連載
〈 この連載・企画は… 〉
ひとつのまちの、ささやかな動きかもしれないけれど、創造性や楽しさに富んだ、
注目したい試みがあります。コロカルが見つけた、新しいローカルアクションのかたち。
writer profile
Haruka Inoue
井上 春香
いのうえ・はるか●編集・ライター。暮らしをテーマとした月刊誌の編集部で取材・執筆に携わる。その後、実用書やエッセイ、絵本を中心とした出版社で広報・流通業務などを担当。山形県出身、東京都在住。
photographer profile
Kentaro Oshio
押尾健太郎
おしお・けんたろう●写真家。千葉県千葉市出身。スタジオアシスタントを経て渡英。帰国後、都内でフリーランスになる。雑誌、広告、WEBを中心に幅広く活動中。2022年、ロンドン留学時にホームレスになってしまった友人を撮影した写真集『PLOUGH YARD 517』を刊行する。 http://oshiokentaro.com
長野県松本市・浅間温泉にある〈松本十帖〉は、〈自遊人〉が手がける複合体であり、
創業336年の老舗旅館〈小柳〉の再生プロジェクトの総称でもある。
「松本の奥座敷」と呼ばれ、開湯1300年以上の歴史をもつ浅間温泉。
江戸時代には松本藩の城主が通ったことから湯治場として発展し、
今もなお地域住民の共同浴場が多く残っている。
明治以降は多くの文人に愛され、昭和に入ると多くの団体旅行客たちで賑わった。
しかしながら近年、時代の変化とともに経営難に直面する旅館が増加し、
温泉街は寂れていく一方。
こういったケースは全国各地に見られ、浅間温泉に限ったことではない。
自遊人が小柳の再生を引き受けたのは2018年のこと。
後継者不在による廃業の危機にあった旅館単体の
リノベーション事業としてスタートしたものの、
プロジェクトを進めていくうちに、
温泉街の高齢化や空き家の増加などの問題が浮かび上がり、
まち全体のエリアリノベーションプロジェクトが模索されていった。
特筆すべきは、公的資金の投入なしに民間企業が担っているという点だろう。
同じような問題を抱える温泉街再生のモデルケースとしても、今後注目されていくはずだ。
「小柳という旅館をひとつ再生するだけではなく、
浅間温泉そのものが活性化していかなければ、
地方都市の温泉街にとって持続可能とはいえないのではないか?」。
その問いに対するアクションのかたちは、松本十帖のいたるところに散りばめられ、
浅間温泉というまち全体の動きとしても、ポジティブな変化が生まれようとしている。
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突然の新型コロナウイルスの流行に見舞われた2020年。
夏頃より一部の施設から順次プレオープンしたものの、
思うように営業できない状況が続いていた。
そこから2年後の2022年7月、
ようやくグランドオープンを迎え、本格始動した〈松本十帖〉。
敷地内には〈松本本箱〉と〈小柳〉を中心に、大浴場を改装した〈book store 松本本箱〉、
「ローカル・ガストロノミー」をテーマとしたレストラン〈三六七〉や
ファミリーダイニング〈ALPS TABLE〉のほか、
いわゆる土産品ではなく、
県内外からセレクトした日用品や雑貨、食品などを扱うショップ〈浅間温泉商店〉、
信州産小麦粉を使ったパンを製造・販売するベーカリー〈ALPS BAKERY〉といった
さまざまな施設やお店がある。さらに、敷地外にもふたつのカフェがあり、
これらは宿泊者だけでなく、まちに住む人や日帰りで訪れた人も利用できるのだ。
ホテルのレセプションを兼ねたカフェ〈おやきと、コーヒー〉では、
チェックイン時に信州名物のおやきとハンドドリップコーヒーの
ウェルカムサービスがある。敷地内に宿泊者の駐車場はなく、
3分ほど歩いてホテルに向かうというユニークなシステム。
そこには温泉街を人々が回遊することをイメージし、
閉じていた旅館を開かれた場にしていきたいという意図がある。
もうひとつのカフェ〈哲学と甘いもの。〉は、
90代のひとり暮らしの土地の所有者が、建物の維持や管理が困難となり、
プロジェクトの一環として始めた経緯がある。
現に、浅間温泉にはこのような空き家が100軒以上もあるそうで、
こうした店舗としての活用例が呼び水になればとも考えている。
