連載
posted:2018.7.5 from:富山県射水市 genre:アート・デザイン・建築
〈 この連載・企画は… 〉
地方都市には数多く、使われなくなった家や店があって、
そうした建物をカスタマイズして、なにかを始める人々がいます。
日本各地から、物件を手がけたその人自身が綴る、リノベーションの可能性。
writer profile
Hiroyuki Akashi
明石博之
あかし・ひろゆき●1971年広島県尾道市(旧因島市)生まれ。多摩美術大学でプロダクトデザインを学ぶ。大学を卒業後、まちづくりコンサル会社に入社。全国各地を飛び回るうちに自らがローカルプレイヤーになることに憧れ、2010年に妻の故郷である富山県へ移住。漁師町で出会った古民家をカフェにリノベした経験をキッカケに秘密基地的な「場」をつくるおもしろさに目覚める。その後〈マチザイノオト〉プロジェクトを立ち上げ、まちの価値を拡大する「場」のプロデュース・空間デザインを仕事の軸として、富山のまちづくりに取り組んでいる。
はじめまして、グリーンノートレーベル株式会社の明石博之と申します。
東京から富山県に移住し、射水(いみず)市で暮らしながら、
射水市新湊内川地区をはじめとする県内の昭和レトロな建物や
町家文化を生かしたまちづくりをしています。
漁師町で出会った、元畳屋の空き家をリノベーションして
〈カフェ uchikawa 六角堂〉をオープンしたことがキッカケとなり、
「場」の魅力づくりによって、まちの価値を高めたいと思うようになりました。
この思いを〈マチザイノオト〉としてプロジェクト化。
町家文化など、絶滅が危惧されている「まちの財産=マチザイ」を
発掘・記録・支援(ノーティング)する活動を展開しています。
vol.1では、富山に移住して、新湊内川の魅力に出会い、
そして六角堂を立ち上げるストーリーについて、お伝えしていきます。
子どもの頃は、マンガを描くことと秘密基地をつくるのが大好きな少年でした。
広島から上京して、多摩美のプロダクトデザインを卒業、
その後は東京にあるまちづくり会社に入社しました。
学生時代、担当教授に言われた
「君はプロダクトデザイナーに向いていない、
人と社会の間にはもっと多くのデザインがあるから……」
という衝撃的な言葉が引き金になって、まちづくりの世界に飛び込みました。
東京時代は、月の半分が地方出張という日々。
超過疎地の農村、シャッター通り商店街、バブルの遺産が残る観光地などを巡り、
地域活性化のコンサルタントをするのが僕の仕事でした。
行政の仕事は年度完結型です。長期戦で地域のことを考える余裕はありません。
僕のミッションは、最初の歯車を回し始めるまでの仕掛けづくりなので、
これからおもしろくなるというタイミングでコンサルタントは去らねばなりません。
そのうち、本当は自分も主体者として地域に関わりたいという思いが
次第に大きくなっていきました。
思いが募って、30代後半で地方へ移住することを決意。
どこへ行くかが問題なのですが、結局、ご縁のあった数多くの地域から
富山県を選びました。その理由は単純で、妻の実家があったからです。
妻はもともと会社の同僚でした。
時を同じくして、地方で仕事をしたいと考えるようになり、
ふたりで相談した結果、結婚と同じタイミングで移住をすることにしました。
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富山がどんな土地柄なのかよく知らなかったので、
レンタカーを借りて数日間、富山県中を見て回りました。
まず驚いたのは、3000メートル級の立山連峰の存在でした。
それはあまりにも大きな存在で、いつも神様に守られているような、
とても不思議な感覚でした。
クルマで30分も移動すれば、大自然の海と山の
どちらも満喫できるというコンパクトな県です。
農村が農村らしく、漁村が漁村らしく、歴史的なまち並みは県内各所に見られ、
ほどよく都会的なまちもある、そんな魅力的な場所でした。
ところが、土日にもかかわらず、どこへ行っても
レジャーを楽しむ人や観光客らしき人をほとんど見かけません。
