連載
posted:2018.9.17 from:北海道岩見沢市 genre:暮らしと移住
〈 この連載・企画は… 〉
北海道にエコビレッジをつくりたい。そこにずっと住んでもいいし、ときどき遊びに来てもいい。
野菜を育ててみんなで食べ、あんまりお金を使わずに暮らす。そんな「新しい家族のカタチ」を探ります。
writer profile
Michiko Kurushima
來嶋路子
くるしま・みちこ●東京都出身。1994年に美術出版社で働き始め、2001年『みづゑ』の新装刊立ち上げに携わり、編集長となる。2008年『美術手帖』副編集長。2011年に暮らしの拠点を北海道に移す。以後、書籍の編集長として美術出版社に籍をおきつつ在宅勤務というかたちで仕事を続ける。2015年にフリーランスとなり、アートやデザインの本づくりを行う〈ミチクル編集工房〉をつくる。現在、東京と北海道を行き来しながら編集の仕事をしつつ、エコビレッジをつくるという目標に向かって奔走中。ときどき畑仕事も。
http://michikuru.com/
9月6日未明に北海道胆振(いぶり)地方を震源とする最大震度7の地震が起こった。
わたしの住む岩見沢は震度5弱。
激しい揺れを感じたものの家具など倒れたものはなかった。
地震のあとにラジオをつけようとしたが動かず、停電していることがわかった。
その前の晩も台風の影響で、この一帯は停電していたが、
間もなく復旧したこともあって、今回もすぐに元に戻るだろうとそのときは考えていた。
朝になって、夫が防災セットの中から手回しラジオを出してきて、
被害の状況がわかってきた。
震度7の揺れに見舞われた厚真町や近隣の地域には
想像を絶する被害があったことを知った。
つい先月、取材で厚真を訪ねたばかりだったこともあり、
お世話になったみなさんの顔が次々と浮かんできた。
そして停電は、震源に近い苫東厚真発電所が停止したのが引き金となっており、
道内のほぼ全域にわたっていることがわかった。
ラジオのニュースに耳を傾けながら、東日本大震災の記憶が蘇っていった。
あのときわたしは東京で暮らし、住んでいたのがマンションの12階だったこともあり、
今回よりもはるかに長く大きな揺れを感じた。
その後も相次ぐ余震に怯える毎日だった。
そこに追い打ちをかけたのが、福島第一原発の事故と
電力供給低下による計画停電だった。
原発事故が予断を許さない状況で、各地域を時間で区切って行われた停電。
夕方から夜にさしかかる時間帯に実施された停電を体験したとき、
先行きの見えないなかで、文字通り“真っ暗闇”に突き落とされるような感覚があった。
また電気がないということは、いつも感じられた人の気配やにぎわいが一気に途絶え、
まるで時間が止まっているかのような恐怖に襲われた。
そして、テレビやSNSで情報を収集すること以外は、
数日間ほとんど何も手につかない状況だった。
しかし、今回わたしは、停電していても淡々と日々の仕事をこなすことを心がけた。
停電のためパソコンは使えないが、最近、原稿は極力手書きにしているので、
依頼があった新聞コラムを書いて過ごした。
また、この日、どうしてもやりたいと思っていた梅仕事にも精を出した。
塩漬けしておいた梅を3日間天日干しする作業を、
台風が過ぎ去った晴れ間を利用してやってしまいたいと思っていたのだ。
やがて夕暮れ。岩見沢の日没は午後6時前。
夕食をいつもより少し早めに済ませると次第にあたりが暗くなり、
子どもたちはあっという間に寝てしまった。
わたしも夫も、早いときには午後9時前には就寝するので、
子どもたちと一緒に早々に寝てしまい、ロウソクを灯したり、
懐中電灯を使ったりするのは、ほんの少しの時間だけだった。
翌朝、4時頃に目が覚めた。
この時期の夜明けは5時すぎだが、わたしにとっては十分に明るい。
いつも、この時間に起きていて、電気はつけずに暗がりのなかで、
ホームベーカリーでパンを焼く準備をし、食器を洗って夜明けを待つ。
以前は、朝起きるとすぐに電気をつけていたのだが、
この方法だと朝活動するのが、ものすごくしんどい。
あるとき、これは電気の光に対応できず、
