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ふるえるほど好きな
アート、音楽、文学を熱く語る
MAYA MAXXのローカルラジオ
playpray

うちへおいでよ!
みんなでつくるエコビレッジ
vol.179

posted:2023.2.8   from:北海道岩見沢市  genre:暮らしと移住

〈 この連載・企画は… 〉  北海道にエコビレッジをつくりたい。そこにずっと住んでもいいし、ときどき遊びに来てもいい。
野菜を育ててみんなで食べ、あんまりお金を使わずに暮らす。そんな「新しい家族のカタチ」を探ります。

writer profile

Michiko Kurushima

來嶋路子

くるしま・みちこ●東京都出身。1994年に美術出版社で働き始め、『みづゑ』編集長、『美術手帖』副編集長など歴任。2011年に東日本大震災をきっかけに暮らしの拠点を北海道へ移しリモートワークを行う。2015年に独立。〈森の出版社ミチクル〉を立ち上げローカルな本づくりを模索中。岩見沢市の美流渡とその周辺地区の地域活動〈みる・とーぶプロジェクト〉の代表も務める。
https://www.instagram.com/michikokurushima/
https://www.facebook.com/michikuru

撮影:佐々木育弥

遊び、祈ることは、個を磨くために必要なこと

「こんばんは。MAYA MAXXです」
毎週金曜夜9時、そんなフレーズから始まるラジオ番組『MAYA MAXXのplaypray』は、
昨年4月からはじまり、もうすぐ1年が経とうとしている。
放送局は、北海道岩見沢市のローカルラジオ〈エフエムはまなす〉。
2020年、MAYAさんが東京から岩見沢市の美流渡(みると)地区に移住したあと、
はまなすの番組にゲストで呼ばれたことがきっかけでスタートした。

MAYAさんが「playpray」という言葉を、美流渡でまず描いたのはアトリエの向かいに建つ倉庫だった。

MAYAさんが「playpray」という言葉を、美流渡でまず描いたのはアトリエの向かいに建つ倉庫だった。

playは「遊ぶ」。prayは「祈る」。
「人間や大人には、働くとか育てるとか、やるべき役割があるけれど、
そうした枠をなくした“個”として考えたときに、自分を磨くために必要なのは
遊ぶことと祈ることだと私は思います。
遊ぶとは、生き生きと魂がふるえ、喜ぶことです。
そういう魂の発露をどこに向けるのかといったら、それは祈りなんじゃないかと。
自分のボルテージが高い状態であるときの祈りは、
きっと世界全体をよくしていく力を持っているのではないかと思います」

ラジオは1時間。
その時々の気持ちに寄り添う曲を挟みながら、基本的にはMAYAさんのひとり語り。
毎回、ゆるやかにテーマを設定していて、初回から何回かにわたっては、
なぜ絵を描き始めたのかが語られた。

きっかけは27歳のとき。
今治から上京し早稲田大学に入学。
卒業後、自分が就職するというイメージがわかず、アルバイトをして暮らしていた。
ある日、銀座界隈のギャラリーにイベントポスターを配る仕事があった。
通りを自転車で走っていたとき、何かとても美しいものが目に入ってきたという。
窓越しに見えたのは画家・有元利夫の遺作展の会場だった。
仕事を忘れてMAYAさんは会場に入り、絵に引き込まれた。
2時間以上が経過して、そろそろ仕事に戻らなくてはと気づき、
ギャラリーの扉を開いたとき「絵を描いてみようかな」と思ったという。

第2回、第3回と話が進むにつれ、絵を描き始めたものの、
もともと内向的な性格だったこともあり、
その後数年間は引きこもりのような暮らしを続けていたこと、
そこから掃除のバイトを始めて、心身の健康を取り戻し、
やがてMAYA MAXXという名で活動を始めたことなどが語られていった。

MAYA MAXXという名で活動を始めたのは1993年。その後、ラフォーレ原宿などで個展を開催し人々に知られるようになった。その頃に制作された『Ten Supporters』。いつどんなときでも自分を応援してくれる人形がいたらと考えたという。(撮影:佐々木育弥)

MAYA MAXXという名で活動を始めたのは1993年。その後、ラフォーレ原宿などで個展を開催し人々に知られるようになった。その頃に制作された『Ten Supporters』。いつどんなときでも自分を応援してくれる人形がいたらと考えたという。(撮影:佐々木育弥)

東京で活動を続け、2008年にNYで滞在制作し、その後京都へ。この間、世界各地を旅し、その記憶についてもラジオで語られた。写真は2007年のワークショップの様子。

東京で活動を続け、2008年にNYで滞在制作し、その後京都へ。この間、世界各地を旅し、その記憶についてもラジオで語られた。写真は2007年のワークショップの様子。

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ほかにラジオで語られることは?

