連載
posted:2016.2.12 from:北海道岩見沢市 genre:暮らしと移住
〈 この連載・企画は… 〉
北海道にエコビレッジをつくりたい。そこにずっと住んでもいいし、ときどき遊びに来てもいい。
野菜を育ててみんなで食べ、あんまりお金を使わずに暮らす。そんな「新しい家族のカタチ」を探ります。
writer profile
Michiko Kurushima
來嶋路子
くるしま・みちこ●東京都出身。1994年に美術出版社で働き始め、2001年『みづゑ』の新装刊立ち上げに携わり、編集長となる。2008年『美術手帖』副編集長。2011年に暮らしの拠点を北海道に移す。以後、書籍の編集長として美術出版社に籍をおきつつ在宅勤務というかたちで仕事を続ける。2015年にフリーランスとなり、アートやデザインの本づくりを行う〈ミチクル編集工房〉をつくる。現在、東京と北海道を行き来しながら編集の仕事をしつつ、エコビレッジをつくるという目標に向かって奔走中。ときどき畑仕事も。
http://michikuru.com/
エコビレッジをつくる拠点として、春になったら空き家をリノベーションし、
また購入を計画中の山での活動を始めようとしているいまこのときに、
ぜひ、ある女性のことを紹介しておきたいと思う。
その女性とは、のんちゃんこと飛澤紀子さんだ。
彼女とは少なからぬ縁がある。
いま、のんちゃんは“村”をつくりたいという構想を持っていて、
さまざまな行動を起こしている。
そして、リノベを考えている空き家がある岩見沢の美流渡(みると)地域に、
村をつくるための場所を探しに来たことがあるといい、
また、なんとわたしが購入しようとしている山の土地についても、
以前に買うことを検討していたそうだ。
さらに、お互い東日本大震災がきっかけになり北海道へ移住をしており、
その時期も5年ほど前とちょうど重なっている。
こうしたいくつもの接点があるが、大きく違う点もある。
彼女は福島の鏡石町の出身で、震災によって自宅が半壊し、
避難所生活を経て北海道へ自主避難をした。
わたしは東京で震災を体験し、その後、直感的に
都会的な暮らしからシフトする必要性を感じて、この地に移住してきたわけだが、
違う点というのは震災への向き合い方だ。
震災とは自分にとってなんだったのかについて、
わたしはうまく言葉にできていないし、移住したことに後悔はないけれど、
仕事の関係もあって毎月東京に出向き、中途半端な状態であることが
心に引っ掛かっている。
対して、のんちゃんは震災という事実をしっかりと受け止め、
自身の進むべき道を見出しており、そのビジョンが“村”へとつながっているのだ。
今回は、のんちゃんの村づくりへの想いをリポートしつつ、
自分が移住して抱えているモヤモヤとした部分にも切り込んでいけたらと思って、
この原稿を書いている。
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のんちゃんが福島から北海道へ母子で避難をしてきたのは2011年6月のことだ。
当時、6歳と4歳だった子どもを抱え、
札幌に来てから出会ったという知人の家でホームステイをし、
その後、牧場に住み込みで働くなど、各地を転々とした。
そして、移住から2年後、札幌から車で1時間ほどの
長沼という場所で暮らすことになった。
縁があって住むことになった家には、店舗として使われていた部分があり、
のんちゃんはこの場所を〈ひまわりスマイルのんちゃんち〉と名づけ、
ライブやトークなどのイベントを開催し、多くの人々の集いの場を生み出した。
避難をしてから各地を転々とするなかで、
のんちゃんは被災者たちがつながる必要性を感じ、
北海道の震災関連のイベントや集会などに積極的に参加し、
ネットワークを築いていったそうだ。
また、自身の体験を語るお話会も開くことにし、
3.11をきっかけに生き方を転換し、この日を“希望の日”にしようと訴えた。
多くの人命が失われたなかで、希望という言葉は
似つかわしくないと思う人もいるだろうが、
被災者であるのんちゃん自身が「希望」と語ることによって、
多くの人が変化するスタートラインに立ってほしいと彼女は考えているという。
お話会でのんちゃんは、震災によって気づいた多くのことについて語っている。
例えばそれは、震災直後、お店に行っても物が買えないという状態から、
お金がなんの役にも立たないという危機的状況があると知ったことや、
一時身を寄せた避難所で集団生活をしたことなど、自身の体験にもとづく話だ。
「避難所では、布団1枚が自分の居住スペースで
隣の人とはなんの隔たりもありませんでした。
自宅が半壊や全壊して絶望を感じている人たちがそこにはいましたが、
わたしは集団生活のなかではコミュニケーションをとることの大切さや
ポジティブでいることの大切さを感じました。そして知ったのは、
