連載
〈 この連載・企画は… 〉
北海道にエコビレッジをつくりたい。そこにずっと住んでもいいし、ときどき遊びに来てもいい。
野菜を育ててみんなで食べ、あんまりお金を使わずに暮らす。そんな「新しい家族のカタチ」を探ります。
writer profile
Michiko Kurushima
來嶋路子
くるしま・みちこ●東京都出身。1994年に美術出版社で働き始め、2001年『みづゑ』の新装刊立ち上げに携わり、編集長となる。2008年『美術手帖』副編集長。2011年に暮らしの拠点を北海道に移す。以後、書籍の編集長として美術出版社に籍をおきつつ在宅勤務というかたちで仕事を続ける。2015年にフリーランスとなり、アートやデザインの本づくりを行う〈ミチクル編集工房〉をつくる。現在、東京と北海道を行き来しながら編集の仕事をしつつ、エコビレッジをつくるという目標に向かって奔走中。ときどき畑仕事も。
http://michikuru.com/
この連載も今回で99回目。スタートして約4年が過ぎた。
編集者として20年ほど“文章”というものに関わってきたが、
実は執筆にはずっと苦手意識を持っており、
月に2回の更新はもがきつつ苦しみつつということも多かった。
けれど幸いなことに、書くネタに困ったことはなかった。
わたしが住む岩見沢の美流渡(みると)をはじめとする山あいの地域は、
人口は700人にも満たないが、個性あふれる人々が多いし、
毎月何かしらのイベントも開催されており、
これらすべてを紹介できないもどかしさを
いつも感じているような状態だった(200回までネタには困らなそう)。
そんな状態の中で、以前からずっと紹介したいと思っていたのは
木工作家の五十嵐茂さんだ。
3年前から地域PR活動として〈みる・とーぶ〉という展覧会を
札幌などで開催しており、その参加者のひとりではあったが、
彼のこれまでの歩みについて腰を据えて聞く機会はなかった。
そろそろ秋の気配が感じられるようになった9月、
わたしは上美流渡にある五十嵐さんのアトリエを訪ねて、本当に驚いた。
これまでさまざまな移住者を紹介してきたが、
これほどまでに波乱万丈な人生があっただろうかと言いたくなるような、
強い衝撃を受けたのだった。
北海道と東京・青梅にアトリエがあり、行き来をしながら
木工作品の制作を行う五十嵐さんの第一印象は、寡黙で控えめ。
長年にわたり黙々と木工作品をつくってきた人物だと想像していたのだが、
それは私の思い込みだった。
取材で訪ねて最初に彼がしてくれた話は、
2014年にサンタクロースの格好をして舞踏をするという、
短編映画の主演を務めたことについてだった。
「ラッシュアワーの時間に西荻窪の駅前ロータリーで踊りました。
暗黒舞踏を踊るのはこのときが初めてだったけど、監督に
このままやっていけば1年でプロになれるって言われましたね(笑)」
また、国立奥多摩美術館というインディペンデントなアートスポットで行われた、
路上生活者によるダンスグループ〈新人Hソケリッサ!〉のトークイベントで
司会をしたこともあるのだという。
イベントをきっかけに路上生活者のみなさんと意気投合し、
青梅の自宅に彼らを泊めた日のことを、懐かしそうに語ってくれた。
「ホームレスになったとき、最初の晩が一番辛いんだって。
線路に飛び込むか、段ボールを敷いて寝るか、そのどちらかだと誰もが考えるそうです」
こんなふうに、五十嵐さんの口からは、
わたしの想像がすぐには及ばないような話が次々と飛び出していった。
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五十嵐さんは1957年に新潟で生まれた。
高校を中退し、エレキギターを持って向かった先は東京・福生市。
この時代、米軍ハウスが立ち並んでいた福生には、多くのアーティストが集い、
アメリカのカルチャーをベースにしたさまざまな音楽が花開いていた。
五十嵐さんは、福生にあるライブハウスに寝袋を持ち込み、
住み込みで働くようになったという。
幼い頃ピアノを習っていた経験もあり、ギターをはじめ
シンセサイザーや管楽器などなんでもできたそう。
19歳の頃には、半年間アメリカ西海岸で過ごし、
本場のジャズやブルースをむさぼるように聞いたという。
その後、クラブのディスコバンドとして演奏するなど音楽活動を続けていたが、
28歳のときにハッと気づいたことがあった。
「毎日、おもちゃみたいに楽しい暮らしでした。
でも、おもちゃの時代はいつか終わるなと思っていました。
そして、終わりの鐘の音が聞こえた気がしたんですよね」
