連載
posted:2017.9.8 from:岡山県備前市 genre:暮らしと移住 / ものづくり
PR 備前市
〈 この連載・企画は… 〉
備前にゆかりのある人が店主となり、食やうつわを通じて人の交流を生み出す場(バー)となる。
そんなプロジェクト〈BIZENうつわバー〉がいま、備前市で新しく生まれようとしています。
writer profile
Yutaka Akahoshi
赤星 豊
あかほし・ゆたか●東京でライター・編集者として活動した後、フリーマガジン『Krash japan』を創刊。 広告制作会社アジアンビーハイブの代表を務める傍ら、岡山市内でコーヒースタンド〈マチスタコーヒー〉を立ち上げる。 マスターとして奮闘するも、あえなく2013年に閉店。2015年、岡山県浅口市に移住。
credit
撮影:池田理寛
岡山県備前市というと、まず大抵の人が連想するのは備前焼だろう。
同じ岡山県の在住歴通算25年の筆者からしても同じ。
「備前? そりゃ備前焼じゃないの?」と。
備前市には備前焼しかないというのでなく、認知の度合いで備前焼が抜けているのだ。
備前で思い浮かぶものの次点としては、日生(ひなせ)という
瀬戸内海に面したエリアで養殖が盛んな牡蠣、
あるいはその牡蠣を使ったお好み焼き「カキオコ」あたりか。
そのさらに次となると、正直、腕組みをしてひねり出すようなことになるのだが、
しかしこの備前焼と牡蠣だけでも十分すぎるほどの資産価値がある。
ふたつのコンビネーションもすばらしくいい。
かたや瀬戸や信楽と並んで“日本六古窯”のひとつに数えられる伝統的な焼きもの。
「食(牡蠣)」との取り合わせが悪いはずがなく、どう扱うにも連携がとりやすそうだ。
〈BIZENうつわバー〉という。
備前市に在住、あるいは備前にゆかりのある人が店主となり、
食やうつわを通じて人の交流を生み出す場(バー)となる。
そんなプロジェクトがいま、備前市で新しく生まれようとしている。
さて、どんな人たちがどんな魅力を語ってくれるか。
記念すべき第1回目のマスターは、備前焼の作家・渡邊琢磨さん。
備前焼の作家が集中する備前市伊部(いんべ)地区でなく、
市の東に隣接する和気郡の人里離れた山間に住む渡邊さんの自宅兼工房を訪ねた。
気温35℃の猛暑日が続く8月某日のこと。
比較的新しいナビゲーションシステムもさすがにそこまで案内しきれなかった。
山深い市道から一段と幅の狭い脇道に入って、
右手に青々とした稲穂を見ながら奥に進み、さらにそのまた奥、
道沿いに民家が途絶える最後の家がそうだった。
背後にある深い森に半分飲みこまれたかのように見える家。
ここにたどり着く直前で、心配になって引き返す人が絶対何人かいたにちがいない。
渡邊さんが家の前まで出てきてくれ、手を振っていた。わりと控えめな感じで。
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指揮者志望の大学生が備前焼に出会うまで
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渡邊琢磨さんは、1968年、兵庫県に生まれた。
10代は音楽に打ち込み、将来は指揮者を目指した。
関西大学在学中は、大阪フィルハーモニー交響楽団の公演に
アルバイトスタッフとして帯同していた。
しかし、その頃にはすでに指揮者ではなく、
新しく自分の目指すものを探していたと渡邊さんは言う。
「楽譜をバラして再構築するのが指揮者の仕事なのですが、
あるとき、交響曲をやっていて、バラしたどの部分にも
教会音楽(あるいはキリスト教)の影響があることに気づいたんです。
歌詞があるパートであれば歌詞の意味があるのでわかりやすいんですが、
歌詞もなにもない部分にもまぎれているんです。
『これって、ヨーロッパの人たちなら誰もが肌感覚で理解できるものなのでは?』と、
そう思ったのがきっかけです。
だったら、日本人が肌感覚で理解できるものってなんだろうと考え始め、
将来、自分もそうしたものに携わりたいと思うようになりました」
日本人が肌感覚で理解できるもの……渡邊さんはそれが工芸であると結論づけた。
日本人のモノや道具に対する美的感覚は欧州と比較しても絶対にひけをとらない。
渡邊さんは大阪フィルの公演で地方に行った際、周辺で地元の工芸品を探し、
産地まで足を運んだ。ガラス、焼きもの、紙など、あらゆる工芸品を見て回った。
