連載
posted:2020.4.14 from:富山県富山市 genre:旅行 / アート・デザイン・建築
〈 この連載・企画は… 〉
ローカルにはさまざまな人がいます。地域でユニークな活動をしている人。
地元の人気者。新しい働きかたや暮らしかたを編み出した人。そんな人々に会いにいきます。
writer profile
Masayoshi Sakamoto
坂本正敬
さかもと・まさよし●翻訳家/ライター。1979年東京生まれ、埼玉育ち、富山県在住。成城大学文芸学部芸術学科卒。国内外の紙媒体、WEB媒体の記事を日本語と英語で執筆する。海外プレスツアー参加・取材実績多数。主な訳書に『クールジャパン一般常識』(クールジャパン講師会)。大手出版社の媒体内で月間MVP賞を9回受賞する。
photgrapher profile
Tetsuro Yamamoto
山本哲朗
やまもと・てつろう●1986年生まれ。石川県金沢市出身。写真事務所に約10年勤めたあと、2017年〈Photo Studio tetoru〉を開業。石川県を拠点に、雑誌・広告等の撮影を行う。
2020年(令和2年)は、北陸新幹線が開業して5年になる。
沿線の富山駅周辺は相次いでホテルの開業が予定されており、
この何年かで景色も大きく変わっていく。
一方でまちの中心部には、戦後間もなく生まれた旅館を4年かけてリノベーションし、
2019年(令和元年)に再オープンさせたおかみがいる。
北陸にある民間宿泊施設のリノベ物件では唯一、ZEB(ゼブ) Ready認証を取得した旅館で、
館内には老舗旅館らしからぬ仮眠室や共有キッチンなど
ホステルのような機能も完備した。
「旅慣れた人に集まってほしい」と願う〈喜代多(きよた)旅館〉の
3代目おかみ・濱井憲子さんの挑戦を聞いた。
旅館ときいて、どのような姿を連想するだろうか。
和式の建築に、畳の敷かれた客室があって、
温泉地では天然温泉が楽しめるといったイメージではないだろうか。
2019年(令和元年)にフルリノベーションの工事を経て、
富山市の中心部に再オープンを果たした喜代多旅館は、
その手の先入観を気持ち良く覆してくれる。
まず、喜代多旅館には、足腰のしっかりしない高齢の宿泊客を想定して、
ベッドに寝泊りできるバリアフリーの洋室(ユニバーサルルーム)がある。
室内だけ見れば、どこかの高級ホテルか、品のいいオーベルジュの宿泊施設のようだ。
一方で館内には、高速バスユーザーなどを想定した、
早朝と深夜にのみ使用できる仮眠室のベッドが8人分、用意されている。
共用のキッチンがあり、スクリーンカーテンで間仕切りが可能な大部屋があり、
24時間利用可能なシャワールームもある。
こうなると今度は、ホステルのような印象すら受けるはずだ。
それでいて、館内全体に洗練されたデザインや設計のおもしろさが見てとれる。
家具類に至ってはリノベーションのために、すべてオーダーメードでつくられた。
一般の旅館と比べると廊下も広く共有スペースもたっぷりと設けられていて、
一方ではいかにも旅館らしい和式の客室も8室用意されている。
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喜代多旅館のおもしろさは、北陸にある民間宿泊施設のリノベ物件として唯一、
ZEB Ready認証を取得している点も挙げられる。
ZEBとは、「Not Zero Energy Building」の略称で、
快適な室内の環境を実現しながらも、消費する年間の一次エネルギーの収支を、
「省エネ」と「創エネ」を組み合わせてゼロにする(目指す)建物だ。
現状でまだ「創エネ」は行ってはいないが、
「省エネ」で基準一次エネルギー消費量を50%以下まで削減した結果、
リノベーション物件では珍しく認証された。
一般社団法人〈環境共創イニシアチブ〉のホームページにも、
レアな事例として掲載されている。
「ほかの企業さんからは、うちのような小規模旅館が、
環境に配慮した建物を計画したこと自体に、だいたい驚かれます」
と濱井さんは語る。
環境省はZEB Ready認証のメリットとして「近隣住民などからの評価」を挙げている。
まさにほかの企業からの評価にもつながった。
喜代多旅館の創業は1949年(昭和24年)である。
徹底的な空爆を受けた富山が、復興の途についた頃だ。
濱井さんの祖母にあたる山本キヨさんが、自身の名前を冠した喜代多旅館をつくった。
濱井さんの母が経営を引き継ぎ、その後3代目として濱井さんがおかみになる。
中庭に池を臨む初代の木造建築の状態から、宿は改修や増改築を繰り返してきた。
しかし、実態は満身創痍(そうい)で、濱井さんが経営を引き継ぐと、
消防装置が壊れ、灯油タンクやお風呂のボイラーも連続で壊れるような状態だった。
当然、「がた」のきた旅館のリノベーション工事は、難航を極めた。
再スタートにあたっては、富山でまちづくりや場づくりを行う専門家である
明石博之さんを総合プロデューサーに据え、
空間プロデューサー、構造設計の専門家、建築士で旅館再生のチームが結成された。
チームの力を借り、いざふたを開けてみると、宿は「パンドラの箱」状態だったという。
「人間でいう血液の電気、水道などの設備からして、
喜代多旅館は末期のような状態でした。本当に一歩一歩が迷いの連続でした」
工事を始めると、図面に書かれていない壁が出てきたり、
図面に書かれている構造物が存在していなかったり、予期せぬできごとの連続だった。