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ふるえるほど好きな作品について、とことん語る

その後はアート、音楽、文学の話や、
これまで世界のさまざまなまちを訪ねた旅の記憶が話題になった。
それらに共通するのは「ふるえるほど好き」という感覚。

「子どもの頃からずっとふるえるほど好きなものを探していました。
心の底から『はぁ〜!』『ひぇ〜!』『ふぉ〜!』『へぇ〜!』『ほぉ〜!』と、
『は、ひ、ふ、へ、ほ』の感嘆符が出るものを探してきました。
心が、体が、魂がふるえるもの。
小躍りするもの。
そのふるえを求めて生きてきました」

ラジオの収録の様子。

ラジオの収録の様子。

毎回、MAYAさんがこれまでの人生で出合ってきた音楽から3曲が選ばれている。
選曲はロック、ポップス、ジャズ、ブルース、クラシックなど幅広く、
いま話題のミュージシャンの曲を取り上げたかと思えば、
子どもの頃に触れた演歌をかけることも。
おもしろいのは、例えばクラシックであれば、
誰の演奏が一番心に響くのかをとことん探り、「この人だ」と決めていくところ。

それは、あらゆる創作のフィールドに及んでいる。
いったい脳内にどれだけのアーカイブがあるのだろうかと驚かされる。
そのひとつひとつの話を聞いていると、観察力が細部にまで及んでいるのがわかる。
そして、そのときの感覚をしっかりと記憶しているのだ。

自然の風景が心に蓄積されていき、それがふっと絵として現れることがある。

自然の風景が心に蓄積されていき、それがふっと絵として現れることがある。

MAYAさんは、毎日のように夜になると“調査”をしているのだという。
例えば、学生と話していたときに話題に出た音楽などを、夜、ウイスキーを飲みながら確認。
その日に知った新しい情報について、思考を深めていっている。

今年に入ってからは、連続で「ふるえるほど好き」な絵について語っている。
絵についてMAYAさんが熱く語ることは、私にとっても感慨深い。
およそ20年前、『みづゑ』という絵とものづくりの雑誌の編集長をしていた頃、
MAYAさんのふるえるほど好きな絵を紹介する連載を続けていた。

この絵のどこがすばらしいのかを語る文章ととともに、
絵と対峙したMAYAさんの描き下ろしの新作を掲載するというものだった。
日本だけでなくアメリカやロシアの美術館へも足を伸ばした。
しかし、数年後に『みづゑ』は休刊となり連載は中断。
ふるえるほど好きな絵をコンプリートして単行本にまとめたいと思っていたのだが、
そのままになってしまっていた。

ロシアの〈プーシキン美術館〉を訪ね、マティスや印象派の画家たちの作品についてMAYAさんが語った『絵が「ふるえるほど好き」になる』(美術出版社)。これ以外にも『みづゑ』ではさまざまな作品を紹介したが、それらは書籍化に至っていない。

ロシアの〈プーシキン美術館〉を訪ね、マティスや印象派の画家たちの作品についてMAYAさんが語った『絵が「ふるえるほど好き」になる』(美術出版社)。これ以外にも『みづゑ』ではさまざまな作品を紹介したが、それらは書籍化に至っていない。

プーシキン美術館のなかで、ふるえるほど好きな1点として選んだのはマティスの『金魚』。

プーシキン美術館のなかで、ふるえるほど好きな1点として選んだのはマティスの『金魚』。

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MAYAさんが共感する3人の画家とは?

