連載
posted:2018.7.26 from:富山県富山市 genre:活性化と創生
〈 この連載・企画は… 〉
ローカルにはさまざまな人がいます。地域でユニークな活動をしている人。
地元の人気者。新しい働きかたや暮らしかたを編み出した人。そんな人々に会いにいきます。
writer profile
Masayoshi Sakamoto
坂本正敬
さかもと・まさよし●翻訳家/ライター。1979年東京生まれ、埼玉育ち、富山県在住。成城大学文芸学部芸術学科卒。国内外の紙媒体、WEB媒体の記事を日本語と英語で執筆する。海外プレスツアー参加・取材実績多数。主な訳書に『クールジャパン一般常識』(クールジャパン講師会)。大手出版社の媒体内で月間MVP賞を9回受賞する。
photographer pforile
Yoshiyasu Shiba
柴佳安
しば・よしやす●富山生れ富山育ち。高校生の頃に報道写真やグラビアに魅せられ、写真を独学で始める。富山を拠点に、人をテーマとした写真を各種の媒体で撮影。〈yslab(ワイズラボ)〉 主宰。
「最近、岩瀬のまち並みがとてもすてきになった」という声を聞く。
富山県富山市の北部にある岩瀬は、
海運で江戸時代の末期から明治の初期に絶頂を迎えた港町である。
時代の変化とともに海運業が衰え、一時期工場の誘致が盛んになるものの、
人口減は進み、まちの活気は失われていったと「東岩瀬郷土史会」の会報にある。
その岩瀬に美しいまち並みをつくろうと立ち回る、地元の名士がいる。
桝田隆一郎さんだ。桝田という苗字は岩瀬の土地で大いに鳴り響く。
まちの人に声をかけるたび、「桝田の社長さん」の評判を耳にした。
その桝田家の現当主にして、〈桝田酒造店〉の5代目社長、
〈岩瀬まちづくり会社〉社長も務める桝田隆一郎さんに、
岩瀬の「まちづくり」について聞いた。
桝田隆一郎さんは1966年、岩瀬に生まれる。
地元の学校を卒業後、大学進学や留学、就職でまちを離れ、
自らの父親が社長を務める〈桝田酒造店〉に入社した。
その後、岩瀬にある元材木店を購入し、改修をして、
そば屋のオープンにつなげたところから、
いわゆる「まちづくり」のような活動が始まっていくのだが、
足跡を年度順に追って確かめようとすると、
何年に何をしたとは正確に覚えていないという。
それでも過去の情報、あるいは桝田さんの記憶を参考に考えると、
桝田さんの「まちづくり」は、恐らく1998年頃からスタートしている。
先ほど触れたそば屋のオープン後も、岩瀬で売りに出た、
あるいは取り壊される予定だった土蔵群や家屋を購入し、
改修しては陶芸家や木彫刻家の拠点をつくり、酒商をつくり、レストランを誕生させた。
その過程で〈岩瀬まちづくり会社〉が発足し、リノベーションされた物件が増え、
市によるメイン通りの無電柱化も行なわれ、まち並みの美しさは高まっていく。
振り返れば「まちづくりプロジェクト」にも見えるが、
桝田さんによれば、当初は計画的に構想を描いて何かを進めたのではなく、
「行き当たりばったり」に物件を購入しては、改修を進めていったのだという。
「計画的に構想を描いていたのではなくて、物件を1軒買うことによって、
家を売りたい人が助かって、大工さんに仕事ができて、
作品を売る場所がないと言っていた陶芸家の作品の展示場所ができて、
桝田酒造のテイスティング場所ができると思いました」
その結果、岩瀬のまちが姿を変えていく。
ビジョンなきスタートだった「まちづくり」も、改修された物件が増え、
まち並みが変わってくると、「後づけビジョン」も生まれてきた。
現在も工事の進む物件が存在し、割烹と日本酒の立ち飲み屋、イタリアン、
クラフトビールの工場とクラフト作品の発表の場がオープンに向けて動いている。
これらの取り組みによって桝田さんは、
「ちょっと、まち並みが整うかなと思います」と、
ご自身のビジョンとの距離感を教えてくれた。
桝田隆一郎さんの言うまち並みとは、ヨーロッパが基準となっている。
「あまりにも美しさが違い過ぎるから、まち並みでは勝てない」とし、
埋めがたい圧倒的な差を前提としているため、「ちょっと」という表現になる。
しかし、冒頭でも述べた通り、岩瀬のまち並みが「とても」すてきになったという声は、
富山市民や県民から盛んに聞こえるようになった。
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桝田隆一郎さんの活動に対して、いわゆる「まちづくり」という、
どこか夢見がちな響きも持ちかねない言葉を使っていいのか、ためらってしまう。
もちろん、桝田さんが「恐らく」2004年に設立した
