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沖縄県・竹富島

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みんなの日常の幸せがあってこそ、すばらしい祭りができる。
すばらしい祭りが、みんなの日常を幸せにする。

だ「星のや 竹富島」ができると決まる前の2007年、星野リゾートの木曽滋雅(しげまさ)さんは、単身島へ居を移した。星のやを建てる土地の測量のためというのが本当の目的だったが、それとは別に、彼は島人として集落に住み、ごく普通の生活者として隣人たちとの関係を築こうとしたのだった。

もちろんそれは、島と星野リゾートの合意による開発計画の一環として、彼に与えられた重要な任務である。ただ、木曽さんの誠実な人柄が、両者の関係づくりにおいて大きな意味をもたらしたことは間違いない。

「島の人たちの暮らしのなかにとけ込むのは、自分にとってはそれほど難しいことではありませんでした」と木曽さんは事も無げに言う。祭りの仕事を手伝ったり、集落の集まりに参加したりして島人としての務めを果たすうち、信用できる人物としてごく自然に受け入れられていったというのが本当のところのようだ。聞く限り、彼はまじめで熱心に働く好青年だと、誰もが口をそろえて言うのが何よりの証拠。かと思えば、ある島人は、「一緒に釣りをしていて、こっちのほうがよく釣れ始めると、木曽くんは負けず嫌いだからさ、まだまだこれからだって言って、自分が釣れるまでやめないんだよなあ」と笑って話してくれた。この人にとっては、木曽さんが島を離れた今でも、親しい仲間という感覚のようだった。

「近所のお母さんたちが、毎晩のように夕食を食べにおいでと誘ってくれるようになったんです。いつもありがたくいただいていたけど、だんだん慣れてくると面倒だなと思うこともあって、でも、かといって声をかけてもらえないとさみしくて、自分から訪ねていくこともありました。島の人たちはみんな、まさに“来る者は拒まず、去る者は追わず”という感じで、自分にとってはすごく心地好いコミュニティでしたね」と木曽さん。

星のやができると決まる前も後も、実際にオープンしてからも、島人の生活には基本的にはあまり変わりはないはずだ。“来る者は拒まず、去る者は追わず”のスタンスも変わらない。2012年に島へ移住してきた総支配人の澤田裕一さん一家の場合は、ふたりの子どもたちがいることもあって特に歓迎されたという。

「島の子どもたちにとっては、家と家の間の垣根はあってないようなものみたい。大人もそれを分かって自由にさせている。その代わり、叱るときは自分の子もよその子も一緒です。そのあたりは、都会とはだいぶ違いますね」こう話すのは、澤田稜大(りょうだい)くん7歳と、蒼平(そうへい)くん4歳のお母さん、澤田里恵(さとえ)さんだ。「子どもたちはすぐにふたりとも、まるで生まれたときから島にいるみたいにみんなと仲良くなって、お互いの家を行き来するようになって。最初のころは、毎日知らないうちに子どもの人数が増えているのでびっくりしていました。このごろはだいぶ慣れましたけどね」。

長男の稜大くんは昨春、小学校に入学し、島じゅうから祝福を受けた。島にある学校は一校だけ。その竹富小中学校には、37名の子どもたちが在籍している(2012年度)。島の子どもはみんなの子ども。未来をつくる子どもは、ひとりでも増えたほうがいい。

島の祭事は学校行事でもあり、子どもたちは小さいころから親兄弟や祖父母の歌や踊りを見て育つ。ティーンエイジャーになるころには、iPodで好きなアーティストの音楽を聴きながら、一方では、方言で歌われる島の民謡にも自然とかなり詳しくなっている。奉納芸能で演目を任される機会も出てくる。祭りの後の宴会で、大人たちがほろ酔い気分で歌うのに合わせて鼻歌を歌ったり、「これはおじいちゃんが大好きな歌、でも私は嫌い」とか「この歌は私も好きだけどあんまり上手じゃない」とか教えてくれたりもする。

島をあげての祭りが盛んなことで知られるこの島は、すごく特別で、すごく自然である。あまりにたくさん祭りがあって、とりわけ特別なこととは思えなくなってくるほどなのだが、それでもやはり、祭りはひとつひとつ想像以上に特別なものであり、祭りでない日は次の祭りに向かう流れの中にある。子どもも大人も外から来た人も、それぞれが多かれ少なかれ、その流れをつくるエネルギーになっている。神司も、民宿のおばさんも、居酒屋のおじさんも、水牛車ガイドのお兄さんも、そば屋のお姉さんも、陶芸家も、小学生も中学生も、みんなが大事でみんなが必要。だから祭りの伝統を守っていくには、みんなの日常が幸せでなくてはいけない。だから、みんなの幸せを願うために祭りをする。その循環が、とても自然なことなのである。