連載
posted:2018.1.16 from:愛知県名古屋市 genre:ものづくり / アート・デザイン・建築
sponsored by 貝印
〈 この連載・企画は… 〉
〈貝印 × コロカル〉第6シーズンは、貝印株式会社の商品開発・デザインスタッフが、
コロカル編集チームとともに未来志向のクリエイターを訪ね、
クリエイターのフィロソフィーやビジネススキームを学びます。
未来的なクリエイティブとは何か? という問いへの「解体新書」を目指す企画です。
writer profile
Tomohiro Okusa
大草朋宏
おおくさ・ともひろ●エディター/ライター。東京生まれ、千葉育ち。自転車ですぐ東京都内に入れる立地に育ったため、青春時代の千葉で培われたものといえば、落花生への愛情でもなく、パワーライスクルーからの影響でもなく、都内への強く激しいコンプレックスのみ。いまだにそれがすべての原動力。
credit
撮影:岩本良介
江戸時代初期から中期にかけて発展したからくり人形は、
お祭りにおいて山車の上で踊ったり、お座敷で遊ぶ玩具である。
江戸時代(享保年間)から続く、唯一のからくり人形師の家系である〈玉屋庄兵衛〉。
現当主は九代玉屋庄兵衛さんで、名古屋に工房を構える。
数多くの製造業者が拠点を構える名古屋を含む中部地方は、
ものづくりの精神が息づくエリア。
そんな地域に機械工学の原点のような技術が受け継がれていたとは関連性が深そうだ。
そこで同じく中部地方に本社を構える〈貝印〉の
商品本部デザイン室チーフマネージャーである大塚 淳さんと、
九代玉屋庄兵衛さんの工房を訪ねた。
時をさかのぼって1733年。京都に住んでいたからくり人形師の庄兵衛は、
名古屋の城下で行われていた「東照宮祭」の山車のからくり人形を製作した。
翌年、玉屋町(現在の名古屋市中区)に移り住む。
その地名を取って玉屋庄兵衛を名乗ったのが、初代の玉屋庄兵衛だ。
現在でも愛知県には、150以上の「山車祭り」が残っている。
そのうち、からくり人形が舞い踊る山車は約140台。
それらの修理・復元の多くが、玉屋さんの元へやってくる。
九代玉屋庄兵衛さんは、オリジナルのからくり人形も製作。
まずは「茶運人形」が実際に動く様子を見せてもらった。
人形がお茶を持って“歩いて”くる。お茶を取り、飲んだ後に茶碗を戻すと、
Uターンして戻っていく。
1796年に細川半蔵頼直が残した『機匠図彙(からくりずい)』に記されていた機械図をもとに、
父親である7代目が復元したものだ。
「図はかなり粗いものでしたので、7代目がかなりアレンジを施したようです。
一番難しいのは歯車。歯に対してタテの木目のみを使って、
8枚を貼り合わせていきます。横の木目だと、細い歯の先が割れやすい。
さらに木はその土地の湿度を受けて変化してしまうのので、影響を受けて変化しやすい」
と言う九代玉屋庄兵衛さん。
木は部位に合わせて7種類を使用している。顔や手足はヒノキ、型枠や胴は山桜、
軸芯は赤樫、歯車はカリン、ほかに黒壇、柘植、竹と、強度や特性に合わせて木を選ぶ。
どのからくり人形も木製なので、当然、木に詳しくないといけない。
九代玉屋庄兵衛さんの代表作といわれるのが「弓曳童子」。
もともとは、江戸末期に田中久重が製作したものだ。
その図面は残っていなかったので、オリジナルを解体、採寸し、完全に復元した。
素材もすべて同じものを使用。製作には1年を要したという。
カタカタという音とともに、矢を1本1本親指と人さし指でつまみ、
弓につがえて狙いを定め、指を離して矢を放つ。
この淀みない一連の動きにはほれぼれしてしまう。
スムーズではあるが、リアルというのとはまた異なる味のある動き。
特に狙いを定めようと少し顎を上げたときの「表情」は、ぜひ動画を見てほしい。
「からくりの機械構造は、動きを想定しながら考えるのですか?」
と貝印・大塚さんが聞く。
「理想は、人間の動きに近づけること。
たとえば、『乱杭渡り』は江戸時代からあるからくり人形で、
二枚下駄に乗って杭を上っていくというもの。
これを一枚下駄でつくることになりました。
人間が二枚下駄から一枚下駄になったときに、
どのようにバランスをとっていくかを考え、リアルな動きになるように考えました」
人間らしい動きをするから、愛嬌があるし、感情移入する。
目指すところは人間と同じ動きをすること。
現在のロボット開発がたどっている道筋と似ているような気がする。
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オリジナル製作でも、修理でも、顔が一番重要かつ難しいという。
「うちは設計図を書きません。サイズは顔の大きさから決まってきます。
顔が決まれば、スタイルがいいとされる8頭身で組んでいきます。
