連載
posted:2018.9.11 from:福島県いわき市 genre:暮らしと移住
〈 この連載・企画は… 〉
東日本大震災後、福島県いわき市に移住し、情報発信をしている人がいます。
誰もが参加できる対話の場をつくる「未来会議」のことや、
あれからどう変わってきたのか、福島の“いま”をお伝えしていきます。
writer profile
Maiko Yamane
山根麻衣子
やまね・まいこ●1976年、神奈川県横浜市生まれ。2014年、東日本大震災の復興支援業務のため、福島県いわき市に移住。2016年から『いわき経済新聞』を運営。福島県浜通り地域(主にいわき市、双葉郡)のニュース・インタビューを発信。ほかに、『70Seeds』『福島TRIP』などで執筆。福島と県外の架け橋となるライターを目指しています。
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Blog:やまねえの東北応援日記
7年経った、福島の「このごろ」を伝えたい。
ただそれだけを思い、日々言葉を紡いでいます。
はじめまして。山根麻衣子です。
神奈川県横浜市に生まれ育ち、東日本大震災が発生するまでは、
神奈川県以外に暮らしたことがなかった、いわゆる「都会人」でした。
私はいま、福島県いわき市に暮らしながら、
『いわき経済新聞』などのデジタルメディアを通して、
主に福島県の沿岸部=浜通り地域の情報発信をしています。
震災直後の2011年~2013年まで、東北各地にボランティアとして関わり、
2014年に復興支援の仕事を得て、福島県いわき市に移住しました。
この9月でいわき暮らし5年目になります。
東京23区がふたつ入るほどの面積を持ついわき市は、
海はもちろん、山も温泉もある地方都市です。
ちょっと疲れたな―と思ったら車で15分ほどで源泉かけ流しの温泉に行けたり、
いわき産の食材を豊富に使ったレストランがあちこちにあったり、
しかもどこに行っても知り合いに会ってしまったり、
都心にはない距離感を、日々楽しみながら暮らしています。
ただ移住した当初は、いろいろな部分で苦労することが多くありました。
特に、震災から7年経ったいまでも続く、
被災地でありながら原発被災住民を2万人以上受け入れるという、
ほかの被災地にはないいわき市の特殊で複雑な環境。
それから、地方暮らしに免疫がなかった私自身の適応能力の低さ。
よそ者が地域に入るのは、いまの時代でもまだまだ難しいものだと感じます。
それが、原発事故のあった福島だったらなおさら。
善意と関心を持って入ろうとしても、どこか試されてるように感じてしまうのです。
あなたは、どのくらい福島のことを知ってるの?
5年前に移住した私も、いつもそれを感じていました。
私に、福島を語る資格があるの?
地雷を踏まないように、腫れ物に触るように、言葉を、行動を、選んでいました。
力になりたいと思っているのに、遠慮が先に立ち、
地域になじんでいけない日々が続いていました。
そんなときに、なんとかこの地域の人のことを知りたいと参加したのが、
「未来会議」だったのです。
未来会議の仲間は、「麻衣ちゃんの思うようにして大丈夫だよ」と言ってくれました。
私は未来会議の存在と仲間たちのおかげで、いまこうして、
福島の生活を楽しみながら、福島のことを書くことができています。
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未来会議は、福島県浜通り地域(いわき市や双葉郡)を中心に、
県内外で「対話によるワークショップ」による場づくりを行なっている任意団体です。
「会議」という名前ですが、集った人々が「対話」を通じて
それぞれを分かち合う場です。
2013年1月から2018年7月までの5年半の間に、
未来会議は19回の対話の場をつくってきました。
各回50人以上、多いときには100人以上の人が集います。
参加者のバックボーンはそれぞれ。
地元福島県の人はもちろん、私のような移住者、この地域に関心のある県外の人、
避難している人、避難を受け入れている人、支援している人、
役所の人、特に何か活動しているわけではない人……。
未来会議は、バックボーンや肩書きを取っ払って参加できる場所です。
東日本大震災が起こった2011年3月11日から、
