連載
〈 この連載・企画は… 〉
音楽家である坂口修一郎さんは、フェスの運営やコミュニティづくりのために、
東京と鹿児島、さらには日本のローカルを移動し続けています。
坂口さんが体現している新しい働き方やまちづくりを綴ってもらいました。
writer
Shuichiro Sakaguchi
坂口修一郎
さかぐち・しゅういちろう●BAGN Inc.代表/一般社団法人リバーバンク代表理事
音楽家/プロデューサー。1971年鹿児島生まれ。93年より無国籍楽団〈ダブルフェイマス〉のメンバーとして音楽活動を続ける。2010年から野外イベント〈グッドネイバーズ・ジャンボリー〉を主宰。企画/ディレクションカンパニー〈BAGN Inc.(BE A GOOD NEIGHBOR)〉を設立。東京と鹿児島を拠点に、日本各地でオープンスペースの空間プロデュースやイベント、フェスティバルなど、ジャンルや地域を越境しながら多くのプレイスメイキングを行っている。2018年、鹿児島県南九州市川辺の地域プロジェクト〈一般社団法人リバーバンク〉の代表理事に就任。
2010年に僕が鹿児島県川辺町で立ち上げたフェス〈グッドネイバーズ・ジャンボリー〉は、
〈かわなべ森の学校〉を会場にしています。
戦前に建てられた旧長谷小学校で、校舎はかなり老朽化が進んでいました。
しかし2016年、この木造校舎が取り壊しの方向に進んでいったのです。
(地域の廃校への思いは前回vol.004を参照)
愛着のあるこの校舎を残すべく、僕は廃校を保存する活動を始めました。
地域に残された古い廃校をなんとか取り壊しからは救いたい。
その一心で動きだしましたが、
どこから、何をどう手をつけていけばいいものやらまったくわからない。
誰に許可をとればいいのか? 予算は? 法律は?
役場に問い合わせても、この地域では廃校の再生は前例もなく、
誰からも明確な答えが返ってきません。
とにかく、地元中心にいままでつき合ってこなかったような行政や、
僕らのコミュニティではない人の声も聞かないことには始まらない。
力になってくれそうな人に片っ端から会って話を聞いて回りました。
そんなときに「鹿児島未来170人会議」というイベントの存在を知りました。
県が主催して鹿児島県民170万人の0.01%にあたる170人で
エリアの未来を考えようという趣旨のイベント。
鹿児島県内でさまざまなソーシャルな活動をしている12組がプレゼンをして、
活動を知ってもらい語り合うという場です。
そこに参加すれば、広くいろんな人たちの耳にも届き、なにか糸口がつかめるかもしれない。
さっそくエントリーし、まずはその12組に入れてもらうことができました。
しかし、そこで公に向けて発表するということは、
その前に地元の行政や地域の卒業生のみなさんに活動の承認を得ておかなければいけません。
そもそもこの学校のオーナーは南九州市ですし、勝手に突っ走るというわけにはいかない。
それで、幾度となく地元の行政や自治会の会合にも出席して、
森の学校を残す運動を認めてほしいと訴えることから始めました。
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ほとんどの方は「まあやってみたらいいんじゃないか」という論調でした。
でもなかには「外からやって来て移住するわけでもなく、
いつまでいるかわからない人に任せるのは心配」という意見や、
「中途半端に老朽化した校舎を存続させて、
そのあと地域に押しつけられるようなことになったら困る」という厳しい声もありました。
ほとんどの人にとっては、行政の決定をよそ者が突然覆そうというのですから、
当然の反応だったと思います。
それでも、何年にもわたって僕らが森の学校で続けてきた
〈グッドネイバーズ・ジャンボリー〉の実績もあるのだし
「そう簡単にこの人は投げ出さないだろう」とか
「地域を盛り上げるのに、自主的に手を挙げてくれている人なんてほかにいない。
彼に賭けてみよう」と言ってくれた地域の長老たちが背中を押してくれ、
とりあえず「鹿児島未来170人会議」で訴えてみるのは
いいんじゃないかということになりました。
「鹿児島未来170人会議」は取り組んでいるプロジェクトの全貌を
ひと組10分でプレゼンするというルールでした。
訴えたいことはたくさんありますが、時間は限られています。
かなり焦点を絞りこまないといけません。
プレゼンテーションはひとりでつくるのではなく、
このプロジェクトに興味を持ってくれたメンターやフォロワーがサポートしてくれました。
メンバーにはその後立ち上げる法人のメンバーにもなる、
鹿児島で起業している末吉剛士さんや、
地域に移住して暮らしているジェフリー・アイリッシュさんをはじめ総勢10名で、
資料づくりから内容までを半年近い時間をかけて練り上げました。
そのプロセスのなかでもたくさんの気づきがありましたが、
一番大きかったのは、イベント直前のプレゼンのリハーサルで、
全体を取り仕切っていたファシリテーターの野崎恭平さんから投げかけられた
ひとつの問いを受け取ったときでした。
「坂口さんは一生懸命この廃校を再生しようとしている。
でも、なぜ縁もゆかりもないこの学校に対してそこまでやるんですか?
