〈界 長門〉から足を伸ばして。 鯨を追って、冬の日本海へ漕ぎ出す 海と共に生きる人々の物語
仙崎湾を訪れる時にぜひ宿泊したいのは、山口県の武家文化を活かした建物が特徴的な〈界 長門〉。〈界 長門〉についての記事はこちらから。
日本海に突き出た長門市青海島は、中央部分が細く、二つの島がくっついたような形をしている。
西側は青海大橋で長門市仙崎と繋がり、東側の通地区は海に向かって大きく口を開けているかのよう。天然の漁場になっているその仙崎湾に、出産や育児をするために南の海へと向かう「下り鯨」が迷い込んで来るのだという。
青海島の外海側は、海上アルプスと呼ばれるほど奇岩が連なっているが、海中も地形が複雑なのだろう。かつては弱ったり、死んで打ち寄せられたりした鯨を捕らえていたが、戦国時代になると長いモリを持って、舟を漕いで追いかけるようになる。どうにか鯨に近寄って、舳先に立ち、海に飛び込むようにしてモリを打ち込む。その勇壮な仕事は、江戸時代になると網を使って鯨を捕らえてからモリを打ち込む網取式捕鯨となっていった。「鯨組」と呼ばれる専業の漁師たちが組織化され、巨大な鯨によって土地を潤していた。
旧暦の10月から翌3月までが漁期だったと言うから、真冬の日本海に飛び込むわけで、その命懸けの物語には胸を打つものがある。
青海島の東端、大きな口の上顎部分にある「長門市くじら資料館」の駐車場には、大きな鯨が停まっていた。プラスチック製のナガスクジラには車輪が付いていて、海へと運び出せるらしい。
「くじら丸」と名付けられたこの舟を使って、古式捕鯨を再現する祭りが行われている。館内には、ふんどし姿の男たちが舟を漕ぎ、周りを取り囲んでいる写真が飾られていた。男たちが背中に乗った「くじら丸」は、潮まで吹いている。
「通くじら祭り」は、全国から参加者を募集しているらしく、スタッフらしき男性から7月にぜひいらっしゃいと誘われた。そうか、今では夏の行事になっているのか。
日本で唯一の鯨墓で手を合わす
くじら資料館の裏手には、鯨の胎児のための墓があった。
鯨組を引退した浄土宗派の上人が、母くじらのお腹の中にいた胎児を弔うために建立した鯨墓には、天の恵みとして鯨を捕らえても、胎児まで捕らえるつもりはなかったのだと刻まれているという。海に放しても生き得ないから、人間と同じように、念仏回向の功徳を受けるように、と。
この死生観は、海に生きる民には必要なものだったはずで、なぜ今でも「通くじら祭り」が行われているのか、その理由を示しているように思われた。鯨は単に獲物ではなく、共に生きるもの。生き物との距離感が適切な間には、毎年、鯨はやってくる。けれど明治時代に沖での近代捕鯨が盛んになると、仙崎湾に迷い込む鯨が減り、通地区では捕鯨をやめた。たとえ、近年に始まった祭りであったとして、そこには過去に繋がる精神性があるはずで、土地が人を作るのだと、改めて思う。
今では捕鯨は行われていないが、定置網に鯨が掛かることもあるという。
「通」という土地の名前は、仙崎湾を挟んだ対岸の漁師たちがイワシを捕るために、湾を渡って「通」っていたが、やがて小屋を建てて住み始めたことに由来する。鯨を湾内で発見するために海を見渡すことのできる各所に見張り番を置いて、鯨が入ってくると狼煙を上げて知らせた。それを合図に、鯨を仕留めるために一斉に漕ぎ出していく。仙崎湾を見下ろす場所から写真を撮りたいと、もしかしたら見張り番が置かれた土地かもしれないポイントを探して、地図を見ながら沿岸を車で走った。

仙崎湾は入り組んだ地形で、天然の漁場になっている。今でも定置網に鯨がかかることがあるという。
資料館からすぐ近くの丘には小学校があって、そのグラウンドの壁には、潮を吹く鯨の絵が描かれていた。鯨の背景には虹がかかり、イワシやヒラメなどの魚たちが跳ね、奇岩の立つ海に漕ぎ出す舟には大勢の子どもたちが乗っている。明るい未来を描いたら、海の豊かさを示すことになったのだろう。見下ろす海は、陽が差すと底まで透けるようだった。

小学校の壁にあった鯨の絵。鯨祭りの様子だろうか。海にはさまざまな魚が跳ねている。
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KAI Nagato
界 長門




