   from:北海道札幌市  genre:アート・デザイン・建築

〈 この連載・企画は… 〉  各地で開催される展覧会やアートイベントから、
地域と結びついた作品や作家にスポットを当て、その活動をレポート。

writer profile

Michiko
Kurushima

來嶋路子

くるしま・みちこ●東京都出身。1994年に美術出版社で働き始め、2001年『みづゑ』の新装刊立ち上げに携わり、編集長となる。2008年『美術手帖』副編集長。2011年に暮らしの拠点を北海道に移す。以後、書籍の編集長として美術出版社に籍をおきつつ在宅勤務というかたちで仕事を続ける。2015年にフリーランスとなり、アートやデザインの本づくりを行う〈ミチクル編集工房〉をつくる。現在、東京と北海道を行き来しながら編集の仕事をしつつ、エコビレッジをつくるという目標に向かって奔走中。ときどき畑仕事も。

credit

main photo:山本マオ

何かに突き動かされるように山に登る人々

札幌にあるモエレ沼公園で開催されている
『ホーリー・マウンテンズ』展の取材から2週間が経とうとしているが、
この展覧会の核心にはいったい何があるのか、そんな問いが頭に浮かび、
霧の晴れないなかを歩いているような感覚をいまだに持ち続けている。

『ホーリー・マウンテンズ』展で中心となったのは3本のスライド形式の映像作品だ。
イラストレーターであり東北を拠点に山伏として活動する坂本大三郎さんの
『モノガタリを探す旅』。
屋久島やモンゴルで撮影を続ける写真家の山内悠さんによる『巨人』。
そして、とてつもない記録に挑んだ東浦奈良男さんの足跡を追った、
『一万日連続登山に挑んだ男』という吉田智彦さんのドキュメンタリーである。
いずれも山が舞台となっており、作家たちが何に関心を持っているのかが、
10分ほどでまとめられコンパクトに内容がわかるものだった。

ただし、「わかる」と書いたのは山でどんなことが行われているのかという事実だけである。
映像を見終わったとき、ある疑問がふつふつと湧いてきた。
それは、彼らはなぜ山へと向かうのか、核心部分にはなにがあるのか、だ。

「山に登ることは大半の人にとってはレクリエーションになっています。
あるいは林業やマタギなどの狩猟に携わるなど、仕事にしている人もいます。
しかしこうした目的ではなく、山に登っている人とは誰だろうと考えたときに、
彼らの顔が浮かんできたんですね」

7月24日に行われたトークイベントで、
この展覧会の企画者であり、美術の分野をフィールドに多彩な活動を行う
豊嶋秀樹さんは、そんな風に作家たちを紹介した。

豊嶋さんの言うように、彼らの山との関わり方はいずれも独特なものだった。
まずは、今回制作されたスライド作品の内容とトークイベントで
彼らが語った言葉を拾いながら、それぞれの山との関わりについて追ってみたい。

札幌市東区にあるモエレ沼公園は約188.8ヘクタールという広大な敷地の公園。「全体をひとつの彫刻作品とする」というコンセプトのもと彫刻家イサム・ノグチが基本設計を手がけた。展覧会が開催されたのは公園の中心的な存在であるガラスのピラミッドの展示スペース。

展覧会場の中央にはスライド作品を上映するシアターが設けられ、そのまわりを囲むように、吉田さんが撮影した東浦さんの写真や坂本さんの彫刻、山内さんの作品『夜明け』が展示された。

キュレーターは豊嶋秀樹さん。1998年にgraf設立に携わり、作品制作、展覧会企画、空間構成、ワークショップなど幅広いアプローチで活動している。10年ほど前から登山に目覚めたことが今回の展覧会開催につながった。アートも登山も、ものの見方を変える、そんな共通点があると考えている。

山に登ること、自然に分け入ることは祭りである

坂本大三郎さんは、東北を拠点にし、春には山菜を採り、夏には山に籠り、秋には各地の祭りを訪ね、冬は雪に埋もれて暮らしているという。山伏として白装束で山へと分け入る。(撮影:小牧寿里)

坂本大三郎さんは30歳のときに山伏の修行を始めた。最初は単なる好奇心だったというが、
山伏が古くは芸術や芸能を司る役割を担う存在だったことを知るようになり、
さらに興味がわいたという。
また、山での修行によって坂本さんは新しい感覚を呼び起こされ、以来、
山伏としての活動を始めることとなった。

坂本さんが今回制作した『モノガタリを探す旅』は、北海道が舞台となっている。
縄文遺跡である垣ノ島遺跡や山伏の文化に触れられる、
せたな町にある太田権現(太田山神社)などを訪ねた記録がつづられている。
各地を訪ねながら坂本さんは神話や民話などを拾い集め、
時代によって書き換えられたその経緯を丁寧に読み解きながら、
原始の姿とは何かを浮かび上がらせようと試みている。

