連載
posted:2013.5.4 from:沖縄県国頭郡国頭村 genre:アート・デザイン・建築
〈 この連載・企画は… 〉
生きていることは、それ自体、祝福であるのか。
みずからの問いに、みずから真摯に答えるように作品をつくり続けてきた美術家・内藤礼。
この世の聖地をいくつも出現させてきたアーティストに訪れた新しい兆しーーーそれが「ひと」。
「ひと」はどこから、なんのために地上に生まれてきたのか。そして何を見ようとしているのか。
その答えを探す旅がはじまる。
profile
Rei Naito
内藤 礼
ないとう・れい●美術家。主な個展に、1997年「地上にひとつの場所を」(第47回ヴェニスビエンナーレ日本館)。2009年「すべて動物は、世界の内にちょうど水の中に水があるように存在している」(神奈川県立近代美術館 鎌倉)。パーマネント作品として、2001年「このことを」(家プロジェクト『きんざ』、直島)。2010年「母型」(豊島美術館)がある。2011年「ひと」の制作を開始し、NY、ベルリン、東京(佐賀町アーカイブ、ギャラリー小柳、空蓮房、資生堂ギャラリー)で発表。
はじめて世界を見たときのことを、ひとはおぼえてはいない。
視る力を授けられた者であれば誰にでもあったはずの、そのとき。
まぶたをひらき、おろしたての目で見た景色はどんなふうだったのだろう。
それは、慈しみに満ちた母の笑顔。
あるいは、その膝に抱かれて見あげた空の無限だったのか。
あまりに幼くて、あまりに生まれたてで。
内藤礼さんが「地上はどんなところだったか」と題した作品を
はじめて発表したのは2005年の春、ギャラリー小柳での個展だった。
99mm×22mmの横長の長方形の紙片。
淡いブルーに塗られたそれは、全面くまなく針で穴があけられている。
紙片はアクリルボードに入って天井から天蚕糸で吊り下げられ、
それを通して向こうを見ると景色がぼんやりとした光と影だけになり、
色もかたちもすべてがおぼろになる。
その淡い陰影のなかで、光のありかだけがはっきりとわかる。
明るいものがたしかにあることが感じられ、その明るいほうを見てしまう。
———もしも死んだひとが、地上はどんなところだったかと思い出すとしたら、その風景はこんなふうに見えるんじゃないか。
作品の深奥には、そんな思いがあったようだ。
————死者以外にも、地上という生の外側に存在する者たち、これから生まれくるひとや、精霊、あるいはもしかして動物たちの目にも。
遠くから見る地上は距離に祝福されてやさしく滲みあう。
境界も摩擦も溶けて薄らぎ、そのぜんたいが灯されたように明るい。
それはどんなにか平穏で、やすらかな世界だろう。
————地上に存在することは、それ自体、祝福であるのか。
内藤さんの作品のおおもとにあるのは、つねにそのシンプルな問いである。
つまりは、生きているとは、それだけでよろこびであるのか、と。
そして彼女は、みずからのその問いに対し、
つねに熱烈に「イエス」と答えたがっているように見える。
死んだひとに問うて「イエス」と聞き、
これから生まれくるひとに「だから、おいで」とやさしく耳うちをする。
それは生の属性である汚れや苦悩を見ぬふりしてのきれいごとではけしてない。
彼女の細い指は、どれほど深い闇からも朝露のような生の輝きをすくいとることができる、
特別な指のようにわたしにはうつる。
そして、ほらね、とうれしそうに手のひらにのせ、
はかなくふるふると光る粒をわたしたちに見せてくれるのだ。
1991年。佐賀町エキジビットスペースで発表された個展「地上にひとつの場所を」は、
わたしの人生で最善の体験だったといってもいい。
うす闇に乳白色の布で囲われた卵形の空間が発光しながら浮かび、鑑賞者は靴を脱いで、
ひとりずつそこに入っていく。
足もとには毛羽立ったフランネルが敷きつめられて、綿の国のように柔らかだ。
わたしは顔をあげ、ひらけた光景に呆然とした。
ちいさいもの、かぼそいもの、愛らしいもの、透きとおっているもの。
糸や針金や竹ひごや、種やガラスや粘土でできた、名状しがたい、いや、はなから言葉になどならない見たことのない、信じられないほどのかそけさで存在する光の小兵隊のようなものたち。
ふだんは何かに隠れ、ひそみ、そんなあわいのかけらたちが、注意深くこしらえられた安全地帯に無防備に現出している。黙っているなら見ても(いても)いいよと、やすらいで。
その神聖さを天界にたとえるのは容易だが、
個展のタイトルにあるように、そこはまぎれもない地上なのであった。
胸の奥でことりと、重いふたがひらくのを感じた。
