連載
posted:2024.3.4 from:福島県双葉郡大熊町 genre:暮らしと移住
PR 大熊町
〈 この連載・企画は… 〉
ひとつのまちの、ささやかな動きかもしれないけれど、創造性や楽しさに富んだ、
注目したい試みがあります。コロカルが見つけた、新しいローカルアクションのかたち。
writer profile
Haruna Sato
佐藤春菜
さとう・はるな●北海道出身。国内外の旅行ガイドブックを編集する都内出版社での勤務を経て、2017年より夫の仕事で拠点を東北に移し、フリーランスに。編集・執筆・アテンドなどを行う。暮らしを豊かにしてくれる、旅やものづくりについて勉強の日々です。
photographer profile
Yuji Nakajima
中島悠二
なかじま・ゆうじ 写真家。神奈川県出身。主に建築やロングトレイルを軸に、幅広く撮影。みちのく潮風トレイルの撮影をきっかけに東北に縁ができ、2021年に福島県楢葉町(海のそば)に移住。写真に限らず、ふくしま浜街道トレイルをはじめ、広く地域の活動に関わる。最近、サーフィンをはじめました。
2023年、〈学び舎 ゆめの森〉が福島県大熊町に開校した。
小学校・中学校に相当する義務教育学校と、
認定こども園、預かり保育、学童保育を一体にした町立の学び舎だ。
東日本大震災後、町民の避難を余儀なくされていた同町にとっては、
12年ぶりとなる待望の教育機関の再開。
会津若松市に避難していた義務教育学校8名の児童生徒に加え、
園児や移住者も含めた合計39名がこの場所で時間をともに過ごしている
(2023年12月現在)。
図書ひろばを中心に、特徴的な形の11のエリアによって構成される校舎では、
年齢の違う子どもたちが自由に行き来している。
抜け道や隠れ家のような場所もあり、大人でもわくわくさせられる空間だ。
こうした施設や、学習のペースを個々に合わせる
「学びの個別最適化」といった環境に惹かれた教育移住による転入学も多く、
移住を検討している家族の見学や教育関係者などの視察が後を絶たないという。
全国でも先進的な学び舎が、なぜ大熊町に誕生したのか。
GM(ゼネラルマネジャー:校長・園長)の南郷市兵(いっぺい)さんに聞くと、
「ゆめの森の鼓動が鳴り始めたのは、2011年3月17日だったと私は思っている」
と話してくれた。
東日本大震災が発生した2011年3月11日の翌日、
大熊町民は、着の身着のままで避難した。
何年にも渡り避難が続くとは、誰も思っていなかったからだ。
しかし状況は一変。まちには当分住めないことがわかった2011年3月17日、
町長と教育長が話し合いの場をもち、
「まずは学校をどこに避難させるか決めよう。
学校を受け入れてくれる場所が見つかったら、町民をその土地へ避難させよう」
と避難先を探し始めたのだという。
子どもたちの学びの場を最優先にしようとした同町の英断。
「大熊町は、もともと子どもを大事にしてくれるまちだった」と南郷さん。
だからこそ今のゆめの森の環境が育まれてきたのだとうなずける。
大熊町の避難を受け入れたのは、福島県会津若松市。
震災直後は、約700人の子どもが仮校舎に通った。
着の身着のまま避難した彼らには、教科書も、ランドセルも机もない。
そんな状況で、学校に必要なものは何なのか、
行事は何のためにやるのか、
朝の会も帰りの会も部活動も、何が子どもにとって必要で幸せなのか、
徹底的に問うたのだという。
「震災が起こった頃は、日本の学校もひとつの曲がり角を迎えていました。
そうしたときに、東北で今まで通りの教育をやっていても復興は見込めません。
新しい取り組みが生まれ、東北の学校の復興が、
今の日本の学校のあるべき姿を指し示したというところはあったと思います。
原発の被害を受けたまちがどうしたら復興できるかというのは、
教科書には書いていないし、誰も答えを持っていなかった。
テストで100点をとれる子どもを育てられたとして、
その子がその答えをつくり出せるかというと、
決してそうではなかったというのは誰の目にも明らかだったと思うんですよね。
じゃあ何を育てればいいのかということを、学校現場の人たちは真剣に考えたし、
先生だけではなく子どもたち自身も地域に飛び出して行って、