不思議に思いながらも、僕はこれをプラスに捉えました。
自分が何かをするための「余白」がいっぱいあって、
富山の「伸びしろ」も無限にあると感じたのです。
万が一、富山が肌に合わなかったら、また東京に戻ってリセットすればいいや、
というくらいの気持ちで移住を決意しました。
2010年の春に移住、それから自分が情熱を持てることを探すため、
県内のいろいろな場所を探訪しました。
日常の生活圏内に町家や土蔵、大自然がある環境に非日常感を覚え、
毎日が観光気分でした。
しかし、驚くほど空き家が多い……、
空き家が社会問題になっていることは知っていましたが、
大雑把に言うと10軒に1軒は空き家で、
実際に見て回ってみるとリアルに危機感を抱きました。
若い世代は、新築の家を建てるため、
最後に残った高齢世帯がその家の最後の住人となります。
最後の住人が入院したり、施設に入ったり、亡くなったりすると、
その空き家が使われる可能性は極めて低いわけです。
そういった問題を目の当たりにしても、不謹慎ながら、
僕の気持ちはウキウキしていました。空き家の数だけ妄想は広がります。
2010年の秋、運命の出会いがやってきました。
「定住コンシェルジュ」をする妻が、絶対に見てほしい地域があると言って
僕をその場所に連れていってくれました。
そこは、射水市新湊地区にある昭和レトロな漁師町。
ゆるくカーブした幅の狭い運河に沿って、定置網の漁船が何艘も繋留され、
運河の両側には、びっしりと軒を連ねている古い町家群。
その先には広い空と立山連峰の非日常的な光景が見えて、
まるで映画のセットのようでした。
この運河は「内川」というらしく、
当時、富山県内でも知る人は少なかったように思います。
内川沿いの風景もさることながら、
この地区一体に群をなしている密集民家、迷路のような細い路地、
ものすごい数のお寺や神社、それに地蔵尊がある港町の風情がすばらしく、
ぐっと心をわしづかみにされました。
そこに暮らす猫や海鳥たちも、魅力的なまちの演出に一役買っていて、
僕の好奇心はMAXに達していました。
なにこれ、なにこれ、と心の中でつぶやきながら、
勝手に動きだす足に任せて朝から晩まで歩き続けました。
このまちにすっかり魅了されてしまい、ここで何かをしてみたいと、
熱い想いが込み上げてきました。
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はじめに射水市役所の空き家情報バンクの窓口に行きましたが、
登録件数も少なく、気に入る物件がありませんでした。
そのとき、手描きの散策マップで紹介してあった
「六角の家」という家が目にとまりました。
現在空き家になっていて、ちょうど市役所に勤務している方の実家とのことで、
それからトントン拍子にことが進み、内見することも可能になりました。
その場所は、内川にかかるベンガラ色の木造橋のすぐそば、
三叉路に位置した昭和レトロな六角形の建物でした。
築70年のその建物は、道路に面した部分が全面ガラス窓で、
2階の窓は建築当時のままです。
長い間放置されていたため、1階の一部が朽ちていました。
以前は、ご主人が畳屋を営んでいて、2階が住居だったそうです。
見る人によっては単なるお化け屋敷ですが、僕の心はトキメキました。
三叉路に建っているため、祭りの大きな曳山(ひきやま)が通れるようにと
敷地の角を面取りしているそうで、地元ではそれを「角切り」と呼んでいます。
「まちかど」を担っている大事な存在であることは間違いないと感じました。
中に入ってみると、畳屋を営業していた頃の面影がそのまま残っていて、
機械や道具、生活用品までがそのまま放置されていました。
運命とも思えるこの建物との出会いに酔いしれていたとき、
衝撃的な事実を聞かされました。
なんと、この建物が壊されてしまうかもしれないとのこと。
僕は初めて訪れたまちで、1軒の空き家が壊されることに対し、
こんなに主体的に危機感を持ったことはありません。
なんの根拠もないですが、直感的に大事なものを失ってしまう気がしました。
まちにとってか、僕にとってか、それはわかりません。
