連載
posted:2022.1.5 from:北海道岩見沢市 genre:暮らしと移住
〈 この連載・企画は… 〉
北海道にエコビレッジをつくりたい。そこにずっと住んでもいいし、ときどき遊びに来てもいい。
野菜を育ててみんなで食べ、あんまりお金を使わずに暮らす。そんな「新しい家族のカタチ」を探ります。
writer profile
Michiko Kurushima
來嶋路子
くるしま・みちこ●東京都出身。1994年に美術出版社で働き始め、2001年『みづゑ』の新装刊立ち上げに携わり、編集長となる。2008年『美術手帖』副編集長。2011年に暮らしの拠点を北海道に移す。以後、書籍の編集長として美術出版社に籍をおきつつ在宅勤務というかたちで仕事を続ける。2015年にフリーランスとなり、アートやデザインの本づくりを行う〈ミチクル編集工房〉をつくる。現在、東京と北海道を行き来しながら編集の仕事をしつつ、エコビレッジをつくるという目標に向かって奔走中。ときどき畑仕事も。
http://michikuru.com/
東京から北海道に移住して10年が経った。
移住のきっかけは東日本大震災。
マンションの12階だった自宅は激しく揺れ、棚の本がすべて落ちた。
その翌日、福島第一原発に事故が起こったと知った。
原発事故による放射性物質の放出が次第に明らかになっていき、
関東にもホットスポットができてしまった。
当時、長男は生後5か月。子どもを安心して育てられる場所を求め、
夫の実家だった北海道岩見沢市に移住を決めた。
ここではないどこかへ行きたい。無計画、衝動的な移住だった。
夫の実家は、これまで何度か訪ねたことはあったが、
岩見沢市がどんなところか、ほとんど調べていなかったし、
移住後のビジョンも持ち合わせていなかった。
いま、原稿を書いているのは2021年の冬至。
もうすぐ年が終わろうとする日に、仕事と子育て、
そして暮らしがどう変わっていったのかを振り返ってみたい。
まず仕事。大学4年生の頃にアルバイトで働き始めて以来、
ずっと勤めていたのが美術の専門出版社。
震災が起こったとき私は育児休暇中で、地震から2か月経った頃に
職場復帰について会社側と打ち合わせをする機会があった。
そのとき経営者から
「子どもも小さいのでまずは在宅勤務でも構わない」という提案があり、
「それなら勤務地は北海道にしたい」と私は咄嗟に返した。
すると、驚いたことに経営者はあっさりOK。
この打ち合わせのあと、慌てて段取りをして7月に移住した。
復帰してから3年半、在宅勤務を行った(その間、第2子出産で育児休暇もとった)。
ポストは書籍部の編集長。年間12冊ほどの単行本を担当し、
部下の仕事の監督や売り上げの数字も任されていた。
月に1回、東京に出向いて打ち合わせを行い、持ち帰って黙々と編集作業。
電話やメール、オンラインで東京の仕事先と連絡をとる日々。
いまにして思えばオーバーワーク。朝、目覚めると吐き気におそわれることもあった。
2015年、会社の経営状況が悪化し、在宅勤務は認められないこととなって独立。
自分から進んで会社を出たわけではなかったが、重圧から解放されたことに安堵した。
出版社時代に知り合った仲間が、書籍や雑誌の編集、執筆の仕事を振ってくれて、
本当にありがたいことに、現在まで絶えることがない。
しかも最近では、コロナ禍によってリモートワークが進んだおかげで、
僻地にいても物事がスムーズに進むようになっている。
また、2016年に山を買ったことがきっかけになり、
美術関連だけでない、新たな仕事が生まれていった。
自分でつくったイラストエッセイ『山を買う』を世に出してから、
林業関係のみなさんや山主のみなさんと知り合うことができ、
山購入や森林についての執筆や講演会をさせてもらうようになった。
北海道では美術系の編集の仕事はそれほど多くないなかにあって、
新たな関心事から仕事の幅が広がってうれしかった。
収入は勤めていた時代の半分ほど。
一家5人を支えるには十分とは言えないが、つねになんとかなっている。
移住して意識が大きく変化したのは、
お金がそんなになくても生きていけるという実感がわいたこと。
東京にいたときは、どこかに出かければ何かしらお金を使っていたけれど、
ここではスーパー以外でお財布を出す場面はほとんどない。
家賃もほとんどかからないし、
ご近所さんから野菜やおかずを分けてもらうことも多いので、
