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子どもたちが内へ外へと走り回る!
いつでも人で賑わう、
家と自然と人、開かれたログハウス

わが家が楽しすぎる! BESS × colocal
vol.012

posted:2021.12.23   from:長野県下伊那郡阿南町  genre:暮らしと移住 / アート・デザイン・建築

sponsored by BESS

〈 この連載・企画は… 〉  ライフスタイルの基本は、やはり「家」。
ログハウスなど木の家を得意とする住宅ブランド〈BESS〉とともに、
わが家に好きなものをつめこんで、
最大限に暮らしをおもしろがっている人たちをご紹介します。

writer profile

Tomohiro Okusa

大草朋宏

おおくさ・ともひろ●エディター/ライター。東京生まれ、千葉育ち。自転車ですぐ東京都内に入れる立地に育ったため、青春時代の千葉で培われたものといえば、落花生への愛情でもなく、パワーライスクルーからの影響でもなく、都内への強く激しいコンプレックスのみ。いまだにそれがすべての原動力。

photographer

Daisuke Ishizaka

石阪大輔(HATOS)

ペルー・リマの暮らしに憧れて

家を建てる段階から、自分たちが住むこと以上に、
たくさんの人を招き入れることを想定していた。
そんな人好きな夫婦が長野県下伊那郡阿南町新野(にいの)地区に住む
金田信夫(かなだしのぶ)さん・紫織さんだ。

自宅前にて談笑する金田信夫さんと紫織さん。

自宅前にて談笑する金田信夫さんと紫織さん。

2005年、新野のまちを見渡せる高台に、
BESS(当時は前身のBIG FOOT)の「カントリーログ」を建てた。
当初は新野のまちなかの実家に両親と同居していて、
ログハウスは信夫さんの個人的な木工作業場として利用していた。
しかし、最初から「人をたくさん呼べる家にしたい」という
将来の使い方を想定していたようだ。

「1階は水周りへの導線にはドアをつけず、
2階も部屋をなくしてワンルームにしてしまいました。
トイレとお風呂のサイズも本来と逆なんですよ。
たくさん人が来たときに、トイレが広いほうが着替えたりできるので。
お風呂は近くに温泉もあるし、小さくていいかなと」という信夫さん。

2階は大広間のようになっていて、傍らには何組かの布団が積まれていた。
“仕切り”というものを極力排除して、お客さんの行き来を生みやすい設計になっている。

妻の紫織さん自慢のキッチンは、大きなフランス製のオーブンを備えつけにした仕様。
「まとめて40人分くらいは料理できますよ」と笑う。

壁に直接フライパンや鍋をかけて便利そう。ワイングラスホルダーもお手製。

壁に直接フライパンや鍋をかけて便利そう。ワイングラスホルダーもお手製。

ふたりが「人をたくさん呼ぶ」という暮らし方に魅力を感じたきっかけ。
それは信夫さんがペルーのリマ日本人学校に赴任することになり、
1999年から2001年まで一家で首都のリマに暮らしたことに影響を受けている。
そこでは、平日はまちの狭いアパートに住んで会社などで働き、
週末は車で1〜2時間ほど離れた自然豊かな場所に、
DIYで別荘(セカンドハウス)を建てる人が多くいたという。

「ペルー人の友人は毎週のようにホームセンターで買ったレンガを持って別荘に通い、
ひと部屋完成すれば友だちを招き、一緒につくりながら、
バーベキューをしたり、歌ったり、踊ったり。そしてまたひと部屋増える。
10年以上かけてセカンドハウスを自分でつくっていくんです」(信夫さん)

そんな暮らしに、豊かさと楽しさを覚えた。
そこに住む人、そして訪れる人次第で、家という箱はどんな空間にもなる。

そうして帰国後、水道も電気も通っていない高台の原野だった自分の家の土地を整備し、
“人がたくさん訪れやすい”家を想定して、BESSの家を建てることにしたのだ。

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ログハウスでの子どもたちの遊び方とは?

