連載
posted:2018.8.24 from:長崎県佐世保市黒島 genre:旅行 / アート・デザイン・建築
sponsored by 長崎県佐世保市
〈 この連載・企画は… 〉
有名でなくても、心に残る、大切にしたい建物がある。
地域にずっと残していきたい名建築を記録していくローカル建築探訪。
writer profile
Yuki Hashimoto
橋本ゆうき
はしもと・ゆうき●長崎県出身。これからの社会や暮らしについて考えるフリーペーパーの発行や、地元タウン誌の編集長などを経て、2016年よりフリーで活動。現在は長崎県西海市に移住し、より地域に密着しながら、豊かな暮らしのあり方を模索中。
photographer profile
Tada
ただ
写真家。池田晶紀が主宰する写真事務所〈ゆかい〉に所属。神奈川県横須賀市出身。典型的な郊外居住者として、基地のまちの潮風を浴びてすこやかに育つ。最近は自宅にサウナをつくるべく、DIYに奮闘中。いて座のA型。
credit
2018年6月30日、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が、
世界文化遺産に登録されました。
キリスト教禁教下でも信仰を守り続けた、潜伏キリシタンの伝統のあかしとなる遺産群。
その構成資産のひとつが、長崎県佐世保市にある「黒島の集落」です。
今なお、島民の約8割がカトリック信者であり、美しき祈りの場〈黒島天主堂〉は、
漫画/映画『坂道のアポロン』でも重要なシーンを彩りました。
そんな黒島に息づく信仰の歴史や人々の営みにふれ、心を洗う旅へ。
黒島を含む九十九島の大自然や、軍港のある港町・佐世保ならではの楽しみもご案内します。
船の旅は、それだけで心踊るものです。
佐世保市の相浦桟橋から「フェリーくろしま」に乗って約50分、いざ黒島へ。
船内には、黒島天主堂を思わせるステンドグラス風の意匠がほどこされ、
遠い祈りの島へやってきたのだと、いよいよ気持ちが高まってきます。
黒島は1周12.5キロほど、
小さな島ながらも湧き水や肥沃な赤土に恵まれ、半農半漁で生活してきた島です。
最盛期には2000人以上が暮らしていましたが、現在の人口は400人余り。
その約8割がカトリック信者であり、
島のシンボル、大切な祈りの場となっているのが黒島天主堂です。
黒島天主堂が、なぜこれほどまでに、訪れる人々の胸を深く打ち、心を魅了するのか……。
その理由は、苦難を乗り越えて信仰を復活させた人々の物語にあります。
潜伏キリシタンについて、誰しも一度は、日本史の授業で耳にしたことがあるでしょう。
16世紀半ば、日本にキリスト教が伝来した当初、
長崎や天草地方の大名たちは、南蛮貿易がもたらす利益に目を向けて、次々と改宗。
「キリシタン大名」を名乗り、その領民たちもほとんどがキリシタンとなりました。
ところが、天下統一を目指す豊臣秀吉は、
信徒たちの強い結束に次第に脅威を感じるようになり、
1587年に伴天連(バテレン)追放令を発布。
続く江戸幕府は、当初キリスト教を黙認していたものの、
やがて不信を募らせ、1614年に禁教令を発布。
1614年にはついに宣教師が国外に追放され、厳しい取り締まりと弾圧の時代が始まったのです。
以後、長崎と天草地方の信徒たちは、
宣教師の不在や、「崩れ」と呼ばれる幾多の大規模なキリシタン摘発事件にも屈せず、
約250年もの長期間にわたり、潜伏キリシタンとして信仰を守り続けます。
その中には、少しでも安心して信仰を守り続けられる地を求め、
離島などへ移住した人々も多く、黒島もそのひとつでした。
時は下って幕末、西欧諸国から次々と開国を迫られた江戸幕府は、
ついに鎖国を解き、下田や函館、長崎を開港しました。
そして1865年、長崎の居留地に住む西洋人のために〈大浦天主堂〉が建立されると、
潜伏キリシタンのひとりの女性が、フランス人司祭に信仰を告白します。
「ワレラノムネ アナタノムネトオナジ」
もうキリシタンはいないと思われていた日本で、
いまだ、信仰を守る人々が潜伏していると知った司祭たちは衝撃を受けました。
禁教令から2世紀もの時を超えて起こった、奇跡の「信徒発見」。
このできごとは、黒島で潜伏中だった信徒たちの耳にも届きました。
そして、1865年5月、黒島の出口大吉親子をはじめとする20人の代表者が、
夜の闇に紛れて、命がけで大浦へと渡り、
黒島に600名の潜伏キリシタンがいることを伝えたといいます。
その後もたびたび長崎へ出向き、教えを受けた出口大吉は、
洗礼を授ける資格を得て、黒島の信仰復活に尽力しました。