ホテル目の前の「湯坂通り」は江戸時代から続く通りであるが、
このプロジェクトが始まる前までは、日中の人通りがほとんどなかったという。
周辺施設の多くが旅館ということもあり、
チェックインの時間帯である15時を過ぎるとやっと、
歩いている人をちらほら見かけるといったところ。
「浅間温泉自体も高齢化が進んでいて、お年寄りが多いのが現状です。
ただ、住んでいる人や働いている人、旅行や観光で訪れる人、
いろいろな人を含めて“まちの姿”だととらえているので、
偏った世代だけではなく、お子さま連れの若いご家族とか、
そういう人たちも歩いているようなまちにしたいなと思っています」
そう語るのは、〈松本十帖〉の支配人である小沼百合香さん。
カフェやショップを点在させているのは、
まちを歩いてもらいたいという理由があるものの、経済的な目的だけではない。
「人が歩いているだけで、まちの雰囲気って変わると思うんですよ。
さまざまな人が行き交う、まちの風景そのものをつくりたい。そんな意味合いもあります」
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車でやってきて泊まるだけではもったいない〈松本十帖〉。
もちろんブックホテルなので、ひたすら読書に没頭するのもいいが、
まちを歩くことで浅間温泉の歴史にもふれられる、そんな仕掛けがある。
カフェ〈おやきと、コーヒー〉がある「中央通り」には、
その昔、松本駅から浅間温泉を結ぶ路面電車の終着駅があったそうで、
昭和にはメインストリートといわれていた場所でもある。
当時を知るまちの人によれば、
「朝の中央通りは肩がぶつかるぐらいの人混みだった」という話を聞いたことがあると、
支配人の小沼さんが教えてくれた。
ここからは、かつて多くの人で賑わったまちの姿を想像しながら、
松本十帖周辺のエリアを歩いてみたい。
松本十帖の日帰り駐車場すぐ隣の〈あさま茶房〉は、
抹茶や手づくり和菓子などの甘味を楽しめる茶処。
山好きの夫妻が始めたお店とあって、
入り口には北アルプス開拓の先駆者である百瀬慎太郎の碑が。
よく晴れた日のテラス席からは、
松本のシンボルでもある常念岳や乗鞍岳を望むことができ、
店内からでも北アルプスの季節の移ろいを感じることができる。
ピアノやオルゴールの音色に身を委ねながら、
お茶と景色をゆったりと味わう寛ぎのひととき。
お店のオープンは3年前。
店主の小山寿美子さんはもともと養護教諭で、34年間、中学校に勤めていたという。
「定年を過ぎてから始めたお店なものですから、
のんびりと営業させていただいています。
はじめのうちは、どのぐらいお客様にいらしていただけるかなあと思っていたんですが、
十帖さんがオープンしてからは、まちを散策する人が増えたような気がしますね。
このあたりの地域はひとり暮らしのご高齢の方も多いので、
そういった方々にもここに集っていただけたらいいなと思っています」
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400年以上の歴史を持つ、松本藩の城主・石川氏が
湯御殿を造営したことから始まった〈湯々庵 枇杷の湯〉。
初代湯守は石川数正公の三男にあたり、
戦で負傷し歩行困難の身となったことから御殿守の役職を与えられ、
以後は小口家が代々湯守を務めている。現当主は17代目の小口毅さん。
「浅間温泉には独特の外湯文化があって、
地元の湯仲間同士で管理している温泉も多いんです。
市街地からほどよい距離にあるものの、
温泉街らしい通りがないというのも珍しいかもしれませんね。
旅館もお店もどんどん閉まっていく一方だったこの地域に、
十帖さんができてからは新しいことを呼び込んでくださっていると思います」
24年前に旅館から日帰り温泉施設にリニューアルした枇杷の湯。
手打ち蕎麦などをいただける食事処やカフェ、湯上がり処を併設し、
樹齢400年の松をはじめとする庭の枯木やさまざまな調度品も見どころ。
桧の露天風呂を備えた大浴場のほか、野趣あふれる「お殿様の野天風呂」が評判だ。
information
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地域の人から観光客まで幅広く利用されている〈浅間温泉 わいわい広場〉。
かつて旅館だった場所を〈ホテル玉之湯〉が引き継ぎ、