柔らかく閉じられて立ちあがり、ふくらんでいくものがあった。
こうして言葉にほどけるのも長い時が経ったからで、
そのときはただ、包まれていただけだった。
ひたすらにやさしく、あたたかい何かに。
「わたしはたまたま生きてる係なの」
そう言ってひっそり笑うひとは、地上に、わたしの隣にいながらにして、
同時にいくつもの異次元を往還する、羽のようなまなざしをもっているらしい。
あの青い紙片を通さずとも、
すでにこの世を去ったひととして、あるいは、これから生まれくるひととして、
遠くから地上を俯瞰しているような感覚が、いつの頃からかずっとあるのだと言う。
それを決定づけたともいえるできごとが、
ある秋の日の夕暮れどき、夕焼けに惹かれてふと出た
自宅のベランダから、なにげなくふりむいた瞬間、
部屋の中にいる自分自身を目撃してしまったという超常的な体験である。
そのとき一瞬にして、走馬灯のように、みずからの生の全貌も見てしまった。
唯一の居場所である小さな自分の部屋にいて、
仕事をしたり寛いだり、よろこんだり泣いたり、それが自分の生でそれ以外ではない。
死の予告ともされるドッペルゲンガー(自分の写し)現象を連想させるこのできごとを経て、
まなざしの飛翔はより自在になった。
ピンで穿たれたような強烈な生の受容とひきかえに。
わたしが内藤さんにはじめて会ったときの印象は、まぶただった。
(あそこにたくさんの秘密が隠されている)
そのとき自分は近寄りがたく、そんなふうに思ったものだ。
佐賀町の個展時の短いインタビューだったが、何を話したかはおぼえていない。
ひとりずつ鑑賞するという画期的な様式は長蛇の列を呼び、
繊細な作品のメンテナンスのために会場に
つきっきりで詰めていた作家は、疲弊もあってか作品同様、
とてもフラジャイルで透明な存在に見えた。
わたしは、このしんとしたひとをそっとしておいてあげたい、
強くそう感じたことをおぼえている。
いま思えばあの気持ちは、ふらりと入った教会の翼廊の薄闇に跪いて
懸命に祈るひとを見てしまった、
そのときの罪悪感にも近い感情だったかもしれない。
沈黙の重さにおののき、それを侵さないようにと、息をひそます。
それから20年後に一緒に旅に出るなんて、
そのときの自分には思いもよらないことだった。
1991年の個展以降もしばらくは、外界を遮断して、ひとりきりで
自分の内側の階段を降りていくような作品を発表し続けた内藤さんが、
2005年に「地上はどんなところだったか」を発表するまでのあいだには
いくつかの作家的転換点があった。それについて、少し記しておきたいと思う。
〈自己〉(深い内省)から死者も含む〈他者〉へとまなざしが移行した
最初の作品ともいえるのが、1997年にフランクフルトの古い修道院を舞台に
制作されたインスタレーション「Being Called」である。
会場となった石造りの空間には
16世紀のドイツ・ルネサンス画家の手で描かれた宗教壁画の断片が残り、
内藤さんはひとりでそこに籠って数日を過ごすうち、絵に描かれた聖人や使徒(=死者たち)がかつて自分と同じ命をもっていた存在として、親しくありありと感じられるようになっていく。
さらには、過去にそこで実際に生きて死んでいった修道僧たちや、これからそこにやって来るはずの存在、自分がいなくても連綿とそこにある絶えまない命の連続性への気づきが、
それまでもちえなかった至福感につながっていく。
「壁画に描かれた人数を数えたら、だいたい304人。彼らにひとつずつ、手のひらにのるようなちいさい枕をつくりました。この作品も(空間に)ひとりずつ入ったのですが、他の人の気配、存在を感じるために7つの席を用意して。実際に誰かそこにいるかもしれないということではなく、世界には自分以外の人間がいるということを思い出してみたかったのだと思います」
(「ART IT 第23号」インタビューより抜粋)
死者という他者を「発見」し、彼らのためにできることをと考えたとき、
彼女がとったのが、たましいを休息させる枕をつくるという行為だった。
慣れ親しんだ素材であるシルクオーガンジーを用い、
一個一個、糸と針でぷっくり寝心地よさげに縫いあげられた304個のちいさな透明の枕は、
死者たちに捧げるように壁画前に半円弧状の列に並べられた。
「世界には自分以外の人間がいる」という表現は、あまりにあたりまえすぎて、
滑稽に聞こえるかもしれない。
しかし、世界には自分以外の人間がいるし、いたのだということを、
はたしてわたしたちは自分自身の身体的実感として「知って」いるのだろうか?