そして、これだと感じたのが備前焼だった。
「最初から最後まですべての過程を自分でやるというのが焼きものです。
粘土を掘ってきて、自分で石や不純物を抜いて原土をつくる。
焼きもの全般、そこから最後まで自分で管理していくのですが、
備前焼は最後の最後、窯に入れて焼くというところで作品の出来を運命に任せるんです。
『備前焼、これはおもしろい!』と思いました」
大学4年のときには備前にある窯元で住み込みのアルバイトとして働いた。
このときの窯元に卒業後の相談をしたところ、
弟子入り先として備前焼作家の山内厚可(あつよし)氏を紹介された。
山内氏は伊部地区に多い、窯元を代々受け継ぐ備前焼作家ではない。
作風も正統な作品一辺倒ではなく、自由な感じがして、自分に合っていると感じた。
「その頃の備前焼の環境は、東京やいろんなところから
作家を目指す人たちが集まって来ていて、また彼らが独立を始めた時期でもあって、
新しい風が吹き始めているのを感じました。
常にすごくワクワクした感じがあったんです」
5年後、山内氏のもとを離れ、備前焼作家を育てる目的で
地元の6つのつくり酒屋が出資した会社〈備前陶苑〉に入社する。
ここで10年間活動し、2006年、38歳のときに独立した。
備前焼作家の独立としては、「かなり遅いほうだった」と渡邊さんは言う。
このとき、渡邊さんには小学生の長女と幼稚園に通う次女のふたりの娘さんがいた。
釉薬を一切使わず、絵付けもしない備前焼では、
陶土づくりが作品の出来を大きく左右する。
「ひよせ」と呼ばれる、備前市伊部地方の田畑の地下から採掘される粘土に、
黒土・山土を配合し、半年から数年寝かせる。
土の配合や寝かせる期間は作家が経験から決めるもので、
備前焼で人間国宝の第1号となった金重陶陽(1896~1967)は
10年間寝かせた陶土を使ったといわれている。
この陶土づくりと同じくらいに重要な過程が最終工程の窯焚きだ。
ここで備前焼の焼味の景色が決まる。
窯の中の配置や炎の強さ、灰の量などによって色や模様が微妙に変化するのだが、
どんなに経験を積んだ作家も100パーセントの仕上がりを予測することはできない。
なにかしらの偶然が景色に現れる。
これが「備前焼にはふたつとして同じものはない」といわれる所以であり、
備前焼の最大の特徴でもある。
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スチームパンクな備前焼?
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渡邊さんに話をうかがったこの自宅兼工房は築11年、独立したときに建てたものだ。
パッシブ工法と呼ばれる構造で、自然対流を利用して暖気を調整、
冬は工房のある1階の気温が15℃を下回ることはないという
(備前焼の粘土は凍ってしまうと作陶に使えない!)。
夏場も暖気を部屋の上に逃がす構造で涼しいらしいが、
さすがに取材当日はエアコンを入れてくれていた。
南に向いた窓から明るい夏の陽が差し込み、工房の中は明るい。
窓から聞こえるのはセミの声だけ、車のエンジン音は一切ない。
そして外にいる柴犬の福助が時折乾いた声で吠える。
ほんの一時、工房の一画にいるだけで、
周囲の環境のすばらしさと家の快適さを感じることができる。
目の前には、渡邊さん自らがドリップで淹れてくれたコーヒー。
うつわは、もちろん渡邊さんが手がけた備前焼のカップだ。
備前焼のグラスで飲むビールの気泡のきめが細かくなるのと同じ原理で、
コーヒーは口あたりがマイルドになるのだと教えてくれた。
神経質そうな作家さんから同じ話を聞いたとしたら、
「はい、そうですか」という感じになりそうだが、
渡邊さんが話すと楽しい話として耳にすっと入ってくる。
渡邊さんはこの家とよく似ている。自然で飄々としている。
行き過ぎることなく加減がいい。しかもユーモアがある。
そんな渡邊さんの気質は作品にも表れている。
〈未来の化石〉という細工物のシリーズがそのひとつだ。
蒸気を動力としたSFチックな機械「スチームパンク」を
未来のどこかの時点で発掘した過去のもののように見せているのが造形のポイント。
作品に刻まれたシリアルナンバーも渡邊さんの遊び心ゆえ。
それにしても、1000年を超える備前焼の歴史上、
シリアルナンバーの入った作品なんて前代未聞では?
