連載
posted:2017.6.20 from:北海道古宇郡神恵内 genre:旅行 / 活性化と創生
sponsored by 岩内町、神恵内村、泊村
〈 この連載・企画は… 〉
北海道の南西部に位置し、日本海に囲まれた積丹半島。
まるで南国のようなコバルトブルーの海が広がり、手つかずの自然と、神秘的な風景が残っています。
なぜ、積丹の海はこんなに青いのか? この海とともにどんな暮らしが営まれてきたのか?
この秘境をめぐるローカルトリップをご案内します。
writer profile
Tomohiro Okusa
大草朋宏
おおくさ・ともひろ●エディター/ライター。東京生まれ、千葉育ち。自転車ですぐ東京都内に入れる立地に育ったため、青春時代の千葉で培われたものといえば、落花生への愛情でもなく、パワーライスクルーからの影響でもなく、都内への強く激しいコンプレックスのみ。いまだにそれがすべての原動力。
photographer profile
Tada
ただ
写真家。池田晶紀が主宰する写真事務所〈ゆかい〉に所属。神奈川県横須賀市出身。典型的な郊外居住者として、基地のまちの潮風を浴びてすこやかに育つ。最近は自宅にサウナをつくるべく、DIYに奮闘中。いて座のA型。
http://yukaistudio.com/
高台から神恵内村(かもえないむら)の漁港や集落を眺め、
海に沈む美しい夕陽を堪能できる。そんな場所に〈民宿きのえ荘〉はある。
女将の池本美紀さんは、神恵内生まれ、神恵内育ち。
なんと出産で10日ほど入院したのが、神恵内を離れた最長記録だという。
民宿を営む前は、銀行に勤めていた。しかし結婚と同時に民宿を始めた。
かつて積丹半島の海岸線を走る国道は、南の岩内方面から北上してきて、
神恵内で行き止まりであった。
現在のように積丹半島を東側までぐるっと1周することはできないから、
神恵内に泊まる宿泊客もいたという。
しかし平成16年に国道が開通し、積丹半島を1周することが可能に。
すると、神恵内に留まることなく通過するまちになってしまった。
「私は神恵内を出たことがありません。
高校を卒業して専門学校に進むと村から出る必要がありましたが、
村を出たくなかったので地元で就職しました。
結局、神恵内が好きなんですよね。だから人を呼びたいと思って宿を始めたんです」
昭和40年代に、池本さんの祖母が神恵内で民宿をやっていたことがあった。
その祖母の名前である「きのえ」をもらった。
夏になるとウニが有名な積丹半島。もちろんほかにもおいしい海の幸がたくさんある。
〈民宿きのえ荘〉の食事も季節ごとの旬の海の幸が満載。
池本さんの父親が漁師でもあるし、毎日、神恵内漁港にあがる魚が届けられる。
「神恵内のものを食べてもらいたいです。
このあたりでは子どもたちは、『今日もウニか〜、飽きたなぁ』なんて、
都会の人が聞いたら贅沢な愚痴を言ったりしてますよ」
神恵内が好きで、人を呼びこみたい。
宿は始めたけれども、そもそも宿泊したいまちだと思われなければ泊まってはくれない。
そこで地元の仲間と始めたのが〈神恵内村魅力創造研究会〉だ。
まずはSNSでの発信から始めた。
「一緒に始めたのはUターンの若手が中心でした。
彼らは神恵内に帰ってきたときに、
かつてのようなにぎわいがないことを寂しく思っていたようです。
ずっと神恵内にいた私は、そんなこと感じていませんでした」
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自ら「神恵内の魅力にいちばん気がついていない代表」と笑う池本さん。
今では毎日のように、宿からの美しい夕陽の写真をブログにアップしているが、
それも外からの「実際に見てみたい」という声が多かったから気がついたこと。
〈神恵内村魅力創造研究会〉では、毎日発信しつつ、
村の財産を探し、「魅力」を「創造」する活動にも力を入れている。
そのひとつが、春に旬を迎える地元のサクラマスを使った〈サクラマスカレー〉。
かつて25キロほど南の岩内から定期連絡船〈かむい丸〉が主な交通手段だった。
昭和45年ごろをピークに、昭和60年までは運航していたものだ。
だから肉を手に入れるのは難しかった。
その代わり、ここは海に突き出た小さな半島。豊富な魚がある。貴重なタンパク源だ。
「特に私の実家がある珊内(さんない)地区では、サクラマスカレーが食べられていました。
90年代くらいになると、お肉のカレーのほうが増えてきましたね。
断然、お肉のほうがラクにつくれますから。
