連載
posted:2015.2.20 from:岡山県英田郡西粟倉村 genre:ものづくり
〈 この連載・企画は… 〉
日本の面積のうち、約7割が森林。そのうちの4割は、林業家が育てたスギやヒノキなどの森です。
とはいえ、木材輸入の増加にともない、林業や木工業、日本の伝統工芸がサスティナブルでなくなっているのも事実。
いま日本の「木を使う」時かもしれません。日本の森から、実はさまざまなグッドデザインが生まれています。
Life with Wood。コロカルが考える、日本の森と、木のある暮らし。
writer profile
Masatsugu Kayahara
萱原正嗣
かやはら・まさつぐ●フリーライター。主に本づくりやインタビュー記事を手掛ける。1976年大阪に生まれ神奈川に育つも、東京的なるものに馴染めず京都で大学生活を送る。新卒で入社した通信企業を1年3か月で辞め、アメリカもコンピュータも好きではないのに、なぜかアメリカのコンピュータメーカーに転職。「会社員」たろうと7年近く頑張るも限界を感じ、 直後にリーマン・ショックが訪れるとも知らず2008年春に退社。路頭に迷いかけた末にライターとして歩み始め、幸運な出会いに恵まれ、今日までどうにか生き抜く。
credit
撮影:片岡杏子
岡山県西粟倉村で、香り高い西粟倉のヒノキを使い、家具をつくる人たちがいる。
家具職人の大島正幸さん率いる〈木工房ようび〉だ。
岐阜県高山の家具メーカーに勤めていた大島さんは、
2009年にこの地に移り住み、地域の材を使った家具づくりを始める。
そのきっかけは、いまは人生をともに歩むパートナーとなった奈緒子さんに誘われ、
西粟倉をふと訪ねたことにある。
そのころの大島さんは、家具職人として8年の修業を積み、腕に磨きをかけていた。
“いい家具”をつくる思いも、人一倍強いという自負があった。
だが、その自信と自負は、西粟倉の森を見て粉々に打ち砕かれることになる。
「それまでの僕は、森のことなんて何も知らずに、
工房にこもって“いい家具”をつくることに没頭していました。
しかし西粟倉の森を見て、自分の浅はかさを思い知らされたんです」
大島さんが西粟倉で見たのは、ふたつの森だ。
まず案内されたのは、間伐や枝打ちが行き届かず、荒れてしまった“悪い森”。
ところ狭しと生えた木は、どれもモヤシのようにヒョロヒョロで、
光が差し込まない薄暗さに不気味ささえ感じた。
「こんな森では、木を売ってもお金にならない」という言葉が鋭く胸に突き刺さる。
日本の森に手入れが行き届かなくなったのは、
安価で大量に供給される輸入材に押され、国産材が敬遠されるようになったからだ。
林業経営が苦しくなると森が荒れる。その結果、木材の質も低下する。
この悪循環からいかに抜け出すか、それが日本の森が直面する課題だ。
「家具自体は、森のことを何も知らなくてもつくれちゃうんです。
材料は、つくりたいもののイメージに合わせて仕入れることができますから。
でも、そうやって仕入れる木材って、魚でいえば“切り身”みたいなもの。
それまでの僕は、海そのものも、泳いでいる魚の姿も知らず、
魚の“切り身”を捌いて、いい寿司を握ろうと思っていたようなものなんです」
大島さんは、当時のことを悔しそうに振り返る。
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次に案内されたのが、手入れの行き届いた“いい森”だ。
間伐と枝打ちで、木々のあいだには適度な隙間があり、
そこから差し込む光で、森全体が明るさに満ちている。
木の姿も、さっき見た森とはまるで違う。
両の手で抱えきれるかというどっしりした木が、まっすぐ天に向かって伸びている。
美しい森の姿に感動を覚えた大島さんは、森を案内してくれた人の言葉に耳を疑った。
「そのとき見たのは、延東(えんどう)甚太郎さんという方が約90年前に植えた森です。
早くにご両親を亡くされたお孫さんの義太さんが、中学生のころから山に入り、
ほとんど一生かけて山を丁寧に育てていました。
驚いたのは、この美しい森が厳しい現実に直面しているという話です。
3代受け継いで立派に育てた木の使い道がなく、売り先もないと義太さんは言うんです」
山に植えた木々は、畑で育てた作物が収穫期に食べないと腐ってしまうように、
適切な時期に伐り出さないと、中が空洞になってダメになってしまう。
その山のヒノキは、植えてから90年から110年ぐらいが伐採期だという。
大島さんが訪ねたとき、延東さんの森は植えてから85年経っていた。
このままだと、3代受け継いで育てた立派な木々がダメになっていく……。
そのことに、大島さんは絶望的なまでのショックを受けた。
「僕が家具職人としてできるのは、この木で家具をつくることです。
義太さんが甚太郎さんから受け継いだ木々を、そこに注ぎ込まれた愛情を、
家具に変えて届けることなら、僕にもできる。
だったら、ここに移り住んで家具をつくるしかない。
そういう思いが、ふつふつと湧き上がってきました」
同じ日の夜、村で立ち上がりつつあった〈百年の森林構想〉についても説明を受けた。
西粟倉の森は、日本の多くの人工林と同様に、
戦後の復興期、およそ50年前に植えられた木が大半だ。
町村合併を拒み、独立独歩の道を選んだ西粟倉は、
村の存続のため、村を覆い尽くすように植えられた人工林に目を向けた。
50年前の村の人たちは、子や孫に資産を残そうと思って木を植えた。
その木々にもう一度手を入れ、50年後、立派な百年生の森へと育てていく。