ほとんどの日本人は6頭身ですけどね(笑)」
貝印・大塚さんは「つまり、8頭身のなかにすべてを収めるということですね」と言う。
どんなに複雑な動きをするからくりでも、
見た目から導き出された“人間らしい”サイズの中にすべての機械を収めなくてはならない。
動きが重要なので機械部分から構築していくと思っていたが、
見た目のデザインを損なわないようにすることが重要。
あくまで人形としての存在感を大切にするのだ。
「良し悪しは顔に出る。角度によって表情が変わるようにつくっています。
矢を射るカム(機械要素)より、顔を動かすカムのほうが多いんです。
的を狙うときは、本当にいい顔しますよ」
なるほど、それであの豊かな表情を演出できるのだ。
同じ玉屋庄兵衛でも、3代目には3代目の顔、6代目には6代目の顔がある。
修理をしても、同じ顔にしなくてはならない。
なぜならその顔が、その山車を持つ町内の顔になっているからだ。
顔の表情をつくるというデザイン面、機工をつくる工学面。
一見、相反する能力のように思われるが、すべてからくり人形師の仕事だ。
さらには人形が着ている衣類の縫製から、漆塗りにいたるまで。
木を削る道具も自分でつくっている。
刃こそ職人に幅、厚み、長さをオーダーしているものの、自分で刃にヒノキの柄を付け、
籐を巻いて持ちやすくし、漆を塗って仕上げている。
デザイン、設計、製作とひとりで行い、かなり守備範囲は広い。
和裁、漆、木工など、それぞれ専門の職人がいるくらいだから、驚きを隠せない。
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からくりの動力は電気ではなく、ゼンマイやバネで動かす。
前述の「茶運人形」や「弓曳童子」は、ゼンマイ仕掛け。
かつてゼンマイは背美クジラのヒゲからつくられていたが、
現在、背美クジラは絶滅危惧種に指定されているので、代わりに真鍮や鋼などが使われている。
こうした電力に頼らないからくりは、現在のものづくりにも刺激を与えている。
たとえば「からくり改善」。「からくり」技術を製造ラインに応用し、
効率化していく仕組みのこと。電力削減と二酸化炭素排出抑制なども期待できる。
製造ラインに乗せたものの自重だけで動くような仕組みなど、多くのメーカーが取り入れている。
「当社でも取り入れています」と、貝印の大塚さんも興味を持っている。
からくりの原始的な仕組みは、最先端の製造業にも寄与しているのだ。
からくり人形は、鉄釘や接着剤も使われていない。
だから、江戸時代につくられたからくり人形であっても、今でも修理ができる。
「だいたい200年くらい経つと、板が割れたり、穴が空いてきます。
江戸時代のものづくりは、修理することが前提。
今みたいに使い捨ての発想すらありませんよね。だから直せるのです」
九代玉屋庄兵衛さんが直すのは、観賞用のオブジェとは異なり、山車のからくり人形だ。
つまり毎年、お祭りで使用されるもの。
「文化財などは、壊れた場所だけを修復しますよね。ほかは基本的には触らない。
しかし木にも寿命があります。修復した箇所は200年持ちますが、
その隣の古い板材は、数年後には壊れる可能性が高いわけです。
だから修復といっても、実際に動かすかくり人形は、新しい木でつくり変えます。
そうすれば、ここから何十年、何百年と耐久性のあるものになるのです」
直しやすいということは機械がシンプルということなので、
どんな国に行ってもきちんと作動する。
九代玉屋庄兵衛さんの「茶運人形」や「弓曳童子」は、
世界各国に旅立ち実演されているが、動かなかった場所はないという。
からくり人形は自然由来の素材しか使われていない。
だから発展途上国でも、つくることができる。
からくり機工を実地的に学べば、前述の「からくり改善」の通り、
外部エネルギーを使わなくても、現地のものづくりに貢献できるのではないか。
「そもそも直す前提でつくられているので、修理しやすいようになっているし、
直したものは、簡単に壊れないようにしなければならないですよね。
“直す”ということの本質が込められていると思いました」
と、貝印・大塚さんは話した。
information
九代玉屋庄兵衛後援会
information
貝印株式会社
1908年、刀鍛冶の町・岐阜県関市で生まれた貝印は、刃物を中心に、調理器具、化粧小物、生活用品、医療器具まで、生活のさまざまなシーンに密着した多彩なアイテムを製造・販売。現在は、日本だけでなく、欧米やアジア諸国など世界中に製造・販売拠点を持つグローバル企業に発展しています。
http://www.kai-group.com/
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