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伊豆への移住に乗り気でなかった妻が、
下田での暮らしを楽しんでいる理由|Page 3

暮らしを考える旅 わが家の移住について
vol.079

Page 3

なぜ、移住しようと思ったのか

講演では、まず自己紹介、
そして、なぜ移住を考えるようになったのか? から話し始めました。

講演の様子

ここでもあらためて少し紹介します。
妻は大学で写真を学び、卒業後、この『コロカル』の配信元でもある
出版社〈マガジンハウス〉にカメラマンとして入社しました。
入社後はや『Hanako』や『anan』といった雑誌の
タレントや料理写真などの撮影で経験を積み、
徐々に大きい仕事も任されるようになったそうです。

いわば、「東京でしかできない仕事をしていた」とも言えます。
そんな妻が「東京ではできない暮らしをしたい」
と思うようになったきっかけは、大きくふたつありました。

2011年3月11日、東日本大震災。
その3か月後の娘の出産、です。

東日本大震災のあと、東京のスーパーの食品棚は空っぽになりました。

商品がなくなったスーパーの食品棚

その棚を前に呆然として、食品を「買う」ことしかできない
自分たちの弱さを痛感。
さらには、自宅周辺でも地域によっては断水や計画停電もあり、
放射能汚染の情報も錯綜していました。

こうしたことが重なり、「お金」だけで
暮らしの基盤をつくりあげるというそれまでの価値観、
「消費する暮らし」に疑問を抱き始めたのです。

「おなかの中の子どもを守っていくためにも、
何かを変えなければいけない」と。
でも、何をどう変えればよいのか? まったく見えていませんでした。

そんな経験を経て、3か月後に娘を出産、育休後に職場に復帰すると、
マガジンハウスに新しい媒体が誕生していたのです。
それがこのコロカルです。

実は、コロカルを立ち上げた初代編集長は、
入社以来お世話になっていた大先輩でした。
そんなつながりもあったことから
次第にコロカルの撮影を任されるようになっていきました。

コロカルの撮影で地方を飛び回っていると、
空っぽのスーパーの棚を前に呆然とした自分とはまったく違う、
「生きる知恵」のある人たちとの出会いがありました。

祖谷で出会った都築麗子さん

「美味しいアルバム vol.022 山の恵みと暮らす。祖谷で出会った民謡と郷土料理」より。「田舎は食べるものにお金がかからないからいいよ~」

沖縄・大宜味村で出会った金城笑子さん

「美味しいアルバム vol.021 100年続く暮らし方。おばあの食卓を伝える沖縄・大宜味村〈笑味の店〉」より。「無理して高収入得なくても半分くらいにしてさ、地方で何もかも自分で工夫して育ててさ。そういう生活したほうがいいよ。やってみたらわかると思うから、土を身近に感じる暮らしの良さがね」

こうした人たちに刺激を受け、
自分たちももっと生きる知恵を身につけたいと、
「東京ではできない暮らし」に目を向けるようになっていきました。
こうして見ると、コロカルがこのタイミングで始まり、
そこに関わるようになっていったことは、
妻にとり、わが家にとり、かなりのキモだったのだと感じます。

その後、社員としてフルタイムで働くことと
子育ての両立の難しさを感じ独立。
しばらくは東京でフリーランスのカメラマンとして
仕事をしていましたが、地方へ向いた意識がだんだんと大きくなり、
結果、移住を決意しました。

といっても、東京生まれ東京育ちの僕ら夫婦には
移住先のあてがなく、移住先を探す旅に出たのです。
この連載は、ここから始まっています。

目指すはこんな暮らしでした。
すべてを自給自足とまではいかなくても
米や野菜など自分たちのつくったものが食卓にのる。
効率ですべてを考えない、手間をかけた暮らし。
そんな暮らしを実践している人がいる土地がよいだろうとも
思っていました。

これは、何も知らない、できない自分たちが
教えを請いたいということでもありましたが、
妻としては、そうした生きる知恵のある人たちを写真におさめたい、
という気持ちもあったようです。
妻のカメラマンとしての衝動のようなものかもしれません。

ひじきを干す風景

「美味しいアルバム vol.018 熊本・天草 前編 ひじき漁」。 熊本県天草諸島の港いっぱいにひじきを干す風景。家族で旅行をしていてもこうした「食」の生産現場に出会うと目の色が変わったように撮影に没頭していました。