体がこわばってしまうからだということに気づいたのだった。
それから太陽の光をゆっくり待つようにしたことで、早起きが苦ではなくなった。
こうした暮らしをしていると、冬でも午前3時には、
空がほんの少しだけ明るくなっていることがわかるようになった。
薄暗がりでコーヒーを淹れる時間は、本当にリラックスできる。
コーヒーの一滴一滴が落ちる音を聞いていると、
五感がザワザワと覚醒していくように思えてくるのだ。
Page 2
地震から2日目となり、徐々に停電が解消されている地域も出てきたようだが、
わが家は岩見沢の山あいということもあり、
復旧は最後のほうになるのではないかと予想された。
そして前日からスマートフォンの電波もずっと圏外のため、
ネットでの調べものや仕事先とのやりとりができなくなり、
この日は仕事をするのはあきらめ、家事と梅仕事に専念することにした。
梅をザルの上で干すのは、なかなか手間のかかる作業だ。
1年間、梅干しを絶やさないようにするためにつくることにしたのは15キロ。
ひと粒ひと粒重ならないように並べ、昼頃にはひっくり返していくなかで、
わたしは自分の暮らしを振り返っていた。
岩見沢に引っ越したすべてのはじまりは東日本大震災だ。
あのときの停電によって、自分が電気のある生活に
大きく依存していることを思い知らされた。
また、震災後、スーパーから物があっという間になくなったことにショックを受け、
食料のすべてをお金で買っていたことに気づかされた。
わたしが北海道にエコビレッジをつくりたいと思ったベースには、
電気など公共のものに当たり前に依存し、
お金がなければ何も手に入れられないという考えに支配されていた自分に気づき、
そこからなんとか脱却したいという願いがあった。
エコビレッジづくりは紆余曲折あって、まだカタチにはなっていないし、
食料や電気の自給自足にもいたっていない。
けれど、今回再び地震と停電を体験してみて、
大がかりな取り組みでなくても、日々の小さな積み重ねによって、
災害の捉え方が着実に変化していることに気がついた。
いままで書いたように、できるだけ手書きで仕事をすることや
早寝早起きにすることはもちろん、食料の調達方法も大きく変化している。
野菜や穀物は、知り合いの農家さんやお店から分けてもらっていて、
新米がとれた時期に一度に1俵買ったりすることも。
また、ご近所さんからどーんと野菜や果物をもらったりすることもある。
そして、できるだけ保存食をつくろうと、梅干しとともに
味噌も1年分、一気に手づくりしている。
これらは災害対策というわけではなかったのだが、
備蓄が豊富にあることから、停電中に買い物に出ることはなかった。
2日目の夜、電気が復旧。
スマートフォンからメールやメッセンジャーの到着を告げる音が何度も響いた。
東京の友人から安否を心配するメールがたくさんきていたのだった。
ずっと電波が圏外だったので、これは思いもよらなかった。
同時に震源に近い地域の人たちが多大な困難を抱える、
大きな地震であったことをあらためて実感した。
停電後、地域の人たちが口々に語っていたのは
「これが冬でなくて本当によかった」ということである。
北海道でポピュラーなストーブは、燃料は灯油でも
起動させるのには電気を必要とするタイプのものが多い。
真冬は日中でも氷点下であることから、ストーブなし生活は困難を極める。
そう考えると、まだまだ生きる力を身につけていかなければならないが、
暮らしのちょっとしたことを変えていくだけでも、
災害への対応力がつくということが実感できた。
そして、普段から夜になると街灯がまばらで、
暗く静まり返っている美流渡での停電は、東京で体験した“真っ暗闇”とは違い、
星のきらめく“明かるさ”すら感じられるものだった。
暗闇とは、光が強ければ強いほど、その落差によって生じるものなのだ。
災害によって教えられることは多い。
悲しいニュースに心を痛める日々だが、いままで当たり前と思っていたことを
もう一度振り返る機会だと思って、これからの暮らしに生かしていきたい。
Feature 特集記事&おすすめ記事