知識や常識として頭で知っていることと、実際の体験として出会い、自己の深部に滲みわたるように知る「気づき」とはまるで別物であって、内藤さんはそのふたつをけして混同しない。
「どんなにちいさなことでも、自分で気づいたというのは幸福なこと」と彼女が言うとき、
それは、気づきが訪れる心の奇跡的な静けさをよろこんでいるのである。
その区別の厳格さと、自分は何も知らないという(おそらく)生来の謙虚さが、純度の高い気づきを生み、それが作品としてつくるものの高さとなっていることを、
私は今回の旅でまのあたりにして納得することになる。
この世界には自分以外のひとがいる。
自分がいなくても世界は存在したし、これからも続いていくのだと知ることで、
内藤さんは開け放たれた。
砦を出て外へと限りなくひろがっていく、後ろ楯を得たのである。
1999年。打ち捨てられた古い民家を与えられ、空間をまるごと作品にする直島の家プロジェクト「きんざ」の制作にとりかかる内藤さんは、
フランクフルトで得た命の連続性の感覚をより強めていくことになる。
朽ちた床を剥いで現れた黒く濡れそぼった土の感触。かつて幾十ものひとが生きて死んだ場に永続して対流する大気、風、光、ちいさな生きものの気配など、
ひとの時間を超越した自然の生気(アニマ)のようなものとの出会いも果たしていく。
「そこにいて私は泣いた」と内藤さんは書き記している。
すべてがすでに与えられているというのに、
(自分は)なぜそれに触れようとしているのだろうか、
なぜ、ものを置こうとしているのか、と。
この世界にあるものとあったもの、そしてまだないものと助け合うとはどんなことだろう。私は、この世界にはほんとうはあるのに、何かのかげになって見えなくなっている名づけられぬ純粋といえるものが、ふいに人のそばに顕われてくるのを、それがどんなになにともわからないものであっても、いやむしろそれだからこそ、疑うことなくこの眼で見ようと思う。そして、それが本来、人とけっして無縁ではないことを知ろうと思うのだ。このとき、神秘はよろこび、私の中心にその幸福はしみわたる。
(作品集『このことを』ベネッセホールディングスより抜粋。傍点筆者)
作品を体験したひとであればわかるだろう。
孤独に悩みぬいたすえに内藤さんは、そこに新しい何かではなく、
すでにそこに与えられているもの、たゆたう闇に凝縮されてある何かを顕在化する、
顔なしの媒介者のようなものたちを深沈と配置していく。
風で揺れてはじめて気づく微細な糸が垂れている。
さっきは見えなかったのに、次にふりかえるとうっすら輪郭から見えてくる平らな石がある。
天候や時間のうつろいとともに刻々変化する生きもののような闇。
ふっと生の外側に出てしまい、自分自身を見る体験をしたのは、
ちょうどこの作品を制作している頃だったという。
この空間にもひとりずつ入る。
しかし、壁下の空隙からは外を歩く他者の足が見え、車の騒音やくぐもった人の声も聞こえてきて、自分がこの世界でひとりきりにされない存在であることを静かに思い知るのだ。
わたしは時々、あの闇の隅でひかえめに光を発していた白い石のことを思うことがある。
つやつやとすべらかに磨かれていた、冬の月のようなあの石。
『このことを』から抜粋した文章の「助け合う」という表現は、非常に内藤さんらしいものだと思う。
場にしても、あばかれることを望んでいるとは限らない。
そおっと近寄り、ひとかたまりの時間を過ごして親しくなり、触れることを許されてから触れる、
という律儀なスタンスを、内藤さんは自分以外のあらゆる対象に対して守り続けているようにわたしには見える。
直島以降、活躍の場はしだいに外へ、大自然へと向かい、
作品のスケールもひろがりを見せていくのだが、それに比例するようにスタンスは洗練され、
作家が手をくわえる領域はミニマムに高精度に収斂されていく。
2006年に佐久島で発表した野外作品は海の水や風がその重要な一部を担い
(「タマ/アニマ(わたしに息を吹きかけてください)」)、
2008年の横浜トリエンナーレでは、一本のリボンが、下に置かれた電熱器の熱と窓からの風が起こす対流に身をまかすように空中で運動しているだけ、という大胆さを見せた。
完全に透明な仲介役に徹したこの作品を、中沢新一氏は
「環境の中から作品が自生しているようだ」
と評したが、まさに圧倒的な生命力をもって自生する作品として、
現時点で最大級のものといえるのが2010年に完成した豊島美術館だろう。
そこに満ちる粒子のひとつぶひとつぶが、すべて笑っている。
そこにいると、自分の中で湧いているのに、
場所のわからなかった泉にたどりつくことができる。
あんなに大きな宝石を、わたしは見たことがない。
そろそろ、この旅の話に入らなければいけない。
旅に出たいと言ったのは、内藤さんからではない。
世界の各所で場に関わる作品を手がけてきた内藤さんだが、
