連載
posted:2018.3.9 from:新潟県燕市 genre:ものづくり / 活性化と創生
sponsored by 貝印
〈 この連載・企画は… 〉
〈貝印 × コロカル〉第6シーズンは、貝印株式会社の商品開発・デザインスタッフが、
コロカル編集チームとともに未来志向のクリエイターを訪ね、
クリエイターのフィロソフィーやビジネススキームを学びます。
未来的なクリエイティブとは何か? という問いへの「解体新書」を目指す企画です。
writer profile
Tomohiro Okusa
大草朋宏
おおくさ・ともひろ●エディター/ライター。東京生まれ、千葉育ち。自転車ですぐ東京都内に入れる立地に育ったため、青春時代の千葉で培われたものといえば、落花生への愛情でもなく、パワーライスクルーからの影響でもなく、都内への強く激しいコンプレックスのみ。いまだにそれがすべての原動力。
credit
撮影:岩本良介
金属加工が有名な燕三条エリアは、
最近では、地域産業活性化のモデルケースのように語られることも多い。
なかでも2013年から行われている〈燕三条 工場の祭典〉は、
多くの工場が開放される催しで、たくさんの訪問客を全国から集めている。
創業202年。鎚起銅器の老舗として、
さまざまな取り組みをリードしているといえるのが〈玉川堂(ぎょくせんどう)〉だ。
過去にそのイベントにも参加したことがある
〈貝印〉商品本部デザイン室チーフマネージャーの菅原晃さんとともに、
〈玉川堂〉を訪ねた。
〈玉川堂〉は創業202年。7代目にあたる現当主、玉川基行さんは、
大学卒業後、すぐに〈玉川堂〉に入社した。
「私が入社した頃は、バブル崩壊後で、経営はかなり厳しい状況でした。
だから先代である父親からも、『すぐに営業をしてほしい』と頼まれました」
本来は一定期間、社会で揉まれてから家業を継ぐつもりだったが、
そんなことを言っていられない切羽詰まった状況だったようだ。
当時、玉川さんが課題だと感じていたのが、
エンドユーザーであるお客様の声が聞こえてこないこと。
その理由は、中間業者が何社も入っていることだ。
さらに当時は新潟県内の贈答需要がほとんどで、
“自分で好んで買う”ものには至っていなかった。
「かつては、正直に言って、職人のひとりよがりで製作していた部分もありました。
お客様の声が聞こえてこないと、何をつくっていいかのわからないのです。
そこで百貨店に飛び込みで営業し、催事などをなんとか取りつけていきました」
そうすることで、お客様と直接的に触れ合うことができるようになる。
“中間業者を経由しない”。
言葉にすると簡単なことだが、地域で長く事業を行っていればいるほど、
それを実現するのは難しくなるだろう。
幸いなことに、当時の玉川さんは“社会を知らなかった”。
「よく考えれば、商売道徳上、そう簡単なことではありません。
しかし当時の私は、若さゆえ何も知らない。だからこそ実現できたこと。
父だったら、絶対にできませんよね」
玉川さんはこうして危機を乗り越えていった。
7代続くなかには、各代で倒産の危機があったようだ。
しかしそのたびに、新しいことに挑戦してきた歴史があるという。
「200年以上も継続してこられたのは、
“伝承”ではなく、“伝統”の気持ちがあったからです」
ここで、玉川さんの考える「伝承」と「伝統」の違いを説明する。
「伝承」とは先代と同じように受け継ぐこと、引き継ぐこと。
一方、「伝統」とは、革新の連続のこと。
新しいことに挑戦してこそ、伝統は続いていくという。
この革新の部分を担っているのが、終業以降の工場の開放であるという。
仕事は17:30に終わり、それ以降は職人が工場を自由に使用していい。
ここで行われるのは、練習、修業、商品開発。
自分のやりたいことに没頭できる時間だ。
仕事中はあくまで職人であるが、この時間は作家の感性が目覚める。
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本社ショールームの奥にある、工場に案内してもらった。
扉を1枚開けると、カンカンという高い金属音が聞こえてくる。
職人それぞれが叩く高音が共鳴し、不思議な空間になっている。
自分の木の台座に座り、黙々とカンカン叩いている姿はとても真摯に映る。
職人が作業している畳との間には、柵も何もなく、
思ったよりも近くで見学することができた。
みんな同じ作業着を着ているあたりに、「見られる」ことへの意識の高さを感じる。
少人数であれば予約不要、10時、11時、13時、14時、15時の1日5回、