おもちゃの時代のあとには放浪の時代が待っていた。
五十嵐さんは、日本で働きお金を貯めたらインドを旅するという暮らしを
10年ほど続けたという。そしてここでも終わりの鐘が鳴り、
38歳のときに手に職をつけようと思い立ち、
北海道帯広の職業訓練校で家具づくりを学んだという。
現在、アトリエを構える上美流渡に移住をしたのは15年ほど前のこと。
テレビ番組でこの地区の映像を見て興味をもったのがきっかけだった。
「隠れ里のようでいいなと思いました。
しかも、空いている土地の年間の使用料が2500円と聞き、すぐに移住を決めました」
工房は大工さんに建ててもらったが、家はひと夏かけてセルフビルドしたそうだ。
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木工作家としての転機が訪れたのは、移住して10年ほど経過した時期だった。
移住を後押ししてくれ、地域のまとめ役でもあった
陶芸家の塚本竜玄さんと、妻の千代子さんが相次いで亡くなるという出来事が起きた。
さらに同時期に、この地域に音楽スタジオをつくって活動をしていた
親友のミュージシャン、稲村一志さんの死も重なった。
「最高に困難を感じていた時期でした。恩人や師が亡くなったことで、
なぜかこの土地を出て行ったほうがいいような気がして」
それまでは札幌で展示販売をすることが多かったが、
五十嵐さんは東京の鬼子母神で行われている〈手創り市〉で
木工作品の販売をするようになった。
このタイミングで、友人を介して、青梅にある空き家を
安く貸してくれるという話が持ち上がったのだという。
「屋根が見えないくらいのゴミ屋敷でした。しかも雨漏りだらけ。
ゴミを処分し、直して住めるようにしていきました」
その後、青梅を拠点に活動するアーティストらと知り合い、
彼らとの共同アトリエで制作ができるようになり、
五十嵐さんは上美流渡と青梅を行き来する生活をするようになった。
一時は出て行こうと思ったが、新たな拠点ができたことで、
自分たちが暮らしてきた場所について距離を置いて見られるようになったという。
「そうしたら、北海道の尊さが見えてきたんだよね。
うまくは言えないんだけど、捨てられないものがあると思った。
北海道と東京のどちらかを選ぶ必要はない。二重生活がいいなあと」
いま五十嵐さんは、立川の伊勢丹や東村山にあるギャラリーなどで
作品を販売し、木工で生計を立てている。
その作品は、北海道の山桜や青梅のケヤキなど何種類もの木を組み合わせて、
ナチュラルな色合いを生かしたものが多い。
ブランド名となっている〈遊木童〉という名前にはピッタリだと思ったが、
これらの木工作品は、五十嵐さんの型にはまらない人生や
興味を持ってきたサブカルチャーやアンダーグラウンドな世界とは、
一線を画すもののように感じられた。
「確かに木工作品と自分自身に整合性は感じられなくて、矛盾があるね。
欲求不満気味だし、偽って生きている感がある。
来年2月に彫刻家として作品を発表する機会があるので、
自分自身との整合性があることをやれるかなと。
ドロドロした部分があるし、未知の生命体みたいなもののほうが俺っぽいよね」
先日、五十嵐さんは立川の伊勢丹で子ども向けのワークショップを行ったそうだ。
ボディーに車をつけた木工玩具を制作するというもので、
一部の形状は、五十嵐さん曰く“うんち型”にしたのだという。
これが子どもたちに大人気。
「これなんかは自分との整合性がちょっと出てきている感じかな。
本物の自分を出していいのかなって探っている段階だね」
と語りながら、ニッコリ笑顔を見せてくれた。
インタビューをした約2時間、私は壮大な映画でも見たような
心の揺れる時間を過ごした。五十嵐さんは、手振り身振りを交えて、
福生のライブハウスに集まった人々のカオス、
アメリカで出会った黒人やラテン系の人々との交流、
ホームレスたちの壮絶な暮らしなどを語ってくれた。
その眼差しは、きれいごとでは済まされない苦難の中で生き抜く人々に向けられており、
これらの人々の中にある、ギラギラと生命が輝く美しさのようなものに
魅了されているのだとわたしには感じられた。
この取材を終えて、わたしはこの地区で暮らす人々に
取材をたくさんしてきたつもりになっていたけれど、
まだまだ掘り下げ切れていなかったという気持ちになった。
連載100回はあくまで通過点。
連載が続くかぎり、人々の人生にスポットを当てて、
心の通い合うような機会が持てたらと思っている。
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