連載
posted:2024.6.1 from:東京都立川市 genre:食・グルメ
〈 この連載・企画は… 〉
種を蒔いて芽が出て、花が咲いて実を結んで、また種を採る。
何十年、何百年も、地域の風土を記憶し、土壌で育まれながら、守り継がれてきた個性豊かな野菜たち。
その土地で種を守り続けている人々の営み。それらを次代に残していくために思いを紡ぐ「種の話」。
writer profile
Takuryu Yamada
山田卓立
やまだ・たくりゅう●エディター/ライター。1986年生まれ、神奈川県鎌倉市出身。海よりも山派。旅雑誌、ネイチャーグラフ誌、メンズライフスタイルメディアを経て、フリーランスに。現在はキャンプ、登山、落語、塊根植物に夢中。
〈練馬大根〉や〈谷中生姜〉〈内藤トウガラシ〉など、
東京には、東京の地で栽培されてきた在来種や
在来栽培法に由来する野菜、52品目が〈江戸東京野菜〉として登録されている。
その名の通り、東京各地の地名に由来し
「古くから東京で継承されてきた品種」ともとれるが、
そのルーツをひもとくと、多くの〈江戸東京野菜〉が江戸・東京とローカルを結び、
長い年月をかけて日本中を旅して紡いだ、“種の物語”が見えてくる。
〈江戸東京野菜〉という呼称が生まれたのは意外にも最近で、
2011(平成23)年にJA東京中央会や農業従事者などから構成された
江戸東京野菜推進委員会によって制定された。
「それまでの長い間、江戸・東京で栽培されてきた在来種、固定種は衰退し、
その存続は危機に瀕していました。
きっかけとなったのは、1950年代から始まる高度成長期です」
そう教えてくれたのは、JA東京中央会で江戸東京野菜推進担当の川並三也さんだ。
当時、東京の住宅不足を解消するため、
東京にあった大量の農地を“宅地並み”に課税対象とする
「宅地並み課税」が課せられ、農地は激減。
東京の在来種、固定種は行き場をなくし、
都市への人口集中にともなう野菜の安定供給のために
量と質の規格化された野菜、いわゆる「F1品種」の野菜が
ますますと流通を占めていったのだ。
「一代交雑種」とも呼ばれるF1品種だが、その歴史は古く、1926(大正15)年には、
埼玉県立農事試験場(現・農業技術研究センター/埼玉県熊谷市)で
ナスのF1品種が世界で初めて誕生している。
F1品種の野菜は、形・大きさのそろいがよく、成長も早いうえに、
同時期に一斉に収穫できるなど、経済合理性の高い野菜。
だが、意外と知られていないのは、
F1品種からは種を採取することはできず、種苗業者から購入しなければならないということ。
F1品種の種子からは同じ品質の野菜を収穫することはできないのだ。
「一方で、〈江戸東京野菜〉は、形や大きさが不ぞろいだったり、
病気や気候変化などに弱いなど、
安定的に生産するには多くのデメリットを抱えていますが、
自家採取により親から子へと命を繋いでいくことができます。
そして、その歴史を辿ると、地域に根づいた食文化があり、
本当の意味での『ローカルな食材』といえるのではないでしょうか」
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それでは〈江戸東京野菜〉がどのようにして認定されるか、
ということについてみていきたい。
〈江戸東京野菜〉制定当初は、わずか数種類しか認められていなかったが、
現在52品種もの野菜や果実が認定されているのは、
江戸東京野菜推進委員会の膨大なリサーチの賜物である。
「基本的に〈江戸東京野菜〉は、農業従事者などから申請を受けて認定しています。
ただし、それが本当に〈江戸東京野菜〉なのか、
江戸時代からつくられているという生産履歴や、
浮世絵に描かれていたり、古書や料理書などに証拠がなければ認定できません。
それはそれはおびただしいほどの文献を確認する必要があります。
実際に証拠がない種というのもあって、
いつからつくられたかわからないというものもあります」
そこで、〈江戸東京野菜〉の“証明”を解いていくと、
いかにして、種が江戸・東京とローカルをつないだかという
歴史の真実、ニッポンの“野菜史”が浮かび上がってくる。
「江戸、つまり徳川の時代の江戸の人口は100万を数える大都市でした。
人口急増にともない、食料増産が急務となると、
参勤交代で江戸に滞在中の諸大名は、
幕府より手配された下屋敷に自国の百姓を集めて、
地元の食材を懐かしんで栽培したのです。
そうして、江戸に集まった全国の野菜は、江戸の気候風土に合わせて独自に発展し、
優良品種の選抜や交配による品種改良が行われることで、
江戸近郊の農村は一大野菜生産地として成長していったのです。