自分でつくってみて初めて、骨を抜く手間などの大変さに気がつきました」
魚離れが進んでいる今の子どもたちに、
カレーに魚を入れるというのは食べやすくていいかもしれない。
今では、神恵内の郷土料理として学校給食にも出るようになった。
もうひとつ、〈神恵内村魅力創造研究会〉発足当時からの悲願だったのが、盆踊りの復活。
しばらく開催されていなかったので、神恵内音頭の歌も踊りも、ほとんどの人が忘れていた。
そこで研究会のメンバーで覚えているお年寄りに教えてもらい、20年ぶりに復活させた。
「人口900人の村なのに、400人も来てくれたんです。
たくさんのおじいちゃんおばあちゃんがちゃんと浴衣を着て来てくれて。
すごく感動しました」
祭りがあると、地域に人が戻ってくる。そんな求心力になっていけばいい。
問題がひとつ。やはり人手不足だ。〈神恵内村魅力創造研究会〉は有志団体。
専任者がいるわけでもなく、みな、通常の仕事を持っている。
「おかげさまでいろいろと声をかけていただく機会も増えたのですが、
人手が足りなくて受け入れられないケースも出てきました。
20代などの若い世代も増やしていきたいです」
せっかくのアイデアがたくさんあっても、人手がなくて実現できない。
とはいえ12人からスタートした〈神恵内村魅力創造研究会〉は、現在23人を数える。
新しく赴任した教師や、地域おこし協力隊のメンバーなどが入会してくれた。
外部へはフェイスブックなどの発信や
雑誌・新聞などの取材を通して認知されるようになってきたが、
村内には活動内容や会の存在自体がまだまだ普及してしない。
そのためにも、もっとメンバーを増やし、村内を巻き込んだ受け入れ態勢や、
積極的なイベント開催などが必要になってくるのだろう。
前述の通り、神恵内は通過型になってしまった。
それならばと前向きに考えて、ほかの地域と広域連携していく方向も考えた。
そこで立ち上げたのが、〈しりべし女子会〉、通称〈しり女〉だ。
しりべし(後志)とは、積丹をはじめ小樽、ニセコ、余市など北海道西部の地域を指す。
「神恵内を含めて周遊する人が多いので、各地域のキーとなる女性たちと組みました。
私たち自身は動けないけど、『私たちに会いに来て』というスタイルです。
『岩内に行くならココ、ニセコに行くならココ』と
人や行き先を紹介していくことができます。
それらをつなげて『しりの駅』をつくろうと妄想しています」
結局は、人が地域をつくり、人が人をつなぐ。
池本さんは〈神恵内村魅力創造研究会〉〈しりべし女子会〉と積極的に活動していく。
Uターン者や広域に連携していくことを通じて、
神恵内の魅力や田舎の良さというものを再認識していくようだ。
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「ここには何もないと自分たちでも思っていました。実際にそうかもしれません。
しかし人によって価値観は違います。
私たちの『何もない』という感覚が、
都会から訪れる人にとってみたら『静かでのんびり』という感覚になります。
だから田舎感を打ち出していこうと思っています」
都会に少なくて、田舎にたくさんあるものは何か。
「田舎は命だけはたくさんある。命の集まりです。木やその下を流れる小川、海。
そうした自然にあふれる命にふれることで、知らないうちに元気になるのかなと思って」
池本さんの世代が還暦を迎えるころは、
人口が半分近い500人程度になるという試算もある。
神恵内から通える範囲の高校は隣町の岩内高校しかないので、それ以外に進学するとなると、
中学卒業と同時に村から出なくてはならない。
実際、今年4人いた中学卒業生は全員、村から出ることになってしまった。
「実際にそのときになったら、神恵内に住んでいられるのかという不安もあります。
自分の子どもたちも、外に出たほうがいいかもしれないという葛藤も、正直あります」
かつて遠くの専門学校よりも神恵内から通える地元での就職を選んだ池本さんにすれば、
悲痛だがリアルな言葉だ。でも今は前を向くしかない。
「今ここに住んでいる以上、神恵内を精一杯アピールしていきたい」
きのえ荘に泊まって話していると、明るく地域を案内してくれる。
純粋な神恵内DNAの池本さん自身が、すでに神恵内名物かもしれない。
いま会いに行ける女将である。
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民宿きのえ荘
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