沖縄県・竹富島
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八重山の島々にはたくさんの神がいる。竹富島には28ほどの「御嶽(オン)」があり、それぞれに別々の神が宿る。そのうちもっとも重要とされるのが「六山(ムーヤマ)」と呼ばれる6つの御嶽で、島人は全員がそのうちどれかの氏子になっている。一年を通して20あまりもの祭礼行事が行われるのがこの島の特徴で、島の暮らしはほとんどこれらのためにあると言っても過言ではないほどだ。神と人間の間の距離は、ここではそれほど遠くないように感じられる。
人々は当然のように、祭事にかかわる一切を何よりも優先して考える。特に重要視されるのが歌や踊り、狂言といった奉納芸能で、祭事の日が近くなると、集落ごとに競い合うように、出演者たちが集まって毎夜練習に打ち込むようになる。昼間、民宿や食堂などで観光客を相手に働いていた人たちが、夜になると、神さまに捧げるための踊りを繰り返し練習している。その様子をじっと見守る師匠、長老たち、母親たち、子どもたち。みんなの表情は真剣そのもので、昼間とはまるで別人だ。人々は、普段の顔と神さまと会うときの顔を使い分けているようにも見える。人間と神とのあいだをつなぐ扉はいつもそこにあり、いとも簡単にその扉を開いて行ったり来たりしているような。
世の中のすばらしいこと、幸せなことを、沖縄では世果報(ユガフ)というが、山も川も田もない竹富島では特に、神によって豊穣がもたらされることを世果報と考える。だからこの島には、農耕生活にかかわる多くの神がいる。たとえば「六山」に祀られるのは島の開祖とされる6人の酋長で、それぞれ、粟、麦、豆、山、海、雨の神とされる。さらに、島最大の祭りで、国の重要無形民俗文化財に指定されている種子取祭(タナドゥイ)が行われる「世持(よもち)御嶽」には、火の神と農耕の神が祀られている。また、「清明(せいめい)御嶽」に祀られるのは、石垣島の於茂登岳(おもとだけ)から降臨したふたりの神。八重山諸島では於茂登岳が聖なる山として広く崇められ、ここから神々が来訪して島々をつくったと考えられているのである。
神々と島の人たちを仲介するのは、神司と呼ばれる特別な女性たち。彼女たちもまた、昼間は別の仕事を持ち、母であり、娘であり、かけがえのない普通の日常を持つ健気で和やかな女性たちである。しかし、祭事の日には、その肩に重大な責務がのしかかる。島じゅうの人々の願いや感謝の気持ちを神に届けるのが神司の仕事だからだ。普段とは違ってぐっと力のこもった表情をして、なんとも言えないオーラを放ち、淡々と儀式を執り行っていく。祭事の日は、神司の前に立って歩くことは許されない。夫たちも、集落の長老も、公民館長も、男たちはみんな彼女たちの後をついていくだけだ。
神司は神々の前で「願い口(ニガイフチ)」を唱える。その行為を彼女たちは「“願い”をする」という言い方で表現する。“祈り”ではなく“願い”という言葉が使われるのはなぜだろうか。たしかな根拠は分からないが、なんとなく、“願い”は“祈り”よりも現実の生活に即した言葉のように感じられはしないだろうか。現世の社会生活のなかで抱くささやかな希望をかなえるために、神とつながろうとする人間の素直な気持ちがあらわれた言葉のように思えるのである。
新暦8月の癸未(みずのとひつじ)の日(2012年は9月18日)。この日は「願解き」といって、五穀豊穣、子孫繁栄、無病息災といった一年分の願いを解き、神々に感謝するための「結願祭(キツガンサイ)」が行われる。神司は前日の夕方から御嶽で「夜籠り」をし、神とともに一夜を過ごす。御嶽には、内地の神社や寺のように神体や仏像などはなく、空間自体が信仰の対象である。入口には鳥居が建つが、これは明治以降の皇民化政策によるものだ。もともとは、森の中にひっそりと、神が降臨する「イビ」と呼ばれる場所があるだけだったと考えられている。後世になってイビを隠すように簡素な拝殿が建てられ、ここに集落の人々が集まって祭礼行事が行われるようになったが、イビの中に入ることができるのは神司だけである。
沖縄がまだ米国から返還される前の1971年(昭和46)、深刻な干ばつと猛烈な台風に見舞われた竹富島は農地のほとんどを失った。多くの人々が途方に暮れて自分の土地を手放し、島を後にした。残った人々は農民であることを断念し、一致団結して観光事業で収益を得て生きていくことを決断しなければならなかった。それは、あらゆるものが島の外から内へ入り込んでくることを意味していた。だからこそ人々は、神々とのつながりを手放すことなく、島を守るため、「うつぐみ」の心をもって一層強く互いを結びつける必要があったのかもしれない。