その本当のニーズはなんですか?」
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確かに。僕は鹿児島の生まれ育ちですが、中核市であるとなりの市の出身です。
両親もそれぞれ代々鹿児島県内の別のまちの出身で、
この川辺というまちには親戚もいません。当然この小学校の卒業生でもない。
それでもなぜそこまで必死になってやっているのか。
これは地元の人にも同じ疑問があったかもしれません。
自分がやるしかないという直感にしたがってしゃにむにやっていましたが、
実は立ち止まって考えてみなかった問いでした。
そのときにはっと気づいたのです。
僕の実家は戦後、祖父母の代から営んできた保育園でした。
昭和40年代、僕が幼かった頃は実家の保育園に通っていました。
当時の園舎は、この森の学校に似た木造の建物。
戦後の物資がない時代に近くの小学校を建て替える際、
その一部を移築してそのまま使い続けていたものだったそうです。
その懐かしい園舎は建て替えられ、
園の近くにあった祖父母の家もろとも大規模な区画整理で失われました。
僕が幼かった頃の風景は面影もありません。
今そのあたりの歩き慣れた道を通っても、あまりの変わりように道に迷う有り様です。
そのときどうしようもない寂しさを感じたのと同時に、
その頃は東京のほうばかりを向いていた自分に後ろめたさも感じていました。
まちが刷新されていくなか、僕は東京にいて気にもとめていなかった。
自分が育ったまちのことに無関心だった自分にチクチクと罪悪感があった。
彼の問いのおかげで、すっかり忘れていた当時のことを急に思い出したのです。
感傷的にすぎるのかもしれませんが、
代々受け継がれ幼い頃から慣れ親しんだ風景がなくなってしまうという寂しさは、
僕にもよくわかります。
しかし今度は自分たちが踏ん張れば、なんとか風景を残すことだけはできるかもしれない。
それは自分が育った、同じような風景のバトンをつなぐ活動だと思えました。
森の学校にも川辺の人たちにも何の関係もない身勝手な話です。
しかし、それまで意識もしていなかったけれど、
これが僕の原動力なんだと思い当たりました。
「人は2度死ぬ」と言います。
1度目は肉体が滅んだとき。
2度目の本当の死は、その人のことを覚えている人がひとりもいなくなったとき。
地域もまた同じではないでしょうか。
目立ったところのない小さな集落だったとしても、静かで豊かな生活文化がある。
たとえいつか集落が消滅したとしても、誰かが覚えていてくれれば地域の文化は生き続けます。
しかし、ここに暮らしがあったことまでみんなが忘れてしまっては、
この地域は今度こそ存在していなかったことになってしまう。
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いま生まれたばかりの子どもたちは、22世紀まで生きている可能性があります。
なにもかも新しく塗りつぶすのではなく、その子たちに地域の記憶を手渡すことは、
子どもたちのルーツを大切にして未来につなげることになります。
生活文化を地元の子どもたちが大事にするという、
「地産地消」のプロセスを通じて地域の自己肯定感を高めることにもなる。
だから名もなき地元の大工さんたちが100年近い昔に子どもたちのためにつくり、
廃校後30年にもわたって卒業生たち(この集落の人たちはみな代々ここの卒業生)が
大事に維持してきたこの学校を使い続けていくこと。
このプロセスを理解して、僕も含む地域外の人たちが参加することは、
単なる一地域のためということを超えた意味がある。
これがプレゼンテーションのコアなメッセージになりました。
鹿児島市内で行われたこのイベントには、地域の長老たちも応援に来てくれました。
そしてこのプレゼンがひとつのエポックとなって、
プロジェクトは大きく進展することになります。
ほかの10組のプレゼンはどれもすばらしいものでしたが、
そのなかで僕らの廃校再生プロジェクトのことは、
