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徳島県といえば、
鳴門海峡などキラキラと輝く海を想像する人も多いはず。
けれどもその8割が山地で、1000メートルを超える山も数多くあるほど
山深い県でもある。
今回訪ねたのは、県西部の「にし阿波」と呼ばれる山側の地域。
にし阿波というのは美馬市、三好市、つるぎ町、東みよし町の
4つの市町を合わせた呼び名で、
県内で最も高い標高1955メートルの〈剣山〉や、
遠く高知県が水源となっている〈吉野川〉など、雄大な自然に囲まれている。
昨年、そのにし阿波のプロモーション動画を撮影する機会に恵まれた。
〈雲海〉や〈かずら橋〉などいろいろなシーンのなかで、
地元の方が民謡を唄う場面を撮影した。それが、都築麗子さんとの出会い。
初めて耳にした都築さんの民謡は、自分の中にある何かと響き合って
染みていくような、そんな感覚だった。
都築さんに強く興味を引かれながらも、
撮影当日は時間の余裕がなくその場を後にした。
それから半年後の今年2016年2月。
再び、にし阿波へ撮影で行くことになった。
ぜひこの機会にお会いしたいと、都築さんの住む土地まで足を延ばした。
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都築さんが生まれ育ったのは、祖谷(いや)という地区。
祖谷のある三好市は南側に剣山系をのぞみ、
その90パーセントが山地というほど山に囲まれている。
細く入り組んだ山道を何度も曲がり、対向車が来ると
崖すれすれというほどの細い山道を、さらに奥へと進む。
しばらくのあいだ車内で右に左にと揺られていると、ぱっと視界が開ける。
すると、目の前には見たこともない美しい山里の風景が広がっていた。
祖谷には60以上の集落がある。
そのうちのひとつ、若林集落にあるのが〈奥祖谷めんめ塾体験工房〉という
都築さんが営むお店。今年で15年目になるというこのお店では、
地のものをふんだんに使った郷土料理をいただけるほか、
そば打ちやこんにゃくづくりなどの体験もできる。
玄関を開けてお邪魔すると、コタツがずらりと並んでいる。
火鉢と石油ストーブで温められた室内は、
思わず「ただいま」と口走りそうになるような、ほっとする雰囲気。
「お腹空いたじゃろ?」
割烹着姿の都築さんが、台所から顔を覗かせてくれた。
まずは腹ごしらえをしてから、ということで、
めんめ塾名物の「平家御膳」をいただくことにした。
この御膳には、都築さんご自慢の手打ち祖谷そばがついてくる。
そばの実は、祖谷でつくられたものを100パーセント使っているのだそうで、
ひと口含むとやわらかいそばの香りがいっぱいにひろがる。
つるつるとした食感が小気味よく、いくらでも喉を通ってしまう。
うむ、おいしい。
そば打ち歴45年という都築さん。
お母さんの手伝いをしながら、しだいに覚えていったのだそう。
「ちっちゃいときから手伝いしよったな、
揉んだり打ったり、粉挽きしたりな」
都築さんの打つそばは、
都築さんのお母さんがつくっていたそばの味でもあるんだ。
お会いしたことのないお母さんのそばを、自分はいま食べている。
そう思うと、しみじみ感慨深い。料理というのは、母から娘へ、
そのまた娘へと伝えることのできる、大切なものなんだ。
「学校から帰ったら、なんでも手伝うた。
牛の世話から畑のこと、山に薪を拾いに行ったりもしたな。
たばこを採るのも子どもの仕事やった。
手や服に匂いがついてしまうやろ、それがほっんまにきつくてな~」
都築さんの表情が、少しだけかたくなった。
それは、ぐっとこらえてきた当時の辛さを思わせた。
「でもな、子どものときにほやって仕事しとるんで、
いまどんな仕事が舞い込んできてもまったく苦にならん。
いろんなことしとるけんな!」
そう、胸を張って清々しく笑う。
どんなお母さんがだったのか尋ねてみると、
都築さんの口からこんな言葉がこぼれた。
「自分の母親じゃけど、心から尊敬しとるな。
ほっんまに大きな気持ちで人を見てあげる人じゃった。
私たち子どもにも、近所の人にも」
6人兄弟の末っ子として生まれた都築さん。
都築さんがまだ1歳にもなっていない頃にお父さんが亡くなり、
その後、お母さんが女手ひとつで6人の子どもを育てた。
「めちゃくちゃ働いてたわ、ほんま苦労しとった。
昼間働いて夜はよなべ仕事しとるやろ、
いつもこっくりこっくりしとったなぁ」
窓の外を見つめる都築さんの目には、
居眠りをするお母さんの後ろ姿が映っている。
「自分とこの仕事が6割できたら、
近所で進んでないところを手伝いに行けと。
手伝うてあげてから、自分とこ戻って残りをやれって教えられた」
自分たちが食べることに必死だったはずですよね、
なかなかできないことですね。
「うん、ほんま必死やったと思うよ。
けど、欲でもなければ人を傷めるでもなしに、ほんまに心が広かった。
そういう母親のやり方はな、私らの頭にはずーっと残っとる」
言葉の抑揚から、お母さんに対する敬意と愛情がしっかりと伝わってきた。
母親の生き様というのは、次の世代へと脈々と受け継がれていく。
都築さんに感じた、すっと芯が通った気持ちよさと可憐な空気は、
きっと生前のお母さんの姿そのものなんだ。
お店の棚の上には、大小さまざまなトロフィーがずらりと並んでいる。
聞けば、都築さんの民謡は、各地の大会で数々の賞に輝いているのだそう。
民謡を唄うようになった、そもそものきっかけをうかがってみた。
「うちのじいちゃんがすごい好きだったんよ。
大勢お客さん来るってなると、よう唄っとった。
私もそれが好きで、『じいちゃんの唄聞けるなーっ』て、
お客さん来るんが楽しみじゃった」
おじいちゃんのそばに佇んで、じっと聞いていたという都築さん。
いつか自分も唄ってみたい、そう思っていたのだそう。
都築さんが唄う祖谷民謡は、この地域に昔から伝わってきたもので、
いまでもたくさんの曲が残っているのだそう。
せっかくこの土地にある民謡を残していきたい、
そういう気持ちでいまも唄い続けている。
都築さんの唄う民謡は、外国人のお客さんにもとても好評なんだとか。
「いっぺんな、民謡聞いて涙ポロポロ流した外国人がいたわ。
日本語の意味はわからんけど、聞いてたらふと
幼いときのことを思い出したんじゃって」
都築さんの唄う民謡には、そうした力があると私も思う。
「外国の人と言葉は通じんけど、なんとなく心が通じるんよな~。
あれ、おかしいぞなぁ~」と、うれしそうに頬を上げる。