連載
posted:2022.4.15 from:北海道函館市 genre:活性化と創生 / アート・デザイン・建築
〈 この連載・企画は… 〉
地方都市には数多く、使われなくなった家や店があって、
そうした建物をカスタマイズして、なにかを始める人々がいます。
日本各地から、物件を手がけたその人自身が綴る、リノベーションの可能性。
profile
Masayuki Togashi
富樫雅行
とがし・まさゆき●1980年愛媛県新居浜市生まれ。2011年古民家リノベを記録したブログ『拝啓 常盤坂の家を買いました。』を開設。〈港の庵〉〈日和坂の家〉〈大三坂ビルヂング〉で函館市都市景観賞。仲間と〈箱バル不動産〉を立ち上げ「函館移住計画」を開催し、まちやど〈SMALL TOWN HOSTEL HAKODATE〉を開業。〈カルチャーセンター臥牛館〉を引き継ぎ、文化複合施設として再生。まちの古民家を再生する町工場〈RE:MACHI&CO〉を開設。さらに向かいの古建築も引き継ぎ、複合施設〈街角NEWCULTURE〉として再生中。地域のリノベを請け負う建築家。http://togashimasayuki.info
credit
編集:中島彩
北海道の函館市で設計事務所を営む富樫雅行です。
事務所を立ち上げ、施工や不動産賃貸、店舗など小さく広く挑戦して10年。
この連載では、函館市西部地区を中心とする活動についてお届けしていきます。
まずは独立するにあたって、最初に基礎を築いた自邸、
〈常盤坂の家〉についてご紹介します。
私は愛媛生まれの千葉育ちで、大学から北海道の旭川に渡りました。
学生時代にはインターンで東京の事務所に通ったのですが、
多忙すぎる仕事と都市生活に「ここでは暮らせない」と、北海道に残る決意をしました。
北海道では誰が何をやっているか顔が見える規模で
人口20~30万くらいの都市に絞ろうと、古いまち並みの残る函館で就職。
ところが紆余曲折あり一度函館を離れ、その後また戻って
建築家・小澤武氏の元で修業し、32歳で独立することができました。
(独立までの長い道のりについてご興味のある方は、
ウェブメディア『IN&OUT』のインタビューをご覧ください)
独立するなら、函館のなかでも旧市街地の西部地区に居を構えようと決めていました。
函館も西部地区を離れて郊外に行けば、日本のほかのまちと変わらない風景が続きます。
ところが西部地区は函館山の麓に広がるエリアで、津軽海峡と函館港の海に囲まれ、
その向こうには駒ヶ岳が望めます。
まちには路面電車やロープウェーが走り、
開港都市として西洋文化の香るレトロな建物群もあり、
多様な要素によってつくりあげられた、“ここにしかない景観”が広がるまちなのです。
僕にとっては魅力溢れるまちですが、
地元の人にとっては雪国で坂道というダブルパンチで、
郊外への移転は増加傾向にあります。
所狭しと建てられた建物の越境問題や隣家に屋根の雪が落ちる問題もあり、
多くの建物は上手く継承されずに解体されていくのが現状です。
そもそも函館はペリーが来航し、横浜・長崎とともに
日本で最初に開港したまちとして有名です。
それ以前には北前船の寄港地として栄え、明治以降は北洋漁業の基地として栄え、
当時は函館が東京以北最大の都市であり、その中心が西部地区でした。
いまも多くの貴重な建物が残っていますが、
それらは観光地化された見世物としてではなく日常の暮らしと共存していて、
そんな素朴な雰囲気が気に入っています。
とはいえ、高度成長期後に建てられたのはマンションと建て売りの住宅ばかりで、
函館の個性を生かした建物は少なくなってきています。
古き良き時代の建物が残っていても、空き家が目立ち活用されるのはわずかで、
誰も見向きもしない。
「なぜ誰もやらないんだ」という思いから、
「それならば、独立をきっかけに自分がやろう。
西部地区で建築をやるからこそ意味がある」
と、そんな思いも西部地区に根を張るきっかけとなりました。
Page 2
そんな愛する西部地区にて、まずは事務所兼住宅にできそうな物件を探すことに。
すると物件情報の安いほうから2番目の260万円で出てきたのが、
常盤坂の中腹にある昭和9年に建てられたこの物件。
函館の古民家の典型のような和洋折衷の建物で、さっそく内覧に行くことにしました。
正面はかわいいのですが、家の中に入るにつれて床が落ち、雨漏りもひどい状態。
ただ、当時の自分にはこの家が魅力的すぎて、
さらに家を買うことにテンションが上がり、まだその後の現実は見えていませんでした。
