沖縄県・竹富島
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昔、島人たちの多くが農民だったころ、松竹昇助さんの家の畑は、島の南東側の海岸沿いにあったという。
ちょうどその辺りが、今は星のやの敷地になっている。
「昔はさとうきびもいっぱいあったし、蚕も飼っていたし、みんないろんなものつくっていたよ。
できないのは米ぐらいさ。米だけは西表まで行ってつくっていた」
日本の多くの祭りと同様、この島の祭事もほとんどはもともと農民たちの祭りだった。特に、竹富島には水が少ない。台風の通り道になることも多い。竹富島が農業の島から観光の島に変わっても、祭りだけは残されたのは、厳しい条件の中で五穀豊穣を懇願する代々の強い思いが、血脈となって現在まで受け継がれてきたからだというふうに考えられる。
島人のなかでも、おじいのようにほとんど島外で暮らしたことのない人は意外と少ない。おじいの世代は一家の稼ぎ手として日本統治下の台湾で働いていた人が多く、第二次大戦後はその人たちが戻ってきて、人口が2000人を超えた時期もある。しかしやはり、水の少ない島でそれだけの人を養うことは難しく、島外に出る人が後を絶たず、その後の人口は減少の一途をたどった。
今、島の中核を担う40代、50代、60代の人たちには、一度は東京や大阪や那覇などに出て、何かの理由で島に戻ってきた人たちが多い。島外からの移住者も少なくない。激動する島をずっと間近に見てきたおじいのような人は、実はそれほどたくさんいるわけではないようだ。
竹富港のそばにある「竹富島ビジターセンター 竹富ゆがふ館」の前で、苧麻の繊維をとる作業をしていたおじいのそばに寄ってきた猫。“ゆがふ”という名のこの猫は、港周辺が縄張りで、いつもうろうろして注目を一身に集めている。おそらくゆがふは、観光客の多くが最初に出会う島猫ではないだろうか。
観光の島は観光の島として、人々の注目を集めなければいけない。多くの島人たちが“つくる”ことを止めてしまった今、昔と変わらず“つくる”ことを止めないおじいのような人は、島を訪れる人々にとってはもちろん、島人たちにとっても貴重な存在になっている。なぜなら、人が自然の中でつくり出したものはその土地の歴史文化をあらわし、その人の手はその土地の暮らしをあらわし、その人の声はその土地の今をあらわしていて、否が応でも人の目と心を惹きつけるからである。