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たくさんの人が“暮らす”

いまでは、いろいろなグループがこの家を訪れるようになったが、
「人に使ってもらうこと」を大々的にPRしているわけではない。
多くは知り合いのクチコミだ。

「最初に来たのが、当時、東京・小金井に住んでいた、いとこの鶴巻麻由子さん。
彼女はリアカーを引いて〈出茶屋〉という移動喫茶店をやっています。
自家焙煎のコーヒーを、
南部鉄器の鉄瓶を使い井戸水の名水を炭火で沸かしたお湯で淹れる。
そんな風変わりなスタイルだから、常連さんもユニークで。
そのお客さん御一行で、国の重要無形民俗文化財に指定されている
『新野の盆踊り』に遊びに来たんです」(信夫さん)

ほかには、信夫さんと紫織さんで指導している地元の新野親子体操クラブや
信夫さんの出身校、信州大学体操部の合宿に使用するようにもなった。
このときは、紫織さんが食事の世話をすべてしたようで、
「とにかく食べる食べる!」と思い出を笑顔で話してくれた。

首都圏、中京圏の都市部からの子どもたちもたくさん訪れている。
まずは自然に囲まれた立地やログハウスに対して驚き、しかしすぐに順応するという。

「みんな必ず“木の匂いがする”と言いますね。私たちはもうあまり感じないけど、
私が着ている洋服も“ログハウスの匂いがする”らしいです(笑)」(信夫さん)

すぐに子どもたちは、自由に遊び始める。それは都会の遊びとは異なってくる。

「大体、虫採りですね。まずはカエル、バッタを捕まえる。
夏は裏山に分け入り、冬になればログハウスの目の前の土手でソリ滑りをしたり、
裏の道路がツルツルに凍るのでスキーをしたり。
犬でさえリードを外されると、ログハウスの回りをうれしそうに走り回るんです。
あまりはしゃぎすぎて土手からジャンプしてねん挫した犬もいましたね(笑)」(信夫さん)

「子どもたちは、ここに来ると一日中外で走り回ったり、
木のおもちゃで遊んだりしていますよ。
普段はゲーム機ばかりやっていた子がやろうとしません。
木のおもちゃが結構あるので、わりと大きな子でも必ず遊んでいきますね。
たまに家の中と外のすべてを使って鬼ごっこが始まります。
“一緒にやろう”と誘われるのですが、もうちょっとついて行けなくて(笑)」(紫織さん)

庭の小さなヒメリンゴは、取材時には完熟だった。

庭の小さなヒメリンゴは、取材時には完熟だった。

信夫さんは小学校の教師、紫織さんも元保育士で現在は小学校教師。
子どもたちが楽しめる環境をつくりたいという思いは、人一倍強い。
子どもたちも、自分でも気がつかないうちに心が開放されるのかもしれない。
その「余白」のようなものがこの家にはある。

「東京に行くと、1ミリも隙がないと感じます。こっちだと境界線がふわっとしている。
ウッドデッキにもはだしで出て行きますしね」と信夫さんが言えば、
「何もしないためにここに来る人もいる」と紫織さんも同調する。
物理的にも、精神的にも、不思議な解放感がこの家にはある。

自然なかたちでつくられたコンポスト。

自然なかたちでつくられたコンポスト。

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移住者を受け入れる術とは?

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移住促進と『DeepJapan 新野高原』

あるとき、地域の中学校の統合問題が持ち上がった。
言わずもがな、人口減少から起こった問題だ。
これに危機感を強めた金田さんや周囲の人たちは、
〈新野から☆元気にしまい会〉というボランティアグループを立ち上げ、
移住定住促進の活動を進めることにした。

「『新野の盆踊り』は中学生がお祭りの重要な担い手で、
伝統芸能の灯を絶やさないためにも中学校を残したいと思ったんです」(信夫さん)

高台にある金田さん宅から見渡せる新野のまち。

高台にある金田さん宅から見渡せる新野のまち。

まずは2019年8月から『DeepJapan 新野高原』というウェブサイトを立ち上げ、
地域の情報を発信し始めた。自然環境から暮らし、仕事や子育て、そして祭りに至るまで、
新野に暮らすからこそわかる生の情報は、暮らしを立体的に伝えてくれる。

このサイトを通して、移住の相談も受け付けている。
興味を持って新野に来てくれた人たちには、
金田さんは新野のまちや空き家を案内し、学校などを見学してもらっている。
地元の人に案内してもらえるなんて、なんと心強いことか。
現在、問い合わせは70件を超え、移住体験の実施も30件以上、
そのうち実際に6家族が新野に移住した。

「少し前までは、一家完全移住ではなく、
母子で移住しお父さんは都市部で働いているというパターンが多かったですが、
コロナ禍になってからは、
一家での移住相談や半自給自足的な暮らしを希望する方が増えましたね」(信夫さん)

ただ相談を受け付けるだけでなく、
住居や仕事など実際の受け入れ態勢を整えることにも取り組んでいる。
ひとつは空き家問題だ。

「空き家自体はとにかくたくさんあります。
多いパターンとしては、お子さんが東京などの都市部に出ていて、
高齢者の親御さんが亡くなったり、施設に入ったりして、
親御さんが暮らしていたままの状態で家が残っていること。
そういう空き家を、まずは誰に連絡すればいいかを近所の人や親戚の方に聞いて、
電話をして新野のために貸してほしいと説明する。そして貸してもらう代わりに、
家の中の片づけを私たちが請け負うんです」(信夫さん)