なんとかしたいと思い、この家の所有者の弟さんに会わせていただくことにしました。
お話を聞くと、誰も住む予定のない家を放置しておくと危険だし、
防犯上も良くない、近所迷惑にもなると思い、
建物の解体工事の見積りを取っているところだと知りました。
それを聞いて思わず、譲っていただくことはできないかと相談してみました。
具体的なプランはありませんでしたが、多くの人に内川のことを知ってもらうためには
カフェが良いのではないかと思いました。
ちょうど、古民家をリノベーションしてカフェをつくるという事例が
全国で生まれつつあるタイミングでした。
それから1年が過ぎた2011年の秋、所有者のご兄弟とお話し合いを重ね、
ついに空き家を譲っていただくことになりました。
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すべてが初体験の、長い長いオープンまでの道のりがスタートしました。
もともと僕の仕事は、プロジェクトの大枠のコンセプトをつくったり、
店とまちの関係づくりやコミュニティづくりを仕掛けたりするコンサルです。
そのため、今回の作業全体の8割くらいは未経験のこと。
本や知人に頼って、ひとつひとつ学びながら進めていきました。
今回のリノベーションには、大きくふたつのタスクがあります。
ひとつ目は、デザイン、設計、建築工事をともなう空間づくり。
設計は、富山県内で実績のある会社をネットで探し、
濱田修さんという建築家にお願いすることにしました。
決め手は「店にとってトイレはとても大事」という考え方でした。
最初に現況図面を起こしてもらい、
補修や構造の課題などについて整理してもらいました。
僕は毎日のように六角形の家に通い、
その場で空間デザインのイメージを膨らませました。
埃まみれの空き家の中で、そのままうたた寝していたこともあったり、
いままでに経験したことのない、とても満たされた時間でした。
ふたつ目は、日々の営業や経営にかかわるコンセプトワークです。
カフェの店づくりのため、東京を中心に、
雑誌に載っていたお気に入りの店を何十軒も見て回りました。
まったくの素人が、本で得た知識と併せて、見よう見まねで
フロアや厨房の間取り、機器や備品の選定、サービスの動線を計画し、
それを図面に反映してもらいました。
カフェなので、お客さんは女性がメイン。
しかも、オーガニック食材にこだわる店にしたいので、
センスと質感がいい空間にしたいと思いました。
できる限り、いまの面影を残しながらも、
いかにも「和の古民家カフェ」にはしたくありませんでした。
当時、もっとも重要な課題が資金調達でした。
コンサル会社がなぜカフェを?
しかも、人通りのない田舎の片隅でどうやって客を呼ぶの?
失敗したときの経営体力がないでしょ?
とのことで、最初の銀行は門前払いを食らいました。
次の銀行も結果は同じでしたが、それでも諦めずに交渉を続け、
結局、融資までに1年かかりました。
スタート位置に立つまでに随分と時間がかかりましたが、
やっと工事に入れることになりました。
このとき、もし同じような思いを持って、空き家をリノベしたいという人が現れたら、
この経験を生かしてお手伝いをしてあげたいと思いました。
それがキッカケとなり〈マチザイノオト〉という活動を同時にスタートさせました。
六角形の家のようなボロボロの空き家でも、主体性を持って取り組む人がいれば、
まちの財産「マチザイ」になるはずです。
現在の不動産市場からしてみれば、ほとんど価値のない物件も
プロデュースやデザインの仕方次第で、魅力的な場や空間になる
という思いを込めた活動がマチザイノオトです。
港町の畳屋だった六角形の家は〈カフェ uchikawa 六角堂〉と命名しました。
経済中心の世の中で失ってしまった数々の大事なものを取り戻す、
というミッションを勝手に背負ったプロジェクト、第1弾のはじまりです。
vol.2では、六角堂のリノベ術や建築としてのポイントをさらに掘り下げていきます。
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