「モノが機械ですからね、シリアルナンバーがあってもおかしくないだろうと。
でも、このシリーズの作品も工芸の枠は外さないんですよ。
どの作品にもなにかしら用途があります。一番多いのは香炉です」
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家族と日々の暮らしを愛する備前焼作家
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インタビューが1時間も過ぎた頃、渡邊さんがいったん席を離れた。
数分して、お盆を手に戻ってきた。盆の上にはグレーの陶器に入った麦茶。
器は渡邊さんの作品で、江戸時代につくられていた「青備前」だと教えてくれた。
「備前焼は色の多彩さがおもしろいんです。
これは青備前で、白備前というのもあります。
青白の素材を組み合わせると、また思いもしない色が出てきたりする。
これだけ歴史があっても、まだ気づいていないことがたくさんあるんです。
いまもそのときどきで新しい発見があるというのは大きな魅力ですね」
渡邊さんは備前焼の魅力をそう語ってくれた。
渡邊さんの表情を見ていると、つくづく備前焼が好きなんだなと思う。
工房が家と一緒になっているからか、ふと、渡邊さんの家族のことが思い浮かぶ。
この緑が深い自然の中で育ったふたりの娘さんたち。
父である渡邊さんがつくった備前焼の食器や香炉に囲まれた生活。
「はい、うちにある食器類は全部ぼくがつくったものです。
食器は自分使いが基本で、酒の肴用の皿とかが多いんです。
でも、食器全部が備前焼だから、うちの娘たちは
白い磁器にものすごく憧れているんですよ(笑)」
手がける食器類は「自分使いが基本」と言うだけあって、渡邊さんは料理もすると言う。
つくってもらった料理を食べたわけではないので、腕前のほどはわからない。
「イノシシをもらったら自分でさばきます」とさらりと言うので、
少なくともジビエ料理は得意なのかもしれない。
近隣の猟師さんから、イノシシだけでなく、鹿をもらうこともあるとか。
備前焼の師匠である山内厚可氏がその手の人だったらしい。
後日、山内氏のホームページにブログがあったのでアクセスしてみたら、
内臓をすべて取り出し、天井から吊るしたイノシシの写真がアップしてあった。
山内氏は解体用ナイフにも相当詳しいらしい。
そんな師のもとで5年も修業した渡邊さんであるから、
サバイバルのポテンシャルが相当なものであることは疑いない。
真夏の午後の、約2時間のインタビューはとても楽しい時間だった。
渡邊さんが備前焼をこよなく愛しているというのがよくわかった。
こよなく愛する人が語る備前焼だから、こちらにもその魅力は十分に伝わってきた。
帰る際には工房の備前焼をごっそり買いたくなったくらいだ。
それにしても、備前焼という世界のイメージは、渡邊さんの話を聞いて大きく変わった。
もっと、しゃちほこばった、堅苦しいものだと思っていた。
でも、「スチームパンクです、シリアルナンバーが入ってます」と
楽しそうに語る渡邊さん自身とその作品群をまるごと認めているわけだから、
備前焼の世界というのは懐が深い。
印象に強く残ったことがもうひとつ、父親としての渡邊さんである。
実は筆者もふたりの娘がいる。上が6歳、下は3歳で、
渡邊さんの娘さんたちよりも10歳ほど若いのだが、
地縁のない山深いところに居を構えたというところも似ているとあって、
渡邊さんには父親としてシンパシーを感じる部分があった。
この手の田舎暮らしは、父親を鍛え、強くしてくれる。これは間違いない。
つまり、父親が強くないと、日々の生活でなにかと困ることが多いのである。
キャリア2年の筆者は、目下、新兵として毎日の厳しい訓練にもまれているところ。
対してキャリア10年の渡邊さんは、筆者からすれば訓練期間をとうに終えた軍曹あたり。
身につけて久しい“たくましさ”を感じないではいられなかった。
きっと渡邊さんの娘さんたちは、渡邊さんのことが大好きにちがいない。
強くてたくましくて、優しくて、それでいて子どもみたいなお父さん。
夏の太陽が夕方の陽に変わり始めた頃、
すっかりなごんでしまった渡邊さんの家を後にした。
バックする車の後ろを見てくれて、帰路についた車にずっと手を振ってくれた渡邊さん。
また会いましょう。今度は娘たちを連れて行きます。
マキタの草刈り機と一緒に。
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