特にこの福島県浜通りでは「バックボーン」=出身地が大きな分断の原因になりました。
強制避難、自主避難、帰る、帰れない、賠償の金額……、
すべて震災当時のバックボーンが基準となりました。
そんななか、嫌な事件や分断を煽るような報道が増えてきました。
2012年頃のことです。福島県浜通り(特に、被災地でありながら
多くの避難者をいまも受け入れているいわき市)に暮らす人たちに
良くない空気が生まれてきたことを感じた人たちがいました。
対立するのではなく、異なる価値観や違いはむしろ財産であると捉える。
それぞれが自分らしくいられる、ゆるやかな人の輪をつくることが、
未来につながる可能性を育むことになるのではないか。
そんな思いから2013年1月、未来会議は生まれました。
「未来会議」での対話にはルールがあります。
・人の話を否定しない
・自分と違う意見でもまず受け入れる
・無理に話そうとしなくてもいい
・結論を目指さない
そしてその場は、プロのファシリテーターが仕切ります。
ルールを皆が共有し、プロが場を促すことで、
未来会議は、バックボーンを気にすることなく、
安心して思いを話したり聴いたりできる場となっています。
私が初めて参加した未来会議は、旧警戒区域(避難指示が出されていたが、
立ち入りのできるようになった地域)の訪問と、
対話による未来会議を同日に行うというものでした。
その場で私は福島に移住して初めて、自分の思いを全面的に肯定される経験をしました。
未来会議のルール「人の話を否定しない」、
「自分と違う意見でもまず受け入れる」を、その場にいた全員が自然と守り、
思いを受け止める場をつくってくれていたからです。
自分の思いやバックボーンや立場を、否定されずに受け入れてもらえる公の場、
というのは意外と少ないのではないでしょうか。
未来会議には、その場がありました。
支援として福島に来たのに、地域の複雑な状況と自分の無力さしか感じられない、
それでもこの地のために何かしたいという気持ちだけはある、
そんな思いを受け止めてもらうことで、とても安心し、
少し楽になったことを覚えています。
「懇親会にもぜひ参加してほしい!」とメンバーに言われ、
もっと未来会議のことを知りたいと思った私は、もちろん参加しました。
そこで話されたことは……、おいしいお酒とおしゃべりでまったく覚えていません。
未来会議のメンバーは、とにかく酒好きが多いのです。
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復興に関わっているからと言って、みんないつもいつも真摯に、
ひたすらがんばっているわけではありません。
お酒もたくさん飲むし、ときには羽目も外します。
そんな彼らに出会うことで、私は自身のしがらみから少しずつ解放されていきました。
その後も彼らが、ことあるごとにひたすら飲み会に誘ってくれたからこそ、
いま私は、未来会議を運営する側になれたのだと思っています。
自身を肯定され、しがらみから解放されることで、
自分のやるべきことがわかってきました。
地域の人から聞いた話に、「へぇ、そうなんですか」と答えている間は、
話がそこで終わってしまう。
「私、そこに行ったことがあります」
「その方、知ってます」と答えられるようになれば話が続き、
対等に話してもらえるようになる。
そこからようやく、できることを探すことができると。
そのためには、誰よりも地域を歩き、情報を収集し、人に会いまくること。
未来会議に参加したことでたくさんのつながりができて、
私の世界はどんどん広がっていったのでした。
未来会議を通して出会った人たちのことを話そうと思うと、
どの人も切実な思いを持って動いている人ばかりで、
誰を選んでいいのかわからないくらいですが、
先日、7月に開催された未来会議では、
震災当時小学生・中学生だった若者たちとの出会いがありました。
「あのころとこのごろ」というテーマで、現在中学生~社会人となった5人の若者に、
それぞれ15分ほど話を聞かせてもらいました。
「あのころ」どう思っていたのか、「このごろ」どう思っているのか。
語ってくれたお話はもちろん、それを聞いた会場の大人たちが
どのように感じ、対話したのか。
そんなお話を、次回はお伝えしたいと思っています。
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