神奈川県横浜市寿町
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きっと絵でつながれると信じていた。
だけど、悲しかった。
2010年秋の「寿合宿」で、
幸田千依は「寿に絵を放つ」というプロジェクトに臨んだ。
『ドラゴンボール』の単行本の背表紙のように、
隣り合う絵がつながっていて、どこまでも描き足せて、
全部で一枚の絵になるというたくさんの小さな絵を描いて、
それを一枚一枚、おじさんたちにプレゼントしたのだ。
「センター」と呼ばれる寿町総合労働福祉会館は、
かつては労働者であふれていたまちの中心地。
このセンターの広場を会場に、合宿最後の2日間、
メンバー全員でイベントを開催した。
そこで千依は小さな絵を並べ、絵をもらってくれる人を
探したのだった。
「小さい絵をあげていくプロジェクトは、
前に別府でもやったことがある。そのときは、
一緒に滞在したアーティスト仲間にあげたんだけど、
みんないろいろな場所から来てるから、帰っていくと
絵もバラバラになる。でももしまたみんなが集まって、
この絵がもう一回つながるようなことがあったら
神龍(シェンロン)が出る! っていうくらいすごいことだと思って。
だから寿にも絵を放ってみようと考えた。
知らないおじさん同士の絵がつながってて、
その全部が私ともつながってて、
バラバラと寿のなかのどこかにあって、つながってる」
「寿に絵を放つ」では、
絵がほしいと言ってくれたおじさんに好きな絵を選んでもらい、
一緒にその人の部屋まで行って壁に飾り、記念撮影した。
「寿のおじさんたちは、今まで行ったどこの土地の人たちよりも
ひとりひとりがずっと自由で、固まっていないという感じで、
いろんな外から来るものを受け入れる力、かなりあると思う。
外で絵を描いていて“何やってんの?”って聞かれて
“絵を描いてる”と言うと、“へえ、そっか”という感じ。
他のまちみたいに“学生さん?”って聞かれたりして、
へんな心配されることもない。
みんな何かしら抱えてるんだけど、すごくやさしいですよ、
弱い人に対してもみんな同じ目線。
だから、私にとってはやりやすかった」
ただ、絵をあげるだけでなく、
部屋まで飾りに行って写真を撮るとなると、話は違う。
自分の家に人を招き入れるのはけっこう勇気のいることだ。
ましてドヤは狭くて壁も薄くて、おじさんはそのなかで、
それまでの人生の労苦、人には言えないこと、
言いたくないこと、心に仕舞い込んだ思い出、
すべて抱え込んでひとりで暮らしているのだ。
センターで立ち話をしているだけなら、
その話は本当かどうかもわからないし、
話したくないことは話さなくていい。
でも、部屋に入れたら、いろいろなことが見られてしまう。
どんな人生を送ってきたか、部屋のにおいもきっとある。
「だから、じっくり会話して、個人的なつき合いをしよう
と思わないと部屋にまでは行けない。
アートの展示をするという体験とはまったく違う。
写真を撮りたいと言っても断られることが多くて、辛かった」
2日間のイベント中、5人のおじさんに絵をあげた。
1人目はセンター脇の段ボールハウスに住むおじさん。
にこにこと話を聞いてくれた。
2人目はカメラを持ってイベントを撮影していたおじさん。
一見、寿町の住人には見えなかったが、
日当たりのよいきれいなドヤに招かれた。
ヌードピンナップが立てかけてあったので、
そのおねえさんの前に絵を置いた。
自分の生き方をちゃんと肯定しているように見えた。
3人目と4人目は2年ほど前に寿町を出たというおにいさんと、
その友だちでドヤに住む松葉杖のIさん。
5人目は、寿越冬闘争のとりまとめや住人の相談役など、
日々奔走している寿日雇労働組合の近藤さん。
彼は千依たちのアート活動のよき理解者でもある。
「Iさんの目が忘れられなかった」
やさしくてさみしく、悲しくてきれいな目。
深い悲しみがあって、それが心の芯になっていた。
とても入り込めそうにない悲しみだった。
でも、千依とおじさんたちの間には絵があって、
絵でつながったのは間違いない。
「寿のおじさんたちは、ほとんどが
寿を嫌いって思ってると思う。早く出たいって思ってる」
と千依は言う。でも、絵を見たおじさんは、
何か違うことを思ったかもしれない。
何より、千依には「伝わった」という実感があった。