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「私はこうしてできたのだ」と気がついて

ラジオでは、まず3人の画家を紹介している。
ひとりは画家・丸木位里さんの母親の丸木スマさん(1875-1956)。
位里さんは、妻の俊さんとともに『原爆の図』を
生涯にわたって描き続けた画家として知られている。
スマさんは、70歳を過ぎてから俊さんにすすめられて絵を描き始めたのだという。

「丸木スマさんの描いたアジサイを見たとき、
『絵ってこういうことなんだ!』と本当に思いました。
画面に色が何層にものっていて、一番奥の色が見えないんだけど見えるような。
心の動きに合わせて、下の色と重ねた色との間を行ったり来たりしながら
描いているうちに絵というものがフワッと立ち上がってくるんです」

スマさんの絵には、動植物が重力を感じさせないかのように画面のなかで躍動し、
まるで楽園のような豊かな世界が広がっている。

もうひとりは、貼り絵を制作し続けた山下清さん(1922-1971)。
千葉県の養護施設〈八幡学園〉に入園してから貼り絵を始め、
その後放浪生活を送り、旅で見た光景を住まいに戻り貼り絵にしていった。
「私は山下清さんが描いた植物の絵が好きです。
絵の下から細部を辿るよう視線を上げていくと、自分がいつかどこかで見てきた光景が、
デジャブのようにイメージとして現れてくるんです」

2021年に北海道立旭川美術館で開催された『山下清展』に足を運んだ。MAYAさんが、もっとも好きだという『長岡の花火』があしらわれたチラシ。このチラシのデザインもすばらしいと絶賛。

2021年に北海道立旭川美術館で開催された『山下清展』に足を運んだ。MAYAさんが、もっとも好きだという『長岡の花火』があしらわれたチラシ。このチラシのデザインもすばらしいと絶賛。

絵の細部を延々と見つめる。それはMAYAさんの描き方にも共通する部分。
線がいま生まれていく瞬間を一番近くで見たいと、
画面に顔を擦りつけるようにして描いている。

参加者との対話のなかから絵を描いていくワークショップ「キミのコトバを描いてみようか」。自身が描く線をじっと見つめる。

参加者との対話のなかから絵を描いていくワークショップ「キミのコトバを描いてみようか」。自身が描く線をじっと見つめる。

そして、まだ放送されてはいないが(2月17日、24日予定)、
最後のひとりは、詩人、歌人であり彫刻家でもあった
高村光太郎さんの妻・高村智恵子さん(1886-1938)。
光太郎さんが智恵子さんの生涯の折々に書いた詩や散文を集めた
『智恵子抄』をご存知の方も多いだろう。
智恵子さんは、46歳の頃から精神疾患の症状が現れるようになり、
病床で色紙を切って貼って描いた「紙絵」を行った。

「紙絵は、表現とか創作という次元とは違って、
今日1日生きたという証しをつくるためのものだったのではないかと思います。
見ていると気持ちがヒリヒリします。
立ち止まってこれを見続けていてはいけないような、そんな感じがしてくるんです」

大切に持っている画集を開きながら絵の1枚1枚を解説。

大切に持っている画集を開きながら絵の1枚1枚を解説。

丸木さん、山下さん、高村さんは、MAYAさんにとって、
心の底から共感できる画家たちであるという。
いずれの絵も、描写力といったいわゆる絵の上手さとは違う次元にあり、
プリミティブな衝動によって描かれているものといえる。

「並べてみたらあらためて私はこうしてできたのだと
自分を再認識できるような気がしますし、
ほとんどはもうこの世にいない人たちから受けたふるえに感謝したいのです」

アトリエに併設されたギャラリースペースにて。(撮影:佐々木育弥)

アトリエに併設されたギャラリースペースにて。(撮影:佐々木育弥)

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これから、紹介していきたいこと

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今後は、ふるえるほど好きな書の紹介もしていきたいとMAYAさんは、
さらなる“調査”を続けている。
また、2月より収録場所を、岩見沢市のまちなかのスタジオから、
美流渡のMAYAさんのアトリエへと移した。
同時に、SNSやYouTubeなどで動画を配信し、
リスナーとの交流の場を深めるための新たな展開も始まっている。

「こうやって、ふるえるものについてのふるえを聞いていただけるなんて幸せです」

夜の静けさのなかに響くMAYAさんの声。
本当に好きなものが語られ、それを聞くということは、
リスナーのみなさんと喜びを分かち合う、そんな時間になっていると思う。

MAYAさんのアトリエ。(撮影:佐々木育弥)

MAYAさんのアトリエ。(撮影:佐々木育弥)

MAYA MAXXのplaypray

北海道岩見沢市のコミュニティラジオ局エフエムはまなすにて毎週金曜夜9時より放送

https://note.com/mayamaxxplaypray

市外のみなさんへは翌土曜日夜9時よりYouTubeで視聴可能

MAYA MAXXのplaypray

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