連載
〈 この連載・企画は… 〉
日本のローカルにはおいしいものがたくさん。
地元で愛されるお店から、お取り寄せできる食材まで、その味わい方はいろいろ。
心をこめてつくる生産者や料理する人、それらを届ける人など全国のローカルフードのストーリーをお届けします。
writer profile
Haruna Sato
佐藤春菜
さとう・はるな●北海道出身。国内外の旅行ガイドブックを編集する都内出版社での勤務を経て、2017年より夫の仕事で拠点を東北に移し、フリーランスに。編集・執筆・アテンドなどを行なう。暮らしを豊かにしてくれる、旅やものづくりについて勉強の日々です。
岩手県の東南、宮城県気仙沼市と接する陸前高田市。
太平洋に面した三陸海岸はリアス式で知られ、
市内には山地と、湾に囲まれた平野が広がる。
7万本もの松があったとされる「高田松原」のなかで、
津波に唯一耐えた「奇跡の一本松」があり、
東日本大震災でまちの名を知った人も多いだろう。
この土地で、震災後に生まれた〈三陸ジンジャー〉が、岩手の魅力を再発掘している。
栽培するのは千葉県出身の菊地康智さんだ。
農薬や化学肥料を使わずに栽培される生姜で、
収穫したての新生姜はやわらかく瑞々しいのが特徴。
天ぷらや生姜ごはんなど、料理の主役として皮ごといただくのがおすすめだ。
〈三陸ジンジャー〉の畑があるのは、広田湾を見下ろせる高台。
ここではかつて祖父がリンゴを栽培していた。
祖父の家があるため、康智さんも子どもの頃、何度か訪れた記憶があるが、
10代のときに家族と相容れず、
家族は陸前高田で、康智さんだけが千葉で生活する期間が長かったという。
「震災が起こって、みんなが無事だと聞いたときは本当によかったなと。
家族に反発していたのは小さなことで、
生きているだけでありがたいんだなと本当に思いました。
以来、陸前高田に通うようになって、ここ(高台の畑)から海を望んでいたら、
津波は来たけれど、いいところだなって思ったんですよね」
同じ頃、映画『先祖になる』(2012年・池谷薫監督)に出合う。
陸前高田市で農林業を営み、津波で家と息子を失った佐藤直志さん(当時77歳)が、
自ら木を伐り、田植えをし、家を建てる。
その様子を追ったドキュメンタリーで、直志さんは康智さんの親戚だった。
「小学生のときに祖父が亡くなって、
葬式でひとりだけ話しかけてきたおじさんがいたんです。
『お前が生きているのも、じいちゃんとか、先祖のおかげなんだからな』って
言われたことを強烈に覚えているのですが、
映画館でスクリーンに映っているよぼよぼのおじいさんを見たら、
あのときのおじさんだ! って思い出して。
何十年経っても、同じことを言っているし、体現していると思ったら、
大号泣してしまって……」
直志さんの近くでもっと話を聞きたい。
そんな思いもあり、康智さんは陸前高田へ移住した。2014年のことだ。
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康智さんに農業の経験はなかったが、直志さんの元で稲作を学び、
岩手農業大学校で農業を、岩手大学農学部で経営を学びながら祖父の畑を耕していく。
「まちがゼロになっちゃったから、この畑も遊休耕地でゼロだし、
僕も農業経験ゼロだし、
そこから価値が生まれたらすごいな、すばらしいなと思ったんです」
傾斜地で何を育てるか2年ほど模索したというが、生姜との出合いは偶然だった。
地元産品を入れたおやきをつくっていた市内の農業組合が、
新たな具材として生姜を入れたいと、栽培に挑戦しようとしていたのだ。
「都会から農業をやりたい若者が来たらしい」と噂を聞いた彼らから
手伝わないかと声がかかった。
彼らと共に生姜の特性や栽培方法を学び始めた康智さんは、その奥深さに魅せられていく。
震災を経験した管理栄養士からは、
震災が起きた3月はとても寒かったが、配給物資は保存性のいい菓子パンばかり。
避難所では体を温めるために生姜をとってもらうようにしていたという話を聞いた。
「極限の状態で、
明日の命につなげるために生姜が取り入れられていたってすごいなと思って。
調べると、イギリスでは、ペストの予防に生姜が効果的だとされ
国王が国民に生姜を食べることを薦めたらしい。
そこで生まれたのがジンジャーブレッドだったとか。
日本に限らず生姜の機能性にまつわる話がたくさん出てきて、
あ、なんか超ヤバイ、おもしろいと思って」
幼少期は昆虫、10代はバイクに夢中になったと、
「オタク気質なのは特性です」と話す康智さんは、生姜の知識をどんどん深めていく。
「多様性があり、みんながあまり選択しないけれど実は隠れた名車で、
エンジンもすごくすぐれていて、きらりと光るみたいなものに
すごく惹かれていたと思います。そこをどんどん掘っていくのが好きでした。
生姜も今思うとそうで、トマトやきゅうりのような
みんながつくっているものではなかったことが、自分に合っていたんだと思います」
生姜は温暖な地域での栽培が適切とされ、日本での生産量第1位は高知県。
東北ではあまり栽培されてこなかった。しかし陸前高田は、東北のなかでは比較的温暖。
加えて、農業大学校の授業で高知の気候や地形を学んだことも康智さんの背中を押した。
「生姜の産地である高知の山間部では、
狭い傾斜地を活かしてお茶や柚子を栽培しているという話を聞いたんです。
陸前高田でも、気仙茶というお茶や北限の柚子が栽培されていて、
