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山の恵みと暮らす。
祖谷で出会った民謡と郷土料理|Page 3

美味しいアルバム
vol.022

Page 3

島県といえば、
鳴門海峡などキラキラと輝く海を想像する人も多いはず。
けれどもその8割が山地で、1000メートルを超える山も数多くあるほど
山深い県でもある。

今回訪ねたのは、県西部の「にし阿波」と呼ばれる山側の地域。
にし阿波というのは美馬市、三好市、つるぎ町、東みよし町の
4つの市町を合わせた呼び名で、
県内で最も高い標高1955メートルの〈剣山〉や、
遠く高知県が水源となっている〈吉野川〉など、雄大な自然に囲まれている。

昨年、そのにし阿波のプロモーション動画を撮影する機会に恵まれた。
〈雲海〉や〈かずら橋〉などいろいろなシーンのなかで、
地元の方が民謡を唄う場面を撮影した。それが、都築麗子さんとの出会い。
初めて耳にした都築さんの民謡は、自分の中にある何かと響き合って
染みていくような、そんな感覚だった。
都築さんに強く興味を引かれながらも、
撮影当日は時間の余裕がなくその場を後にした。

それから半年後の今年2016年2月。
再び、にし阿波へ撮影で行くことになった。
ぜひこの機会にお会いしたいと、都築さんの住む土地まで足を延ばした。

都築さんが生まれ育ったのは、祖谷(いや)という地区。
祖谷のある三好市は南側に剣山系をのぞみ、
その90パーセントが山地というほど山に囲まれている。
細く入り組んだ山道を何度も曲がり、対向車が来ると
崖すれすれというほどの細い山道を、さらに奥へと進む。
しばらくのあいだ車内で右に左にと揺られていると、ぱっと視界が開ける。
すると、目の前には見たこともない美しい山里の風景が広がっていた。

山の斜面にそって広がる、東祖谷の落合集落。集落内の高低差は約390メートル。急傾斜に住居が点在している。

にし阿波を回っていると、時折目にするのがこの〈コエグロ〉。刈り取ったカヤを組んだもので、これを畑にまくことで土壌の流出を防いだり、肥料や雑草防止など幅広い役割を担っている。自然(植物資源)の循環を利用しながら急傾斜地で農業を行ううえでの、知恵の結晶ともいえる。

祖谷には60以上の集落がある。
そのうちのひとつ、若林集落にあるのが〈奥祖谷めんめ塾体験工房〉という
都築さんが営むお店。今年で15年目になるというこのお店では、
地のものをふんだんに使った郷土料理をいただけるほか、
そば打ちやこんにゃくづくりなどの体験もできる。

玄関を開けてお邪魔すると、コタツがずらりと並んでいる。
火鉢と石油ストーブで温められた室内は、
思わず「ただいま」と口走りそうになるような、ほっとする雰囲気。

「お腹空いたじゃろ?」

割烹着姿の都築さんが、台所から顔を覗かせてくれた。
まずは腹ごしらえをしてから、ということで、
めんめ塾名物の「平家御膳」をいただくことにした。

この御膳には、都築さんご自慢の手打ち祖谷そばがついてくる。
そばの実は、祖谷でつくられたものを100パーセント使っているのだそうで、
ひと口含むとやわらかいそばの香りがいっぱいにひろがる。
つるつるとした食感が小気味よく、いくらでも喉を通ってしまう。

うむ、おいしい。

皆でこたつを囲む。左から時計回りに〈そらの郷〉の出尾宏二さん、お店を一緒に切り盛りしている尾本孝子さん。都築さんのご主人都築幸雄さん、そして都築麗子さん。

この日の「平家御前」のメニューは、ふきのとうやこんにゃく、鹿などの立田揚げ。豆腐とじゃがいもの田楽、煮物、漬け物、ご飯、そしておそばがついて1000円。

そば打ち歴45年という都築さん。
お母さんの手伝いをしながら、しだいに覚えていったのだそう。

「ちっちゃいときから手伝いしよったな、
揉んだり打ったり、粉挽きしたりな」

都築さんの打つそばは、
都築さんのお母さんがつくっていたそばの味でもあるんだ。

お会いしたことのないお母さんのそばを、自分はいま食べている。
そう思うと、しみじみ感慨深い。料理というのは、母から娘へ、
そのまた娘へと伝えることのできる、大切なものなんだ。

