連載
〈 この連載・企画は… 〉
さまざまな分野の第一線で活躍するクリエイターの視点から、
ローカルならではの価値や可能性を捉えます。
writer profile
Masae Wako
輪湖雅江
わこ・まさえ●編集者、ライター。建築誌、女性誌の編集者を経てフリーランスに。活動範囲はインテリア、日本美術、手仕事など。雑誌『Casa BRUTUS』連載「古今東西かしゆか商店」の番頭としてローカル行脚中。好きなものは音楽と仕事。
photographer profile
Satoshi Nagare
永禮 賢
ながれ・さとし●青森県生まれ、東京都在住。広告・雑誌・書籍・作品制作などで活動中。2020年、n.s.photographs設立。n.s.photographs
「地元にこんないい場所があるなんて、
大多喜町の人にちょっと嫉妬しちゃいますね」
千葉県夷隅郡大多喜町の〈mitosaya(ミトサヤ)薬草園蒸留所〉を訪れた、
若い夫婦客がそう語る。
今日は、毎月第1・第3土曜日に開かれる無人販売所
「HONOR STAND」の開催日。
広大な薬草園の入り口に設けたオープンエアのブースには、
地元で採れた野菜や卵、焼きたてのカンパーニュが並んでいる。
先の夫婦が手にしているのは、量り売り(6個で500円!)の
真っ赤な完熟リンゴと、オリジナルのハーブドリンク。
「僕たちは都内から来たんですけど、
近所だったら毎週遊びに通ってしまいそうです」
そんな様子を見て、ふらっと顔を出したのが
今回の主役、蒸留家の江口宏志さん。
「園内も自由に散策できますよ。
たぶんどこかにウチの人なつっこい犬がいます。
あと、先月から仔羊も飼い始めたので、よかったら見ていってください」
江口さんが房総半島の中央に位置する大多喜町へ
移住してきたのは2016年。
地元で30年続いた薬草園の跡地を借り受け、
植物や果実を原料にした蒸留酒〈オー・ド・ヴィ〉をつくるためだ。
面積はなんと16000平方メートル!
敷地内には蒸留所と家族4人で暮らす自宅も建っているが、
なんといっても圧巻は、リアル植物図鑑のごとく
園内に植えられている数百種類の植物群。
漢方薬植物区や水生植物のエリア、南国の果実が育つ温室もある。
「元が薬草園だから、ひとつひとつの木や草花に
学名や品種を記した“名札”がついているんです」という園内を歩くと、
HONOR STANDでの買い物ついでに散策を楽しむ人もちらほら。
まだまだ外出しづらい窮屈さも続くなか、小さな規模で、
ちょっと特別な買い物ができて、緑のなかを歩いたり植物に触れたりできるのは、
地元の人にとっても貴重な場なのだろう。
敷地内では酒づくりに使うハーブや植物も栽培しているが、
原料はそれだけではない。
地元農家がつくる果物や野菜を仕入れ、鴨川の畑で育つ無農薬栽培の麦を収穫し、
新潟の果樹園や山形のリンゴ農園など全国各地の生産者の元へも足を運ぶ。
「オー・ド・ヴィは香りを楽しむお酒。
自然の状態に近い原料を使うことで、
より豊かな味わいが引き出せると思うんです」
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江口さんが蒸留家になったのは、一冊の雑誌がきっかけだった。
というか、江口さんと言えば、もともとはブックショップ〈ユトレヒト〉の代表で、
2000年代ブックカルチャーの立役者。
店主の個性がきわだつ選書や、
本だけでなく生活雑貨やアートも提案するスタイルなど、
今の“小さな書店”ブームの先駆けとも言える活動をしていた。
転機となったのは、とあるオーストラリアのフードジャーナル誌で読んだ
クリストフ・ケラーという人物の記事。
ドイツで出版社を主宰していたケラーが、
田舎に移住して蒸留家に転身……という内容に惹かれた江口さんは、
2013年にケラーがいる南ドイツの蒸留所〈ステーレミューレ〉を訪れた。
彼がつくる蒸留酒のふくよかな香りはもちろんだけれど、