そのすべてが与えられた場であり、ひとや縁に導かれての遠出であった。
知らない場所に呼びだされるのは、おおいにうれしい。それが作品のためであれば。
しかし、個人的に旅に出ることはなく、
そもそも「旅に出たいと思ったことがない」と聞かされたときには耳を疑った。
「旅に出る習慣もないし、訓練もしていないし、ひとりで知らないところなんか行ったら二度と家に帰ってこれないような気がする」
旅がきらい、なのではなく、恐い、のだそうだ。
用事がなければ、家から出ることすらあまりない。
朝、目を覚まし、起きているあいだは何かをつくり、夜になれば、
その日につくったものを眺めながら幸福な眠りにおちる。
それが内藤さんのやすらかな日常なのである。
そんなひとが、この曖昧な旅に出ることを決めたのは、いったいなぜか。
「ちいさな変化がある」
2011年12月。
約20年ぶりに再会した内藤さんは昔と同じしんとした空気をまとい、
たったいちど会っただけのわたしのこともおぼえていてくれた。
そして、まだうまく言葉にできない様子ではあっても、
饒舌に何かを語りたがっていた。
自分でもなんだかわからないものが、その年の春に忽然と生まれてきていたのである。
前ぶれもなくやってきて、それから毎日、生まれ続けている。
それが「ひと」である。
最初の「ひと」が生まれてきたのは6月だった。
木に触れた手が動き、気づいたら、ちいさな姿で手のひらにのっていた。
いわゆる具象の立体物が内藤礼から生まれてきたのははじめてのことである。
おとならしき「ひと」、こどもらしき「ひと」、死んでる「ひと」に未来の「ひと」、
あらゆる次元の「ひと」が脈絡なくまじりあって生まれてきた。
なかには聖人らしき「ひと」もいて、
それは、彫っているうちに身体がきらきらと光りだすのでわかるのだそうだ。
2011年といえば、夥しい死者が出た大惨事があった年である。
なんらかの遠因がそこにあるか尋ねたかったが、そのときはまだ憚られた。
この世界は、あんなことが起きてもなお、「おいで」とささやくに値する世界であるのか。
内藤さんが自分自身に、あらためてその問いを突きつけたのは想像に難くない。
ちいさきものは、ただそれだけで祝福されている、と言ったのは誰だったか。
「ひと」も、そのちいささにおいて、すでに胸を打たれるものがある。
ただの木片が「ひと」に変わる瞬間、はなたれるものがあると内藤さんは言う。
「自分が『ひと』をつくるようになって、『ひとがた』をしたものというのは、古代の土偶にはじまって仏像、お人形さん、こけしとか、これまであらゆる理由のもとに無数の人間がつくり続けてきたものであることに気づきました。私は、その連続性に参加できること、過去の誰かと同じ行為をしているということが無性にうれしいんです。考えてみたら『ひとがた』というのは地上で人間だけに与えられている形状で、そのこと自体が尊いと思うようになりました」
頭と胴体だけの単純な「ひとがた」を見ても、ひとはそれを人間と認識する。
その形状に対したとき、生身の人間のほうで引きだす感情があることに内藤さんは注目している。
「道端のお地蔵さんに毛糸の帽子をかぶせるのは、
いったい誰なんだろうって、いつも思うんです」
お地蔵さんは石でできているとわかっていても、
頭に雪をのせていれば、わたしたちの心が「寒そう」と感じる。
ひとの、「ひとがた」をした無生物への無条件の愛着は、
いったいどこから来るのだろうか。幼い赤ん坊でも、その感情はあるのである。
さらには、目、である。
目があるものは、たとえそれが無生物であってもぞんざいにはできないし、
ときにわたしたちは、それに畏れさえ抱くことがある。
「ひと」は、頭と身体と絵の具で描いたふたつの目をもつだけの存在である。
絵の具は木目に滲んで、筆をさした本人の意志からも離れた不測の表情が立ちあらわれてくる。
生まれた瞬間から、「ひと」は、すでに作家とは切り離された一個の存在なのだ。
「ひと」は、なんのために地上に生まれてきたのか。
「ひと」は、その目で、何を見ようとしているのか。
それを知りたいという内藤さんを、旅に誘った。
この旅が、「ひと」の出現の意味を知る旅になるかもしれない。ならないかもしれない。
「ぼうけん」と、内藤さんはいたずらっぽく、ちいさな声でつぶやいた。
(つづく)
information
展覧会情報
colocal exhibition「地上はどんなところだったか」 内藤 礼
会期:2012年12月2日 〜 2013年5月5日
会場:奥共同店(沖縄県国頭郡国頭村113)
『ひと』2012年 木にアクリル絵の具 21×10.5×54mm
協力:奥共同店/宮城吉邦/糸満盛也/ギャラリー小柳
主催:colocal
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