『モノガタリを探す旅』で紹介された太田山神社。太田山は道南五大霊場のひとつ。急勾配の階段を上り、ロープにつかまりながら険しい山道を抜けると、断崖絶壁に本殿がある。(撮影:小牧寿里)

映像につけられたナレーションで、坂本さんはこう語っていた。
「僕にとって山に登ること、自然に分け入ることは祭りである」

古代の祭りは芸術や芸能が生まれる場所だった。
祭りの場で最も大切にされたのは、
洗練された美しい芸術や芸能を行うことではなく、
神仏や精霊といかに結びつきを持つか、
つまり自然といかに向き合うのかであると坂本さんは考えているという。

「かつての山伏の姿を知り、山伏を体験するなかで、僕のなかには、
誰かの評価に左右される気持ちよりも深い部分に、
『自然』が据えられるようになりました。
かつての山伏、かつての芸能者が自然とともに生きてきた姿を
心の片隅において、いつも忘れないようにしたいと思っています」

これは坂本さんの著書『山伏と僕』の一節だ。
山伏になる以前から絵を描いていた坂本さんにとって、
山伏を実践することは自然と向き合うことにつながり、
これを通して「原始の日本の文化」に触れたいと探求を続けている。

『モノガタリを探す旅』より。坂本さんは千葉県出身。縄文遺跡が多く、子どものころ一番好きな遊びは土器探し。土器を見つけると縄文人から手紙が届いたような感覚がしたそうで、自分がいま表現を行うとき、その返事を書いているような気持ちになることがあると語る。(撮影:坂本大三郎)

展示会場には坂本さんが流木で制作した作品も展示された。人間の世界、目に見えない世界、動植物の世界を表した『モノたち』。

オープニングイベントとして、坂本さんの脚本による新作ダンス公演『三つの世界』が行われた。大久保裕子さん、島地保武さんがダンスを行い、蓮沼執太さんが音楽を担当。古来から続く芸能と祭の歴史を現代の世界へと開いていこうとする試みとなった。(撮影:山本マオ)

坂本大三郎さんは山伏として活動しつつ、執筆や作品制作も行っている。著書に『山伏と僕』(リトルモア、2012)、『山伏ノート』(技術評論社、2013)がある。2016年は〈みちのおく芸術祭 山形ビエンナーレ2016〉、〈瀬戸内国際芸術祭2016〈秋期〉〉に参加を予定。

命が密集している場所に行ってみたい

屋久島に数か月籠もり撮影した写真。(撮影:山内悠)

山内悠さんが制作したスライド作品には、
たったひとりで屋久島に籠もり撮影した木々の写真がまとめられていた。
トークイベントでは、なぜ山内さんが屋久島で写真を撮るようになったのか、
その経緯が語られた。

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富士山で過ごした600日

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屋久島に向かう以前、山内さんは富士山七合目の山小屋で春から秋にかけて
合計600日を過ごしたことがあった。山小屋があったのは標高約3000メートル。
そこは電気、ガス、水道もなく、動物も住むことができない世界だった。
この地で夜明けを撮影し続け、そのとき「宇宙の彼方につき出されたような、
自然と自分が一体となる感覚」を感じることができたという。
やがて、山内さんは富士山とは対照的な
「命が密集している場所」に行ってみたいと思うようになった。
そこでさらなる一体感が感じられるのではないかと考えたからだった。

山内さんが富士山で撮影した写真『夜明け』より。実はこのプリントは天地が逆。焼きつけの際に光量が足りずに雲海が真っ暗な状態になって表れたものだが、「自分の感じている世界はこういうものだったのではないか」と山内さんは思った。(撮影:山内悠)

山内さんは西表島のジャングルでサバイバル生活に挑戦し、
現在は場所を屋久島へと移し、毎年2、3か月のスパンで滞在している。

「屋久島にはきれいな木なんて1本もなく、全部妖怪みたいな形をしています。
その形も美しいというよりかは、生きる執念みたいな強いエネルギーを感じて怖い。
その力に僕はたぶん圧迫されて恐怖心が浮き彫りになっていきました」

恐怖心は山内さんにさまざまなことを想起させた。
屋久島のような自然が島を支配している場所では、
富士山で感じた自然との一体感よりも、
それを遮断しようとする力が強く働くのではないか。

「歩けば歩くほど怖いから自分の『逃げ場』を探すようになります。
それが自分の心のなかだったり、心のなかに湧いてくるいろんな記憶とか感情とか、
自分の居心地のいい場所を見つけてそこに浸るようになるんです」(*)