何より心が揺さぶられたのは、古い農家の建物を蒸留所にし、
自然とともにものづくりをするその姿。
憧れはどんどん膨らみ、やがて江口さんは家族でドイツへと移り住む。
そして、ケラーの元で蒸留酒づくりをみっちり修業した後に帰国し、
〈mitosaya薬草園蒸留所〉を開いたのだ。
〈mitosaya〉の活動のベースは、もちろん蒸留酒をつくること。
でも、「ストイックに本格的な酒を目指すというより、
もう少しおおらかに楽しみながら蒸留酒づくりに挑戦したい」と江口さんは言う。
だから、ボトルラベルのグラフィックを信頼するデザイナーに依頼したり、
メーカーと協業してガラス器などのプロダクトを手がけたり、
と活動の幅は酒づくりだけに留まらない。
「本をつくっていた頃と根本は同じなんですよね。
いろんな人と情報交換できる場をつくり、
ブックイベントを企画して、本の新しい楽しみ方を模索していた。
それが今は、農家さんと農作物と新しい酒に変わったという感覚です」
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「江口さんは我々の期待の星です」。そう言って笑うのは、
蒸留所にハチミツを届けに来た大多喜町の養蜂家、朝生章さん。
「地元の人は、昔ながらのつながりなどもあって
あまり無茶ができないんです。
その代わり、よそから来た江口さんみたいな人が、
地元のよさを見つけてくれるし、楽しいことを運んできてくれる」
新しい蒸留酒に使うハチミツについてひとしきり立ち話をして別れた後、
「僕、昔から農家のおじさんと話すのが好きなんですよ」と江口さん。
「自分のやっていることに誇りを持っていて、
でもことさら自慢するでもなく淡々といいものをつくり続ける。憧れますね」
このまちに移住した直接の理由は、
薬草園跡地という好立地に出合ったからだけれど、
今は、“農家のおじさん”を含めた生産者と近い環境で
ものづくりができることを、何よりの魅力だと感じている。
理由はシンプル。よりよい蒸留酒ができるから。
「酒づくりはナマモノの世界なので、
原料が採れてからかたちになるまでの移動はできるだけ早く短いほうがいいんです。
特にハーブは、フレッシュなほどいいものができる。
採ってその日のうちに加工できる環境は、ものすごいアドバンテージです」
さらに、この環境が新しいものづくりのきっかけにもなっているとも。
「今年はカラスザンショウのハチミツが採れそうだよ」という話を聞けば、
都内ではなかなか手に入らないその材料で、新しい蒸留酒づくりを計画する。
「何か使ってみたい材料があれば、次のシーズンに植えておくよ」と
農家の知人に声をかけてもらえば、
「じゃあ落花生で酒をつくってみようかな」とお願いできる。
ものづくりの一歩前の段階から話を始められるのは、かけがえのない喜びだ。
「僕らも楽しいし、生産者の方に喜んでもらえている実感もある。
みんなにとっていいことが起こり得る環境だと思います」
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さて、広い園内をしばらく歩き続けると、
その奥に現れるのがコンクリート造りの蒸留所。
もともと薬草の展示室だったところをリノベしたという
暗くひんやりした建物で、醸造・蒸留・保存・熟成からボトル詰め、
ラベル貼りまで、すべてを自分たちの手で行っている。
醸造スペースの中央には地元、いすみの梨を仕込んでいる巨大な杉の木桶があり、
その周りに置かれた容器では無農薬のプルーンが絶賛発酵中。
酵母も水も糖分も加えず毎日状態を見ながら発酵を待つという、
なんともチャレンジングなスタイルだ。
耳を澄ますと傍らにあるヨーロッパ式の壺のなかから、
ブドウが発酵するポコポコという音も聴こえてくる。
「そしてこっちがいちじくのミード。ハチミツを使ったお酒です。
ハチミツに発酵途中や発酵した果物を合わせると、
