連載
posted:2020.6.17 from:北海道岩見沢市 genre:暮らしと移住
〈 この連載・企画は… 〉
北海道にエコビレッジをつくりたい。そこにずっと住んでもいいし、ときどき遊びに来てもいい。
野菜を育ててみんなで食べ、あんまりお金を使わずに暮らす。そんな「新しい家族のカタチ」を探ります。
writer profile
Michiko Kurushima
來嶋路子
くるしま・みちこ●東京都出身。1994年に美術出版社で働き始め、2001年『みづゑ』の新装刊立ち上げに携わり、編集長となる。2008年『美術手帖』副編集長。2011年に暮らしの拠点を北海道に移す。以後、書籍の編集長として美術出版社に籍をおきつつ在宅勤務というかたちで仕事を続ける。2015年にフリーランスとなり、アートやデザインの本づくりを行う〈ミチクル編集工房〉をつくる。現在、東京と北海道を行き来しながら編集の仕事をしつつ、エコビレッジをつくるという目標に向かって奔走中。ときどき畑仕事も。
http://michikuru.com/
この春、わたしは何かに取り憑かれたように山菜を食べまくった。
今冬は雪が少なく、3月末にふきのとうが顔を出した。
北海道に移住して、何よりうれしいのは
長く閉ざされた冬がようやく終わるという合図だ。
薄黄緑のふきのとうが雪の間からポツポツと顔を出すと、
世界は急にスイッチが入ったかのようにうごめき出す。
すべての動植物が活動を開始。
人間も同じで、農家のみなさんはもちろんのこと、会社員でさえも、
家のまわりの整備や除雪道具の片づけなどで、忙しく動き回る日々がやってくる。
ふきのとうは、山だけでなく、道路脇や庭にも顔を出す。
道民にとっては“雑草”のような存在と言えるかもしれない。
わたしとしては、ちょっと贅沢な日本料理店で食べたという経験しかなかったので、
春の珍味がそこかしこに生えていることに興奮したのだが、
同時にほとんどの人がそれを食べないことが不思議でならなかった
(フキはよく食べるが、その蕾であるふきのとうはそれほど食べない)。
ふきのとうは贅沢(?)という擦り込みがあるからなのか、
道端で見つけると「食べたい!」という欲求がフツフツとわいてくる。
やっぱり一番おいしいのは天ぷらなのだが、
揚げ物はわたしにとってはハードルが高い料理のため、二の足を踏んでいた。
そんななか、昨年から借りている仕事場のお隣さん、陶芸家のこむろしずかさんが、
お昼ごはんのお供にサッと天ぷらをつくってくれたことがあった。
ひと口食べて、全身の細胞が沸き立つような感覚があった。
東京にいたときはほとんど感じなかったのだが、
雪に閉ざされたなかでの暮らしは、体の代謝もゆっくりとなり、
いろいろ老廃物がたまっているような状態になっているのではないかと思う。
ふきのとうのほんのりとした苦みは、冬眠明けの動物と同じように、
体を冬から春へと目覚めさせる、そんな効果があるのだろう。
ふきのとうの天ぷらを食べたその日から、山菜採りが日課になってしまった。
家から仕事場まで徒歩10分。
畑や民家がポツポツある道路脇の植物たちに目を凝らし、
食べられるモノがないか探すようになった。
また、仕事場の裏は100メートルも行けば森の入口。
少し足を延ばして、笹薮の中の細い道に分け入ったりするようにもなった。
ふきのとうの次に見つけたのは“明日葉”。
今日摘んでも明日には新しい芽が出ることから、この名がついた山菜で、
裏山にたくさん生えていたのだった。
これを採ってきて、またまたこむろさんに胡麻和えをつくってもらった。
苦みと胡麻の香りがミックスされて、これもおいしい。
やはり体が求めている味だとうなずいた。
……ただ、このとき明日葉だと思い込んでいたこの植物は、
実は違う種類だったことが、その後、購入した山菜図鑑でわかった。
明日葉は温暖な地域に生える植物で、北海道で育てるのは難しいらしく、
実は、エゾニュウという植物だった。これにはヒヤッとした。
毎年山菜採りをしている人でさえ、間違えて毒草を食べてしまうことがある。
中には猛毒のものもあるので、よくよく注意しなければならないと思う出来事だった。
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それから山菜図鑑を片手に山に入るようになった。
ヨブスマソウ、イラクサ、イタドリ、チャイブ。
数百メートルの間で、いろいろな山菜がゲッドできることに気持ちが上がる。
このままいけば、畑で作物をつくらずとも、
野菜が自給できるのではないかとさえ思われた。
ただ、山菜は驚くほど旬が短い。
いっせいに芽吹いたと思ったら、3日くらいでグングン大きくなってしまう。
あまり大きくなると、苦かったり固かったりして食べられないものも多くなる。
また、たくさん山菜を食べると、胃がどーんと重たくなる。
山菜独特の苦みは、ある種の毒性分でもあるので、
そうしたことが関係しているのかもしれない。
食べ過ぎると午後の仕事がはかどらない日もあった
(やっぱり山菜だけで自給するのは難しいかな……)。
それにしても、移住して9年になるが、こんなに山菜を食べたのは初めてだった。
今年は新型コロナウイルスの感染拡大によって、
自然に対する捉え方がいつもと違っていたからかもしれない。
外出自粛が続き、人間の営みの多くがストップしたけれども、
植物たちはいつもと変わらず着々と成長を遂げていく。
山を歩いていると、コロナのことが心の中で薄まっていくような気持ちがした。
そして山菜という野性味のあるモノを体に取り入れることで、
自分も自然の一部であるという感覚が持ちたかったのかもしれないと思った。
6月に入り、緊急事態宣言も解かれ、普段の編集の仕事が急に忙しくなってきた。
草木もいっそう緑が濃くなり、エゾハルゼミがにぎやかに鳴く季節となった。
まだ、朝晩が寒く夏の訪れを感じるほどではないが、
草や花の匂いがあたりにたちこめるようになって、
“山菜熱”から覚めていくような感覚があった。
冬から春へ、そして次の季節へと、体が切り替わっているように感じ、
そして、今度は庭仕事に精を出すようになった。
庭の一角にトマトやナスの苗を定植し、ラディッシュやコリアンダー、
小松菜などの野菜のタネもまいてみた。
トマトやナスなどは、ほてった体を冷やしてくれる野菜たちだ。
季節が変わると、こうした野菜たちを体が欲しているのかもしれない。
季節とともに、自然とともに暮らすというのは、こういうことなのか。
北海道に移住して9年。たいていはパソコンの前に座って、
いい言葉が浮かばないと悪戦苦闘ばかりしてきたけれど、
コロナ禍がきっかけとなって、いままでよりも
自然と近くなったように感じられた、今年の春だった。
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