もちろん町の行政も移住を促進するために活動しているが、
民間や個人の活動とは役割が異なるのだろう。それを体感して確信する金田さん。

「行政には難しくて私たちにできることは、
空き家をどうしたらいいのか困っている親族の方との1対1のコミュニケーション、
そこからのマッチングです。
どの家が空いているとか、そこのおばあちゃんがどういう状況かとか、
親族の方がどんな気持ちなのかとか、何度も聞いたり訪れたりしないとわかりません。
また、その家を誰かが気に入ってくれて移住してくれたら、
その先の暮らしの相談などにものってあげないとダメなので」(信夫さん)

このログハウスにさまざまな人がいろいろな風を運んできてくれることを願いスペイン語で「カサ・ビエント(風の家)」と名づけた。

このログハウスにさまざまな人がいろいろな風を運んできてくれることを願いスペイン語で「カサ・ビエント(風の家)」と名づけた。

たしかに新野の最初の知り合いとして、金田さんになにかと頼りたくなる気持ちもわかる。
もちろん金田さん夫妻は、それもウエルカムだ。
移住してきた人たちを招いたバーベキューなど、集まる機会を積極的につくり、
副次的に新しい暮らし方も生まれてきている。

「〈新野から☆元気にしまい会〉のメンバーが
〈あさげプロジェクト〉という会社を立ち上げました。
耕作放棄地を借り上げたり、空き家の雨漏りを修繕したり、
移住者が定住しやすくなるための地域事業。
また、田植えや稲刈りのときに声をかけて手伝ってもらうなど、
移住者が準社員みたいになっています。もちろん強制ではありませんが、
そんな田舎暮らしをやりたくて移住してきた部分もあると思うんです。
でもゼロからやるにはハードルが高い。だから手伝うことから徐々に始めるのがいい。
ある移住してきたお母さんはゼロから始めて、
いまではトラクターを運転するまでになりましたよ」(信夫さん)

移住者が増えることで新しい事業も生まれてきたようだ。
受け入れ側の柔軟な発想が、まちを活性化し、豊かにしていくに違いない。

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「家を開く」とは?

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『新野の盆踊り』に人が集まる土地だった

「移住者も増やさなければいけませんが、
最近では、まずは関係人口のようなものも重要だと思っています」という紫織さん。

「観光地とは違って、第2のふるさとみたいな、ほっとできる場所にしたい。
この間も1年ぶりにある親子が訪れてくれて、落ち葉かきをしてくれました。
それで焼き芋をしてね」

常に人で賑わっている観光地ではないので、
関係人口という意味では新野は適しているのかもしれない。

「わが家がそういう入り口になればいいなと思っています」と紫織さん。

信夫さんが30年前に制作した食器棚。チークオイルフィニッシュのナラ材は、飴色に変化しいい味を出している。

信夫さんが30年前に制作した食器棚。チークオイルフィニッシュのナラ材は、飴色に変化しいい味を出している。

思えば、『新野の盆踊り』は約500年も前から踊り継がれてきたもの。
その時期には多くの人が外から遊びに来る。
そんなとき「うちの父は、初対面の観光客に寄ってけ寄ってけと呼んできて
夕飯を食べさせる、そういう家だった」と信夫さんは言う。
だから「うちは人が来るということに関しては寛容」と紫織さんもうなずく。

「人口が1000人程度なので、ほとんどの人が祭りに関わっているし、
共通認識というものを持ちやすい」のだという。

もちろん、やりきる実行力と、
それを受け入れる土地の寛容さがあることは言うまでもない。

“家を開く”という概念がある。
自宅をカフェにしたりコミュニティスペースにしたりすることだ。
金田家は、もっともっと深い部分で“開いている”ように思う。
自分たちは実家で泊まり、この家をまるごと人に貸すことすらあるという。

「BESSの家はぴったりなんですよ。こういう家でなければ、こんな活動はできません」

家自体は箱であり、それを開いていけば、
まだまだいろいろな活用法の可能性が広がってくる。それもひとつの暮らし方だ。
家が自然とシームレスにつながっているように、
金田夫妻のマインドも外の人と中の人を境界線なくつないでいく。
家と自然と人、すべてが一体となって開いていくような新しい暮らし方かもしれない。

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DeepJapan 新野高原

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