あれ、なんか似ているな、生姜つくれるんじゃないかと思ったんですよ」
直感を信じ進んでいく康智さんだからこそ掘り起こせた可能性。
気候や土地の性質を活かしながらアイデアを加え、
ゼロから〈三陸ジンジャー〉は着実に育ってきた。
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生姜に魅了される康智さんが、昨年掘り起こしたのが〈盛岡しょうが市〉だ。
岩手県盛岡市には、「生姜町」と名のつく地域がある。
生姜町は、江戸時代に〈神明社〉という神社が置かれた場所で、
南部藩の殿様が、9月15日の祭りの日、
神社の門前で生姜を売り始めたことからその町名がつけられたと伝わる。
「ロマンチックじゃないですか。すぐに生姜町に行きました。
〈しょうが館〉という生姜の名前がついた衣料品店があることにも
胸ときめいてしまったのですが、町名の由来を紹介している立看板があって、
わ〜ここで〈生姜市〉を本当にやっていたんだと思って、
(生姜市を)やりたい、やりたいって周りに言い続けていたんですよ。
そうしたら、やりましょうか、と声をかけてくださる方がいて」
江戸期の〈生姜市〉をベースに、
15日間に渡り、生姜町界隈の21店舗が参加する現代版〈盛岡しょうが市〉を開催。
各店舗で〈三陸ジンジャー〉を使用したオリジナルメニューを提供してもらい、
康智さんが新生姜を直接販売する限定イベントも開催した。
〈神明社〉には、
『生姜は穢悪(えお)を去り神明に通ずる』という言葉が書かれている。
「昔から生姜は穢れを払う聖なるものだった。
この場所にこんな歴史や文化があったんだよということを知ってもらいたい。
縁起物でもあり、からだにもいい生姜。
英語のgingerには元気という意味もある。
コロナ禍でしたし、岩手の寒い冬に備えて
みんなで温まって元気になろうという思いも込めて開催しました。
生姜市が開催されていた当時の徳川の殿様が
生姜好きだったという逸話もあるのですが、疫病もあった時代だと思うので、
生姜市は、生姜を普及させて、
一般庶民にも健康になってもらおうという意味もあったのではないかと思うんですよね」
忘れられていた生姜市を掘り起こした康智さん。
昨年から〈三陸ジンジャー〉を〈神明社〉に奉納することも始め、
隠れていた土地の歴史と文化を浮かび上がらせている。
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〈三陸ジンジャー〉は飲食店との取引が多く、
盛岡市のクラフトビールメーカー〈ベアレン醸造所〉、
イタリア料理〈ドゥエマーニ〉、
陸前高田市の〈鮨まつ田〉、〈カレーとてづくりおやつフライパン〉、
〈CAMOCY〉内の〈ベーカリー MAaLo〉などに卸し、
オリジナルのメニューとして提供されている。※期間限定のものもあり。
こうしたコラボレーションは、
「こんなことをできたらいいな」「この人と一緒に仕事ができたらいいな」と
康智さんがアイデアを言葉にしてきたことで縁を広げ、少しずつ実現してきた。
「友だちの友だちは友だち作戦と呼んでいました」と康智さん。
移住した際、岩手県の人口が、千葉市の人口とほぼ変わらないことを知り、
「自分と感性が合う人は、絶対つながる」と確信したという。
今後も酒蔵や菓子メーカーとのコラボレーションの予定もあり、話題は尽きないようだ。
「岩手でより多くの人に〈三陸ジンジャー〉を届けていきたい」という
思いも原動力になっている。
現在は栽培から出荷までの工程をほぼひとりで担っているが、
今後はできる範囲で栽培数を増やし、いずれ目指すのは法人化だ。
祖父の畑以外にも土地を借り、新たな畑や加工場をつくる計画を立てている。
「個人の経営と資産が一緒になっていることが、農業界全体の問題だと思っています。
みなさん土地を持っているから自宅に設備を建ててしまう。
そうするとほかの人に継承できないんですよね。
それを分離しないと、せっかくつくっても、僕がいなくなったら終わってしまう。
持続可能じゃない。
そういう意味でも法人化をして、末長く供給できる態勢をつくっていきたいです」
康智さんは、続いていくことの大切さを語る。
「岩手は、獅子踊りや鬼剣舞のような芸能、南部鉄器のような工芸、
山菜やキノコのような食材や保存食など、そこに続いてきた暮らしがずっとあって、
現代に伝統が混ざり合っているような気がします。
それが心地いいし、そこに自分も入っていける感覚にワクワクさせられる。
継続してきたものがあるから、そうした文化が残っているんですよね」
そうした土壌があったからこそ、
江戸期の〈生姜市〉が現代のまちに自然と溶け合う〈盛岡しょうが市〉が開催された。
「残っているってすばらしいですよね。
〈三陸ジンジャー〉も大きくなくていいから続けていきたい。
〈盛岡しょうが市〉も続いていって、風物詩的になって、
観光で生姜好きの人が遊びきてくれるようになったらうれしいです」
無理も嘘もない。
ゼロになったと思われた土地にも、
脈々と育まれてきた気候や文化があってこそ生まれた〈三陸ジンジャー〉。
康智さんはこれからも積み重なった歴史を掘り起こし、
生姜や岩手の魅力を見つけていくに違いない。
再発見された〈生姜市〉や〈神明社〉の歴史。
これらはきっと消費されずに、三陸、岩手の文化として育まれていくだろう。
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