連載
posted:2014.7.11 from:福岡県糸島市 genre:食・グルメ
〈 この連載・企画は… 〉
小豆島の「醤(ひしお)の郷」と呼ばれる地域に生まれ、蔵人を愛する醤油ソムリエールが
真心こもった醤油造りをする全国の蔵人を訪ねます。
writer's profile
Keiko Kuroshima
黒島慶子
くろしま・けいこ●醤油とオリーブオイルのソムリエ&Webとグラフィックのデザイナー。小豆島の醤油のまちに生まれ、蔵人たちと共に育つ。20歳のときに体温が伝わる醤油を造る職人に惚れ込み、小豆島を拠点に全国の蔵人を訪ね続けては、さまざまな人やコトを結びつけ続けている。
2013年2月末。
福岡県糸島市のミツル醤油が濃口醤油「生成り、」を発売し、
日本各地から賞賛の声があがりました。
造ったのは、当時弱冠28歳の城 慶典さん。
実は、ミツル醤油は昭和40年代に自社で仕込みから醤油を造るのを一度止めています。
そして約40年の歳月を経て、城さんが醸造技術を身につけ、
仕込み道具を揃え、夢に見た醤油造りをみごと復活させました。
「生成り、」ができると、全国各地の蔵人や料理人やバイヤーやメディアの人が、
“素晴らしい醤油が誕生した!”
“城さんすごい!”と褒めては喜び、いまなお城さんを応援する声が、
波紋のように広がっているのを感じています。
少しずつ春の暖かさを感じ始めた4月下旬、
2年目の「生成り、」を発売したばかりの城さんを訪ねました。
「あの桶はオリゼ、その桶はソーヤ、そしてこの桶はオリゼとソーヤ両方を使っています」
まだ新しい板張りのもろみ蔵に並ぶ木桶を順々に指差し、
静かな口調で違いを話してくれました。
「オリゼ」「ソーヤ」とは、醤油の麹を造るときに「種」として加える「種麹」の名前。
「うちの仕込みでは、複数の種麹を使っています。
メーカーもいろいろありますし、醤油用のオリゼでも何種類もあり、
ソーヤも何種類もあります。
なので、毎回メーカーや種類が異なる種麹を使っています」
以前城さんがブログに書いていたことを思い出しました。
通常、醤油蔵で使う種麹は固定されており、
実験的に変えるにしても、すべての桶が違うということはまずないこと。
けれどミツル醤油では、桶ごとに種麹の種類や配合が違っています。
ほかにも「この桶では地元の友人に無農薬の小麦を育ててもらって仕込みました」
「この大きさの麹箱(麹を入れる容器)は少ないと思います。
でも、ひとりで均一に麹の温度管理をするのにはちょうどいいんです」
などと、蔵中の道具の種類や配置、原材料や仕込み方、
ありとあらゆることに、考え抜かれた工夫と理由が刻まれていました。
奥を見つめるような目で製造工程を静かに話す姿からは、
生粋の職人気質を感じ、しっかりと未来を見つめる熱い志には、
ワクワクドキドキさせられました。
復活するまでの経緯を尋ねると
「家業を継ぐのだろうと子どもの頃から思っていました。
そして、真剣に後を継ぐことを考えた高校生のときに、
醤油を仕込んでいないことがひっかかって『継ぐのだったら、仕込みたい』と、
醤油造りを復活させることにしました」と、城さん。
そして東京農大に進学。
「大学生のときに家の蔵の柱を削って酵母を取っておいたり、
4年生のときには微生物の培養に打ち込みました」
と、大学の施設を活用しました。さらに
「学生だからできると、全国各地の蔵元7か所に修業に行きました。
各蔵ごとに学ぶことはたくさんありました。
例えば奈良の片上醤油さんが、小さい規模ながら原料や醸造方法の違いで
さまざまな種類の醤油を仕込まれていることに感動し、
僕も醸造の技術でいろいろな醤油を造り分けたいと思っています。
和歌山県の三ツ星醤油さんの昔ながらの麹造りは、
醤油造りを再開するにあたり、いちばん参考にさせてもらいました。
卒業後には1年間、広島の岡本醤油醸造場さんに行ったのですが、
桶にビニールを張って産膜酵母を防ぐ方法は、いまも取り入れていますし、
1年の流れがつかめてよかったです」と話します。
各地の蔵人が城さんを応援しているのは、この修業が理由のひとつ。
珍しいからか、これまで各地の醤油蔵で
「福岡県の糸島市に城君という子がいてね」と、