そして山内さんは「逃げ場」の先に、
文明やまちが生まれるのではないかと考えるようになったという。
こうした心にわき起こるさまざまな思考を、さらに突き詰めようとするためなのか、
あえて今年からは屋久島の夜を撮影するようになった。

今回のスライドの後半に収録されていたのは、不気味な色で照らし出された木々の数々だ。
これらの写真は、赤や紫など色のついたスポットライトを当てて
撮影されたかのように見えるが、実は闇夜を照らすヘッドライトをつけたまま
シャッターを偶然押したところ生まれたものだったそうだ。
「写真には目には見えないものが映し出されるように思う」と山内さん。
自身の恐怖があぶり出されたような作品に自分も衝撃を受けたという。

スライド作品『巨人』に収録された屋久島の夜の風景。夜歩くときにつけていたヘッドライトの光は写真に写すと紫色になっていた。ライトの種類によって、赤くなったり黄色くなったりして写真に写るという。(撮影:山内悠)

3年前からモンゴルでも撮影を続けている山内さんは、「ここは自然と人間が完璧に調和した世界。まるでどこかの惑星に降り立ったような感覚を覚える」と語る。屋久島とはまったく異なる世界がそこにはある。(撮影:山内悠)

山内悠さんは14歳のころから独学で写真を撮り始めた。写真集に富士山七合目の山小屋〈大陽館〉にて撮り続けた作品をまとめた『夜明け』(赤々舎、2010)。書籍に山小屋での日々を著した『雲の上に住む人』(静山社、2014)がある。
*文中の山内さんの発言は展覧会に合わせて収録されたコメントより抜粋

なぜ登るのか?という疑問に引きずり込まれた

東浦奈良男さんは身長約150センチ。背中を少し丸めて力強い足取りで山道を歩き続けた。(撮影:吉田智彦)

吉田智彦さんのスライド作品は、
東浦奈良男さんの姿を追ったドキュメンタリーだ。
東浦さんは1984年に印刷工の仕事を定年退職し、
その翌日から連続登山を開始した人物だ。登るのは主に富士山と、
東浦さんの自宅から日帰りで行ける標高数百メートルの伊勢の山々だ。
吉田さんが雑誌の取材がきっかけで東浦さんに会ったのは2006年。
一万日連続登山という目標を掲げ、その記録を8014日とした日のことだった。
以来、東浦さんの独特の存在感に圧倒され、たびたび登山に随行し、
山を登る姿や生活の様子を追い続けた。

写真の印象からすると険しい顔つきで鬼気迫るものを感じるが、吉田さんによると家族思いで人一倍愛情の深い人物だったという。(撮影:吉田智彦)

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吉田さんが山に登り続ける理由とは

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その登山は型破りなものだった。自宅から数時間かけて山のふもとまで行き、
一度も休まず15時間歩き続けたこともあったという。
また、同じ山でもルートを変えて道なき道を登ったり、
体の使い方にも試行錯誤を重ね「一回も休まず一歩ずつ休む」など、
つねに創意工夫にあふれていた。服装や装備もまったくのオリジナルで、
物干ハンガーとレジャーシートでザックをつくり、
雨が降れば傘の骨を外したシートを肩に羽織った。

東浦さんは2011年に体調を崩しながらも懸命に山に登り続けたが、
その記録は9738日でストップしてしまう。
吉田さんは記録が途絶えてもなお、入院した東浦さんのことをじっと見守り続けた。
そして同年12月に86歳で彼は亡くなるが、吉田さんは『信念 東浦奈良男』を上梓、
奥付発行日としたのは2012年の3月12日。
連続登山が仮に続いていたならば一万日目となるのが、この日だった。

「初めて会ったとき、奈良男さんが『なりふり構わずなぜ登るのか?』という
疑問に引きずり込まれたんです。そして僕のなかで、
奈良男さんがやがてひとつの山のような存在になっていきました。
自分に何ができるのかと突きつけられ、
僕の人生もイチからやり直したいと思うようになるほどでした」

東浦さんは山へ向かうとき電車やバスを使うこともあったが、可能な限り自宅から歩いていった。往復で10時間以上歩くことも度々あった。

トークイベントで吉田さんが自分がなぜ東浦さんの存在に引き込まれたのか、そのルーツとして幼き日の思い出を語った。夏休みには山形の祖父の家にひとりで行き、自然のなかで遊び、お盆など昔ながらの風習に興味を抱いたという。図版は吉田さんが描いた絵本『たくさんのふしぎ おぼん ふるさとへ帰る夏』(福音館書店、2009)より。

吉田智彦さんはノンフィクションを書き、写真や絵も発表する。スペインやチベットなど世界の巡礼路を歩き、全熊野古道、四国遍路を踏破。著書に『熊野古道巡礼』(東方出版、2004)、『新版 四国八十八ヵ所を歩く』(山と渓谷社、2006)、『信念 東浦奈良男 一万日連続登山への挑戦』(山と渓谷社、2012)がある。

それぞれの聖山に頂はあるのか?