銀行で融資がつかず、金融公庫に夢を実現するための事業計画を提出し、
無事に審査が通って、2011年11月に常盤坂の家を購入することができました。
事業計画とはいえ、今考えると節穴だらけのものでした。
当初の計画では予算は300万、半年でリノベを終える算段でしたが、
最終的には100万の追加融資を受け、2年半の月日を費やすことになりました。
なぜ2年半もの時間がかかったのか……。
思い返すと「考えが甘かった」のひと言に尽きます。
予算が少なく、多くの作業を自力でやるしかありません。
解体ひとつとっても家の歴史や当時のつくり手の気持ちなど、
見えない何かを探しながら対話を重ねる毎日でした。
大まかにいうと1階は事務所、2階は住居にする計画。
工事の途中では、近所の方が見に来て差し入れしてくれたり、
向かいのおばさんも出て来て井戸端話に花が咲いたり、
地域の人の動きが見られるのもとてもおもしろかったです。
当時はYouTubeなどネット上に参考にできる情報はなく、
自分にも古民家リノベのノウハウはなかったので、ひとつひとつの実践が勉強でした。
その経験が誰かの参考になればという思いと、この家と向き合った記録として、
ブログ『背景、常盤坂の家を買いました』をリアルタイムで配信しながら進めました。
Page 3
ブログを始めると、ぽつぽつとお手伝いや見学に来てくれる人がいたり、
北海道の雑誌『KAI』に掲載されると東京在住の人から連絡があり、
その後近所に移住してくれたり、いろいろな交流が生まれました。
日々解体しながら当時の職人の技に触れ、
「これはスピードを求めて新建材をバタバタ貼り
ちょっとカッコよく直して住めばいいわけではない」と思い始めました。
つくられた当時の痕跡をたどっていくように、ひとつひとつの部材を大切にほぐしていき、
それを再利用して、再編集するようなリノベーションのイメージができてきました。
それは計画してできるものではなく、その都度、
外した部材たちとセッションするように、
思いを巡らせてはコツコツとかたちにしていく毎日でした。
Page 4
当初の予定から2年半が過ぎた頃、ようやく2階住居部分の完成の目処がつき、
オープンハウスを2日間行いました。
公開の前日には、のちにリノベすることになる
花屋〈BOTAN〉の加藤公章くんに装花をお願いしたり、
こちらものちに登場する〈池見石油店〉の社長が掃除のお手伝いに来てくれたり、
なんとかお披露目の日に間に合いました。
オープンハウスの当日には列ができるくらい多くの方にお越しいただきました。
一度見に来た方が「価値観が変わった」とまた友だちと旦那さんを連れて
戻ってくるなど、予想以上の反響がありました。
その1週間後、工事をサポートしてくれた〈繁工務店〉の西村芳美さんが
手伝ってくれ無事に引っ越しを終えました。
工事開始から2年半の間に娘の菜奈が生まれ、引っ越しのときには1歳4か月に。
家族には「本当にお待たせしました」という気持ちです。
とはいえその後仕事が立て込んでしまい、実は10年経った今も1階は未完成のまま。
娘はもう4年生に、その下に息子の源が生まれ、4月から小学校に入学します。
息子の夢は建築家になることだと地元のテレビ番組でうれしいことを言ってくれたので、
今年は子どもたちと1階の床を張ったり、
10年ぶりに続きを始めようかと思っているところです。
建築家だから当然DIYできると思われがちですが、
僕はこの家をやるまで建物の知識はあれど、電動ノコギリを初めて触るくらい、
工事の技術はまったくありませんでした。
自分でやらなければならない状況に追い込み、自分の手を動かしたからこそ、
深く物事や成り立ちを考えてアイデアが生まれ、
つくったものに納得し愛着が湧いてきます。
自ら実践しノウハウを蓄積でき、それを自分の言葉で発信することで、
次の仕事にもつながっていきました。
そして仕事の礎になる部分を、自分の責任とお金で学べたことが
何よりの財産になったと思っています。
さて、そんな常盤坂の家の工事も佳境に差しかかった頃、
よく顔を出してくれていた近所の人から
「外観からはわからないけど、古くて貴重な建物が壊されそうなので、
一緒に中を見てくれないか」と相談を受け、
新たな拠点づくりが始まることになりました。
次回はそのお話を。
information
富樫雅行建築設計事務所
住所:北海道函館市弥生町19-8
Web:富樫雅行建築設計事務所
Feature 特集記事&おすすめ記事
Tags この記事のタグ