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津軽の海に厄災を流す。
初夏の渚に広がる祈りのとき
〈大間越春日祭〉|Page 2

あたらしい糸に - 祭礼がつむぐ東北
vol.001

Page 2

西津軽の海へ

森と秋田の県境に近づくと、日本海はがらりと様相を変える。西津軽の海には断崖がそそり立ち、北へと向かう道は、海と陸の境目を伝うように進んで行く。いまとなっては、何度この先へと向かったかわからない道ではあるが、祭礼の撮影を始めたばかりの10年ほど前の僕にとっては、西津軽への入り口に立つと異世界に踏み入れるような気持ちになったものだった。

深浦町の大間越。西津軽の地での僕の向かう先は半漁半農の小さな集落だ。この集落の名を口ずさむたびに僕は、美しい西津軽の海を思い起こすことができる。

大間越に魅了されたきっかけは7年ほど前に訪れた大間越春日祭だった。まだ、祭礼への旅を始めたばかりの頃だったが、それ以前に東北の歴史街道を旅していた経験から津軽西海岸を南北に走る〈津軽西街道〉周辺の美しさは熟知していた。あの美しい海岸線の集落で行われる祭礼はきっと素晴らしいものだろうと、大間越に向かったのだった。

僕が暮らす岩手の雫石から大間越へは片道で4時間ほど。岩手から奥羽山脈を越えて秋田に出ると、日本海沿岸を北上した。

祭礼当日は、穏やかな晴天に恵まれた。海岸線に家が立ち並ぶ大間越には、穏やかな初夏の気配に包まれていた。僕は清々しい海風の心地よさを感じながら、祭り衆が集う青年会館へと向かった。

木造の古い分校のような佇まいをした青年会館の中では、浴衣姿の祭り衆が準備を進めていた。大人の男たちは白の浴衣を着て、子どもたちは赤い浴衣を着ていた。聞くところによると、浴衣を着ている者たちが〈太刀振り〉と呼ばれる踊り手たちで、色紙で美しく飾った〈太刀棒〉と呼ばれる棒を手に踊りながら集落をめぐるということだった。そして、その太刀振りの後方を守りながら進むのが、〈春日丸〉と呼ばれる弁財船を模した木造船だと聞かされた。

青年会館の中に鎮座している春日丸を見せてもらうと、まずその立派さに驚いた。全長5尺6寸(約1.7メートル)。帆柱には、大きな帆が上がり、細部についてもかつての西津軽の海を行き来していた北前船の弁財船を模して精巧につくられている。さらには、ひとりひとり顔が異なる7人の船乗りが乗るという凝りようだ。制作期間は約1か月。最終的には海に流すため毎年新たに制作するのだという。

祭りは、この春日丸へと灯明とお神酒をあげ、皆で拝礼をしてから始まる。

行列の先導となるのは、〈先振り〉と呼ばれる者で、太刀振りは先振りの合図で、太刀棒で地面を鳴らし、踊りを繰り返しながら進んでいく。

この太刀振りの踊りが実にユニークだ。先振りが色紙を重ねてつくった御弊を振り上げて、「アーラ、エンヤラ、エンヤラ、エンヤラホーイ」との掛け声を上げると、太刀振りは「エンヤラ、エンヤラ、エンヤラホーイ」と返す。すると、先振りが再び大声で「ア、シッチョイシッチョイ、シッチョイナ」と繰り返しながら進み、ある瞬間に「ア、シッチョイナ」と掛け声を発すると、太刀振りたちは、二人一組となり、飛びながら相手と体を入れ替え、「エイヤ」と叫び、太刀棒同士を力一杯に打ち付け合うのだ。腕ほどの太さの太刀棒がバーンと打ち付け合う踊りはなかなかの迫力。ときには力が入りすぎ、太刀棒が折れてしまうこともあるそうだ。

一方の春日丸は土地の古老たちを中心とした担ぎ手たちによって、神輿さながらに担がれ、太刀振りの後方から集落を進んでいく。土地の人によると、太刀振りによって集落から祓われた厄災を春日丸が集めてまわるのだという。

先振りが合図し、太刀振りが太刀棒を振って跳ね、太刀棒をぶつけ合う。この一連の所作を延々と続けながら進む行列の息抜きとなるのが〈舟宿〉でのひとときだ。集落内それぞれの班で持ち回りとなっている舟宿は行列への労いの場。激しい踊りで疲労した太刀振りや、重い春日丸を担ぎ続ける担ぎ手へ、酒やごちそうが振る舞われる。ここでの大間越の人たちの姿はいつ見ても幸福そうだ。ごちそうを配る女性たちも酒を酌み交わす男たちも、お菓子を頬張る子どもたちも、誰もが笑顔に包まれている。祭礼だけが持つ幸福なひととき。そう呼ぶことができる時間がそこにあると感じる。