その後、野菜(種)の販売なども行われるようになり、
いまの中山道の一部は、『種屋街道』(東京都北区滝野川)と呼ばれ、
全国から集まった種子が江戸の農村で売買されたり、
江戸土産として全国各地に広がっていったのです」
ひと口に〈江戸伝統野菜〉といっても、
もとを辿ると、全国各地を旅した“種の物語”があり、
現在認定されている52品種の数だけ、52の物語がある。
その一端を見ていこう。
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現在、認定されている〈江戸東京野菜〉は全52種。
もちろん、東京由来の品種も存在するが、
一時は東京で絶滅したものがローカルで発見されたり、
徳川幕府の命により、江戸に運ばれて定着していったものなど、
その背景にあるストーリーがおもしろい。
ここではそのうちほんの一部を紹介しよう。
江戸幕府五代将軍・徳川綱吉の命により、
尾張ダイコンと練馬の地ダイコンとの交配から選抜・改良されたのが〈練馬ダイコン〉。
当時、綱吉が江戸病(えどわずらい:ビタミン類の不足による脚気や鳥目)を患い、
治療のために食したといわれている。
一般に流通しているダイコンに比べ土から引き抜くのに力が必要なことから、
現在では「練馬ダイコン引っこ抜き競技大会」(毎年12月1週の日曜)が開催されている。
information
練馬ダイコン┃練馬区
徳川家康、二代・秀忠が好んで食べたといわれるウリ。
〈鳴子ウリ・府中御用ウリ〉は美濃(岐阜県)の農民を呼びよせ府中で栽培された。
府中の史実によると、徳川氏の入国以後、
幕府への上納品として真桑瓜(まくわうり)の栽培・上納が課せられていた。
「真桑瓜(まくわうり)」で知られる、美濃国の上真桑村の百姓は、
御用瓜を栽培して上納が済むと、8月末には美濃へ帰り、
美濃と府中を毎年半年ごとに往来していたそう。
information
鳴子ウリ・府中御用ウリ┃府中市
品目名:マクワウリ
品種名:鳴子(ナルコ)
収穫期:記録なし
写生年月日:明治後期
〈青茎三河島菜〉は、白菜の普及とともに生産が途絶え、絶滅したとされていた。
しかし、仙台藩が参勤交代で江戸から持ち帰ったものが、
宮城県内で栽培されていることが2010(平成22)年に判明。
仙台伝統野菜のひとつである「仙台芭蕉菜」が、
在来種である〈青茎三河島菜〉にあたることが認められ、里帰り復活した。
写真は明治に品種改良されたといわれる白茎が描かれているが、もとは青茎。
information
青茎三河島菜┃荒川区
品目名:ツケナ
品種名:三河島菜(ミカワシマナ)
収穫期:11月下旬から12月中旬まで
写生年月日:明治後期から大正初期まで
取り扱いのある主なJA:取り扱いのある代表的JA:JA東京みらい、取り扱いのある代表的JA
「内藤」の名は、現在の新宿御苑のある場所が、
信州高遠藩(現・長野県伊那市)の内藤家が下屋敷を置いたことから。
屋敷では〈内藤南瓜〉のほかに、
同じく〈江戸東京野菜〉である〈内藤トウガラシ〉も栽培されていた。
〈内藤南瓜〉は宿場の名物となり、周辺農家にも定着していった。
information
江戸時代に滝野川村(現・北区滝野川)で改良・採種された〈滝野川ごぼう〉は、
参勤交代などで諸大名により全国に運ばれたといわれている。
そして、現在では国内で栽培されるゴボウの9割以上が
〈滝野川ごぼう〉の血を受け継いでいるとされる。
当時は、質よりも量が重宝され、約1メートルまで生育する長さが特徴。
information
滝野川ごぼう┃北区
「〈江戸東京野菜〉は、収穫時期や、数量、規格がそろわないなどの理由で、
市場に出荷されたり、都内の小売店に流通することはほとんどありませんが、
東京の各地区に14のJAがあり、
各JAで運営されているファーマーズマーケットで手に入れることができます。
JAのほかに、農家の軒先販売や、「東京食材使用店」を掲げる飲食店で
〈江戸東京野菜〉に出合うことがあるかもしれません。
なかなか簡単に手にいれることができないのも
〈江戸東京野菜〉のおもしろいところなのかもしれません」
〈江戸東京野菜〉に限らず、
〈京の伝統野菜〉や〈なにわの野菜〉〈加賀野菜〉など、
各地域ではさまざまな伝統野菜がつくられており、
「どの県にも必ず地域の野菜がある」と川並さんは言います。
あなたの住む地域の野菜を知り、そのルーツを学ぶことで
よりその土地への愛着も増すのではないでしょうか。
取材協力:JA東京中央会
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