岩瀬まちづくり会社にも、「まちづくり」の言葉が使われている。
しかし社名など、失礼な言い方になるが、やっつけでネーミングした可能性も
大いにある。それだけ、桝田さんの活動には「切実な」事情がある。
まず、観光客を集める意図がない。
まち並みが美しく整い、結果として観光客が増える現象は生まれているが、
「観光客を呼ぶ気はゼロです。別に呼ぶお店もありません。たくさんの人に見せても、
ガラス作家の何万円もする作品が売れるかと言ったら、売れません。
一生懸命、3か月かけて彫刻をしている作家のところに観光客が来ても、売れません。
売れないどころか、仕事の邪魔になります。
もちろん、本当に興味のある人が来てくれるのであれば、ものすごく大歓迎ですが、
いままでの日本の観光地ように、誰でもどうぞとはまったく思いません。
何人観光客が来たという数字も、つまらないです」
観光客ではなく、住んでいる人が誇りに思えるようなまちを目指しているのかと聞くと、
「住んでいる人が、ではありません」と、言下に否定される。
「そんなに広くはないのです。
僕の場合は、僕と僕の周りにいる人たちを想定しています。
岩瀬に住んでいる人が、何千人いるかわかりませんが、
その何千人が、同じようなまちの姿を望んでいるかどうかもわかりません。
住民のためにやっている仕事ではありません。
僕のためですし、僕の会社のためですし、日本酒の将来のための仕事です。
自分の家族が家だとかまち、家業に愛着と誇りを持って、どこかに就職しても、
やはり戻ってきたいと思ってもらえるようにしなければいけません。
僕の場合は子どもに跡を継いでもらわないといけないので、切実です。
ボランティアでも何でもありません」
言葉に熱が帯びてくる。桝田さんも、大学に進学するために富山を離れ、
大手の酒造会社に就職した後、戻ってきた。
一度距離を置いて帰ってきた故郷は、誇りに思える状態ではなかったのだろうか。
「全然です。何にもありませんでした。
このようなところにずっと住むのか、という感じでした。
妻は神戸の西宮のすばらしいところから来てくれています。
申し訳ないと感じました。だからきれいにしようとも思いました」
「また、日本酒を海外に売ろうと思うと、
文化をまとっていないと、なかなか売れません。
やはり文化というものは、上質な場所に暮らしていないと、身につきません。
醜い場所にいても、文化や美のセンスは身につかないのです。
日本に美しい場所は、日常にありません。
それでは感性が、どんどん落ちてしまいます。
逆に江戸時代などは、身近に美がたくさんあったと思うのです。
そうした美をなくしたからこそ、日本人の基本的な美のセンスが
落ちてきているのだと思います」
あんまりまじめに聞かんでくださいね、と、桝田さんはここで一度、混ぜ返す。
筆者は思わず笑ってしまった。それでも、ヨーロッパベースで見たときに、
日本には上質さがない、個々で美しい建物はあっても、
展望として「まち並み」と呼べる美しい広がりがないという危機感と
無念さのにじむ桝田さんの言葉に、聞き入ってしまった。
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「観光客を呼ぶ気はゼロ」
「仕事の邪魔になる」
「みんなのためにやっている仕事ではない」
文字だけで見ると、何かネガティブな誤解を生むかもしれない。
しかし、実際に岩瀬のまちを歩き、住人に声をかけ
「桝田の社長さん」の名前を出すと、多くの人が笑顔で何かを語りだす。
例えば岩瀬のメインストリートにある土蔵群の一角で、
お酒の販売業を営む〈酒商田尻本店〉のご主人に聞くと、
ご主人の家はご主人の父親の時代から、
先代を含めた「桝田の社長さん」には代々お世話になっているという。
現在の田尻本店自体も、取り壊されそうになった築150~160年の
名家の土蔵群を桝田さんが購入し、改修した場所に入っている。
いまでは田尻本店のためだけに富山に来るお客さんもいると、
ご主人はうれしそうに語る。
商人だけではない。
「子どもの頃に読んだ本の中に、本阿弥光悦が職人を集めて
芸術村をつくったという話がありました。
その記憶が僕の潜在的な部分にあり、美を求める心があったのだと思います」
と、ご自身も語るとおり、桝田さんを唐突に頼ってきた作家たちにも、
惜しみなく手を貸している。
ガラスの作家が、焼き物の作家が、彫刻家が、漆の作家が、
三味線の奏者が訪ねてくると、そのたびに桝田さんは受け入れ、
岩瀬の家屋を購入し改装しては、本人の経済力に見合ったかたちで提供してきた。
さらには日常的に美に触れ、身銭を切っては一級の芸術作品を買い求める