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濱井さんは2016年(平成28年)に一度、
先代から受け継いだ喜代多旅館を休館させる重たい選択を決断している。
宿の老朽化に加え、北陸新幹線の開業とともに、
宿泊客の出入りする時間帯も大きく変わった。
睡眠不足と疲れで接客にむらが出るようになり、
施設の老朽化を補うはずのサービスも満足に提供できなくなると、
自分に腹立たしさすら感じるくらい、八方ふさがりの状態になった。
本業を休み、日本語学校の事務の仕事で生活費を稼ぎながら
再オープンを目指す当時は、終わりの見えない恐怖もあったという。
休館中には、先代のおかみだけでなく、
先代と濱井さんのバトンを途中でリレーした父も他界していた。
濱井さんの姉は「もう、私しか止められる人がいない」と、旅館の処分を訴えたという。
しかし喜代多旅館は、濱井さんの生家でもある。
処分するという選択肢は当然、受け入れがたかった。
「まだ母が生きている頃、手伝いで客室の布団を上げていました。
部屋には窓から昼下がりの太陽の光が差し込んでいて、
暖かくて、明るくて、畳のいいにおいがしました。
そのとき、まだ県庁に勤めていましたが、
“ああ、いつか自分はここに戻ってくるんだろうな”と感じました」
この物静かで控えめな啓示が、濱井さんの人生を支えていた。
県庁の仕事を辞めて宿を受け継ぐと最初に宣言した際にも、
家族や職場の上司から大反対があったという。しかし腹は決まっていたのだ。
同じ理由から、新築ではなく建物を残すというかたちにもこだわった。
その決断は、生家のみならず、生まれた地域への思いにもつながる。
「もちろん、経営を任された責任のある立場としては、
融資を受け、新築する選択肢も思い浮かびました。
富山の中心部に関していえば、長く商売をやってきた本人がもうひと踏ん張りして、
自分の建物をリノベーションする例は珍しいです。
あっても、ほかの地域から来た第三者が、
建物の歴史を引き継いで行うケースがほとんど。新築の建物が増える富山の中心部で、
自分の建物を自分でリノベーションする選択肢もあると、示したいと思いました」
自分の建物を自分でリノベーションすれば、当然建物に対する愛情は深まる。
くわえて、建物をとり巻く地域とのつながりも維持される。
実際に、旅館に併設されたレストランでは、
古くから喜代多旅館を知る地元の人が、「働いて支えたい」と声をかけてきたという。
リノベーションはまちの景観だけでなく、コミュニティを守る結果にもつながった。
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旅館に併設されたレストランにも、
富山県で人気のカジュアルフレンチレストランのシェフ・パティシエの林修史さんが、
お店を移転するかたちで入った。
老舗旅館の公式食堂がフレンチレストランという点も、
一見すると不思議な取り合わせだ。
しかし、ロビーからレストランへの導線は、違和感なく連続している。
館内全体には通奏低音が流れているため、不思議な統一感がある。
「喜代多旅館は、ここがどこなのか容易には定義できない、
枠にはまらない場所にしたいと思っています」と、
濱井さんは目指す宿の姿について語る。
「仮に富山が金沢や飛騨高山のような、
日本らしい雰囲気を期待して人が集まる観光地だとしたら、
もっと顧客ニーズに沿った、旅館らしい旅館でないといけないはずです。
しかし、富山にある宿なので、一般的な旅館のイメージから自由になりたいと思いました」
自由とは、濱井さんの座右の銘だ。
旅館を運営する会社の社名も
ポルトガル語の「リベルダージ(意味は自由と解放)」になっている。
もちろん、この自由は、旅館の歴史があるからこそ許される。
第2次世界大戦で徹底的に空爆された富山市の中心部では、
戦後間もなく建てられた旅館でも老舗の部類に入る。
まっさらな状態から商いを始める人にはまねできない歴史という軸があるからこそ、
旅館にホステル風の仮眠室を置いても、食堂にフレンチレストランを招いても、
何かかたい手応えが生まれるのだ。
「その意味では、私は最高にラッキーガールなのかもしれません」
人生の節目で選択に迫られたとき、結果として転がった方向が、
思えば全部自分の望む、自分らしい道のりになっていると感じるそうだ。
リノベーションの決断も一緒だ。
何度も「タイミングが違ったのか」「自分には合っていないのか」と
自問した3年間だったという。
それでも、休館を挟み、旅館の歴史を守ったからこそ、
濱井さんは今、思い切って自由になれる選択肢を選んだ。
喜代多旅館はこの先、どういった方向に進んでいくのだろうか。
ギリシャ神話の「パンドラの箱」は、一度開けば不幸が次々と飛び出すが、
ふたを閉めると、中には希望だけが残るというエピソードだ。
濱井さんが開いて閉じた箱の中には、守り抜いた歴史が残った。
その歴史が軸にある限り、
旅館の未来は希望に満ちたユニークな方向に転がっていくに違いない。
information
喜代多旅館
住所:富山県富山市総曲輪1-8
TEL:076-432-9131
※現在、新型コロナウイルス感染症の感染拡大を予防するため、宿は休館中。休館期間は4月7日(火)〜4月30日(木)
※休館期間中の連絡先はcontact@kiyotaryokan.jp
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