蔵人から話題が出ることが何度もありました。そして
「いやぁ、謙虚で熱心でいい子だよ」と、自分の子どものように
愛おしそうに城さんのことを話すのです。
さらに、25歳でミツル醤油に戻る前
「醤油の周りのことも知っておかないと、と思い
24歳のときにフードコーディネータの学校に1年行きました。
その1年は時間的にもゆとりがあったので、いろいろなところに顔を出して、
自分がこれからやりたいことをひとりでも多くの人に伝えられるように動いていました。
あの1年で出会った人たちが、いまでもたくさんの繋がりや
チャンスをつくってくれて、応援してくれています」
こうして各地の人々が応援する理由は、
城さんの謙虚で熱心な姿勢と行動もさることながら、
仕込みを復活させることが、極めて珍しいことも理由にあります。
城さんに復活させるときにいちばん大変だったことを尋ねると
「お金や道具を集めること」
そもそも、昭和40年代にミツル醤油が仕込みを止めたのは、
昭和38年に早急な近代化を目指して
「中小企業近代化促進法」が制定されたことがきっかけになります。
近代化が求められた醤油製造業も国が資金面で支援し、
各地域は組合などを設立して近代的な設備を導入。
加盟した蔵々は、原材料処理から圧搾までにかかる手間と
費用を省くことができるようになりました。
いまでは仕込みから行う醤油蔵は1割程度と言われています。
このことに対し
「私は必然の流れだったと思います。
現にこの促進法が制定された10年後の昭和48年には、
醤油の出荷量が過去最高の129.4万キロリットルに達し、
日本の発展途上の真っただ中であったことがうかがえます。
協業化したからこそ、今日1600軒(いまは約1400軒)もの醤油屋さんが
営みを続けられているのだと思います。
まぁ、このような歴史を踏まえて、再び醸造業として
本来の姿に戻っていこうという一歩が、『仕込みを復活させる』ということです」
と、城さんらしい考えを4年前に記しています。
仕込みを復活させることは、省かれていた原材料処理から
圧搾までにかかる手間と費用を担うことになるうえに、
蔵によっては設備を整え直す費用がかさみます。
売り上げを保つことすら大変な醤油業界では、減価償却が難しいと、
復活に挑む人がなかなか現れないのが現実です。
だからこそ、城さんは学び、考え、挑みます。
「道具集めの基準は、いまの建物の中で造りやすいかどうかということ。
一気に土地を用意して建物を専用に建てて道具を揃えるとなると、
費用もかかりますし、その設備の中でやるしかなくなります。
それよりも、いまの身丈にあった道具を揃え、
醤油造りをしながらベストな製造態勢を見つけていって、
20年~30年後にもっと造りやすい態勢に変えようと思っています。
さらに、醤油ができるまでは時間がかかるもの。
まずは売らないと、と、醤油ができる前に、ポン酢など
醤油以外の8つの商品を開発して地元の自然食品のお店に売ってきました。
ここで自然食品の販売先と繋がったことで『生成り、』ができたときも、
すぐに店頭に並べることができました。
僕が造る醤油は添加物を入れない天然醸造の醤油。
地元の九州では甘い醤油が根づいていますが、
せっかく造るのに添加物は入れたくないです。
幸い無添加の醤油を好む地元の方もいて、
初めてできた『生成り、』濃口 2010もほとんどが福岡で売れました。
いまはまだ始めたばかり。だからこそ毎年試し、実験を繰り返して、
もっとこうしたいという理想像に近づけていきます」
すでに「おいしい!」と、ファンのついている城さんの醤油は、
これからも毎年成長を重ねていく。
その変化も、城さんを応援し、使っていく人にとっての楽しみ。
来年は、どんな味や香りになるのだろう。
そして、30年後にはどんな蔵になっているのだろう。
思い浮かべるたびに、胸の鼓動はワクワクドキドキと高まるばかり。
これからも、心から応援しています。
information
ミツル醤油醸造元
住所 福岡県糸島市二丈深江925-2
TEL 092-325-0026
http://mitsuru-shoyu.com
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