村の人たちの決意に裏打ちされた計画を聞き、
大島さんの心に芽生えた思いは覚悟へと変わる。
翌日、高山に戻って会社に辞表を提出する。
こうして、岡山県最北の小さな村に、木工房ようびが誕生することになる。
その胸には、西粟倉のヒノキで家具をつくるという決意が秘められていた。
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だが、ヒノキで家具をつくる大島さんの試みは、
家具の世界で“非常識”とされていたことだった。
スギやヒノキのような針葉樹はまっすぐに伸びやすく、建材として好まれてきた。
世界最古の木造建築、法隆寺を支えるのもヒノキだ。
だが、木材そのものの性質として、針葉樹は広葉樹よりも軽くてやわらかい。
イスやテーブルには、脚と座面、座面と背もたれのような接合部があり、
材と材をつなぎあわせて強度を出すには、木材そのものにかたさが求められる。
そのため家具は、ナラやブナなど、重くてかたい広葉樹でつくるのが “常識”だった。
実際、大島さんがヒノキでイスをつくってみては、強度をかけるとすぐ壊れてしまう。
つくる。強度をかける。壊れる。その繰り返しが、来る日も来る日も続いた。
「つくり始めるまでは、従来の接合技術の精度を高めれば、
ヒノキでも家具をつくれると思っていました。でも、無理でした」
ヒノキのイスづくりに成功したのは、西粟倉に来て1年半が経ったころだ。
木材は、同じ木からとった部材でも、場所によってかたさや強度に違いがある。
どの強度の部材をどこに使うか、つくっては壊しを繰り返し、
ヒノキで家具をつくるノウハウを、「異常なほど」溜め込んだという。
「材の強さの見極めは、人間にしかできないことなので、
職人を育て、技術を受け継ぐことに力を入れています。
そうしないと、50年後に森が育っても、木を活用できる人がいなくなっちゃいますから」
木工房ようびは、2009年の創業以来、社員を毎年ひとりずつ増やしている。
創業6年目を迎え、会社は6人体制になった。
木が1年にひとつ年輪を重ねていくように、木工房ようびも少しずつ大きくなっている。
家具の“常識”の壁を打ち破り完成したヒノキのイスは、白くて軽く、香りも高い。
かたくて重い広葉樹からできたヨーロッパの家具には見られない特徴だ。
その斬新さは、日本だけでなく、本場のヨーロッパからも注目を集めている。
ヒノキの生息域は、緯度でいえば、台湾から日本の福島までに限られる。
ほとんど日本にしか生えていないといってもいい。
そのなかでも、西粟倉のヒノキは寒さと雪に耐え、木が引き締まっている。
「だからこそ、接合部強度を出せたのかもしれない」と大島さんはいう。
白くて軽くて香り高い、世界に認められたようびのヒノキの家具は、
西粟倉の風土と職人の技術の集積が生んだ結晶なのだ。
「ヒノキはかつて、立派な木を2本伐れば、
それで家が建つといわれていたほど高級な建材です。
そのヒノキを家具に使えるなんて、実はとても贅沢なことなんです」
そんな贅沢が許されるのは、50年、100年前の人たちが、
子孫に貯えを残す気持ちで、たくさんのヒノキを植えてくれたからだ。
「北欧の家具を買おうと思っている人は、
ようびの家具も検討してほしいと、本気で思っています。
輸送費がかからない分だけ、同じ値段でよりいいものをお届けできる自信がありますし、
なにより、日本には使うべき木があることを、もっと多くの人に知ってほしいですから」
木が家具へと変われば、森に手を入れ続けることができる。
そうすれば、森は健やかに育ち、森が豊かな水源を育んでくれる。
家具を通じて、森や海と向き合う方法がある。
そのことを知ってほしいというのが、大島さんの切なる願いだ。
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ヒノキの家具づくりに挑み続けてきたようびは、
昨年末、ひとつの椅子を世に送り出した。それが〈ヒノキウィンザー〉だ。
「ウィンザーチェアは、17世紀のイギリスで生まれました。
ウィンザーというのは、ロンドン郊外の地方の名前です。
その地に住む名もなき民衆たちが、身近にある木を使い、
持てる技術を注ぎ込んでつくったのが、ウィンザーチェアです。
イスはかつて、権力の象徴でした。
民たちはそのイスを、食事や団欒、憩いの場を囲む家具へとつくり変えました。
イスは民の手によって、暮らしを彩る文化へ変貌を遂げたんです」
ウィンザーチェアの座りやすさは、まずロンドンで評判を呼び、
海を越えてアメリカにも渡り、次第に世界へと広がっていった。
そのウィンザーチェアを、西粟倉のヒノキでつくる。
白くて軽くて香り高い、西粟倉でしかつくれないウィンザーチェアだ。
「僕には、ウィンザーと西粟倉が重なって見えます。
ウィンザーチェアが、イギリスの地方から世界へと羽ばたいたように、
〈ヒノキウィンザー〉をここ西粟倉から世界へと羽ばたかせたい。
この村の宝であるヒノキを、森を『余るほど』育てたという奇跡とともに、
世界に届けたいと思っています」
木工房ようびは、“やがて風景になるものづくり”を理念として掲げる。
それは、ようびがつくる家具が、手にした人の暮らしの風景に馴染むのとともに、
ようびの家具づくりが村の風景に溶け込み、
それによって森や海が美しくなることも含んでいる。
50年後の西粟倉の風景は、ようびの家具づくりを通じて、
いままさに少しずつつくられている。
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