住む場所と食べ物には困ることはないだろうという安心感がいつもある。
Page 2
在宅勤務中に長女が生まれ、独立してから次女に恵まれた。
私自身は一人っ子だったので、兄弟がいる暮らしがどんなものか
イメージが湧かなかったのだが、こちらに来て子どもが3人、
ときには4人いる家も珍しくないことがわかった。
東京の住宅事情とは比べ物にならないくらい部屋の間取りは広く、
待機児童の問題も深刻化していないことを考えると、
こちらに来たからこそ3人の子を持つことができたと言えるのかもしれない。
ただ、移住したばかりの頃は、ベビーシッターを請け負ってくれる会社が
どこにもないことに不便さを感じたこともあった。
保育園の終わった時間や休みのときは、夫が主に子どもを見てくれたが、
どちらも都合がつかないこともあったからだ。
けれどだんだん時が経つにつれて、
仕事先やご近所に頼ってもいいのかもしれないと思うようになった。
長女と次女は2歳になるまで、東京への出張に連れて行き、
打ち合わせや取材にも同席させた。
これが思いがけずみなさんに喜ばれ、スタッフが面倒を見てくれることもあった。
また、取材が和やかなムードで進んだり、プレゼンがうまくいったりすることも。
家で仕事が忙しいときは、友人が子どもの遊び相手になってくれることもあり、
ご近所さんのつながりに助けられたことも多かった。
次女が保育園に通うようになって、住まいの近くに仕事場を借りた。
おかげで朝9時から夕方5時まで集中して作業ができる環境が整った。
出版社に勤めていた頃は夜も仕事をしていたが、いまはもうしない。
17時に家に帰って子どもの世話や家事をやって、
21時までには子どもたちと一緒に寝てしまう。
その代わり朝5時に起きて自宅で30分だけ仕事をする。
メールの返信やその日の段取りを考えておくと、日中サクサクと仕事が進むからだ。
Page 3
北海道に来て、子どもが増え、仕事の仕方も変わっていったが、
東京にいたときともっとも大きな違いをひとつ挙げるとしたら、
四季という自然のサイクルに暮らしを合わせていくことだと思う。
特に冬。岩見沢市は豪雪地帯。夜じゅう雪が降ってしまうと、
玄関から外へ出て車を動かすまでに、かなりの時間を要する。
打ち合わせの予定があっても、あたり一面ホワイトアウトで、
たどり着けないこともあるし、何事も天候次第。
昨年は10年に1度の豪雪となり、普段は夫に任せっぱなしの除雪を
私も何度も行ったが、それでも家の軒が壊れるなどの被害があった。
なぜこんな雪深いところに人々が住んでいるのか、
その理由がこれまで見いだせなかったのだが、最近その心境に変化があった。
今年は根雪になるのがとても遅くて、12月に入っても地面が見えていた。
白く覆われていない地面を見ていて、
自分がどこか「物足りなさ」を感じていることにハッとした。
そして、このとき自分が北海道についになじんできたんだなと悟った。
この体験のあと、雪はすぐさま降り出した。
雪というのは不思議なもので、気象条件によって、米粒のようだったり、
結晶がそのまま振り落ちてくるようだったり、たいへん変化に富んでいる。
積もった雪も、シャーベット状だったり、羽毛布団のようだったり、
氷の塊のようだったりと、その時々で感触がまるで違う。
子どもが雪をただただ踏みしめながら楽しそうに歩くのは、
感触の変化を味わっているからだと思う。
冷え込みがきつくて頬がピリピリするなか、真っ白い雪を踏みしめ歩いていると、
私も子どもと同じような気持ちになることがある。
夕方、あっという間に陽が落ちたあと、
たっぷり積もった新雪をかき分けて車を動かしていくと、
それだけで大冒険をしているように思ったりもする。
冬だけしか味わえない、ここで生きているんだという意識が
グーっと立ち上がってくるのだ。
長い雪の季節が終わったあとの春の訪れも格別。
生き物たちが忙しなく活動する夏にも、
冬支度に追われる秋にもたくさんの楽しみがある。
東京では春夏秋冬、同じ時間に出勤し、昼でも夜でも
電車やタクシーで動き回っていたことを考えると、まるで違う時間が流れている。
ここで暮らして10年、ようやく北海道時間を
体の底からつかむことができたんじゃないだろうか。
気温が10度を下回ると寒い寒いと言っていた私は、
いまマイナス10度の世界で雪をかき分け歩いている。
Feature 特集記事&おすすめ記事
Tags この記事のタグ