発酵を適度にコントロールしつつ自然な甘みも出してくれる。
形が悪かったり小さかったりして生食としては売りにくい果物も、
うまく使えばおいしい酒になるんですよ」
こうして醸造したものを蒸留していくのだが、
〈mitosaya〉ではこのとき、蒸留器に残った“もろみ”の部分も利用する。
担当するのは、江口さんの妻でイラストレーターの山本祐布子さん。
日々試作を重ねながら、ジャムやシロップやソースなどの加工品をつくっている。
果物のみずみずしさがギュッと凝縮された蒸留酒は、
キリッとシャープな味わいだけれど、
口に含むとフレッシュな甘い香りも確かに感じられる。
スモモや梨のもろみを使ったウスターソースやカレーソースには、
ひと口で笑みがこぼれてしまうような懐かしい甘酸っぱさがある。
どちらも〈mitosaya〉のオンラインショップで販売するものの、
サイトにあがったとたん完売することもしばしば。
ここでしか買えないおいしさを、心待ちにしている人がたくさんいるのだ。
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〈mitosaya(ミトサヤ)〉という名前の由来は“実と莢”。
「果実だけでなく、外側を覆う莢の部分にも
大きな可能性があるという思いを込めました」と江口さんは言う。
「蒸留後のもろみでジャムをつくったり、
ウイスキーの原料である麦のわらをストローに加工したり。
莢の部分、つまり“周辺”にあるいろんなものを受け入れられるよう
風通しのいい仕組みにしておけば、
楽しいことは向こうから飛び込んでくる気がするんです」
“周辺”にこそ、小さいつくり手でもおもしろがれる要素がゴロゴロ転がっている。
「だから僕が意識しているのは、
よくわからないものを身の周りに置いておくってことです」と江口さん。
「よくわかっているものや、欲しかったものだけに囲まれていると、
世界はそれ以上広がらないと思うんです。
逆に、偶然出会うものや、よくわからないものが身の周りにあると、
予期せぬことが起こりやすいと思いませんか?
羊を飼い始めたのも、大きく言うとその一環。
今はまったく役に立っていないけれど、
もしかしたら想像もしなかったすごいことが起こるかもしれないじゃないですか。
毛を刈ったときに何かひらめくとか、すてきなパフォーマンスが生まれるとか……。
そういう要素を、自分の周りにいろいろと置いておきたいんです」
あらためて考えてみると、移住して自分自身を“予想外の場所”に置いたのも
そのひとつだったのかもしれない。
「東京という、とても便利で人のつながりもある場所にいると、
そのなかで手に入ることだけでほとんどのことが成立してしまう。
でも、そうじゃない場所に身を置くことで、僕らみたいな凡人の集まりでも、
新しいことや味わい深いことが表現できるのだと思います」と江口さん。
「薬草園の広い敷地と豊かな自然、そして南房総の魅力的な生産者。
この環境を、東京から離れた場所ととらえる人もいれば、
可能性の塊と見る人もいるでしょう。答えはまだよくわからない。
ただ、僕らにとっておもしろいことが起こりやすい場所であることは確かです」
Creator Profile
Hiroshi Eguchi
江口宏志
えぐち・ひろし●1972年長野県生まれ。ブックショップ〈ユトレヒト〉などの代表を経て、2013年より南ドイツの蒸留家クリストフ・ケラーの元で蒸留技術を学ぶ。帰国後、千葉県夷隅郡大多喜町の薬草園跡地を借り受け、18年〈mitosaya薬草園蒸留所〉をオープン。22年春には東京・清澄白河に「誰でも酒やドリンクの“瓶詰め”ができる充填所」を開く予定。
information
mitosaya薬草園蒸留所
Web:mitosaya薬草園蒸留所
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