見学を受け入れている。
昨年、工場見学に来た人数は約6000人というから驚きだ。
玉川堂のアイコンとなっている〈湯沸〉や〈急須〉は、
1枚の銅板から、叩いてつくられる。
なかでも〈口打出(くちうちだし)〉というモデルは、注ぎ口にいたるまで、
使われる材料は1枚の銅板のみ。
使う道具は、金鎚と、製品を支える鳥口(とりぐち)という鉄の棒。たったそれだけ。
「寸法は決まっていますが、図面はありません。頭のなかのイメージのみ。
あとは感覚でつくっていきます」と案内してくれたのは、
この道48年のベテラン職人、細野五郎さん。
現在、〈湯沸 口打出〉の製作をしている職人は3人。
40年前の〈湯沸 口打出〉と、最近つくったものが並べて飾られていた。
色味が変わり味が出ているが、デザインはほとんど変わっていない。
これを見て驚いたのは、貝印・菅原さん。
「分業もなく、すべて手作業であれば、
個人の思いや個性が入るのが当然だと思っていました。
図面もないのに、誰がつくっても同じ形に辿りつくほうが難しい」
しかし、時代とともに、少しずつ変化してきている部分もあるという。
「たとえば急須の網の部分は、毎年のように変えています。
最近は茶葉が昔より細かくなってきているので、それに合わせて改良しています。
持ち手のつるも、わずかに太くしていますね」と玉川さん。
玉川堂の作業は、ひと通りの作業ができるようになるまでに約10年。
その先の「何か」を突き詰める作業は、自分次第だ。
仮に自分が開発・デザインした商品が発売されるとなったら、
その商品は考えた人が製作担当になる。
さらに現在では青山と銀座に直営店があるので、
自分で店頭に立って、販売することも体験する。
デザインから販売まで、一気通貫して“我が子”の面倒をみることができる。
愛情もひとしおだろう。
新商品開発のなかで、玉川堂の新しい潮流ともいえるのが女性目線。
8年前に初めて女性職人を採用して以来、毎年のように採用し、
現在は6名(4月から7名)の女性職人がいるという。
「200年間、男性目線のものづくりをしてきたことは否めません。
昨年、ある女性職人がデザインしたフラワーボールがよく売れました。
私もある程度は売れると思っていましたが、その目算の何倍も売れたんです。
これからは女性の意見を取り入れた商品も、積極的に開発していきたいと思っています」
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徐々に販売場所を直営店に移行してきているが、
玉川さんの考える最終的な目標は「燕三条本店で100%を売り上げること」だという。
ミュージアムなども整備し、もちろん工場見学の態勢もより整える。
世界中の人がわざわざ燕三条に買いに来てくれるようなブランドが目標だ。
「なるべく職人と会話できるようにしたい。
東京をスルーしてでも行きたいと思わせるまちにしたい。
今はそれに向けて、毎週1回英会話教室にもみんなで通っていますよ。
だからプライベートジェットの飛行場が燕三条にほしいんですよね」と笑顔で語るが、
あながち冗談でもなさそうだ。
実現すれば、〈玉川堂〉だけでなく、燕三条全体で盛り上がっていくのだろう。
こうしてみると、ブランディングを高めていった経営手腕は見事だといえる。
その根底にあるものは、冷静な語り口に隠された“熱意”のようだ。
新しい商品を採用する基準は「職人の熱意がこもっているどうか」。
新入社員の採用基準も「 “玉川堂愛”があるかどうか」。思いのほか、熱い。
最後に貝印・菅原さんからの
「これからも銅を叩くこと、一筋ですか?」という問いかけに答えてくれた。
「そうですね。世界最高峰の銅器をつくり続けているという自負が大切です。
100年後も、200年後も、思いを伝えていきたい」
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玉川堂
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貝印株式会社
1908年、刀鍛冶の町・岐阜県関市で生まれた貝印は、刃物を中心に、調理器具、化粧小物、生活用品、医療器具まで、生活のさまざまなシーンに密着した多彩なアイテムを製造・販売。現在は、日本だけでなく、欧米やアジア諸国など世界中に製造・販売拠点を持つグローバル企業に発展しています。
http://www.kai-group.com/
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