全国的に廃校問題が大きく報道され始めていたこともあって、
地元の新聞やテレビといったメディアが大きく取り上げてくれました。
それを見て地元の見方もだいぶ変わったと思います。
なにより驚いたのは、これまでなかなか動きがなかった村役場が動き始めたことです。
活動の当初、僕らは校舎を保存するための原資を行政には頼らず、
クラウドファンディングで集めようと考えていました。
校舎はあちこちほころびがあるのでちょっとした修復は必要ですが、
大きくリノベーションすることまでは考えておらず、
とにかく「壊されなければいい」、くらいのものでした。
その後かかった経費の大きさを考えると、冷や汗が出ます。
その無謀さを察したのか村役場の若い職員の方が、
「そこまで本気で考えてくれているのであれば、一緒に国の交付金を申請しませんか」
と申し出てくれたのです。
「やりたいことを全部書きだして、見積もりを取ってみてください。
全部実現できるかわかりませんが、企画書を書いてトライしてみましょう。
内閣府の『地方創生推進交付金』の対象にできるかもしれません」と言う役場の担当者。
いきなり話がビッグになりました。国に提出する企画書なんて書いたことがありません。
この交付金は単に国からもらうだけではなく、
その半分は地方自治体が負担しなければいけないとのこと。
それはつまり、自治体としてこの活動をバックアップする意思がある、
というメッセージでした。
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そこで考えました。単に廃校が残るだけでは持続する活動にはならない。
僕ひとりがずっと張りついているわけにもいかない。
この活動を推進する団体をつくり、仕組みをつくり、
そこにモチベーションのある若者に来てもらう。地域には空き家もたくさんあるので、
空き家改修をして暮らしてもらうことも視野に入れて、廃校と空き家をセットで再生していく。
これを企画の骨子にしてより地域に深く入っていこう。
地域でこれまでも学校の維持活動をしてくれていた方や、
関心を持ってくれる人たちが集まり始めました。
しかし、中途半端な団体では国にも相手にされない。
まず団体がしっかりしていないといけないというので、
一般社団法人を立ち上げる勉強から始めました。
本当にゼロからのスタートだったので、その年は交付金申請は見送り、
腰を据えて取り組むことにしました。
やりたいことをとにかく挙げていったら、
見積もりはいつの間にか当初の想定をはるかに超え、
年間4千万円の予算を3年分申請するという規模になりました。
そうこうして必死で団体設立の目処をつけ、
現実的な見積もりと企画書をつくるのに丸1年を要しました。
何度も役場にも通って企画書の手直しをしました。
国に出す直前は年末年始をまたぎ、
正月中も僕と役場の若手担当者でひたすら企画書を磨いて、
やっと国に提出するところまでこぎつけました。
通常は早ければ2月中。遅くとも3月上旬には交付の内示があるという話だったので、
提出してからはやきもきする日々。
しかし待てど暮らせど連絡が来ない。ついに3月も終わりまで来てしまいました。
あれだけがんばったのにやっぱり駄目だったか……と諦めかけた3月末日。
一緒に動いていたメンバーから、
「内閣府のウェブサイトに森の学校の交付金のことが出ている……みたいです!」
との連絡がありました。慌てて役場に確認したら「通りましたね!」との返事でした。
ほとんど受験生のような気分です。
あとから聞いたところだと、例の「森友問題」というやつで国会が空転。
そのせいで交付は決まっていたものの発表が遅れたということでした。
国からの交付予算も決まって、
その受け皿としての〈一般社団法人リバーバンク〉も立ち上がることになりました。
こうしてかわなべ森の学校は再生への道を歩み始めたのです。
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