ご自身の美的感覚から、岩瀬に集まる若手作家の作品に対しても、忌憚なく批評する。
最初は作家たちも「素人が何を言う」と内心で反発したというが、
次第に言葉の意図を理解するようになると、表現にも変化が表れ、
結果として各人が作家としての評価を大いに高めているという。
この周囲への貢献の大きさは何なのだろうか。
桝田さんが取材の中で使った少し過激な言葉を借りれば
「ただお金を持っていて、何の役にも立っていないお金持ち」とは、
何も持たない筆者の貧しいイメージの範囲内だが、異なる気がする。
受賞の経緯はわからないものの、岩瀬まちづくり会社も
「自分のため」「自分たちのため」「日本酒の将来のため」に
行ってきたはずのまちづくりの貢献が認められ、
2014年に「県民ふるさと大賞」を富山県と県教育委員会から受けている。
言葉の表面的な響きとは裏腹に、貢献がきっちり社会から評価されているのだ。
そこで「ノブレス・オブリージュ」という言葉を出してみる。
ノブレス・オブリージュとはフランス語で、高い地位や身分、財力を持つ者は、
その地位や身分、財力に応じた責任を果たさなければいけないという意味の言葉だ。
責任には、社会貢献も当然含まれる。
すると、「小さいときからずっとあります。偉そうに」と、
桝田さんは率直に答えてくれた。
「例えば小学校に行っても、中学校に行っても、どこに行っても、
私の父や祖父や曽祖父たちが寄付してきたものが、いろいろとありました。
寄贈、桝田敬次郎、敬一郎、亀次郎と刻まれたものをたくさん見て育ってきたのです。
いろいろなところで、私の祖先がいかに地域に貢献し、
いかに教育に貢献しようとしてきたかという姿勢を見てきました。
やはり稼いだら、きちんと社会に貢献しないといけない、
立ち位置が見えている人が、いい方向にみんなを引っ張らないといけないということは、
小さい頃から思っていました。いまでも、偉そうに思っています」
桝田さんは、富山県酒造組合の会長、
日本酒造組合中央会北陸支部の支部長も務めている。
その背景には、世界に頻繁に出て、世界のトップと言われる層と交流を持ち続け、
周りの造り酒屋よりも広く物事が見える立ち位置からすると、
「日本酒はもっとできる」「もったいない」という思いがあるのだという。
だからこそ、その思いを伝え、自分の立ち位置から同業者を引っ張りたいと語る。
岩瀬の「まちづくり」も同じだ。ご本人の言葉を借りれば
「上質さを欠いた」日本のまち並みが置かれている現状を、
広く見渡せる立ち位置に桝田さんがいる。
だからこそ、自分と自分の家族のために、
あるいは自分の周りの人たちのためにビジョンを示し、
関係者を引っ張って、まち並みを美しくした。
その結果は、本人が意図する、しないにかかわらず、地域への貢献につながっている。
取材後、桝田さんが通った地元の岩瀬小学校を訪れてみた。
岩瀬小学校は県内でも際立って古い歴史を持つ。
歴史ある校舎を敷地内で移築した際、伐採される予定だった1本の松を、
「この木も岩瀬の大切な自然のひとつ」と、先代の桝田敬次郎社長が私財を投じて、
敷地内の別の場所に移植したというエピソードを、校長先生が教えてくれた。
「訪ねてくださったついでに」と、校長先生は旧正門の門柱近くにある、
また別の樹齢400~500年の唐笠松を見上げて、学校の卒業式の様子も教えてくれた。
同校の生徒は卒業式を終えると、いまも昔も離校式として、
松の木の周りに集い、幹と結んだひもを手に取って、
松に向かい夢を口にしてから門を出ていくのだという。
その話を聞いて、取材中の桝田さんの言葉が思い出された。
「10年くらい前に岩瀬小学校の同窓会があって、
仲の良かった友だちに『桝、良かったね』と言われました。
理由を聞くと『桝は小学生のとき、岩瀬のまちをきれいにしたいと言っていた。
その言葉通りに岩瀬がきれいになって、すごいね』と言われたのです。
僕はそんなことを言った記憶など、まったくないんです。
でも、なんとなく潜在的な部分に、自分のまちをきれいにしたい
という思いがあったのだと思います」
桝田少年は離校式でも、まちをきれいにしたいと夢を口にしたのだろうか。
少年が胸に秘めた夢は着実に、今日も理想に向かって進んでいる。
profile
桝田隆一郎
Ryuichiro Masuda
1966年、富山市岩瀬生まれ。大学卒業後、留学、就職を経て、家業である〈桝田酒造店〉に入社。2004年〈岩瀬まちづくり会社〉を設立し、古民家や蔵を作家の拠点やショップへとリノベーションする活動を続ける。
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