通年いちごの摘み取りができる〈音泉いちごハウス〉、
地元農家の野菜や果物、加工品などを扱う直売所〈えんの屋〉、
カフェ〈おちゃのわ〉を併設した。
芝生の広場では、季節ごとにさまざまなイベントも開催。
まちの人たちに求められる場づくりを行なっているという点では、
松本十帖の考え方やスタンスと近い部分がある。
〈浅間温泉 わいわい広場〉代表の山崎圭子さんに話を伺った。
「運営の母体は〈ホテル玉之湯〉という旅館で、私が女将をやっております。
もともとここにあった旅館が廃業して700坪の更地になっていたのですが、
あるときマンション建設の話が持ち上がってきたんです。
それでは温泉街がますます衰退してしまうのと、
私自身も浅間温泉を元気にしたいという気持ちで
長く旅館業に携わってきたものですから、
訪れる観光客の方や地元の方に楽しんでもらえるような場所を
つくりたいということで始めた経緯があります」
information
浅間温泉 わいわい広場
住所:長野県松本市浅間温泉1-29-17
電話番号:080-6933-0489
営業時間:9:00〜17:00 ※月ごとに若干変動あり
定休日:不定休(毎月2日ほど)
Web:浅間温泉 わいわい広場
※大人数でのいちご摘みを希望する場合のみ要予約。
2022年7月、浅間温泉郵便局の隣にオープンした〈手紙舎 文箱〉。
東京と台湾で雑貨店やカフェを5店舗運営し、
『蚤の市』や『もみじ市』、『紙博』などのイベントを主催する
〈手紙社〉の地方初出店となるこのお店。
1階には紙もの雑貨を中心に扱うお店と喫茶があり、
2階はオリジナルの包装紙を扱うスペースになっている。
30年前まで銀行として使われていた建物だったことから、
防犯ベルや「金庫室」がそのまま残っており、そこには古書や古道具が並ぶ。
松本十帖がグランドオープンしたときに、浅間温泉のスタンプラリーを開催した。
周辺の11店舗を巻き込んだイベントで、文箱も参加。
「地域を盛り上げたいという強い気持ちが伝わってきました」と
店舗スタッフの仲野智代さんはいう。
「以前、このまちに住んでいる方から
“浅間温泉が賑わっていた頃は、湯桶片手に浴衣でまちを歩く人も多かった”
と教えていただいたことがあるのですが、
十帖さんから浴衣姿でいらっしゃるお客さまを見かけると、
その風景にちょっとずつ近づいているのかな、なんて思ったりしています。
私たちもこれから、そんな風景をつくっていくお手伝いができたらうれしいです」
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「はい、十帖さんね」
松本駅でタクシーの運転手さんに行き先を告げると、こんな返事が返ってきた。
浅間温泉で訪れた先々での会話のなかでも、
“十帖さん”はたびたび耳にする呼び名であり、
そこには親しみが込められているように感じた。
再生プロジェクトはまだ始まったばかりだけれど、
このまちに住む人々にとって〈松本十帖〉は、身近な存在になりつつある。
浅間温泉は、下浅間・中浅間・上浅間というエリアに分かれていて、
〈枇杷の湯〉のあたりが上浅間だとすると、
〈手紙舎 文箱〉や〈わいわい広場〉あたりは下浅間と中浅間のあいだ。
歩いても10分かからない距離ではあるが、
かつては上浅間と下浅間それぞれのエリア内で行動範囲が完結していたという。
その中間に位置する〈松本十帖〉ができてからは、
この界隈を歩いて行き来する人が少しずつ増えているそうだ。
そもそも温泉街とは、歩いて楽しむところであったはず。
それが昭和の中頃に入ると、団体客が大型の観光バスでやってきて、
宿にこもって楽しんだあとはそのまま帰るというスタイルが定着し、
まちを歩くことをしなくなってしまった。
そんな時代が終わるとともに、各地の温泉街はどんどん寂れていき、
団体客に合わせて規模を大きくしすぎた旅館は立ち行かなくなっている現状がある。
しかしながら、時代とともに旅や観光のスタイルは変化するもの。
浅間温泉の例があるように、温泉街も変わろうとしている。
だからこそ、このまちに暮らす人、このまちを訪れる人、
関わるすべての人たちの存在は大きい。
それぞれの立場からのまなざしや行動によって、
温泉街の未来は確実に変わっていくはずである。
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