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写真家・大森克己の旅コラム
「桜を追い求めて
日本全国を歩く、長い春」

旅からひとつかみ
vol.002

posted:2019.11.1  from:全国  genre:旅行 / アート・デザイン・建築

〈 この連載・企画は… 〉  さまざまなクリエイターがローカルを旅したときの「ある断片」を綴ってもらうリレー連載。
自由に、縛られることなく旅をしているクリエイターが持っている旅の視点は、どんなものなのでしょうか?
独特の角度で見つめているかもしれないし、ちいさなものにギュッとフォーカスしているかもしれません。
そんなローカル旅のカタチもあるのです。

writer profile

Katsumi Omori

大森 克己

おおもり・かつみ●写真家。1963年、兵庫県神戸市生まれ。1994年『GOOD TRIPS,BAD TRIPS』で第3回写真新世紀優秀賞を受賞。近年は個展「sounds and things」(MEM/2014)、「when the memory leaves you」(MEM/2015)、「山の音」(テラススクエア/2018)を開催。東京都写真美術館「路上から世界を変えていく」(2013)、チューリッヒのMuseum Rietberg『GARDENS OF THE WORLD 』(2016)などのグループ展に参加。主な作品集に『サルサ・ガムテープ』(リトルモア)、『サナヨラ』(愛育社)、『すべては初めて起こる』(マッチアンドカンパニー)など。YUKI『まばたき』、サニーデイ・サービス『the CITY』などのジャケット写真や『POPEYE』『SWITCH』などのエディトリアルでも多くの撮影を行っている。ウェブ版 『dancyu』 にてエッセイ『山の音』連載中。

さまざまなクリエイターによる旅のコラム連載。
第2回は、写真家の大森克己さんが
かつて桜を追いかけて全国への旅を始めたきっかけや、
当時、感じた気持ちを綴っています。
全国を歩いたこの旅は、どのようにして終わったのでしょうか?

家の前の桜から、東北、北海道の桜まで

ちょっと前の話である。どのくらい前かというとゼロ年代の前半、
トルシエ・ジャパンとかジーコ・ジャパンの頃である。
1963年生まれの自分はまだ40歳前だった。
春になって毎年桜が咲いて人々が浮き足立つ。
当時事務所のあった西麻布の笄(こうがい)公園、
青山墓地、皇居のお堀、新宿御苑、代々木公園。
身近にあるさまざまな桜たち。花見の宴のような特別な機会でなくとも、
東京のまちを歩いていると、春になると否が応でも桜の花が目に入ってくる。

松田聖子も福山雅治もケツメイシも桜を歌う。
西行も藤原定家も本居宣長も桜を詠む。
松尾芭蕉はおそらく、一番ハードコアである。
「さまざまのこと思い出す桜かな」
こんなことを言ってしまって良いのか、という驚くばかりの平凡さである。
桜以外の植物でこの句は果たして成り立つかしら? すごいこといいますね、芭蕉さん。

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そして、打ち合わせやら、撮影の仕事やら、
娘の保育園の送り迎えなんかの日々の繰り返しのなかで、
時々、この句を思い出し、桜を追いかけてみよう、秘密を探ってみよう、
写真に撮ってみよう、といつしか思うようになっていた。

じつはその頃まで、
何故、人々がそんなにサクラサクラと大騒ぎするのかにピンと来ていなかった。
ナショナリズムと安直に結びついて
「やっぱ、桜の花の美しさって、日本人の心象の神髄だよね」みたいに
いわれることにも抵抗があった。
人間たちの想いを過剰に背負わされ、消費され続ける桜のイメージ。
しかしその一方で、確かに自分は春になって桜が開花すると心がざわめいているのだ。

本気で桜の写真を撮る、なんていうことは
もう少し年をとってからでも遅くはないのでないか、という思いとともに、
年々人出が多くなっていく目黒川沿いの桜並木を見ていると、
よろこんで自ら沼に入っていって溺れているかのような人間の狂気を感じて、
ひょっとして、これは体力のある壮年のうちに始めるべきプロジェクトなのではないか、
と気がついた。

そして開花の1週間ほど前から、東京中の通りや路地を歩き回り、
桜を見るために彷徨する日々が始まった。
東京の桜が散り始めると、
桜前線とともに北上してゴールデンウィークの頃まで長い春が続くのである。
ただひとりで里を歩き、山を歩き、飯を食い、
ときに温泉につかり、酒を飲み、眠り、歩く。
吉野や三春のような有名な桜の名所も、
それまで名前も知らなかったような特急電車が止まらないような土地もただただ歩く。

そんな桜前線を追いかける旅を数年続けているうちに気づくのだが、
桜という植物は実際、日本中で人の暮らしと密着し、共存している。
桜にまったく出会わない村もまちもほとんど無い。
開かれた雰囲気の、豊かに見える土地の桜は手入れも行き届き、生き生きとしている。
打ち捨てられたような寒村の桜はやはり寂しい。

純粋な野生の桜というものは果たして存在するのかどうか分からないが、
鳥が実を食んで糞を山に落としたであろう、山中にひっそりと、
しかし凛と咲いている姿は人里に咲く桜とは違った胸に沁みる佇まいでもあった。

そして桜の花を見続けるということには、
自分にとっても、とてつもない体力を使うのである。
毎年、4月の終わり頃にはヘトヘトになり精根尽き果てるのだ。
時間の流れを無理に引き延ばしているような、性の快感の絶頂だけを、
やみくもに求め続けるようなある種の不健康さとともに。

そして旅を重ねるにつれ、どんどん北国の桜に惹かれ始める。
東北や北海道の、厳しい冬が明け春の訪れを告げる桜は、
東京や京都のような都会の、
さまざまな人間の思惑や恣意的な文脈から遠く離れて咲いている。

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2007年、オシム・ジャパンのただ1度の5月、1か月半ほど続いた旅の終わり。
北海道えりも町庶野の公園で薄いピンクの山桜が散りながら光っているのを見た。
朝の陽光に花びらが光っているのを見て、ただ美しいと感じたそのとき、
桜を巡る旅はもう終わりにしよう、と思った。
見ることだけに集中しようとしていた自分だが、
考えてみれば、見ると同時にずっと歩き続けてきたし、呼吸し続けていた。

公園の小高い丘の頂上を目指して進むといろんな音が聴こえてくる。
道を踏みしめる自分の足音、
遠くからかすかに聴こえる波の音と鍵盤ハーモニカと歌う子どもたちの声、鳥の鳴き声。
土と樹と潮風の匂い。
この世界には目に見えないものや、
写真に写らないものがたくさんある、という当たり前のことに気がついてうれしくなった。
丘の上からは太平洋が見えた。

ここ数年は春になったからといって、巡礼のように桜を見に行くことはない。
桜についての謎が解けたわけでもない。
ただ、新浦安の自宅の集合住宅の前の〈オオシマザクラ〉の普段の姿が好きだ。
夏の豊かに茂る青い葉、台風で飛ばされてしまった紅葉しかけの落葉、
真冬のまるで裸になったような樹にたくわえられた蕾を見て、春のことを思う。
さまざまなことを思い出す。

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