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〈下田まち遺産〉を決める、
景観まちづくり会議委員
になりました。そこであらためて…
「なまこ壁」ってなんだ?|Page 4

暮らしを考える旅 わが家の移住について
vol.033

Page 4

これぞ機能美! 美しく機能的な「なまこ壁」

なまこ壁は本州、四国に広くあり、「蔵」によく使われているつくりです。

明治時代に建てられたなまこ壁の蔵を、カフェにリノベーションした〈くしだ蔵〉。昨秋に開催されたイベント〈竹たのしみまくる下田〉では、幻想的にライトアップされていました。

蔵は中に入れるものを火災、雨水から守る必要があります。
そこで火にも水にも強い瓦、そして瓦と瓦の間を埋める目地に、
火にも水にも強い漆喰が壁材として使われるようになったそうです。

瓦の黒、漆喰の白。
なるほど、白黒の理由がわかりました。

そして、目地の漆喰は瓦が落ちないよう、かまぼこ状に盛り上げたそうです。
この形状がなまこ(海鼠)に似ていたのが「なまこ壁」の名前の由来。
瓦を斜めに貼るのは、盛り上がった目地に
雨水が溜まらないためといわれています。

たしかに水が溜まらず流れ落ちる形状。これぞ機能美!

でも、下田のなまこ壁は蔵だけでなく、家屋にも多く使われています。
さらには、ほかのまちでは城郭や上流階級の建物だったなまこ壁が、
広く一般的に採用されているのです。

調べてみるとこれには海のまち、
そして開国のまち下田ならではのエピソードがありました。

こちらは特に登録されていない一般の家屋。海沿いの道はサーファーで賑わう白浜エリアも、一歩入るとこのようなまち並みが広がっています。

時代は江戸時代末期までさかのぼります。
下田が開国の舞台となって一躍脚光を浴びていた1854年、
安政の大地震が起き、大津波が下田を襲います。
町内の家屋はほとんど流失倒壊し、
無事だった家はわずか数戸しかなかったそうです。

3月11日には娘と小学校通学路の避難場所、高台への道を確認しました。海の近くに暮らすようになり、初めて迎えたこの日。豊かな海、でも、怖い海。豊かさも怖さもちゃんと伝えていくことが大事だと思っています。

そこで津波に負けず残った建物が、なまこ壁の蔵だったそうです。
幕府としても開国の舞台として開港した下田が大津波の被害を受けて大慌て。
特別に助成金「復興資金貸付」を用意して、
津波に強いまちづくりへの復興を促進したそうです。

その助成金があったので、上流階級の蔵だけでなく
一般の家屋や公共施設にもなまこ壁が採用されることになり、
まち並みの形成につながったともいわれています。

そして、下田は開港から5年間で、国際港としての役割を終えました。
つまり、この短い期間に津波があったことで、
なまこ壁のまち並みをつくることになったともいえるわけです。

ペリーロードのソウルバー〈土佐屋〉。ソウルミュージック好きが全国から集う有名店でもあります。建物は江戸時代末期に建てられた船宿。価値のある建築は時代が変わってもその時代にあった用途で使い続けられていくという典型かと。建築は使われてなんぼですね。

この連載にもたびたび登場する〈TableTOMATO〉もなまこ壁が印象的な外観。こちらは現オーナーのお義父さまが40年近く前に隣町の蔵から瓦を移築してつくられたそうです。なまこ壁と黒のスチールサッシの組み合わせが40年前のつくりとは思えないカッコよさ。隣の珈琲店〈邪宗門〉もなまこ壁。こちらは築150年ともいわれる建物です。

IT化、グローバル化、物流の発達により、
多くの情報やモノはどこでも均一に手にすることができます。
そんな時代だからこそ、地域ならではのまち並みや
景観、文化をちゃんと理解して遺していくことが、
その地域を魅力的にしていくためにますます重要になっていくのではないか?

そんなことを感じる、移住してちょうど1年の今日この頃でした。

今回はあまり触れなかったのですが、下田のまち並みのもうひとつの特徴に「伊豆石」があります。下田では火山灰や軽石でできた伊豆石の採掘が重要な産業だった時期もあるそうです。

ちなみに……

なまこ壁の由来や下田になまこ壁が多い理由は、
ここでは語りきれないほどのボリュームのある話です。
いろいろと見聞きした範囲での僕の解釈と捉えていただければと思います。
また、なまこ壁に関してご教示していただきました
下田在住の作家、岡崎大五さん、下田市役所建設課・西川力さん、
この場を借りてお礼を申し上げます。
ありがとうございました。