ものがない状態から知恵と工夫が生まれてくることだったんです」
断水していることから水洗トイレが使えない状態だったとき、
のんちゃんのおじさんは地面に穴を掘ってコンポストトイレのようなものをつくった。
子どもたちは靴下を丸めてボールにしてキャッチボールを始めるなど、
工夫して遊ぶようになった。
また、水をもらうために給水車の前に並んだときに、
「水は蛇口から出るものではなく、本来は川に汲みに行くものだったんだ」
ということに気づかされたこともあったという。
「いろんな意味で究極を体験して、そこから浮上したのが
“村”のイメージでした」とのんちゃんは言う。
この村で大切にしたいのは、本来の生き方とコミュニティのあり方を見つめ直すこと、
食を考え直すこと、感謝して生き、与えられたことを受けとめることだ。
もうひとつ、「見えないものに任せない、自分の責任で生きる」
ということも重要だと言う。
「見えないものに任せない」とは、例えば行政に頼りきりになるのではなく、
顔の見える間柄の人たちと協力しながら自らの力で立ち上がるという考えだ。
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こうした理念を実現する村をつくるために、のんちゃんはこの数年間
準備を続けており、山に土地を探しに出かけていたのだった。
わたしが購入しようかと思っている山(前回を参照)についても
候補のひとつとして浮上したことがあったそうだが、
水源がないこと木がないこともあり、別の場所を探してみることにしたという。
そして、岩見沢の美流渡の先にある万字(まんじ)という地域で、
よい場所を見つけたそうだが、行政が管理する区域があったこともあり、
ここの土地で村ができるかどうかはいまのところわからないという。
「土地が見つかったら、自分たちで8畳くらいの小屋を
いくつも建てたいと思っているんです。
家というのは休めるスペースがあれば十分。
1軒ごとにトイレや台所がなくても構わないはず」
のんちゃんが思い描いているのは、山や森の土地に20~30世帯くらいの人々が住み、
そこで自給自足を中心とした循環型の暮らしを営んでいる様子だ。
そして、それぞれが自分の役割を持ち、与えられた才能を存分に発揮する場所である。
「わたしの考えている“村”は、きっとみんなの希望となるコミュニティだと思います。
こうした村のモデルをひとつつくれば、それを参考に
各地でも同じような場所が生まれていけばいいんじゃないかと」
被災者という一見すると非力に見える自分が村構想を実現することは、
「きっと日本だけでなく世界を変える力になるはず」というのんちゃんの言葉は力強い。
のんちゃんのすごいところは、「そんなことを言ったってできるわけがない」という、
誰もがつい言ってしまいたくなるこの言葉を打ち消すエネルギーがあるところだ。
この「できないかもしれない」という意識を打ち消すことを、
のんちゃんは「ひとりのアホが世界を変える」と表現し、
とびっきりの笑顔を見せてくれるのだった。
さて、のんちゃんの村づくりの場所はまだ決まってはいないそうだが、
その準備は着々と進んでいる。
そのひとつが、〈のんちゃんち〉でこの春から開く、子どもたちに向けた寺子屋だ。
不登校や発達障がいの子どもたちの支援事業
〈つばさ学園〉を立ち上げている鈴木一峰先生とともに、
子どもたちが自分らしくのびのびと過ごせる場所をつくっていくという。
子どもたちが、自分らしく生きることで持っている才能を開花させられれば、
それは目指す村を実現することにもつながるとのんちゃんたちは考えているのだ。
震災からのメッセージをしっかりと受けとめているのんちゃんの姿を見ていると、
清々しい気持ちがわいてくる。
同時に震災から5年が経とうとしているが、
自分のなかでまだまだ消化できていない部分があることにも気づかされた。
東京の友人たちから遠く離れ、北海道という地で始めたこの生活の意味とはなんだろう
(両親や夫が移住に手放しで賛成しているわけではないし)。
それをもう一度、ここで見つめ直してみたい、
のんちゃんに出会ってそう強く思うことができた。
きっとこの気持ちは、自分がエコビレッジをつくりたいという想いを
さらに深めることにつながっていくはずだ(のんちゃん、ありがとう!)。
のんちゃんのビジョンはとても明快だから、わたしの拙いエコビレッジ計画よりも、
きっと猛スピードで実現に向かって進んでいくにちがいない。
どこかで連携できる部分もきっとありそうだし、
なによりのんちゃんのことを見ていると、自分もやる気がわいてくるのがありがたい。
ということで、エコビレッジづくりについて自問自答しつつも、
いまは山の土地を購入に向けた書類の準備中なので、
このあたりのリポートはまたあらためてお届けしたいと思います!
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