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そしてついに1897年、
現在の黒島天主堂を設計し、建設を率いた
ヨゼフ・フェルディナンド・マルマン神父が赴任します。
マルマン神父はフランスで建築学、神学を学び、1887年に来日。
五島の堂崎天主堂をはじめ、赴任した先々で教会建設にたずさわり、
63歳で生涯を終えるまで、15年間を黒島で過ごします。
黒島天主堂建設は、マルマン神父最後の大仕事であり、島民と神父の悲願でもありました。
しかし、貧しい島での教会建設は、資金的にも労力的にも簡単なものではありません。
黒島天主堂に使われているレンガの数は約40万個と言われ、
費用を節約するため、その一部はマルマン神父の指導のもと、島内で焼かれました。
島外から買い付けたレンガや資材は、「名切の浜」に届けられましたが、
浜から教会までは急な坂道で、荷揚げは大変な重労働だったといいます。
1902年、2年もの歳月をかけて黒島天主堂は一旦の完成をみますが、
祭壇部分の天井など、建造が残されていた部分もありました。
マルマン神父は休養のために一度フランスへ帰国しますが、
それは残りの建造を進めるための、資金集めの帰国だったとも考えられています。
最終的にかかった総工費は、当時の金額で15,363円と60銭。
これは現代に換算すると、約3億円という大金で、
この資金を集めるため、マルマン神父は奔走したのです。
まさに神父と信徒が、すべてを捧げてつくった教会堂。
建築物としてのすばらしさはもちろんのこと、
完成までに込められた人々の強い想いが、私たちの心を動かすのです。
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建造から116年が経った今も、
黒島天主堂は島の人々の祈りの場として、大切に受け継がれています。
「主日のミサ」が行われる日曜日の朝。
朝日に包まれる天主堂に、人々が集まってきます。
ミサが終わると、教会の周りの草刈りや掃除が始まりました。
自分たちの天主堂を、自分たちで美しく守る。
照りつける暑い日差しにも負けず、
黙々と掃除をする信徒の皆さんの姿からは、静かな“誇り”のようなものが感じられ、
かつてこの天主堂をつくった人々の姿を重ねずにはいられません。
黒島の集落が世界文化遺産に登録されたことについて、
複雑な心情や不安もあるといいます。
「黒島や、天主堂のすばらしさを知ってもらえるのはうれしい。
でも、島は高齢化が進んでいて、現状を維持するのでも精一杯だから……」
とはいえ、現在の司祭である大山繁司祭は、黒島天主堂としてではなく、
「黒島の集落」として世界遺産の構成資産となったことが、
黒島の人々にとってかけがえのないことだと、語ってくれました。
「集落、として世界遺産に登録されたということは、
この小さな島で人々が守ってきた信仰のかたち、営みや暮らしそのものが、
価値あるものとして認められたということです。
それはただ、黒島天主堂の建築物の価値が認められた、ということではなく、
もっと精神的なもの、黒島の人々の心、そこから生まれた文化が評価されたということ。
そのことを、島の人々はうれしく思っているはずです。
ですから島を訪れる皆さんには、ぜひ、その心を感じ取ってほしいと思います」
島のお父さんお母さんたちは冗談めかして、
「おいも世界遺産たい!」「あら〜わたしも世界遺産ばい!」と笑います。
このほがらかな笑顔の下に、
脈々と受け継がれてきた黒島の心、黒島の真の魅力があるのでしょう。
黒島天主堂は2018年11月から2020年10月末(予定)まで、
耐震化・保存修理工事が行われ、工事期間中の見学は外部の見学台からとなります。
2年間の工事期間に入る前に、ぜひ一度、祈りの島を訪ねてみてはいかがでしょうか。
information
黒島天主堂
住所:長崎県佐世保市黒島町3333
TEL:095-823-7650(インフォメーションセンター)
ミサの時間:月〜土曜 6:00〜7:00・土曜 18:00〜19:00 日曜 7:00〜8:00(11月頃〜3月頃は8:00〜9:00)
黒島ホームページ:http://kuroshimakanko.com/
※見学を希望する場合は、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産 インフォメーションセンター」まで事前にメールまたは電話にて予約を。
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