まちを復興させたいという想いでいろんな活動を始めた。
それが現在の探究学習を形づくっていったわけです」
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ゆめの森では、“私を大事にし、あなたを大事にし、みんなで未来を紡ぎ出す”
という理念を掲げている。
「“私を大事にし”は、子どもたち自身の好きなものや興味を大事にして
伸ばして行ってほしいという想いを体現した言葉です。
震災を経験して、私は、“大人は失敗した”と思っているので、
大人がこういう社会をつくるから楽しみにしていてね、ではなくて、
子どもたち自身がどういう人生を生きたいか、どういう社会をつくりたいか、
どんなまちに復興させたいのか、究極を言えば、自分で決められるようにさせてあげたい。
その力はあると思います。
“あなたを大事にし”が目指すのは、
違いを認め合うインクルーシブな社会。
大熊の人たちは、避難先で温かく支えていただいた一方、
いろんな偏見・風評にも苛まれました。
そういう経験をしたからこそ、地域の方も含めたいろんな人とごちゃ混ぜに活動して、
みんなでやさしい未来を紡ぎ出していきたいと考えています」
まちとの関わりも深い。1学期は地域をフィールドワークし、
農業の復活を試みる人、養鶏に取り組む人など、
地域で活動するたくさんの人に会いに行った。
最年長の9年生(中学3年生)は、被災時2歳。
まちの記憶がほとんどないことから、
大熊との出合いをまずはしっかりしようと取り組んだのだ。
養鶏をやってみたいという想いもそこから生まれ、
ほかにもまちの特産品だった果物を用いた商品づくりをしたり、畑を始めたりと、
子どもたちの視点で地域に活力を与えるさまざまな活動につながっていったという。
「大熊に貢献するぞという大層な身構えた気持ちではないと思いますが、
こうした取り組みが必要だと思うんです。
地域を復興させる方法は大人もわかっていないし、教科書にも書いていない。
じゃあどうやってこれから持続可能な社会をつくっていくのかというと、
やはりやってみて、学びとっていくしかない。
自分たちで探究するしかない。
そのときに個別最適な学びというのは効果を発揮するんですよね」
ゆめの森への注目度は高く、全校生徒の約半数の16名が、
町立の同舎で学びたいと同町へ移住してきた生徒だ。
以前は不登校だった子どもが、
ゆめの森に転入したことで生き生きと通学する姿もみられているという。
「ゆめの森の子どもたちは移住者とか、大熊の子という区別も、
年齢の区別も一切ないので、ただただ仲良く、仲間として生活しています。
その姿が大熊全体の姿になっていく未来が見えていますね。
まちが直面している困難を乗り越えるためには、大熊の人だけではなく、
全国や世界の人たちと協働し、いろいろな叡智を結集していかなくてはならない。
けれども考えとか立場とか言語や文化が違う人と一緒に何かをやるというのは、
人間にとってはとってもハードルが高いことです。
ゆめの森の子どもたちはそのハードルを軽々と超えて共生している。
インクルーシブな社会を目指すゆめの森で育った子どもたちが、
インクルーシブなまちや社会を実現していくと考えています」
一度は人が住めなくなり、ゼロからのスタートだったからこそ、新しい挑戦に柔軟な大熊町。
「大熊にはチャンスしかないというのが私たちのよく使う言葉です。
課題しかないですが、課題というのは、ひっくり返せばチャンスだし、
産業縮小や人口減少という、
将来的には全国の地域が直面する問題の最先端にいるわけですから、
ここで挑戦していく意義は大きくあると考えています」
南郷さんのマイベスト本棚のPOPには、1本の木が描かれている。
枝の先に芽吹く丸い緑や黄色の葉は在籍している子どもの数。
入園・入学のたびに、ひとつひとつ貼り足しているそうだ。
豊かな木々が森をつくりまちを育てていく未来。これからの進路が楽しみだ。
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大熊町への移住補助
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