「学校から帰ったら、なんでも手伝うた。
牛の世話から畑のこと、山に薪を拾いに行ったりもしたな。
たばこを採るのも子どもの仕事やった。
手や服に匂いがついてしまうやろ、それがほっんまにきつくてな~」

都築さんの表情が、少しだけかたくなった。
それは、ぐっとこらえてきた当時の辛さを思わせた。

「でもな、子どものときにほやって仕事しとるんで、
いまどんな仕事が舞い込んできてもまったく苦にならん。
いろんなことしとるけんな!」

そう、胸を張って清々しく笑う。

どんなお母さんがだったのか尋ねてみると、
都築さんの口からこんな言葉がこぼれた。

「自分の母親じゃけど、心から尊敬しとるな。
ほっんまに大きな気持ちで人を見てあげる人じゃった。
私たち子どもにも、近所の人にも」

6人兄弟の末っ子として生まれた都築さん。
都築さんがまだ1歳にもなっていない頃にお父さんが亡くなり、
その後、お母さんが女手ひとつで6人の子どもを育てた。

「めちゃくちゃ働いてたわ、ほんま苦労しとった。
昼間働いて夜はよなべ仕事しとるやろ、
いつもこっくりこっくりしとったなぁ」

窓の外を見つめる都築さんの目には、
居眠りをするお母さんの後ろ姿が映っている。

「自分とこの仕事が6割できたら、
近所で進んでないところを手伝いに行けと。
手伝うてあげてから、自分とこ戻って残りをやれって教えられた」

自分たちが食べることに必死だったはずですよね、
なかなかできないことですね。

「うん、ほんま必死やったと思うよ。
けど、欲でもなければ人を傷めるでもなしに、ほんまに心が広かった。
そういう母親のやり方はな、私らの頭にはずーっと残っとる」

言葉の抑揚から、お母さんに対する敬意と愛情がしっかりと伝わってきた。
母親の生き様というのは、次の世代へと脈々と受け継がれていく。
都築さんに感じた、すっと芯が通った気持ちよさと可憐な空気は、
きっと生前のお母さんの姿そのものなんだ。

祖谷民謡『東祖谷粉引節』を唄う都築さん。

お店の棚の上には、大小さまざまなトロフィーがずらりと並んでいる。
聞けば、都築さんの民謡は、各地の大会で数々の賞に輝いているのだそう。
民謡を唄うようになった、そもそものきっかけをうかがってみた。

「うちのじいちゃんがすごい好きだったんよ。
大勢お客さん来るってなると、よう唄っとった。
私もそれが好きで、『じいちゃんの唄聞けるなーっ』て、
お客さん来るんが楽しみじゃった」

おじいちゃんのそばに佇んで、じっと聞いていたという都築さん。
いつか自分も唄ってみたい、そう思っていたのだそう。

都築さんが唄う祖谷民謡は、この地域に昔から伝わってきたもので、
いまでもたくさんの曲が残っているのだそう。
せっかくこの土地にある民謡を残していきたい、
そういう気持ちでいまも唄い続けている。
都築さんの唄う民謡は、外国人のお客さんにもとても好評なんだとか。

「いっぺんな、民謡聞いて涙ポロポロ流した外国人がいたわ。
日本語の意味はわからんけど、聞いてたらふと
幼いときのことを思い出したんじゃって」

都築さんの唄う民謡には、そうした力があると私も思う。

「外国の人と言葉は通じんけど、なんとなく心が通じるんよな~。
あれ、おかしいぞなぁ~」と、うれしそうに頬を上げる。