吉田智彦さんは東浦さんに出会った当初から、
なぜ連続登山をするのか理由を探っていた。
東浦さんにその理由を尋ねると、いつも決まって短い答えが返ってきたそうだ。
そのひとつが、妻に

「ダイヤモンドを買うお金がないから、記録をプレゼントしたい」

というものだった。
それ以外には、家族や先祖への「冥土の土産」や「供養と報い」などを
挙げていたという。この話を聞いたとき
「何かきれい過ぎに思えて、信じることができませんでした。
もっとすごい、やんごとなき理由があるに違いない」と思ったという。

吉田さんのこの言葉には大きく共感できる。
一万日を目標とした連続登山もそうだが、山伏としての修行、
屋久島でのサバイバルも、私の理解の範疇を超えている。
スライド作品を観てトークイベントで作家の話を聞いただけでは、
それぞれがなぜそこまでして山に向かうのかがつかみきれない。
彼らが発する言葉とは別に「やんごとなき理由」があるのではないか、
そんな風に感じられるのだ。
しかし、吉田さんは東浦さんがなぜ山に登るのかの理由について、こう締めくくった。

「亡くなる間際まで取材をさせてもらって、奈良男さんが最初にぼくに話してくれたことが、
一万日連続登山をする理由だったと、ようやく腑に落ちました。
記録をつくろうとしたのは、社会に向かって自分の存在をアピールし、
奥さんや家族に何かを示したいという、奈良男さんなりの愛情からくるものだったんです」

東浦さんは登山に関する日記を書き続け、その数は40冊を超える。仕事を定年退職した翌日の日記には「以後の出勤先は山となる」と書かれ、「自由」のタグがつけられている。

展示会場には東浦さんの装備品も展示された。身の回りにあるものでつくられたザック。

吉田さんは、5年という長い取材を通じて、東浦さんが山へと向かうのは
不器用な彼なりの愛情表現だというシンプルな結論にたどり着いた。

「奈良男さんはすごく素直に自然体で生きていた人だったんです」

また展覧会の企画者、豊嶋さんからも、彼らが山へと向かう核心部分になにがあるのか、
そのヒントとなる話を聞くことができた。

「彼らの山登りは、多くの登山家とは明らかに違う異質なものに見えます。
もしかしたら彼らの内側に聖山のようなものがあって、
それに向かって登り続けているのではないか、そう感じられるんです」

豊嶋さんは「これはぼくの仮説でしかないんですけれど」と断りつつ、こう続けた。

「実は内なる聖山は、僕たちひとりひとりのなかにもあるのではないか。
僕自身もそれを見つけてみたい、そういう気持ちにいま向かうようになっています」

豊嶋さんはまた山は「鏡のような存在」ではないかとも語っていた。

「同じ山に登っていても、たとえば天候やルートによって、
いろんな状況を人は感じます。
そしてあの山がよかったとかこの山がよかったと言ったりしますよね。
しかし本来、山自体はずっとそこにあって変わらないもの。
実は登っている自分の状況を映してくれる鏡なのではないかとも思います」

冒頭でも書いたように、この展覧会の核心部分、
つまり坂本さん、山内さん、東浦さんと吉田さんが追い続ける「聖山」の正体を、
私はまだ見つけられていないように感じている。
しかし彼らの「聖山」を探しているようで、
それが実は自分自身の内側を見つめ直す行為であったとしたら?
「聖山」の頂上はまだ雲のなかではあるが、豊嶋さんや作家たちに誘われて、
いまその山裾に立っているのだ、そんな風に考えてみたいと思った。

展覧会に合わせて開催されたトークイベントの様子。なぜか用意された椅子がひとつ多く、「もしかして精霊が?」。そんな会話も飛び出すなど終始和やかなムード。作家同士は展覧会の準備で初めて顔を合わせたが、まるで旧知の仲のようで、今回制作した映像を山小屋などで上映してはどうかなど、新たな企画も持ち上がっていた。

information

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『展覧会 ホーリー・マウンテンズ 
内なる聖山へ続く三本の足跡(トレース)』 

会期:2016年7月23日〜8月28日 9:00〜17:00

会場:モエレ沼公園 ガラスのピラミッド2Fスペース2

北海道札幌市東区モエレ沼公園1-1 入場無料

http://moerenumapark.jp/holymountains/

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